最後に明かされた松井秀喜"メジャー主軸"の誇り
現役引退を表明した松井秀喜(38)は日米通算507本塁打という数字はあくまでチームの勝利のために戦った結果にすぎない、と話した。巨人、ヤンキースと日米の常勝球団の主軸を打ったただ一人の日本人選手。今、同じユニホームに袖を通す記録の偉人、イチローとは別の道を行きながら、劣らぬほどの記憶を球史に残した。
ジーターも敬服するチーム愛
2012年シーズンの開幕1カ月後にレイズとマイナー契約、7月に戦力外通告。わずかに出場した試合で1割4分7厘という打率を見れば、いつその日が来ても不思議ではなかった。いいときも悪いときも淡々と自己を語る松井だったが、現役最後の会見でスラッガーとしてのプライドをにじませた。
松井には堅苦しささえ漂うヤンキースのピンストライプのユニホームがよく似合ったと思う。ストライプ柄には細身に見せる効果があるため、背が高く、ガッチリした体格の松井をスマートに見せたせいもあろうが、その性格がヤンキースとマッチしていたからだとも思う。
「すべてはチームの勝利のために。このチームに来た選手はまず、それを理解してもらわなければならない」。ヤンキースのキャプテン、デレク・ジーターは話す。
松井は「チームが勝つために努力してきた」と、引退会見で何度も繰り返した。"球界の盟主"といわれた巨人に入り、日本が生んだ最大のスーパースター、長嶋茂雄にマンツーマンで薫陶を受けた。
ヤンキースがワールドシリーズを3連覇した際の真ん中の年に当たる1999年、ヤンキースタジアムで初観戦し、「言葉で言い表せないくらい印象に残り」「このチームにほしいと言われるくらいの選手になりたい」と思ったという。「チーム第一」のメンタリティーをたたきこまれてきた松井がヤンキースにすんなりはまったのも当然だったろう。
松井とジーターは同い年。引退の報に「僕が最も好きな選手の1人」との言葉を寄せた。言葉の壁があり、かわす言葉は少なくても、チームへの献身は態度で分かっていたのだろう。
ちなみにジーターは12年からヤンキースに入った黒田博樹投手にも同じようなものを感じているようだ。投球内容を問われても必ず「チームが勝てばどうでもいい」という黒田をジーターは買っている。
「for the team」を最大の信条とするチーム、ヤンキース。その後、松井はエンゼルス、アスレチックス、レイズと渡り歩いた。それなりに強く、味もあるチームだが、それまで王道中の王道チームにしかいたことのない松井にとって、物足りなさもあったかもしれない。
それでも、この3年を「人生にとって非常に意味があることだった」と話したのが、全方位に気配りする松井らしい。
投手では野茂英雄というパイオニアを筆頭に、何人も大リーグで活躍した日本選手がいるが、野手で期待通りの成績を残した選手となると、松井と、1歳年長のイチローくらいだろう。2人はよく比較されたが、タイプは全く違う。
イチローとは違う土俵
イチローは"スモールボール"というセピア色の時代に、大リーグが置き去りにしたものを現代に呼び戻したといわれる。ベーブ・ルース登場以前の大リーグはオーバーフェンスの空中戦ではなく、技巧や走力というグラウンド内での勝負が主だった。
セオリー破りともいわれた技巧によって、イチローは米球界にだれも近づけないポジションを築いた。それまでの大リーグが忘れていたところに進出したという意味では大リーグの自分だけの土俵をつくってしまったともいえるだろう。
これに対し、松井は元からある大リーグの土俵で勝負した。
日本では本塁打も魅力の選手だったが、米国ではそれは通用しないことを自覚し、確実に走者を返す中距離打者としてのポジションを築いた。イチローのような打者はほかにいないが、松井と似たようなタイプの打者ならたくさんいる。そんなメジャーにあって、クリーンアップという立ち位置を守り続けた。その点を忘れてはいけないだろう。日本の打者でもポイントゲッターになれることを証明してくれたのだ。
「(クリーンアップを最後まで打てたことは)非常にありがたく、誇りに思っている」という言葉に、控えめな松井のプライドが見えて、ゾクっとした。
同時に松井は引退会見をする選手には珍しく、悔いがあるような発言を残した。
自分にどんな言葉を掛けたいか? と聞かれて「もう少しいい選手になれたかな」。
会見でにじませた一握りの後悔
「好き」としか表現しようのない野球だったから、苦でもなかった。だから、自分をねぎらう言葉は思い浮かばないというところまで話したとき、松井は急に思い出したかのように「もう少し~」と付け加えたのだ。
「今振り返ると結果論になる。そのとき自分が考えて決断したことに後悔はない」とも話した。すっきりした表情のなかにわずかに浮かんだ影の正体は何だったのか。
思い浮かんだのが、膝の問題だった。
この5~6年は膝の痛みに悩まされていたと話したが、最初に痛めたのは98年、まだ巨人時代だ。その際、手術を回避している。選手はできれば長期離脱などしたくはない。当時、伸び盛りの23歳だったのだから、なおさらだ。大リーグでも休まず、試合に出続けた。
メジャーの関係者にも松井が休まず「皆勤」にこだわることを危ぶみ「あれではメジャーで長続きしない」という声があったのは確かだ。
影の正体は「あのとき、しっかり休んで治していればよかった」という気持ちだったのか。
しかし、松井の受けた教育を考えるとどうもそうではない。スター選手はオープン戦から出続けて、ファンを楽しませなければならない、という長嶋茂雄の教えはその心身にすり込まれていたはずだ。
「いや、松井って改めてスゴイと思う」。5月ごろ、まだ調子の上がらなかった黒田がボソっともらしたことがあった。松井と黒田は生年は違うが、学年は同じだ。
ヤンキースは各チームの標的にされ、ファンのブーイングもきつく、メディアの目も厳しい。プロ入り前からその恐ろしさを見聞きしている米国選手ですら、おかしくなり、結局慣れないまま、チームを去ることがある。その中で7年間プレーし続けた同級生への驚嘆と敬意が入り交じった口調だった。黒田はまだ老舗球団のドジャースでの経験があったが、松井はいきなりニューヨークに来たのだ。
松井が来た初年度の03年、ヤンキースタジアムのスタジアムツアーは空前絶後の参加者を記録。球界一の番記者を抱えるヤンキースなのに、松井はそれを上回るような日本メディアをゾロゾロと引き連れていた。そこで黙々と結果を出す姿は、ヤンキースの面々にとっても驚きだったのだろう。もうチームの一員でもないのに、ジーター、ゼネラルマネジャーのキャッシュマン、共同オーナーのハル・スタインブレナーらが、松井の引退に続々とコメントを寄せた。
師匠の長嶋茂雄と同じく、記憶に残る選手――。ニューヨーク・ヤンキースというメジャーのど真ん中の土俵で真っ向勝負を挑んできた松井は、日本を売り出す素晴らしい外交官の役割も果たしてくれていたのかもしれない。
(米州総局 原真子)