江戸幕末期にロシアに占領されかけた対馬は如何にして守られたのか
Category18世紀から幕末期の欧米列強
江戸時代に入ると幕府は海外との貿易を統制することとなり、日本に来航する外国船はオランダ船と中国船に絞りこみ、かつ来航地は長崎の出島に限られることとなった。しかし、よくよく考えると、いくらわが国が諸外国に「鎖国」を宣言したところで、侵略する意思のある国を追い払うためにはそのための武力が不可欠である。江戸時代のはじめに幕府が主導して貿易統制を決めることが出来たのは、その当時のわが国が世界最大の鉄砲生産国であり輸出国であったことが重要なポイントである。
しかしながら、その後のわが国では戦争のない時代が二百年以上続き、その間に西洋列強国の武器の性能が格段と向上していたため、わが国は外国からの侵略を排除するほどの力量が不足していたと言える。
嘉永六年(1853年)にアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーの率いる四艦の軍艦が浦賀沖に姿をあらわし、開国と通商をもとめる米大統領の国書を幕府役人に手渡したのだが、幕府が翌年に回答すると約束したので、ペリーはいったん退去した。
翌年1月に軍艦7隻を率いて再び現れたペリーはさらに強硬にわが国に開国を迫って、幕府はアメリカの要求に屈服することとなり、安政元年(1854年)三月に日米和親条約が締結されている。
その後同様の条約がイギリス、ロシア、オランダと締結され、さらに安政五年(1858年)にはアメリカに続いてオランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間に通商条約が締結されたのだが、欧米列強諸国の中にはわが国に対して貿易を求めるだけではなく、混乱期に乗じて対馬を占領しようとしていた国が存在していたのである。
【ニコライ・ビリリョフ】
Wikipediaにはこう解説されている。
「文久元年2月3日(1861年3月14日)、ロシア帝国海軍中尉ニコライ・ビリリョフは軍艦ポサドニック号で対馬に来航し、尾崎浦に投錨し測量、その後浅茅湾内に進航した。
ロシア艦隊の中国海域艦隊司令官であったイワン・リハチョーフ大佐は、不凍港を確保するため対馬海峡に根拠地を築くことを提案したが、日本との関係が悪化することを懸念したロシア政府はリハチョーフの提案を拒絶。しかし、海事大臣であった大公コンスタンチン・ニコラエヴィチが、対馬への艦隊派遣を許可させたため、リハチョーフ司令官の命令によりポサドニック号が派遣されたのであった。
ポサドニック号が尾崎浦に投錨すると、藩主宗義和は重臣を急派し、非開港場投錨の非を責め、速やかに退帆するよう抗議した。しかしビリリョフ艦長は船が難破して航行に耐えられないので、修理のために来航した旨を回答し、さらに修理工場の設営資材や食料・遊女を要求した。
3月4日には芋崎に無断で上陸して兵舎の建設などを始めた。その後、船体修理を名目に工場・練兵場などを建設する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E8%BB%8D%E8%89%A6%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E5%8D%A0%E9%A0%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6
この事件が起こるまでのロシアの動きについて補足しておこう。
ロシアは不凍港を求めて19世紀の後半から南下政策を進め、1858年には清国を武力で脅迫して愛琿(アイグン)条約を締結し、黒竜江北岸のロシアへの割譲とウスリー川以東の外満州を清露共同管理地とし、さらに1860年には北京条約を締結してアイグン条約で共同管理地とされたウスリー川以東の外満州のロシアへの割譲を決めた外満州全土を獲得している。
上の画像の右上の薄い赤色の部分が外満州で、ロシアは清国の弱体期に乗じて広大な外満州を1860年に奪い取り、不凍港のウラジオストクを得た。そしてその流れでその翌年に対馬にロシア艦隊を送り込んできたのである。
対馬は日本列島と朝鮮半島のほぼ中間にあり、海運上だけでなく軍事上においても重要な位置にある島であることは言うまでもない。もしこの島を幕末期に占領されていたら、幕末以降のわが国の歴史だけでなく、世界の歴史も大きくかわっていたことであろう。しかもこの島を狙っていたのはロシア一国だけではなかったのである。
【オールコック】
ロシアが対馬を占領したことを、イギリスの駐日公使オールコックが本国に報告したレポートの内容が『岩波講座日本歴史. 第7』(昭和9年刊)に紹介されている。
「(対馬の如き要衝を)露国が着手する数年前に、他の西欧強国が該島に先鞭をつけずして放置したるを奇異に感ずるものである」
「もし、露艦が該島から退去を拒む場合は、英国自身これを占領すべきである。その手段としては、日本政府に条約履行の保証と大坂兵庫の開市開港とを強要し、これを(日本が)容れざる時は従来の条約違反に対する賠償として(対馬を)割譲せしむべきである。対馬が海軍根拠地としてマルタ同様の価値ありや否やは、これを専門家の観察に譲らんも、露国がこの海面に爪牙を磨くは、列強特に英国には痛切なる利害の存するところである。日本国には露国の野望を防止する実力はない。英国はこの国が分割せられんとするを袖手傍観することはできぬ。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1240362/22
このようにイギリスも対馬を力づくで手に入れようという考えが以前から存在していて、イギリスはロシア艦隊が対馬に碇泊した一年前に対馬全島の測量を実施しており、長崎奉行はオランダ人のシーボルトから「北京に於て英国使節エルジンと仏国使節グローとの間に、支那海を警備し、その近海を制扼するために、対馬を海軍根拠地となすべしとの協議が行われた」との警告を受けた旨の記録があるという。
このような情勢下で、対馬藩はこのロシア艦船の侵入にどのような対応をしたのであろうか。
Wikipediaによると
「対馬藩内では対応を巡って、武力での排撃を主張する攘夷派と紛争を避けようとする穏健派で論争が起こり藩内は混乱した。宗義和は事を荒立てず穏便に解決しようと接しながらも、問状使をポサドニック号に派遣し、その不法を何度か詰問した。しかしロシア側は無回答を貫き、優勢な武力をもって日本側を脅かしたり、住民を懐柔したりし、木材・牛馬・食糧・薪炭を強奪または買収して滞留の準備を整えた。またロシア水兵は短艇を操って沿岸を測量し、山野を歩き回って野獣を捕獲したり、中には婦女を追跡して脅かす水兵もいたため、住民は激昂し、しばしば紛争が起こった。
ビリリョフ艦長は対馬藩に対し藩主への面会を再三要求し、3月23日には芋崎の租借を求めて来た。ロシア側としては強引に対馬藩に租借を承諾させ、これを既成事実として幕府に認めさせる思惑であった。対馬藩では対応に苦慮し、面会要求を拒否しつつ、長崎と江戸に急使を派遣して幕府の指示を仰いだ。」
徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第44 開国初期篇』に、対馬藩が幕府に宛てた書状が紹介されており、ロシア兵の乱暴狼藉が具体的に記されているが、4月22日付の書状を読み進むとイギリスの軍艦や商船がこの時期に何度も対馬に来ていたことが記されている。この事は偶然ではありえないことであり、先程紹介した英国公使オールコックのレポートにあるとおり、イギリスも対馬を狙っていたと理解して良いだろう。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228585/204
【小栗忠順】
幕府は外国奉行・小栗忠順を咸臨丸で対馬に急派して事態の収拾に当たらせている。
徳富蘇峰の前掲書に、五月に三度にわたり行われたロシア艦長ビリリョフとの交渉録が紹介されているが、ロシアは対馬藩主への謁見を強く求め、小栗はそれを拒否して交渉は行き詰まった。ロシアが対馬藩主との面談を要求したのは、強引に租借を承諾させて、これを既成事実として幕府に租借権を認めさせる思惑であったのだが、このことは幕府も対馬藩も彼らの言動からわかっていたようである。
徳富蘇峰は前掲書で次のように解説している。
「幕府としては、兵力もて露人を立ち退かしむる訳には参らず。しかも如何に露人に諭しても、長官の命なればとて動かず。而してその長官は長崎を去りて上海に在りとのことにて、今さら致し方なく、この上はただ在函館の露国領事と談判し、領事の手もて露人を諭し、対州(対馬)を去らしむるの外なきを看取し、外国奉行村垣淡路守をして、函館なる露国領事の任地に就いて、談判せしむることとした。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228585/219
交渉は露国領事のいる函館に移ることとなり、小栗は江戸に戻ったのち、外国奉行を辞している。小栗が公式記録から消えた数か月の間に、この事件はイギリスの介入によってロシア艦が退去しているのだが、普通に考えてこの事件は、ロシアとの交渉だけでこの事件が解決するはずがないのである。誰かが非公式にイギリスと接触しなければならなかった。
【蜷川 新】
その間の経緯について、小栗忠順の義理の甥で法学者・外交官の経歴のある蜷川新(にながわあらた)氏の『維新前後の政争と小栗上野の死』(昭和三年刊)に、小栗が裏で動いていたことが書かれている。
「小栗は六月二十八日、幕府の命により、函館に出張したのであった。同時にこの対州(対馬)問題については、幕府の当局は、巧みに露国の敵たる英国公使を利用せんとし、英国公使に露国の暴状を説き、英人を煽動し、その軍艦の威力を借り、英国の干渉をもって、露艦を対馬より退去せしむるの策を廻した。策は見事に成功し、英公使これに応じ、その軍艦を派遣して露人を圧迫し、八月十五日、ビリリョフは終に対馬を去って事は落着したのであった。…(中略)…
当時露国の口実としたるところは、『英国に対馬占領の陰謀あるがゆえに、正義を愛する露国皇帝は、傍観するに忍びず、露国は軍艦を繫留して、日本を助け、以て英国に備えん。これがために、小屋掛敷地を対馬の一角に借用したし』というにあった。この口実の下に、露国は対州の一地を借地して南下の根拠を固くせんとするにあった。この『英国云々』の口実あるを持って、幕府の外交政策としては、この事を切に英国公使に告げ、露と好からざる英国公使を激発せしめ、英国をして露国に対しその武力干渉を行わしめ、以て対馬の一部占領を企図したる露人を見事に逐わしめんとしたのであり、当時の世界の大勢より察し、我が国の外交政策としては、賢明なる方法たりしと言うべし。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1170288/25
『岩波講座日本歴史. 第7』には小栗が裏で動いた事は記されていないが、このように纏められている。
「安藤閣老も七月初英国公使及び提督との会見の際、列国の対馬に対する野心防止の手段および既に開港の迫る兵庫の代港に同島を開港する内意を漏らしたので、英公使提督は態度を決し、提督ホープは我が政府に関係なく、自発的行動として対馬に迫り、露艦の条約違反行為を攻めてその退去を強要するに決し、七月二十三日エンカウンター、リングタブ二艦を率いて赴き、露艦将ビリリョフに退去を迫り、また一書を提督リカチョフに寄せてその不法を詰った。」(『岩波講座日本歴史. 第7』p.43~44昭和10年刊)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920830/25
かくしてロシア艦隊は対馬を退去したのだが、イギリスも同様に対馬を狙っていたはずなのである。イギリスは「自発的行動として」対馬に迫ったにもかかわらず、露艦を退去させた後になぜ対馬に留まらなかったのか。その点が幕臣とイギリスとの間に裏の交渉が行われたことを匂わせる部分であり、小栗が交渉に絡んでいた可能性はかなり高いと思われるのだが、その裏付けとなる記録は残されていないようだ。
戦前には多くの歴史書で、この「ロシア軍艦対馬占領事件」のことが記述されているのだが、戦後の歴史叙述には戦勝国にとって不都合な記述の多くが抜け落ちている。今日においてこの史実はあまり知られていないと思われるのだが、多くの人に広く知ってもらいたいものだ。
対馬にかぎらず、国境の島などの多くは過疎と高齢化に悩んでおり、多くの土地を外国に買われてしまっているのが現状である。このような状態で、もしある地域で幕末の対馬と同様のことが起った場合に、今の憲法や法体系でわが国はどれだけのことができるのかと心配になるのは私ばかりではないだろう。
自国の利益のために他国を侵略したり文化や伝統を破壊し、世界各国から批判を浴びても意に介さないような国が現実に存在する場合に、「平和」を唱えるだけでは他国の侵略からわが国を守ることができないことだけは確かなのである。
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6月6日に案内させていただきましたが、今年新たにドメインを取得して、3月より新しいブログ『歴史逍遥「しばやんの日々」』をスタートさせており、6月以降は新ブログの内容の充実に時間をかけるようにしています。FC2ブログはこれからも続けますが、更新頻度が落ちる事をご理解下さい。
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新ブログでは、最近は「元寇」「倭寇」「朱印船貿易と東南アジアの日本人町」等のテーマで連続記事を書いています。GHQで焚書処分された書物の記述などを紹介しながら、戦後になってどのような史実が封印されており、歴史叙述がどのように歪められているかということを読者の皆さんに理解して頂ければと思い、いろいろ調べながら書いています。
新ブログでは、日本の歴史を中心に週1~2回のペースで、記事を書いていますので、良かったら覗いて見て下さい。
また、4月1日から、このブログで書いてきた記事の一部を書きまとめた『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』が発売されています。
内容について簡単にコメントすると、大航海時代にスペインやポルトガルがわが国に接近し、わが国をキリスト教化し植民地化とするための布石を着々と打っていったのですが、わが国はいかにしてその動きを止めたのかについて、戦後のわが国では封印されている事実を掘り起こしていきながら説き明かしていく内容です。
この本はこれまでのブログ記事をベースに大幅に加除訂正したもので、戦後の歴史叙述ではタブーとされた来たテーマにも論拠を示して書いています。
目次を紹介させていただきます。
目次
序章 四百年以上前に南米やインドなどに渡った名もなき日本人たちのこと
第1章 鉄砲の量産に成功したわが国がなぜ刀剣の世界に戻ったのか
* 鉄砲伝来後、わが国は鉄砲にどう向き合ったか
* 世界最大の鉄砲保有国であったわが国がなぜ鉄砲を捨てたのか
第2章 キリスト教伝来後、わが国に何が起こったのか
* フランシスコ・ザビエルの来日
* フランシスコ・ザビエルの布教活動
* 最初のキリシタン大名・大村純忠の「排仏毀釈」
* イエズス会に政教の実権が握られた長崎
* 武器弾薬の輸入のためにキリスト教を厚遇した大友宗麟
* 宣教師たちは一般庶民の信者にも寺社や仏像の破壊を教唆した
* 武士たちにキリスト教が広まったことの影響
* 異教国の領土と富を奪い取り、異教徒を終身奴隷にする権利
* ポルトガル人による日本人奴隷売買はいかなるものであったのか
* スペインの世界侵略とインディオの悲劇
* スペイン・ポルトガルの世界侵略とローマ教皇教書が果たした役割
* 宣教師たちがシナの征服を優先すべきと考えた理由
第3章 キリスト教勢力と戦った秀吉とその死
* 秀吉のキリスト教布教許可と九州平定
* 秀吉によるイエズス会日本準管区長・コエリョへの質問
* 秀吉はなぜ伴天連追放令を出したのか
* 伴天連追放令後のイエズス会宣教師の戦略
* スペインに降伏勧告状を突き付けた秀吉
* 秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか
* サン・フェリペ号事件と日本二十六聖人殉教事件
* イエズス会とフランシスコ会の対立
* 秀吉の死後スペイン出身の宣教師が策定した日本征服計画
* 宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い
第4章 徳川家康・秀忠・家光はキリスト教とどう向き合ったか
* 日本人奴隷の流出は徳川時代に入っても続いていた
* 家康がキリスト教を警戒し始めた経緯
* 家康の時代のキリスト教弾圧
* 大坂の陣で、多くのキリシタン武将が豊臣方に集まったのはなぜか
* 対外政策を一変させた秀忠
* 東南アジアでスペインに対抗しようとしたイギリス・オランダの戦略
* 幕府が取締り強化を図っても、キリスト教信者は増え続けた
* 家光がフィリピンのマニラ征伐を検討した背景
* 幕府はなぜキリスト教を禁止せざるを得なかったのか
第5章 島原の乱
* 島原の乱は経済闘争か、あるいは宗教戦争か
* 棄教した住民たちが、なぜ短期間にキリシタンに立ち帰ったのか
* 島原の乱の一揆勢は原城に籠城して、どこの支援を待ち続けたのか
* 島原の乱の一揆勢は、大量の鉄砲と弾薬をどうやって調達したのか
* 島原の乱を幕府はどうやって終息させたのか
* 島原の乱の後も、わが国との貿易再開を諦めなかったポルトガル
* 島原の乱の前後で、幕府がオランダに強気で交渉できたのはなぜか
第6章 「鎖国」とは何であったのか?
* ポルトガルと断交した後になぜ海外貿易高は増加したのか
* シーボルトが記した「鎖国」の実態
あとがき
書評についてはAmazonに2件出ています。
大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか
古書店のサイト「るびりん書林」さんからも書評を頂きました。ご購入検討の際の参考にしてください。
https://rubyring-books.site/2019/04/25/post-1099/
また『美風庵だより 幻の花散りぬ一輪冬日の中』というブログでも採り上げて頂いています。
https://bifum.hatenadiary.jp/entry/20190426/1556208000
太平洋印刷株式会社のHPの中の「社長ブログ」で、私の著書を2回(4/24,4/25)にわたり話題にして頂きました。
http://busi-tem.sblo.jp/archives/201904-1.html
【ご参考】
このブログの直近3日間におけるページ別ユニークページビューランキング(ベスト10)
しかしながら、その後のわが国では戦争のない時代が二百年以上続き、その間に西洋列強国の武器の性能が格段と向上していたため、わが国は外国からの侵略を排除するほどの力量が不足していたと言える。
嘉永六年(1853年)にアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーの率いる四艦の軍艦が浦賀沖に姿をあらわし、開国と通商をもとめる米大統領の国書を幕府役人に手渡したのだが、幕府が翌年に回答すると約束したので、ペリーはいったん退去した。
翌年1月に軍艦7隻を率いて再び現れたペリーはさらに強硬にわが国に開国を迫って、幕府はアメリカの要求に屈服することとなり、安政元年(1854年)三月に日米和親条約が締結されている。
その後同様の条約がイギリス、ロシア、オランダと締結され、さらに安政五年(1858年)にはアメリカに続いてオランダ、ロシア、イギリス、フランスとの間に通商条約が締結されたのだが、欧米列強諸国の中にはわが国に対して貿易を求めるだけではなく、混乱期に乗じて対馬を占領しようとしていた国が存在していたのである。
【ニコライ・ビリリョフ】
Wikipediaにはこう解説されている。
「文久元年2月3日(1861年3月14日)、ロシア帝国海軍中尉ニコライ・ビリリョフは軍艦ポサドニック号で対馬に来航し、尾崎浦に投錨し測量、その後浅茅湾内に進航した。
ロシア艦隊の中国海域艦隊司令官であったイワン・リハチョーフ大佐は、不凍港を確保するため対馬海峡に根拠地を築くことを提案したが、日本との関係が悪化することを懸念したロシア政府はリハチョーフの提案を拒絶。しかし、海事大臣であった大公コンスタンチン・ニコラエヴィチが、対馬への艦隊派遣を許可させたため、リハチョーフ司令官の命令によりポサドニック号が派遣されたのであった。
ポサドニック号が尾崎浦に投錨すると、藩主宗義和は重臣を急派し、非開港場投錨の非を責め、速やかに退帆するよう抗議した。しかしビリリョフ艦長は船が難破して航行に耐えられないので、修理のために来航した旨を回答し、さらに修理工場の設営資材や食料・遊女を要求した。
3月4日には芋崎に無断で上陸して兵舎の建設などを始めた。その後、船体修理を名目に工場・練兵場などを建設する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E8%BB%8D%E8%89%A6%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E5%8D%A0%E9%A0%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6
この事件が起こるまでのロシアの動きについて補足しておこう。
ロシアは不凍港を求めて19世紀の後半から南下政策を進め、1858年には清国を武力で脅迫して愛琿(アイグン)条約を締結し、黒竜江北岸のロシアへの割譲とウスリー川以東の外満州を清露共同管理地とし、さらに1860年には北京条約を締結してアイグン条約で共同管理地とされたウスリー川以東の外満州のロシアへの割譲を決めた外満州全土を獲得している。
上の画像の右上の薄い赤色の部分が外満州で、ロシアは清国の弱体期に乗じて広大な外満州を1860年に奪い取り、不凍港のウラジオストクを得た。そしてその流れでその翌年に対馬にロシア艦隊を送り込んできたのである。
対馬は日本列島と朝鮮半島のほぼ中間にあり、海運上だけでなく軍事上においても重要な位置にある島であることは言うまでもない。もしこの島を幕末期に占領されていたら、幕末以降のわが国の歴史だけでなく、世界の歴史も大きくかわっていたことであろう。しかもこの島を狙っていたのはロシア一国だけではなかったのである。
【オールコック】
ロシアが対馬を占領したことを、イギリスの駐日公使オールコックが本国に報告したレポートの内容が『岩波講座日本歴史. 第7』(昭和9年刊)に紹介されている。
「(対馬の如き要衝を)露国が着手する数年前に、他の西欧強国が該島に先鞭をつけずして放置したるを奇異に感ずるものである」
「もし、露艦が該島から退去を拒む場合は、英国自身これを占領すべきである。その手段としては、日本政府に条約履行の保証と大坂兵庫の開市開港とを強要し、これを(日本が)容れざる時は従来の条約違反に対する賠償として(対馬を)割譲せしむべきである。対馬が海軍根拠地としてマルタ同様の価値ありや否やは、これを専門家の観察に譲らんも、露国がこの海面に爪牙を磨くは、列強特に英国には痛切なる利害の存するところである。日本国には露国の野望を防止する実力はない。英国はこの国が分割せられんとするを袖手傍観することはできぬ。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1240362/22
このようにイギリスも対馬を力づくで手に入れようという考えが以前から存在していて、イギリスはロシア艦隊が対馬に碇泊した一年前に対馬全島の測量を実施しており、長崎奉行はオランダ人のシーボルトから「北京に於て英国使節エルジンと仏国使節グローとの間に、支那海を警備し、その近海を制扼するために、対馬を海軍根拠地となすべしとの協議が行われた」との警告を受けた旨の記録があるという。
このような情勢下で、対馬藩はこのロシア艦船の侵入にどのような対応をしたのであろうか。
Wikipediaによると
「対馬藩内では対応を巡って、武力での排撃を主張する攘夷派と紛争を避けようとする穏健派で論争が起こり藩内は混乱した。宗義和は事を荒立てず穏便に解決しようと接しながらも、問状使をポサドニック号に派遣し、その不法を何度か詰問した。しかしロシア側は無回答を貫き、優勢な武力をもって日本側を脅かしたり、住民を懐柔したりし、木材・牛馬・食糧・薪炭を強奪または買収して滞留の準備を整えた。またロシア水兵は短艇を操って沿岸を測量し、山野を歩き回って野獣を捕獲したり、中には婦女を追跡して脅かす水兵もいたため、住民は激昂し、しばしば紛争が起こった。
ビリリョフ艦長は対馬藩に対し藩主への面会を再三要求し、3月23日には芋崎の租借を求めて来た。ロシア側としては強引に対馬藩に租借を承諾させ、これを既成事実として幕府に認めさせる思惑であった。対馬藩では対応に苦慮し、面会要求を拒否しつつ、長崎と江戸に急使を派遣して幕府の指示を仰いだ。」
徳富蘇峰の『近世日本国民史. 第44 開国初期篇』に、対馬藩が幕府に宛てた書状が紹介されており、ロシア兵の乱暴狼藉が具体的に記されているが、4月22日付の書状を読み進むとイギリスの軍艦や商船がこの時期に何度も対馬に来ていたことが記されている。この事は偶然ではありえないことであり、先程紹介した英国公使オールコックのレポートにあるとおり、イギリスも対馬を狙っていたと理解して良いだろう。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228585/204
【小栗忠順】
幕府は外国奉行・小栗忠順を咸臨丸で対馬に急派して事態の収拾に当たらせている。
徳富蘇峰の前掲書に、五月に三度にわたり行われたロシア艦長ビリリョフとの交渉録が紹介されているが、ロシアは対馬藩主への謁見を強く求め、小栗はそれを拒否して交渉は行き詰まった。ロシアが対馬藩主との面談を要求したのは、強引に租借を承諾させて、これを既成事実として幕府に租借権を認めさせる思惑であったのだが、このことは幕府も対馬藩も彼らの言動からわかっていたようである。
徳富蘇峰は前掲書で次のように解説している。
「幕府としては、兵力もて露人を立ち退かしむる訳には参らず。しかも如何に露人に諭しても、長官の命なればとて動かず。而してその長官は長崎を去りて上海に在りとのことにて、今さら致し方なく、この上はただ在函館の露国領事と談判し、領事の手もて露人を諭し、対州(対馬)を去らしむるの外なきを看取し、外国奉行村垣淡路守をして、函館なる露国領事の任地に就いて、談判せしむることとした。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228585/219
交渉は露国領事のいる函館に移ることとなり、小栗は江戸に戻ったのち、外国奉行を辞している。小栗が公式記録から消えた数か月の間に、この事件はイギリスの介入によってロシア艦が退去しているのだが、普通に考えてこの事件は、ロシアとの交渉だけでこの事件が解決するはずがないのである。誰かが非公式にイギリスと接触しなければならなかった。
【蜷川 新】
その間の経緯について、小栗忠順の義理の甥で法学者・外交官の経歴のある蜷川新(にながわあらた)氏の『維新前後の政争と小栗上野の死』(昭和三年刊)に、小栗が裏で動いていたことが書かれている。
「小栗は六月二十八日、幕府の命により、函館に出張したのであった。同時にこの対州(対馬)問題については、幕府の当局は、巧みに露国の敵たる英国公使を利用せんとし、英国公使に露国の暴状を説き、英人を煽動し、その軍艦の威力を借り、英国の干渉をもって、露艦を対馬より退去せしむるの策を廻した。策は見事に成功し、英公使これに応じ、その軍艦を派遣して露人を圧迫し、八月十五日、ビリリョフは終に対馬を去って事は落着したのであった。…(中略)…
当時露国の口実としたるところは、『英国に対馬占領の陰謀あるがゆえに、正義を愛する露国皇帝は、傍観するに忍びず、露国は軍艦を繫留して、日本を助け、以て英国に備えん。これがために、小屋掛敷地を対馬の一角に借用したし』というにあった。この口実の下に、露国は対州の一地を借地して南下の根拠を固くせんとするにあった。この『英国云々』の口実あるを持って、幕府の外交政策としては、この事を切に英国公使に告げ、露と好からざる英国公使を激発せしめ、英国をして露国に対しその武力干渉を行わしめ、以て対馬の一部占領を企図したる露人を見事に逐わしめんとしたのであり、当時の世界の大勢より察し、我が国の外交政策としては、賢明なる方法たりしと言うべし。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1170288/25
『岩波講座日本歴史. 第7』には小栗が裏で動いた事は記されていないが、このように纏められている。
「安藤閣老も七月初英国公使及び提督との会見の際、列国の対馬に対する野心防止の手段および既に開港の迫る兵庫の代港に同島を開港する内意を漏らしたので、英公使提督は態度を決し、提督ホープは我が政府に関係なく、自発的行動として対馬に迫り、露艦の条約違反行為を攻めてその退去を強要するに決し、七月二十三日エンカウンター、リングタブ二艦を率いて赴き、露艦将ビリリョフに退去を迫り、また一書を提督リカチョフに寄せてその不法を詰った。」(『岩波講座日本歴史. 第7』p.43~44昭和10年刊)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920830/25
かくしてロシア艦隊は対馬を退去したのだが、イギリスも同様に対馬を狙っていたはずなのである。イギリスは「自発的行動として」対馬に迫ったにもかかわらず、露艦を退去させた後になぜ対馬に留まらなかったのか。その点が幕臣とイギリスとの間に裏の交渉が行われたことを匂わせる部分であり、小栗が交渉に絡んでいた可能性はかなり高いと思われるのだが、その裏付けとなる記録は残されていないようだ。
戦前には多くの歴史書で、この「ロシア軍艦対馬占領事件」のことが記述されているのだが、戦後の歴史叙述には戦勝国にとって不都合な記述の多くが抜け落ちている。今日においてこの史実はあまり知られていないと思われるのだが、多くの人に広く知ってもらいたいものだ。
対馬にかぎらず、国境の島などの多くは過疎と高齢化に悩んでおり、多くの土地を外国に買われてしまっているのが現状である。このような状態で、もしある地域で幕末の対馬と同様のことが起った場合に、今の憲法や法体系でわが国はどれだけのことができるのかと心配になるのは私ばかりではないだろう。
自国の利益のために他国を侵略したり文化や伝統を破壊し、世界各国から批判を浴びても意に介さないような国が現実に存在する場合に、「平和」を唱えるだけでは他国の侵略からわが国を守ることができないことだけは確かなのである。
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6月6日に案内させていただきましたが、今年新たにドメインを取得して、3月より新しいブログ『歴史逍遥「しばやんの日々」』をスタートさせており、6月以降は新ブログの内容の充実に時間をかけるようにしています。FC2ブログはこれからも続けますが、更新頻度が落ちる事をご理解下さい。
新ブログ 『歴史逍遥「しばやんの日々」』
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新ブログでは、最近は「元寇」「倭寇」「朱印船貿易と東南アジアの日本人町」等のテーマで連続記事を書いています。GHQで焚書処分された書物の記述などを紹介しながら、戦後になってどのような史実が封印されており、歴史叙述がどのように歪められているかということを読者の皆さんに理解して頂ければと思い、いろいろ調べながら書いています。
新ブログでは、日本の歴史を中心に週1~2回のペースで、記事を書いていますので、良かったら覗いて見て下さい。
また、4月1日から、このブログで書いてきた記事の一部を書きまとめた『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』が発売されています。
内容について簡単にコメントすると、大航海時代にスペインやポルトガルがわが国に接近し、わが国をキリスト教化し植民地化とするための布石を着々と打っていったのですが、わが国はいかにしてその動きを止めたのかについて、戦後のわが国では封印されている事実を掘り起こしていきながら説き明かしていく内容です。
この本はこれまでのブログ記事をベースに大幅に加除訂正したもので、戦後の歴史叙述ではタブーとされた来たテーマにも論拠を示して書いています。
目次を紹介させていただきます。
目次
序章 四百年以上前に南米やインドなどに渡った名もなき日本人たちのこと
第1章 鉄砲の量産に成功したわが国がなぜ刀剣の世界に戻ったのか
* 鉄砲伝来後、わが国は鉄砲にどう向き合ったか
* 世界最大の鉄砲保有国であったわが国がなぜ鉄砲を捨てたのか
第2章 キリスト教伝来後、わが国に何が起こったのか
* フランシスコ・ザビエルの来日
* フランシスコ・ザビエルの布教活動
* 最初のキリシタン大名・大村純忠の「排仏毀釈」
* イエズス会に政教の実権が握られた長崎
* 武器弾薬の輸入のためにキリスト教を厚遇した大友宗麟
* 宣教師たちは一般庶民の信者にも寺社や仏像の破壊を教唆した
* 武士たちにキリスト教が広まったことの影響
* 異教国の領土と富を奪い取り、異教徒を終身奴隷にする権利
* ポルトガル人による日本人奴隷売買はいかなるものであったのか
* スペインの世界侵略とインディオの悲劇
* スペイン・ポルトガルの世界侵略とローマ教皇教書が果たした役割
* 宣教師たちがシナの征服を優先すべきと考えた理由
第3章 キリスト教勢力と戦った秀吉とその死
* 秀吉のキリスト教布教許可と九州平定
* 秀吉によるイエズス会日本準管区長・コエリョへの質問
* 秀吉はなぜ伴天連追放令を出したのか
* 伴天連追放令後のイエズス会宣教師の戦略
* スペインに降伏勧告状を突き付けた秀吉
* 秀吉はなぜ朝鮮に出兵したのか
* サン・フェリペ号事件と日本二十六聖人殉教事件
* イエズス会とフランシスコ会の対立
* 秀吉の死後スペイン出身の宣教師が策定した日本征服計画
* 宣教師やキリシタン大名にとっての関ヶ原の戦い
第4章 徳川家康・秀忠・家光はキリスト教とどう向き合ったか
* 日本人奴隷の流出は徳川時代に入っても続いていた
* 家康がキリスト教を警戒し始めた経緯
* 家康の時代のキリスト教弾圧
* 大坂の陣で、多くのキリシタン武将が豊臣方に集まったのはなぜか
* 対外政策を一変させた秀忠
* 東南アジアでスペインに対抗しようとしたイギリス・オランダの戦略
* 幕府が取締り強化を図っても、キリスト教信者は増え続けた
* 家光がフィリピンのマニラ征伐を検討した背景
* 幕府はなぜキリスト教を禁止せざるを得なかったのか
第5章 島原の乱
* 島原の乱は経済闘争か、あるいは宗教戦争か
* 棄教した住民たちが、なぜ短期間にキリシタンに立ち帰ったのか
* 島原の乱の一揆勢は原城に籠城して、どこの支援を待ち続けたのか
* 島原の乱の一揆勢は、大量の鉄砲と弾薬をどうやって調達したのか
* 島原の乱を幕府はどうやって終息させたのか
* 島原の乱の後も、わが国との貿易再開を諦めなかったポルトガル
* 島原の乱の前後で、幕府がオランダに強気で交渉できたのはなぜか
第6章 「鎖国」とは何であったのか?
* ポルトガルと断交した後になぜ海外貿易高は増加したのか
* シーボルトが記した「鎖国」の実態
あとがき
書評についてはAmazonに2件出ています。
大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか
古書店のサイト「るびりん書林」さんからも書評を頂きました。ご購入検討の際の参考にしてください。
https://rubyring-books.site/2019/04/25/post-1099/
また『美風庵だより 幻の花散りぬ一輪冬日の中』というブログでも採り上げて頂いています。
https://bifum.hatenadiary.jp/entry/20190426/1556208000
太平洋印刷株式会社のHPの中の「社長ブログ」で、私の著書を2回(4/24,4/25)にわたり話題にして頂きました。
http://busi-tem.sblo.jp/archives/201904-1.html
【ご参考】
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