秀吉最後の城を全域調査 京都・伏見、創建時の石垣確認
豊臣秀吉や徳川家康の居城だった伏見城跡(京都市)のほぼ全域を研究者団体の大阪歴史学会や京都府が調査し、巨大な土橋や創建当初のものとみられる豪壮な石垣などを確認したことが13日、分かった。伏見城は築城の名手と呼ばれた秀吉が最後に造った。同じ場所に明治天皇陵が造営されたことから、遺構の大半は桃山陵墓地として立ち入りが規制され、研究が進んでいなかった。
城跡は80万平方メートル(東京ドーム17個分)に及ぶ。宮内庁が陵墓地でこれほど大規模な文化財調査を許可するのは異例。天下統一後の秀吉の権勢や高い築城技術を示す一級史料になりそうだ。
関係者によると、本丸と二の丸を渡る巨大な土橋(長さ約40メートル、幅約5メートル)や幅数十メートルの堀、天守の土台(一辺十数メートル、高さ約5メートル)など多数の遺構を確認した。
各地の自然石を積み上げた秀吉時代に特徴的な石垣は高さ約7メートル、長さ約20メートル分が残っていた。花こう岩を割り出した徳川期とみられる石垣には長辺1.8メートルの巨岩を用いていた。
同学会と共同調査する中井均滋賀県立大教授(城郭史)は「建物や石垣は廃城時に大半が他の城へ移築されたが、基礎部分がよく残っており、驚いた。秀吉や家康の城で地上に痕跡をとどめている例はほとんどない。陵墓ではない部分だけでも一般公開してほしい」と話す。
伏見城は当初、近くの宇治川沿いに築かれたが、1596年の慶長伏見地震で倒壊し、今回調査された山上に建て直された。1600年に関ケ原の戦いの前哨戦で焼け、家康が再建。1623年に廃城となった。1912年に明治天皇が本丸付近に埋葬されて一帯が陵墓地と位置づけられ、立ち入ることができなくなった。
宮内庁は2009年、城跡の一部を研究者団体に公開。遺構が確認されたものの、調査はわずか数時間で詳細は不明だった。このため同学会が追加調査を申請。明治天皇陵がある本丸の一部などを除き、許可を得た。11~14年にかけて年1回、数日間ずつ踏査や写真測量を続けている。
京都府文化財保護課も中世城館遺跡の分布調査の一環として、12年2月に5日間かけて遺構を簡易測量、概略図を同課のホームページに掲載した。14年春にも伏見城跡を含む地域の報告書を刊行する。〔共同〕