失意の帰国 ゼロからの再出発で一瞬ほほ笑んだ女神
中村修二の青色LED開発物語(下)
1988年3月、中村修二氏はたぎる思いを胸に秘めつつ米国フロリダに向かう飛行機に乗り込んだ。研究員として1年間、フロリダ大学に派遣されることが決まったのだ。
話のキッカケは、徳島大学の先輩である酒井士朗氏を訪ねたことだった。青色発光ダイオードを作るためには、青色発光ダイオード用の単結晶膜を形成するところから始めなくてはならない。この手法としては、「MBE」と「MOCVD」という手法がある[注1]。
中村氏は迷わず、MOCVD法を選んだ。MBE装置は数億円と高く、とても買ってもらえそうにないからだ。
選んだものの、中村氏にとってMOCVD法は初体験である。まずは勉強、ということで、当時MOCVD法の研究で名を上げていた酒井氏に教えを請うことにした。このとき酒井氏は、すでにフロリダ大学に行くことが決まっていた。「せっかくの機会だからいっしょに行かないか」。願ってもないチャンスである。ただし、会社が行かせてくれるかどうか。
ダメでもともと。言うだけ言ってみよう。酒井氏にも同席してもらい、会長と社長に米国行きを打診した。意外にも、その場でフロリダ行きが決まってしまった。
昔に逆戻り
順風満帆。いつになく、トントン拍子で事は進んでいた。いや、進んでいたかに思えた。しかし、いいことはいつまでも続かない。フロリダ大学に着いた中村氏はがく然とする。MOCVD装置がない。話が違う。
中村氏が入る研究室には、2台のMOCVD装置があるはずだった。そのうち1台は、なんと隣の研究室に取られてしまったという。そして残りの1台は、これから作るという状況だった。
米国でも、中村氏は装置作りに追われることになる(図1)。配管や溶接に追われる日々。まるで日本にいたころと変わらない。こんなことをやるためにフロリダまで来たのか。脱力感が襲う。そして、容赦なく時間は過ぎ去る。ようやく装置が完成したのは、帰国のわずか1ヵ月前だった。
研究室には中村氏のほかに、韓国や中国などから来た研究員が数名いた。中村氏は頭を下げて彼らに頼んだ。私はあと1カ月で日本に帰らなければならない。時間がない。優先的に装置を使わせてもらえないかと。答えは「ノー」。3回か4回かの結晶成長実験をしただけで、中村氏は米国滞在に終止符を打つ。
会議にも呼んでもらえない
あまり気の毒に思ったのか、溶接や配管の際立った技にほれ込んだのか、研究室の教授から「給料を払うからもう1年いないか」と誘われた。しかし、とどまるにはあまりに悪い思い出が多すぎた。
中村氏は、米国に行くまで1本も論文を書いていない。会社が許可しなかった。そのおかげで、せっかく研究員として米国に行っても、研究者として扱ってもらえなかった。会議にも呼んでもらえない。同じ大学には、発光ダイオードの研究者もいた。しかし、話を聞こうにも相手にしてもらえない。
言葉でしか知らなかった「人種の壁」を初めて感じたのも米国滞在中だった。自然と米国人は米国人同士、アジア系はアジア系同士でかたまってしまう。せっかく世界各地から集まった研究者と一緒に仕事をする機会を得たにもかかわらず、交流を果たすことはできなかった。
「なにも良いことはなかった」と米国滞在時代を中村氏は回顧する。しかし、帰ったら帰ったでまた、つらい日々が続く。「帰ってきたら席がない」という状況に悩む。米国で得たことは、ない。帰ってきたら居場所もない。なにもない。まったくゼロからの出発だった。
GaN膜ができない
それでも研究はスタートした。職場では"浦島太郎"だったが、米国に送り出してくれた社長は覚えていてくれた。さっそく二人の新入社員をつけてもらい、装置作りが始まる。MOCVD装置は、市販の装置を購入し、改造することにした。このほか、結晶膜の評価装置も買ってもらった。それやこれやで結局、数億円を投資してもらうことになる。
GaAs(ヒ化ガリウム)単結晶を開発していたころは、ほとんど装置を買ってもらえなかった。やっと出してもらえても、せいぜい100万円程度。それがいきなり億単位の投資である。ありがたい。同時にそれがプレッシャにもなった。
1989年4月に帰国し、研究に着手する。それから1カ月が過ぎ2カ月が過ぎ、やがて半年が過ぎた。しかし、研究は一向に進まない。青色発光ダイオードの発光層となるGaN膜ができない。いや膜を作る以前でつまずいていたのだ。
MOCVD装置は、高温に加熱した基板上に原料となるガスを流し、基板表面でガスを分解させることで結晶薄膜を形成する方法である。ガスを流す容器内に基板を置き、高温に熱する。ここが問題だった。
問題の第1は、青色発光ダイオードの発光材料としてGaNを選んだことである。原理的に、青色発光を実現できる材料はいくつかある。そのなかでGaNは人気のない材料だった[注2]。
「ほかの人がやってないから」というだけで、中村氏はこの材料に決めた。膜の成長に挑み始めて、人気のない理由がよくわかった。GaNはとてつもなく作りにくい膜だったのだ。市販の装置に少し手を加えたぐらいでは、まったく膜はできない。
変人と言われつつ
GaN単結晶膜をMOCVD法で基板上に成長させるためには、基板を+1000℃以上の高温に加熱する必要がある。それだけでも大変だった。さらに悪いことに、中村氏はいっそう事を深刻にするような選択をしてしまった。基板をヒーターで加熱する方法を採用したのである。
以前からGaN膜の研究を続けていた名古屋大学の研究グループは、装置の外から高周波電磁界を加える方法で基板を加熱していた(図2)[注3]。やはり、「人と同じ方法は使いたくない」という理由で中村氏はヒーター加熱法に決めた。
[注3]日亜化学工業以外に国内でGaNを研究していたグループとしては、豊田合成の研究グループ、名古屋大学の赤崎勇教授(現在は名城大学 終身教授)のグループなどがある。豊田合成と名古屋大学のグループは、1989年当時、すでにGaN単結晶膜の成長に成功しており、1990年初頭には相次いでGaN青色発光ダイオードの試作に成功していた。日亜化学工業からすれば先行グループだったといえる。
GaN膜を作る原料ガスであるアンモニア(NH3)は、腐食性がある。高温に耐え、かつ腐食に耐えるヒーターなどそうあるものではない。果たしてヒーターはすぐ切れた。膜を成長するどころではない。
重苦しい毎日だった。朝会社に来て、装置のスイッチを入れる。やはりまともな膜はできない。ヒーターは切れる。午後からの日課は、装置の改造と修理である。朝一番に来て6時に帰る。いつ果てるともなく単調な毎日が続く。
だんだん口数も少なくなってきた。電話も取らなくなった。周りからは変人扱いされる。部下として入った新入社員の二人のうち一人は、「とてもできそうにない」と、会社を辞めていった。
女神はほほ笑み、そして消えた
転機は突然やってくる。試行錯誤を繰り返し、やっと切れないヒーターが完成した。基板さえ加熱できれば、あとは装置の改造、特に原料ガスの流れ方の改良である。
装置の改造には絶対的な自信がある。開発課時代以来、装置はすべて自分で作ってきたし、ガス配管の腕は米国でみっちり1年間磨いてきた。周りからは、我流でMOCVD装置を改造するのは危ないと言われたが、そんなことではひるまない。開発課時代、爆発事故はいやというほど経験した。怖くもなんともない。
いざヒーターができてみれば、ヒーターで加熱する方法もまんざら悪くない。高周波で加熱する場合は、MOCVD装置の反応室や室内の配管、ガス吹き出し口などを石英ガラスで形成することになる。いくら神業ともいえる溶接技術を誇る中村氏でも、石英製部品で構成した装置の改造は容易ではない。
しかし、ヒーターで加熱する方法を使えば、反応室や配管、吹き出し口は金属製でよい。加工が容易で、取り付けや取り外しも手軽にできる。改造は格段に楽になる(図3左)。
1990年9月、いよいよGaN膜にご対面する日が来た。「Two-Flow法」と呼ぶ、ガスを基板の2方向から吹き付ける方法をあみ出し、膜の成長に成功した(前ページ図3右)。喜び勇んでできた膜を評価する。それまで発表されていた膜のなかでいちばん、(正孔および電子の)移動度の高い膜だった(図4)。
やった。できた。急いで第二弾、第三弾の膜成長にとりかかる。もっと良い膜を…。
10月に入ると、不思議なことにGaN膜はぱったり成長しなくなった。急いで装置を点検したが、異常を見つけ出すことができない。一度はできた。確かにできた。それが今はできない。そのわけがわからない。ただ、何かが起きたということは確実だった。
(日経BP未来研究所 仲森智博)
[日経テクノロジーオンライン2009年6月8日付の記事を基に再構成]
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