攘夷や倒幕に突き進んだ長州藩の志士たちの資金源はどこにあったのか
はじめて明治維新を学んだ際に若い青年が時代を動かしたことに驚いた記憶があるが、なぜ彼らは働きもせずに国事に没頭することができたのであろうか。何らかの方法で資金を捻出することが可能であったのか、誰かが彼らの活動資金を支援していたかいずれかなのだが、この点について解明している書物は少ない。

【薩摩天保】
以前このブログで、『全寺院を廃寺にした薩摩藩の廃仏毀釈は江戸末期より始まっていたのではないか』という記事で、薩摩藩が寺院の梵鐘を鋳潰して天保銭を密鋳していたことを書いた。薩摩藩士で島津斉彬の側近の市来四郎の証言によると、安政5年(1858)の夏に、薩摩藩11代藩主の島津斉彬が大小の寺院にある梵鐘を藩廳に引き上げ武器製造局に集めて、兵器だけでなく貨幣にも鋳換えたのだそうだ。
阿達義雄氏の論文『薩摩藩密鋳天保通宝の数量』には290万両の密鋳を行い、その金額は薩英戦争の被害額を40万両も上回る水準という。
貨幣の密鋳は薩摩藩のほかに、盛岡藩や仙台藩、水戸藩など10以上の藩で行われたことが知られていており、長州藩でも行われたという説がある。古銭研究者が「曳尾銭(ひきおせん)」と呼ぶ、「通」のしんにょうの先が伸びている特徴のある天保銭が山口中心に発見されているのだそうだが、密造の規模は薩摩には大きく届かないようだ。では長州藩は、倒幕を実現するための活動資金を主にどういう方法で手に入れたのだろうか。

【河野浦 北前船主通り】
前回および前々回の記事に北前船で財をなした河野浦の右近権左衛門のことを書いたが、北前船で繁栄した地域は全国各地に存在し、山形県酒田市や石川県加賀市、新潟市などに船主の集落が残されていて、平成29年4月28日に「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」に30以上もの市町村が「日本遺産」に登録されている。
『日本遺産ポータルサイト』には船主集落のいくつかの画像が紹介されているが、これを観ると河野浦だけでなくそれぞれの寄港地が北前船による収益で潤ったことがよくわかる。
長州藩には下関、三田尻(防府市)、室積(光市)、上関、萩など北前船の寄港した港が多数存在し、なかでも下関は日本海、瀬戸内海、九州の各航路の結節地である重要な港で大変賑い、400軒もの問屋が軒を連ねていたという。
近松門左衛門の『博多小女郎波枕』には当時の下関をこう記している。
「長門の秋の夕暮れは、歌に詠むてふ門司が関、下の関とも名に高き、西国一の大湊、北に朝鮮釜山海、西に長崎薩摩潟、唐土阿蘭陀の代物を朝な夕なに引き受けて、千艘出づれば入船も、日に千貫萬貫目、小判走れば銀が飛ぶ、金色世界もかくやらん。」

【六十余州名所図会 長門 下関】
近松の表現には誇大な部分が少なからずあるとは思うが、下関は日本海、瀬戸内海、九州からの船が行きかう重要な港であったことは間違いなく、「西国一の大湊」であったことに嘘はない。下関の船主や廻船問屋が他の北前船寄港地と同様に巨額の利益を得ていたことは確実なのだが、残念ながら下関には船主集落や豪商の邸宅は残されていない。しかしながら、北前船で得た利益を惜しみなく勤王の志士に援助した人物が少なからずいて、なかでも廻船問屋・小倉屋の白石正一郎という人物は有名である。
昭和15年に出版された安藤徳器著『維新外史』にはこう記されている。この本は「国立国会図書館デジタルコレクション」で誰でもPC等で読むことが出来る。文中の「白石資風」は「白石正一郎」のことである。
「…地理的には九州四国対馬への関門であり、経済的には北廻船や越荷方の漁利を独占した良港――諸国の船舶商佔の出入りは志士密謀の策源地となり、脾肉の嘆を鬱散する幕末の歓楽境となった。就中勤王の侠商白石正一郎、大庭廉作等が、家産を蕩尽して草莽憂国の士を庇護したことは有名な話である。
いま、白石資風日記を繙くと、『西郷月照滞在以来正一郎家内中ノ配慮混雑筆紙ニ尽シ難ク』とか、『平野次郎ヲ新地春風楼ニ潜伏サスル』『薩ノ大久保一蔵君上下四人来駕急ニ上京也』と見え、其の往来した志士の人名は、優に百余名に上って居る。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046663/87
白石が面倒をみたのは長州藩士だけではなく薩摩藩士や土佐藩士も同様で、白石がこういう金の使い方をすることで、薩長土の志士達がつながっていったのである。
同上書にはこう解説されている。文中の「馬関」とは「下関」のことである。
「維新の元勲が置酒徴逐の間に策動した所、かの大西郷と木戸を握手させた、坂本龍馬の薩長連合も亦馬関に於てであった。…
かく志士を庇護した反面に於て、彼等御用商人が資金運用を諮り、一種の利権問題の含まれていたことは今日の政商と異ならぬ。
白石資風日記文久二年十二月二日の條に『昼前大国船三艘ニテ廉作帰リ来ル。森山新蔵殿及波江野休左衛門(波江野ハカゴ島下町の商人廉直ノ者ニテ森山ハ素大久保利通等ノ使役スルモノナリ。当時町老寄ニテ産物商ノモノナリ。営業酒店又ハ古着商)用達金二萬四千五百両持チ帰ル。右ノ内三千金当家ヘ拝借被仰付二萬金ハ米置入之御手洗ノオ手当千五百両ハ早船十艘御造立御手当成。』とか、三年正月十七日の條に『長州様ヨリ千五百金御カシ渡可被仰候段御書付頂戴』などあるを見ても察知するに足りやう。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046663/88
このように『白石資風日記』には薩摩藩や長州藩に大金を渡したことが書かれているが、この資金は攘夷を実行するためのものであったと思われる。

【馬関戦争図】
孝明天皇の強い要望により将軍徳川家茂は文久三年(1863)五月に攘夷の実行を約束し、それにもとづき長州藩は馬関海峡(現 関門海峡)を封鎖し、航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して通告なしに砲撃を加えた。その報復として、半月後にアメリカ・フランス軍艦が馬関海峡に碇泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的な打撃を与えている。(下関事件)
その翌日に高杉晋作が白石正一郎を訪ね、その2日後に、外国艦隊からの防備のために奇兵隊が結成され、正一郎も弟の廉作もそれに参加し、白石邸に本拠地が置かれることになったという。
長州藩は新たな砲台を設置して海峡封鎖を続行したが、翌年にはイギリス・アメリカ・フランス・オランダの四国連合艦隊が下関を徹底的に砲撃し、砲台は占拠され破壊されてしまう。(四国連合艦隊下関砲撃事件)
その後長州藩は武力での攘夷を放棄し藩論を倒幕に転換させていく。同様に薩摩藩も次第に反幕府の姿勢を強め、両藩ともに軍事力充実の為にイギリスに接近していった。
一方幕府はフランスの指導による軍事改革を進め、慶応元年(1865)に第二次長州征伐が宣言され、薩摩藩にも出兵要請が出されたのだが、坂本龍馬などの仲介により慶応二年一月(1866)に薩長同盟が締結されたことから、薩摩は出兵しなかった。最新兵器で武装した長州藩の奇兵隊などは各地で幕府軍を打ち破り、このため幕府は、将軍家茂の病死をきっかけとして戦闘を中止した。

【奇兵隊】
奇兵隊は武士のみならず農民や町民でも、志があれば参加できる民兵組織であり、この兵士たちの装備や生活支援の為に正一郎はかなりの私費を投じたようである。しかしながら、奇兵隊の隊員は次第に膨れ上がり、その資金負担は本業の資金繰りにも影響を与えることとなる。
慶応元年(1865)の正一郎の日記には白石の借金について噂がたっていたことが記されている。
「(十一月)十四日…林半七君曰ク、当家借財四五百金ニテ当分間ヲワタシ不申哉ト申聞候得共、夫ニテハ所詮間ニ合不申。然ルニ当節又々幕情勢相迫候由ニ承候。オノレ勘考スルニ、君上有テノ事ニ付、先々当分カリ主ヨリ責来不申様被仰付度。追討ノ一挙平穏ニ相成候上、此家屋敷御買上相成候様御周旋被成下度。夫迄ハ先ツ見合可申ト返答ニオヨブ。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935850/63
白石正一郎の巨額の借財があったにせよ、白石宅には入れ代わり立ち代わり志士たちが訪れては宿泊や酒席などの世話になっている。
慶応二年(1866)の日記にはこう記されている。
「二月一日奇隊ヨリ惣官山縣君其外遠乗シテ来ル。井上聞多君、伊藤春介君、野村靖之助ナド芸妓召連来リ暫ラク大サワギ」
*山縣君(山縣有朋)、井上聞多(井上馨)、伊藤春介(伊藤博文)、野村靖之(野村靖)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935850/64

【洋行前の伊藤博文】
井上や伊藤らの遊興費は外国商人からも出ていたようだ。『萩の落葉』という当時の風聞書に、このような記録があるという。
「…伊藤春助外夷より大金を貰ひ受け、稲荷町新地において湯水の如く遣捨て、其上妓婦両人受出し且又内々馬関を交易場に開港之唱有之候に付、奇兵隊其外慷慨の志士憤発誅戮可致哉。何れ大変不遠中に発し可申右等之趣に付、前條之町触有之候哉と申居候事」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046663/93
しかしながら、前掲の『維新外史』によると、長州志士たちの活動費や遊興費の多くは、藩が支出した銃艦購入費や洋行費から流用されたという。
「…高杉が独断に於て英商グラバより購入したオテント(丙寅丸)の三萬六千二百五十両の船価は、洋行費として千五百両の支給から手付を打つと称して費消したのであった。井上が要路に弁解した書中『谷氏(晋作変名)御勘渡金千五百両の處返納仕候様中来リ、然ル處崎陽ニテ遠行之仕度相調且舷買入雑費ニテ金モ遣ヒ候様子、然ル處大不平ニテ云々』と見える。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046663/95
長州藩の銃艦購入費や洋行費は、白石正一郎ら勤王の商人のほか、豪農など民間の有力者が攘夷軍用金として藩に献納したものなのだが、ほかにも長州藩には関ケ原の戦い以降蓄積されて来た巨額の資金が存在したという。軍事機密費が存分に仕えたからこそ、長州の志士たちは豪遊することが可能であったのだが、これだけ無駄な支出をしても、維新後に長州藩の資金が余り、七十万両を朝廷に献上したのだそうだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046663/97
その後江戸幕府が崩壊して明治の時代となるのだが、平和な時代が訪れると武力の重要度合が低下することは言うまでもない。
正一郎が面倒を見てきた奇兵隊は無用の長物となり、明治二年十一月に山口藩知事毛利元徳は、奇兵隊を含む長州諸隊5000余名のうち3000余名を論功行賞も無く解雇し、各地を転戦した平民出身の諸隊士は失職してしまった。解雇された元奇兵隊員ら約1800人がこれを不服として山口県庁を取り囲む騒動となる。(脱退騒動) 。
木戸孝允が明治政府の鎮圧軍を率いて脱退軍を撃退し、奇しくも奇兵隊創設者である高杉晋作の父高杉小忠太は山口藩権大参事として旧奇兵隊士を鎮圧する側で活躍したという。
白石正一郎が明治維新後も元奇兵隊の隊士の面倒を見たという説もあるようだが、詳しいことはよくわからない。政治に関与しすぎた正一郎はついに小倉屋を倒産させてしまうのだが、散々彼に世話になってきた連中は、彼に手を差し伸べようとしたのか、あるいは正一郎がそれを固辞したのか。いずれにせよ、新しき世を夢見て志士たちを支援し続けた正一郎にとっては不本意な結果となってしまった。

明治以降の正一郎の日記には僅かの記録しか活字になっていないのだが、読み進んでいくと、明治十年(1877)に赤間神宮の宮司に就任したことが書かれている。赤間神宮は、文治元年(1185)の壇ノ浦の戦いで入水して果てた安徳天皇ゆかりの神社であり、奇兵隊の隊士が増加し白石邸が手狭となってからは、奇兵隊の本拠地となった場所でもある。
下関の海に生き、尊王の志が人一倍強かった正一郎は、最後に天皇家とゆかりがあり、自分が支援してきた奇兵隊の思い出が詰まった神社の神職となる道を選び、その三年後の明治十三年(1880)に六九歳の人生を終えたのである。
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【薩摩天保】
以前このブログで、『全寺院を廃寺にした薩摩藩の廃仏毀釈は江戸末期より始まっていたのではないか』という記事で、薩摩藩が寺院の梵鐘を鋳潰して天保銭を密鋳していたことを書いた。薩摩藩士で島津斉彬の側近の市来四郎の証言によると、安政5年(1858)の夏に、薩摩藩11代藩主の島津斉彬が大小の寺院にある梵鐘を藩廳に引き上げ武器製造局に集めて、兵器だけでなく貨幣にも鋳換えたのだそうだ。
阿達義雄氏の論文『薩摩藩密鋳天保通宝の数量』には290万両の密鋳を行い、その金額は薩英戦争の被害額を40万両も上回る水準という。
貨幣の密鋳は薩摩藩のほかに、盛岡藩や仙台藩、水戸藩など10以上の藩で行われたことが知られていており、長州藩でも行われたという説がある。古銭研究者が「曳尾銭(ひきおせん)」と呼ぶ、「通」のしんにょうの先が伸びている特徴のある天保銭が山口中心に発見されているのだそうだが、密造の規模は薩摩には大きく届かないようだ。では長州藩は、倒幕を実現するための活動資金を主にどういう方法で手に入れたのだろうか。

【河野浦 北前船主通り】
前回および前々回の記事に北前船で財をなした河野浦の右近権左衛門のことを書いたが、北前船で繁栄した地域は全国各地に存在し、山形県酒田市や石川県加賀市、新潟市などに船主の集落が残されていて、平成29年4月28日に「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~」に30以上もの市町村が「日本遺産」に登録されている。
『日本遺産ポータルサイト』には船主集落のいくつかの画像が紹介されているが、これを観ると河野浦だけでなくそれぞれの寄港地が北前船による収益で潤ったことがよくわかる。
長州藩には下関、三田尻(防府市)、室積(光市)、上関、萩など北前船の寄港した港が多数存在し、なかでも下関は日本海、瀬戸内海、九州の各航路の結節地である重要な港で大変賑い、400軒もの問屋が軒を連ねていたという。
近松門左衛門の『博多小女郎波枕』には当時の下関をこう記している。
「長門の秋の夕暮れは、歌に詠むてふ門司が関、下の関とも名に高き、西国一の大湊、北に朝鮮釜山海、西に長崎薩摩潟、唐土阿蘭陀の代物を朝な夕なに引き受けて、千艘出づれば入船も、日に千貫萬貫目、小判走れば銀が飛ぶ、金色世界もかくやらん。」

【六十余州名所図会 長門 下関】
近松の表現には誇大な部分が少なからずあるとは思うが、下関は日本海、瀬戸内海、九州からの船が行きかう重要な港であったことは間違いなく、「西国一の大湊」であったことに嘘はない。下関の船主や廻船問屋が他の北前船寄港地と同様に巨額の利益を得ていたことは確実なのだが、残念ながら下関には船主集落や豪商の邸宅は残されていない。しかしながら、北前船で得た利益を惜しみなく勤王の志士に援助した人物が少なからずいて、なかでも廻船問屋・小倉屋の白石正一郎という人物は有名である。
昭和15年に出版された安藤徳器著『維新外史』にはこう記されている。この本は「国立国会図書館デジタルコレクション」で誰でもPC等で読むことが出来る。文中の「白石資風」は「白石正一郎」のことである。
「…地理的には九州四国対馬への関門であり、経済的には北廻船や越荷方の漁利を独占した良港――諸国の船舶商佔の出入りは志士密謀の策源地となり、脾肉の嘆を鬱散する幕末の歓楽境となった。就中勤王の侠商白石正一郎、大庭廉作等が、家産を蕩尽して草莽憂国の士を庇護したことは有名な話である。
いま、白石資風日記を繙くと、『西郷月照滞在以来正一郎家内中ノ配慮混雑筆紙ニ尽シ難ク』とか、『平野次郎ヲ新地春風楼ニ潜伏サスル』『薩ノ大久保一蔵君上下四人来駕急ニ上京也』と見え、其の往来した志士の人名は、優に百余名に上って居る。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046663/87
白石が面倒をみたのは長州藩士だけではなく薩摩藩士や土佐藩士も同様で、白石がこういう金の使い方をすることで、薩長土の志士達がつながっていったのである。
同上書にはこう解説されている。文中の「馬関」とは「下関」のことである。
「維新の元勲が置酒徴逐の間に策動した所、かの大西郷と木戸を握手させた、坂本龍馬の薩長連合も亦馬関に於てであった。…
かく志士を庇護した反面に於て、彼等御用商人が資金運用を諮り、一種の利権問題の含まれていたことは今日の政商と異ならぬ。
白石資風日記文久二年十二月二日の條に『昼前大国船三艘ニテ廉作帰リ来ル。森山新蔵殿及波江野休左衛門(波江野ハカゴ島下町の商人廉直ノ者ニテ森山ハ素大久保利通等ノ使役スルモノナリ。当時町老寄ニテ産物商ノモノナリ。営業酒店又ハ古着商)用達金二萬四千五百両持チ帰ル。右ノ内三千金当家ヘ拝借被仰付二萬金ハ米置入之御手洗ノオ手当千五百両ハ早船十艘御造立御手当成。』とか、三年正月十七日の條に『長州様ヨリ千五百金御カシ渡可被仰候段御書付頂戴』などあるを見ても察知するに足りやう。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046663/88
このように『白石資風日記』には薩摩藩や長州藩に大金を渡したことが書かれているが、この資金は攘夷を実行するためのものであったと思われる。

【馬関戦争図】
孝明天皇の強い要望により将軍徳川家茂は文久三年(1863)五月に攘夷の実行を約束し、それにもとづき長州藩は馬関海峡(現 関門海峡)を封鎖し、航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して通告なしに砲撃を加えた。その報復として、半月後にアメリカ・フランス軍艦が馬関海峡に碇泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的な打撃を与えている。(下関事件)
その翌日に高杉晋作が白石正一郎を訪ね、その2日後に、外国艦隊からの防備のために奇兵隊が結成され、正一郎も弟の廉作もそれに参加し、白石邸に本拠地が置かれることになったという。
長州藩は新たな砲台を設置して海峡封鎖を続行したが、翌年にはイギリス・アメリカ・フランス・オランダの四国連合艦隊が下関を徹底的に砲撃し、砲台は占拠され破壊されてしまう。(四国連合艦隊下関砲撃事件)
その後長州藩は武力での攘夷を放棄し藩論を倒幕に転換させていく。同様に薩摩藩も次第に反幕府の姿勢を強め、両藩ともに軍事力充実の為にイギリスに接近していった。
一方幕府はフランスの指導による軍事改革を進め、慶応元年(1865)に第二次長州征伐が宣言され、薩摩藩にも出兵要請が出されたのだが、坂本龍馬などの仲介により慶応二年一月(1866)に薩長同盟が締結されたことから、薩摩は出兵しなかった。最新兵器で武装した長州藩の奇兵隊などは各地で幕府軍を打ち破り、このため幕府は、将軍家茂の病死をきっかけとして戦闘を中止した。

【奇兵隊】
奇兵隊は武士のみならず農民や町民でも、志があれば参加できる民兵組織であり、この兵士たちの装備や生活支援の為に正一郎はかなりの私費を投じたようである。しかしながら、奇兵隊の隊員は次第に膨れ上がり、その資金負担は本業の資金繰りにも影響を与えることとなる。
慶応元年(1865)の正一郎の日記には白石の借金について噂がたっていたことが記されている。
「(十一月)十四日…林半七君曰ク、当家借財四五百金ニテ当分間ヲワタシ不申哉ト申聞候得共、夫ニテハ所詮間ニ合不申。然ルニ当節又々幕情勢相迫候由ニ承候。オノレ勘考スルニ、君上有テノ事ニ付、先々当分カリ主ヨリ責来不申様被仰付度。追討ノ一挙平穏ニ相成候上、此家屋敷御買上相成候様御周旋被成下度。夫迄ハ先ツ見合可申ト返答ニオヨブ。…」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935850/63
白石正一郎の巨額の借財があったにせよ、白石宅には入れ代わり立ち代わり志士たちが訪れては宿泊や酒席などの世話になっている。
慶応二年(1866)の日記にはこう記されている。
「二月一日奇隊ヨリ惣官山縣君其外遠乗シテ来ル。井上聞多君、伊藤春介君、野村靖之助ナド芸妓召連来リ暫ラク大サワギ」
*山縣君(山縣有朋)、井上聞多(井上馨)、伊藤春介(伊藤博文)、野村靖之(野村靖)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/935850/64

【洋行前の伊藤博文】
井上や伊藤らの遊興費は外国商人からも出ていたようだ。『萩の落葉』という当時の風聞書に、このような記録があるという。
「…伊藤春助外夷より大金を貰ひ受け、稲荷町新地において湯水の如く遣捨て、其上妓婦両人受出し且又内々馬関を交易場に開港之唱有之候に付、奇兵隊其外慷慨の志士憤発誅戮可致哉。何れ大変不遠中に発し可申右等之趣に付、前條之町触有之候哉と申居候事」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046663/93
しかしながら、前掲の『維新外史』によると、長州志士たちの活動費や遊興費の多くは、藩が支出した銃艦購入費や洋行費から流用されたという。
「…高杉が独断に於て英商グラバより購入したオテント(丙寅丸)の三萬六千二百五十両の船価は、洋行費として千五百両の支給から手付を打つと称して費消したのであった。井上が要路に弁解した書中『谷氏(晋作変名)御勘渡金千五百両の處返納仕候様中来リ、然ル處崎陽ニテ遠行之仕度相調且舷買入雑費ニテ金モ遣ヒ候様子、然ル處大不平ニテ云々』と見える。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046663/95
長州藩の銃艦購入費や洋行費は、白石正一郎ら勤王の商人のほか、豪農など民間の有力者が攘夷軍用金として藩に献納したものなのだが、ほかにも長州藩には関ケ原の戦い以降蓄積されて来た巨額の資金が存在したという。軍事機密費が存分に仕えたからこそ、長州の志士たちは豪遊することが可能であったのだが、これだけ無駄な支出をしても、維新後に長州藩の資金が余り、七十万両を朝廷に献上したのだそうだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1046663/97
その後江戸幕府が崩壊して明治の時代となるのだが、平和な時代が訪れると武力の重要度合が低下することは言うまでもない。
正一郎が面倒を見てきた奇兵隊は無用の長物となり、明治二年十一月に山口藩知事毛利元徳は、奇兵隊を含む長州諸隊5000余名のうち3000余名を論功行賞も無く解雇し、各地を転戦した平民出身の諸隊士は失職してしまった。解雇された元奇兵隊員ら約1800人がこれを不服として山口県庁を取り囲む騒動となる。(脱退騒動) 。
木戸孝允が明治政府の鎮圧軍を率いて脱退軍を撃退し、奇しくも奇兵隊創設者である高杉晋作の父高杉小忠太は山口藩権大参事として旧奇兵隊士を鎮圧する側で活躍したという。
白石正一郎が明治維新後も元奇兵隊の隊士の面倒を見たという説もあるようだが、詳しいことはよくわからない。政治に関与しすぎた正一郎はついに小倉屋を倒産させてしまうのだが、散々彼に世話になってきた連中は、彼に手を差し伸べようとしたのか、あるいは正一郎がそれを固辞したのか。いずれにせよ、新しき世を夢見て志士たちを支援し続けた正一郎にとっては不本意な結果となってしまった。

明治以降の正一郎の日記には僅かの記録しか活字になっていないのだが、読み進んでいくと、明治十年(1877)に赤間神宮の宮司に就任したことが書かれている。赤間神宮は、文治元年(1185)の壇ノ浦の戦いで入水して果てた安徳天皇ゆかりの神社であり、奇兵隊の隊士が増加し白石邸が手狭となってからは、奇兵隊の本拠地となった場所でもある。
下関の海に生き、尊王の志が人一倍強かった正一郎は、最後に天皇家とゆかりがあり、自分が支援してきた奇兵隊の思い出が詰まった神社の神職となる道を選び、その三年後の明治十三年(1880)に六九歳の人生を終えたのである。
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