万葉集で桜を詠った作品が少ないのはなぜか
「見渡せば 春日の野辺に 霞立ち
咲きにほへるは 桜花かも」 巻10の1872 作者未詳
「桜花 今ぞ盛りと人は言へど
我は寂しも 君としあらねば」 巻18の4074 大友池主
【吉野の桜】
万葉集で桜が題材になっている歌は41あるのだそうだが、群馬県立女子大の北川和秀教授の集計によると、万葉集で一番多く詠われている植物は萩で141、次いで梅の116。さらに橘・花橘、菅・山菅、松、葦、茅・浅茅、柳・青柳、藤・藤波と続き、桜は10番目なのだという。
http://www.asahi.com/special/kotoba/archive2015/danwa/2012042500004.html
現在の桜の代表品種であるソメイヨシノが存在しなかった時代であることを考慮する必要があるとはいえ、結構地味な花が多くの万葉歌人に詠われていて、桜がずいぶん後順位で万葉集4516首のうち1%にも満たないことに驚いたのは私ばかりではないだろう。
中国では漢詩に梅が良く詠われているのだが、この植物は日本で昔から存在していたものではなく、飛鳥時代以降遣隋使や遣唐使によってもたらされたという。
奈良時代の貴族の間では、「花」と言えば「梅」を指していたと学生時代に習った記憶があるが、万葉歌人の花に関する美意識は今日の日本人とはかなり異なり、中国文化の影響を受けていたようなのだ。
今の日本人なら、「花」と言えば第一位に「桜」が来てもおかしくないと思うのだが、桜の人気が梅の人気を上回るようになったのはいつのことなのだろうか。
【嵯峨天皇】
『日本後記 巻第二十二』の弘仁三年(812)二月十二日の記録に、
「(嵯峨)天皇が神泉苑に御幸して、花樹を観覧した。文人に命じて詩を作らせ、身分に応じて綿を下賜した。花宴の節は今回が起源である。」(講談社学術文庫『日本後記 (中)』p.263)
とある。
この記述では花見の対象が桜であることは明記されていないのだが、この日付が太陽暦で4月2日頃にあたり、嵯峨天皇は桜好きで地主神社の桜を好んで、毎年その神社から桜を献上させたといい、その頃から貴族の間で桜の花見が広がっていったと考えられている。
また花宴の節は、天長8年(831)から宮中での天皇主催の定例行事として取り入れられ、少し時代は下るが、その様子は『源氏物語』の『第八帖 花宴』にも描かれている。
http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined08.1.html
【醍醐天皇】
宇多天皇(在位:仁和3年[887]~寛平9年[897])の治世になると歌合せが盛んに実施され、続く醍醐天皇(在位: 寛平9年[897]~延長8年[930])の勅命により、延喜5年(905)日本最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が奏上された。
【菅原道真】
『はな物語』のコラム記事『昔は桜より梅が人気?花見の歴史の知られざる変遷を紹介』にはこう解説されている。
「学問の神様と言われる菅原道真が遣唐使を廃止したのは、894年のことでした。遣唐使の廃止により、日本独自の文化が発展していったともいわれています。
これを契機に日本古来の文化や、美徳に人々が注目し始めたのかも知れませんね。この時を境に、花といえば『梅』ではなく『桜』を指すようになっていきました。
桜ブーム到来は、和歌にも表れています。平安初期に作成された『古今和歌集』には、梅を詠んだ歌は18首程度に対し、桜を詠んだ歌は70首となっています。平安時代に、一気に梅と桜の人気が逆転したことがうかがえますね。」
https://www.hanamonogatari.com/blog/1201/
【又兵衛桜】
『古今和歌集』の全作品数は1111首なので桜を詠んだ歌は6.3%、梅は1.6%だ。
『古今和歌集』には有名な桜歌がいくつもある。
「世の中に たえて桜の なかりせば
春の心は のどけからまし」在原業平
「花の色は 移りにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに」小野小町
「久方の ひかりのどけき 春の日に
しづ心なく 花のちるらむ」紀友則
【たつの公園の桜】
先ほど紹介したコラムでは『古今和歌集』を境に、「花と言えば『梅』ではなく『桜』を指すように」なったと記されているのだが、そもそも日本人の美意識がそんなに急に変わるものなのだろうか。
このコラムに限らず、10世紀以降に国風文化が発展した理由に遣唐使の廃止をあげる人が多いのだが、最後の遣唐使派遣は承和5年(838)であり、菅原道真の建議により遣唐使派遣を停止したのはその56年も後の話で、平安遷都後の遣唐使は延暦23年(804)と承和5年(838)の2回しかないのだ。しかも、その頃は中国からの海商が多数渡航するようになっており、遣唐使を派遣しなくとも中国の文物を入手できるようになっていた。わが国の美意識の変化の理由を寛平6年(894)の遣唐使廃止に求める説は、説得力が乏しいと言わざるを得ない。
『もういちど読む 山川日本史』に、少しヒントになる記述があった。
「藤原氏がさかえた10~11世紀の文化を藤原文化、または国風文化とよんでいる。この時期は遣唐使の中止によって大陸文化を相対化するなか、日本的な思想や意識が表面にあらわれ、文化の国風化がすすんだ。また、貴族が地方政治からはなれ、その意識も宮廷生活を中心とする世界にかぎられるようになった社会的背景も、文化に強く反映している。
平安初期の漢文学に対し、和歌がふたたびさかんになり、物語や日記があらたな文学として登場した。これは表音文字としての平がな・片かながつくられ、日本的な感情が自由に表現できるようになったためである。」(『もういちど読む 山川日本史』p.60)
確かに平安初期は漢文学が盛んであった。
小西甚一氏の『日本文学史』を紐解くと、9世紀の文学について、こう書かれている
「漢詩文は、嵯峨天皇から文徳天皇の時期にかけて(およそ809~857)全盛期を現出する。勅撰三詩集の編纂もこの間のことであるが、漢詩文全盛のため、和歌は公の席から退かざるを得なくなり、もっぱら私生活のなかに沈んでしまった。しかも、その間に漢詩文の六朝*ふうな表現が和歌に浸潤したので、和歌の表現は、約50年前に比較して、大変違ったものとなった。清和天皇のころから和歌は、だんだん地位を回復してゆくが、この期の和歌を代表する在原業平や小野小町の歌は、万葉風とあきらかな差異をもつ。わずか半世紀を隔てたのみでこのような顕著な歌風の差異が生じたのは、主として六朝詩の影響によるものだと考えられる。」(講談社学術文庫『日本文学史』p.49)
六朝(りくちょう): 中国で、後漢の滅亡後、隋の統一まで建業(現在の南京)に都した呉・東晋・宋・斉(せい)・梁(りょう)・陳の6王朝
清和天皇の在位は天安2年(858)から貞観18年(876)で、この頃から和歌は地位を回復したと小西氏は解説しているのだが、当時の和歌はいかなる文字を用いて記されたのだろうか。そもそも平仮名はいつ頃成立したのだろうか。
【宇多天皇】
Wikipediaにはこう解説されている・
「8世紀末の正倉院文書には、…平安時代の平仮名と通じる半ば草体化した借字が記され、…これら省略の進んだ草書の借字を、平仮名の前段階として草仮名(そうがな)と呼ぶ。宇多天皇宸翰の『周易抄』(寛平9年〈897年〉)では、訓注に草仮名を、傍訓に片仮名をそれぞれ使い分けており、この頃から平仮名が独立した文字体系として次第に意識されつつあったことが窺える。
9世紀後半から歌文の表記などに用いられていた平仮名が公的な文書に現れるのは、醍醐天皇の時代の勅撰和歌集である『古今和歌集』(延喜5年〈905年〉)が最初である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BB%AE%E5%90%8D
言うまでもなく『万葉集』の時代には、日本語を表記するために、漢字の一字一字の音を借用して記されていた。
例えば冒頭で紹介した『万葉集』の2首について、原文の万葉仮名ではどう記されていたのかと思って調べてみた。『世界の古典つまみ食い』というサイトの「万葉仮名で読む万葉集」を開くと、作品番号で簡単にその原文を見つけることができる。
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/manyoushuu.txt
「見渡せば 春日の野辺に 霞立ち 咲きにほへるは 桜花かも」
原文「見渡者 春日之野邊尓 霞立 開艶者 櫻花鴨」
「桜花 今ぞ盛りと人は言へど 我は寂しも 君としあらねば」
原文「櫻花 今曽盛等 雖人云 我佐不之毛 支美止之不在者」
【紀州本万葉集 巻十】
原文と読み比べると、原文では漢字の一部は表意文字として用いながら、他は表音文字として用いていることが分かる。
しかしながら、漢字の読み方や意味は何通りもあるので誤読の可能性があるのに加え、表音文字として使用するのに画数の多い漢字をいちいち書かねばならないのは面倒だ。
その点を改善するためには表意文字を別に用意することが必要で、書きやすさを考えれば画数が少ない方が好ましいことは言うまでもない。
そもそも表意文字である漢字を表音文字として借用して日本語を書き表すという方法では、漢字が書けない人には文章を書くことは不可能であり、当然和歌を楽しむことも難しい。
平仮名が広まるまでは、唐に追いつけ追い越せで幼少の頃から漢文を叩きこまれた貴族だけが万葉仮名で日本語を表記することが出来たわけだが、漢詩などを永年学んできたことで中国人の価値観や美意識の影響を受けたことは当然であろう。万葉歌人の作品に中国人が好む萩や梅が多い理由は、そういう点を考慮する必要があるのだと思う。
しかし8世紀の終わり頃から草仮名が用いられるようになり、9世紀の終わりまでには平仮名が独立した文字体系として広まり、昔のように漢学の教養を身に付けなくとも、平仮名で自由自在に記録し、和歌を楽しむことが出来るようになった。
小西甚一氏は前掲書の中で、どういう人々が仮名文字を用いようとしたかについてこう述べている。
「それは、下流貴族すなわち受領階級*が主だったろうと思われる。上流貴族の『文章』と意識していた漢文を疎外し、女の実用でしかなかった仮名文で書くということは、上流貴族とその文化に対して批判的な眼をもちえた層の存在を想起させる。上からの没落者と下からの成りあがり者とを併せ含む受領階級は、ちょうどそれに当たるだろう。
仮名文の発達は、女性に負うところが多いといわれる。それは確かだけれども、仮名文による文藝が女性の創始だということは、区別されるべきであろう。いわゆる平安前期に属する諸作品は、はっきり男性の作と認められる『土佐日記』を始め、『伊勢物語』『大和物語』『竹取翁物語』など、どちらかといえば男性の作品だろうと推定されているもののほうが、はるかに多いのである。仮名文による文芸は、まず下流貴族の男性たちによって試みられ、それが同じ階級の女性たちに浸潤したのだとは考えられないだろうか。」(同上書p.53)
*受領(ずりょう)階級: 諸国の長官 (かみ) 。任地におもむかない遙任国司に対し,任国に行って実務をとる国司をいう。
【伊勢神宮 内宮神苑の桜】
仮名文字が考案されたことで、これまで上流貴族文化に批判的な眼を持っていた下流貴族たちが、日本語表現の自由を手にして国風文化が花を開くことになる。
『古今和歌集』で桜を詠んだ歌の数が梅を圧倒したことは、日本人の花に対する美意識が『万葉集』の時代から大きく変化したと理解する人が多いのだが、私にはどうもピンとこない。
仮名が生まれたことで歌人の出身階層が多様化したことに、もっと着目してはどうかと思う。
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