祖谷の平家屋敷と平家落人伝説
前回はかずら橋のことを書いたが、祖谷(いや)は平家落人伝説でも有名な場所でもある。 屋島の戦いで敗れた平国盛率いる残党がこの祖谷に住んだと言われているのだ。
Wikipediaによると、平家の落人が住み着いたと言われている地が全国で132ヶ所もあるらしい。脚色された信憑性の薄いものもかなりあるそうだが、祖谷地区には何軒も平家の末裔の住んでいた武家屋敷が残されており、平家の赤旗なども残されている。平家の末裔が住んでいたことについては確実だろう。
しかし、祖谷地区の平家伝説では安徳天皇がここで生きていたことになっている。平家物語巻第十一では平家は壇の浦の戦いで敗れ、当時8歳だった安徳天皇は祖母の二位尼(平清盛の妻)に抱かれて入水した情景が描かれていて、歴史の教科書でもそのように書かれている。

祖谷の伝承では「屋島の戦いに敗れた平国盛一族は、安徳天皇をお守りして、讃岐山脈を越え、阿波の国の吉野川に出て南岸に渡った。」ことになっているのだが、実は安徳天皇に関しては祖谷をはじめ、鹿児島県三島村や対馬など全国で20か所ほど安徳天皇が隠れ住んだと伝承されている場所があるという。
安徳天皇は高倉天皇と平清盛の娘である徳子との間に生まれ、清盛が高倉天皇を廃位させてわずか2歳の時(治承4年:1180)に天皇に即位している。もちろん政治の実権は清盛が握ったのだが、その年には源頼朝が挙兵し富士川の戦いで平家を破り、翌年に平清盛が死んでからは平家は源氏との戦に敗れ続けていくのである。
屋島の戦いが文治2年(1185)の2月、壇の浦の戦いが3月だが、屋島の戦いに敗れて平家軍の一部が天皇を連れて陸路で祖谷に向かうということは充分考えられることだ。
将来平氏を再興させ一族郎党を再結集させるためには、平清盛の孫である安徳天皇はなくてはならない存在であることは誰でもわかる。当時はカメラも何もなかったのであるから、源氏も平家も天皇の顔がわかる人は少数であったはずである。だから、良く似た子供を探して衣装を替えて本人とすり替えても源氏の兵士にはまずわからないし、「実は安徳天皇は生きている」と言い続ければ相手を撹乱し、同時に味方を引き付けることができる。
全国各地に安徳天皇が生きていたという伝説が残っているのは平家側が情報戦をかけた結果なのではないか。あるいは本当に安徳天皇が生きていて、どこにいるかわからないように工作したことも考えられる。
一方源氏側では、安徳天皇が死んでしまったことを広めて、平家勢力の再結集を防ぎたい。だから、平家物語にも書かせ、源平盛衰記にも書かせ、安徳天皇陵を下関に作り、琵琶法師に平家物語を語らせた。これらは源氏側の情報戦とは考えられないか。
そもそも鎌倉幕府編纂の「吾妻鏡」には壇の浦の戦いについては元暦二年三月二十四日の条で「長門国赤間関壇ノ浦の海上で三町を隔て船を向かわせて源平が相戦う。平家は五百艘を三手に分け山鹿秀遠および松浦党らを将軍となして源氏に戦いを挑んだ。午の刻に及んで平氏は敗北に傾き終わった。」としか書かれていない。あまりにも簡単すぎる。
二位の尼と安徳天皇が入水したことや平家の武将が次々と入水したようなことは後世の作り話の可能性があるのではないか。平家物語も源平盛衰記も平家滅亡から相当後に書かれた物語で、これだけの作品が書かれた時期も作者も明記されていないのはどこか奇妙でもある。この物語の記述をそのまま鵜呑みにして歴史的史実としていいのだろうか。
祖谷の話に戻ろう。前回に大歩危峡遊覧船の事を書いたが、そこから車で10分程度走ると平家民俗資料館という所がある。

この屋敷は安徳天皇の御典医であった堀川内記とその子孫が代々住んでいた。中には平家の軍旗である赤旗や武具や生活用具、農機具などが展示されている。JAF会員の1割引もある。
ここからかずら橋を見て、それから東祖谷歴史民俗資料館に立ち寄った。ここでも赤旗や生活用具や農具などが展示されている。ビデオによる解説も興味深い。
次に、祖谷地区で最も大きい武家屋敷である喜多家を目指す。この屋敷は平家の末裔である小野寺氏を祖にする家柄で、今の建物は宝暦13年(1763)に建てられたものである。

この建物は公開が毎年4月1日から11月末日までと聞いていたのだが、近くにある樹齢800年の県下一の杉の巨木である「鉾杉」が見たくて立ち寄った。

これが鉾杉だが高さが35m、幹の周りが11mもあるのだそうだ。
たまたま喜多家は公開に向けての準備中で、運よく無料で見学させていただいたが、写真にはビニールシートが写ってしまった。
この喜多家は道幅3メートル程度の狭い山道を5㌔以上走らないとたどり着けない。退避所が何か所かあるが、観光シーズンに車がすれ違うのは大変だと思う。帰り道で運悪くトラックと出合い、細いS字カーブをバックで退避所まで辿り着くのには冷や汗ものだった。
最後に、祖谷渓の奥にある「小便小僧」を見に行く。このように深い谷が10km近く続き、谷は深い所で100mを超え、まさに深山幽谷と呼ぶべき場所である。

夕刻5時頃にホテル「秘境の湯」に到着。このホテルは施設も食事もお風呂もサービスも良好で、気持ち良く過ごすことができた。

平家一族の歴史ロマンを感じさせる楽しい一日であった。
****************************************************************

最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
↓ ↓




【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。
Wikipediaによると、平家の落人が住み着いたと言われている地が全国で132ヶ所もあるらしい。脚色された信憑性の薄いものもかなりあるそうだが、祖谷地区には何軒も平家の末裔の住んでいた武家屋敷が残されており、平家の赤旗なども残されている。平家の末裔が住んでいたことについては確実だろう。
しかし、祖谷地区の平家伝説では安徳天皇がここで生きていたことになっている。平家物語巻第十一では平家は壇の浦の戦いで敗れ、当時8歳だった安徳天皇は祖母の二位尼(平清盛の妻)に抱かれて入水した情景が描かれていて、歴史の教科書でもそのように書かれている。

祖谷の伝承では「屋島の戦いに敗れた平国盛一族は、安徳天皇をお守りして、讃岐山脈を越え、阿波の国の吉野川に出て南岸に渡った。」ことになっているのだが、実は安徳天皇に関しては祖谷をはじめ、鹿児島県三島村や対馬など全国で20か所ほど安徳天皇が隠れ住んだと伝承されている場所があるという。
安徳天皇は高倉天皇と平清盛の娘である徳子との間に生まれ、清盛が高倉天皇を廃位させてわずか2歳の時(治承4年:1180)に天皇に即位している。もちろん政治の実権は清盛が握ったのだが、その年には源頼朝が挙兵し富士川の戦いで平家を破り、翌年に平清盛が死んでからは平家は源氏との戦に敗れ続けていくのである。
屋島の戦いが文治2年(1185)の2月、壇の浦の戦いが3月だが、屋島の戦いに敗れて平家軍の一部が天皇を連れて陸路で祖谷に向かうということは充分考えられることだ。
将来平氏を再興させ一族郎党を再結集させるためには、平清盛の孫である安徳天皇はなくてはならない存在であることは誰でもわかる。当時はカメラも何もなかったのであるから、源氏も平家も天皇の顔がわかる人は少数であったはずである。だから、良く似た子供を探して衣装を替えて本人とすり替えても源氏の兵士にはまずわからないし、「実は安徳天皇は生きている」と言い続ければ相手を撹乱し、同時に味方を引き付けることができる。
全国各地に安徳天皇が生きていたという伝説が残っているのは平家側が情報戦をかけた結果なのではないか。あるいは本当に安徳天皇が生きていて、どこにいるかわからないように工作したことも考えられる。
一方源氏側では、安徳天皇が死んでしまったことを広めて、平家勢力の再結集を防ぎたい。だから、平家物語にも書かせ、源平盛衰記にも書かせ、安徳天皇陵を下関に作り、琵琶法師に平家物語を語らせた。これらは源氏側の情報戦とは考えられないか。
そもそも鎌倉幕府編纂の「吾妻鏡」には壇の浦の戦いについては元暦二年三月二十四日の条で「長門国赤間関壇ノ浦の海上で三町を隔て船を向かわせて源平が相戦う。平家は五百艘を三手に分け山鹿秀遠および松浦党らを将軍となして源氏に戦いを挑んだ。午の刻に及んで平氏は敗北に傾き終わった。」としか書かれていない。あまりにも簡単すぎる。
二位の尼と安徳天皇が入水したことや平家の武将が次々と入水したようなことは後世の作り話の可能性があるのではないか。平家物語も源平盛衰記も平家滅亡から相当後に書かれた物語で、これだけの作品が書かれた時期も作者も明記されていないのはどこか奇妙でもある。この物語の記述をそのまま鵜呑みにして歴史的史実としていいのだろうか。
祖谷の話に戻ろう。前回に大歩危峡遊覧船の事を書いたが、そこから車で10分程度走ると平家民俗資料館という所がある。

この屋敷は安徳天皇の御典医であった堀川内記とその子孫が代々住んでいた。中には平家の軍旗である赤旗や武具や生活用具、農機具などが展示されている。JAF会員の1割引もある。
ここからかずら橋を見て、それから東祖谷歴史民俗資料館に立ち寄った。ここでも赤旗や生活用具や農具などが展示されている。ビデオによる解説も興味深い。
次に、祖谷地区で最も大きい武家屋敷である喜多家を目指す。この屋敷は平家の末裔である小野寺氏を祖にする家柄で、今の建物は宝暦13年(1763)に建てられたものである。

この建物は公開が毎年4月1日から11月末日までと聞いていたのだが、近くにある樹齢800年の県下一の杉の巨木である「鉾杉」が見たくて立ち寄った。

これが鉾杉だが高さが35m、幹の周りが11mもあるのだそうだ。
たまたま喜多家は公開に向けての準備中で、運よく無料で見学させていただいたが、写真にはビニールシートが写ってしまった。
この喜多家は道幅3メートル程度の狭い山道を5㌔以上走らないとたどり着けない。退避所が何か所かあるが、観光シーズンに車がすれ違うのは大変だと思う。帰り道で運悪くトラックと出合い、細いS字カーブをバックで退避所まで辿り着くのには冷や汗ものだった。
最後に、祖谷渓の奥にある「小便小僧」を見に行く。このように深い谷が10km近く続き、谷は深い所で100mを超え、まさに深山幽谷と呼ぶべき場所である。

夕刻5時頃にホテル「秘境の湯」に到着。このホテルは施設も食事もお風呂もサービスも良好で、気持ち良く過ごすことができた。

平家一族の歴史ロマンを感じさせる楽しい一日であった。
****************************************************************
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
↓ ↓




【ご参考】
今月1日からのこのブログの単独記事別のアクセスランキングです。毎月末にリセットされています。
- 関連記事
-
-
祖谷のかずら橋 2010/03/29
-
祖谷の平家屋敷と平家落人伝説 2010/04/01
-
鳴門市とドイツとの100年を超える友好関係のきっかけを作った会津人 2018/03/08
-
暴れ川として知られる吉野川の流域を豊かにした阿波藍と徳島の伝統文化 2018/03/15
-