イギリスとフランスにとっての戊辰戦争
Category大政奉還から戊辰戦争
前回の記事で、西郷隆盛の命を受けて東征軍参謀の木梨精一郎(長州藩士)および渡辺清(大村藩士)がイギリス公使のパークスを訪ねて、江戸城総攻撃の際に新政府軍の負傷兵の手当てをする病院の世話をして欲しいと依頼したところ、パークスが激怒したことを書いた。
徳富蘇峰の『近世日本国民史 第68冊』に、パークスと直接交渉した木梨精一郎の話(『維新戦役実座談』)の一節が引用されているので紹介したい。
【木梨精一郎】
「その時にパークスが言うには、今日の政府は徳川にある。王政維新になったと言っても、いまだ外国公使へ通報もなし。私はどこまでも前条約を以て、徳川政府を政府と見ている。
なるほど内部を見れば、天子朝廷の命令というものは重きものなれども、条約上に於いて、今徳川氏の外国奉行の手を経てでなければ承知されぬというのは、本国に報知することが出来ぬ。すなわち条約面によって、今ここへ兵を多く繰り込めば、自然フランスの一大隊、オランダの二大隊、あるいは衝突を起こすかも知れぬからという。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/188
そこで木梨は「徳川幕府の政令は朝廷に奉還して、外国奉行というものは存在しても名前だけで実体はない」と答えたところ、パークスは「今の朝廷から、表方ご通知があったなら、私どもの方も、陸へ上げた兵を艦へ乗せ、国へ返しもしようが、その命のあらざる間は砲撃などのことは、暫らく見合わせてくれ」と答えたという。
このパークスの言葉は一般の歴史書などではほとんど無視されているのだが、非常に重要なことを述べている。
もしある国で革命政権が樹立された場合に、前政権による対外債務や条約がそのまま自動的に引き継がれるというわけではない。
欧米諸国がわが国と条約を結んだ相手は徳川幕府であり、その徳川幕府が朝廷に政権を返上したとはいえ内戦状態に突入してしまって、現段階ではどちらが勝利するかはわからない。イギリスとしては、内戦が終結して書面上でもその権利の承継の手続きがなされるまでは、従来の条約の相手方である幕府を重視することは当然の事なのだ。
そもそも朝廷には外交問題を仕切れる人材は皆無であった。したがって、徳川慶喜が大政奉還を奏上しそれが決定した8日後の慶応3年10月23日に、朝廷は外交に関しては引き続き幕府が中心となって行うことを認める通知を出している。そのため11月19日の江戸開市と新潟開港の延期通告や28日のロシアとの改税約書締結は徳川幕府が行なっているのである。
パークスが、木梨に対して「条約上に於いて、今徳川氏の外国奉行の手を経てでなければ承知されぬ」と言っているのはそのことを意味するが、普通に考えれば、わが国で政権が朝廷に移ったにもかかわらず外交だけは今まで通り徳川幕府というのは、欧米諸国にとっては理解し難いことでであったと思われる。だからパークスは「(このことは)本国に報告することは出来ぬ」と述べたのであろう。
外国人の立場で考えればわかる事なのだが、日本でクーデターが起こり、これから新政府軍が幕府勢力との間で本格的な内戦に発展してもおかしくない情勢になってきたのであれば、彼らにとっての最大の関心事は、幕府の瓦解によって無政府状態に陥っている中で、多数の外国人居留民がいる横浜などの治安をいかに確保するかであったはずだ。
萩原延壽氏の『遠い崖―――アーネスト・サトウ日記抄 7 江戸開城』に、イギリス公使パークスが本国のスタンレー外相に宛てた手紙が引用されている。手紙日付の西暦1868年4月9日は、和暦(陰暦)慶応4年3月17日で、西郷と勝が江戸無血開城の談判を行なった3日後のことである。
パークスはこう記している。
「横浜に上陸してみると、ミカドの軍隊の先遣部隊が、東海道と呼ばれる公道の、江戸まで10マイル(約16km)ないし15マイルの地点に進出していた。そして、この部隊からはぐれたかなりの数の武装した兵士が、横浜に入り込んできた。」
「私が帰還する2日前、ロコック氏(公使館書記官)はサンキー陸軍大佐(第9連隊)に要請して、この町に通じる主要な入口である橋に衛兵を配置したが、これは賢明な措置であった。此の武力の誇示は、2つの目的にかなうものであった。ひとつは、大君(たいくん)*政府の役人と警吏に対して、それぞれの部署にふみとどまる勇気を与え、かくして恐慌状態の下で日本人が掠奪と混乱に襲われるのを防止することであり、もうひとつは、ミカドの軍隊の乱雑な、規律が整然としているとはいいがたい兵士に対して、この町が大君政府以外の兵(外国軍隊)によっても防衛されていることを明示することであった。」
「4月1日(陰暦3月9日)、神奈川奉行が訪ねてきて、この町の行政をミカドの政府が任命した役人に引き渡す用意ができているが、まだそのような役人が到着したという通知を受け取っていないと語った。さらに奉行は、町に入り込んでいる武装した兵士を取締る力が彼にはないことを認め、且つこの町の外国人と日本人に対する彼らの態度には遺憾な点があると述べた。」(『遠い崖 7 江戸開城』p.8-9)
*大君(たいくん:江戸時代に対外的に用いられた征夷大将軍の外交呼称。ここでは徳川慶喜を指す。「大君政府」は徳川幕府。)
横浜の治安については、大政奉還されたのであれば幕府から朝廷側に引き継がれていなければならないところだが当時はまだ実施されておらず、訪ねてきた神奈川奉行はこれから大挙してやってくる新政府の東征軍から横浜の外国人や日本人を守る力がないと述べたという。ならば、自力で横浜を守るしかないではないか。
諸外国の代表は対応策を協議して、新政権が横浜の治安の維持にあたるまでの間、各国の軍隊を出動させて横浜の要衝を占拠し、幕府軍と協力して東征軍兵士の横浜立入を阻止することを申し合わせ、4月3日(陰暦3月11日)からそれを実施したという。
パークスが横浜の自国居留民を守ることに動き回っていた矢先に、東征軍参謀・木梨精一郎と渡辺清がのこのこと現われて、これから内戦が始まるので傷病人の面倒を見て欲しいと依頼にきたことになるのだが、このような経緯を知るとパークスが激怒した理由が見えてくる。
【イギリス公使 パークス】
またパークスは、同じ4月9日付(陰暦3月17日付)でハモンド外務次官あての手紙にこう記している。
「江戸のもめごとに対処するのに手遅れでなかったことを知って、ほっとしている。しかし大君は抵抗の意思を放棄しているので、このもめごとも、たぶん1ヶ月で解決するであろう。そして、戦闘は相互に憎み合っている大名の家来たちや、この国に多大の害毒を流している『浪人』たちのあいだの、不正規な小ぜりあいに限られるであろう。われわれは、横浜の安全を確保することが出来たと思う。」(同上書 p.21)
このように、パークスは横浜を守れたことに安堵するとともに、内戦はあと1ヶ月で終るだろうと予想したのだが、実際には戊辰戦争はあと半年も続いたのである。パークスの考え方は、概ねイギリス人の代表的な考え方であり、彼らにとってはこれからしばらく小競り合いが続こうが、慶喜に戦意がなくて新政府が勝つことが自明であるような戦争にはそれほど関心がなく、居留地の治安が守られていることが最大の関心事であったようだ。
一方フランスは、薩長を裏で支援してきたイギリスに対抗してこれまで一貫して徳川幕府を支援し、そうすることで対日貿易の拡大を図ろうとしてきたのだが、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が大敗したためにその目論見が大きく崩れてしまった。もし幕府が敗れることになれば、フランスの対日貿易は激減することになる。フランス公使のロッシュは、そうなっては困る立場にいたのだ。
鳥羽伏見の敗戦の後、フランス人が相次いで日本人に襲われているのだが、その事件が外国勢力を巻き込む内戦に発展する可能性はなかったのか。一般の歴史書には触れられることの少ない事件を振り返っておこう。
最初の事件は、慶応4年1月11日(旧暦)に起きた神戸事件である。
1月3日(旧暦)に鳥羽伏見の戦いが始まり、徳川方の尼崎藩を牽制するために、明治新政府は備前藩に摂津西宮の警護を命じていた。
【滝善三郎切腹の図】
Wikipediaの解説によると神戸事件とは、
「神戸三宮神社前において備前藩(現・岡山県)兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させ、銃撃戦に発展し、居留地予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた事件である。備前事件とも呼ばれる。明治政府初の外交問題となった。
この事件により、一時、外国軍が神戸中心部を占拠するに至るなどの動きにまで発展したが、その際に問題を起こした隊の責任者であった滝善三郎が切腹する事で一応の解決を見た」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6
簡単にまとめればそうなるのだが、この事件直後の諸外国の怒りは尋常のものではなかった。徳富蘇峰の『近世日本国民史 第67冊』に彼らが提出した威嚇的な文章が引用されているが、この事件の対応次第では日本は諸外国の敵とみなし報復措置をとると宣言されている。
“You must immediately come forward and explain this matter. If full reparation be not given, it will be assumed that you are the enemy of foreign nation, who will take measure to punish the outrage.”
“It must be borne in mind that this matter will then concern not only the Bizen clan, not may also cause grave trouble to the whole of Japan.”
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139485/132
そして神戸に領事館を持つ列強諸国は、同日中に、居留地(外国人居留地)防衛の名目をもって神戸中心部を軍事占拠し、兵庫港に停泊する日本船舶を拿捕したのである。
この時点では、諸外国に対して徳川幕府から明治政府への政権移譲を宣言していなかったので、朝廷は1月15日(旧暦)に急遽幕府から新政府への政権移譲を表明したのだが、諸外国は在留外国人の身柄の安全保障と日本側責任者の厳重処罰を要求したという。
Wikipediaには、「この問題の行方によっては薩英戦争同様の事態に進展する可能性もあり、さらに神戸が香港の九龍や上海の様に理不尽な植民地支配下に置かれる事態も起こり得たことから、滝善三郎の犠牲によって危機回避がなされた」と解説されているが、先ほど英語で引用した文章を読めば、おおげさな話ではないことが理解できる。
この事件は鳥羽伏見の戦いで幕府軍がわずか4日で惨敗した直後に起こったのだが、これまでイギリスに対抗して幕府を支援してきたフランス公使のロッシュは失意のどん底にあり、諸外国の中で新政府との交渉をリードしたのはイギリス公使のパークスだったようだ。
しかしながら、フランスがイギリスと同一歩調で動いてもチャンスは生まれない。対日貿易を拡大するためにはやはり幕府と組んで新政府と対抗するしかない。
そう考えてロッシュは神戸事件から1週間後の1月18日(旧暦)に慶喜に謁見を求めて、「此のまま拱手して敵の制裁を受け給わんこと、如何にも残念なり。かつは御祖先に対しても、御申しわけあるまじ。わが仏国は奮って一臂の力を貸しまいらすべければ、是非に恢復を図らせらるべし」と、フランス軍が新政府軍と共に戦う力になることを提案したのだが、慶喜は「天皇に向かっては弓を引くことはあってはならない」と述べ、ロッシュの提案を断っている。
【堺事件, ルモンド・イリュストレ紙挿絵(1868)】
そして2月15日(旧暦)にまたフランス人が犠牲になる事件が起きた。
フランス海軍のコルベット艦デュプレクスが堺港に入り、士官以下数十名のフランス水兵が上陸し市内を遊びまわり近隣の苦情が出たことから、土佐藩兵は仏水兵を捕縛しようとしたが逃げられたために咄嗟に発砲し、そのために11名の仏水兵が死亡してしまったのである。(堺事件)
当然のことながら、フランス公使のロッシュはこの事件に激怒した。
【ロッシュ】
Wikipediaの解説がわかりやすい。
「ロッシュは、…2月19日、在坂各国公使と話し合い、下手人斬刑・陳謝・賠償などの5箇条からなる抗議書を日本側に提示した。当時、各国公使と軍艦は神戸事件との絡みで和泉国・摂津国の間にあった。一方、明治政府の主力軍は戊辰戦争のため関東に下向するなどしており、一旦戦端が開かれれば敗北は自明の理であった。明治政府は憂慮し、英公使パークスに調停を求めたが失敗。2月22日、明治政府はやむなく賠償金15万ドルの支払いと発砲した者の処刑などすべての主張を飲んだ。これは、結局、当時の国力の差は歴然としており、この状況下、この(日本側としては)無念極まりない要求も受け入れざるを得なかったものとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
15万ドルといっても、できたばかりの明治新政府にそんな大金を支払う余裕があるわけではなかったのだが、昭和6年出版の『摘要堺市史』によると市民や酒造組合等が募金を献じてその金を工面したという。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1212616/71
新政府はフランスの要求を全て飲んで、2月23日に堺の妙国寺で土佐藩士20名の切腹が行なわれることとなったのだが、切腹の場で藩士たちは自らの腸を掴み出して、居並ぶフランス水兵を大喝したという。
当時イギリス公使館の二等書記官であったアルジャーノン・ミットフォードは『英国外交官の見た幕末維新』のなかで、こう記している。
「最初の罪人は力いっぱい短剣で腹を突き刺したので、はらわたがはみ出した。彼はそれを手につかんで掲げ、神の国の聖なる土地をけがした忌むべき外国人に対する憎悪と復讐の歌を歌い始め、その恐ろしい歌は彼が死ぬまで続いた。次の者も彼の例にならい、ぞっとするような場面が続く中を、十一人目の処刑が終わったところで―――これは殺されたフランス人の数であったが―――フランス人たちは耐えきれなくなって、デュ・プチ・トゥアール艦長が残り9名を助命するように頼んだ。彼はこの場面を私に説明してくれたが、それは血も凍るような恐ろしさであった。彼はたいへん勇敢な男であったが、そのことを考えるだけで気分が悪くなり、その話を私に語る時、彼の声はたどたどしく震えていた。」(講談社学術文庫『英国外交官の見た幕末維新』p.153-154)
フランス人たちはあまりに壮烈な土佐藩士の割腹に目も当てられなくなり、その場で9人の助命を申し入れたという。そして翌24日に外国事務局総督山階宮晃親王がロッシュを訪ねて堺事件についての明治天皇からの謝意を伝え、ロッシュは9名の助命を公式に了承した。又ロッシュは宮中への招待を受けて30日に御所に参内し、天皇からの謝意をうけてこの事件は解決したのである。
このように、フランスが挑発するつもりで厳しい要求をしても新政府はその要求を飲み、軍事行動を起こす口実を与えなかったし、慶喜も戦意が無かった。
幕府を援けて対日貿易を拡大するロッシュの対日政策は完全な失敗に終わったために、フランス本国においてこれまでの佐幕派支援政策が全面的に見直され、ロッシュは公使を罷免されて、5月4日にはわが国を離れて帰国の途についている。
ところがロッシュが徳川幕府を支援するために送り込んだフランス人軍事顧問団の一部がわが国に残り、フランス軍籍を離脱して戊辰戦争に参加し旧幕府軍とともに戦っている。
【榎本武揚】
以前このブログで書いたことがあるが、新政府は5月に徳川家に対する処分として、駿河、遠江70万石への減封を決定した。それまでは800万石であったので、これでは徳川家の膨大な家臣団を養うことは不可能だ。多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させようとした。
【ジュール・ブリュネ】
フランス人軍事顧問団のメンバーは日本を離れるようにとの勅命が出ていたのだが、ジュール・ブリュネ大尉以下5名は、軍籍を捨てて榎本武揚や彼らが指導した伝習隊のメンバーらと共に新政府軍と戦う道を選んだのである。
Wikipediaによると、彼らは「イタリア公使館での仮装舞踏会の夜に侍の扮装のまま脱走し、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に合流」し、榎本武揚を総裁とする「蝦夷共和国」の創設を支援したという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%8D
旧幕府軍は明治元年(1868)12月15日には蝦夷地を平定したものの軍資金は乏しく、翌年春から本格化する新政府軍の進軍に押されて、明治2年5月18日(新暦1869年6月27日)に土方歳三は戦死し、榎本武揚らは新政府軍に降伏して戊辰戦争は終りを告げた。ジュール・ブリュネらフランス人兵士は五稜郭陥落前に碇泊中のフランス船に逃れたようだ。
その後ブリュネは6月に帰国し、軍に復帰が認められたのち普仏戦争などで活躍し1898年にはフランス陸軍参謀総長にまで登りつめたという。
【陸軍大臣時のシャルル・シャノワーヌ】
また、軍事顧問団の隊長であったシャルル・シャノワーヌは、ブリュネのように旧幕府軍と共に戦う道を選ばなかったが、フランス帰国後は陸軍大将まで昇進し、1898年にはアンリ・ブルッソン内閣の陸軍大臣に就任している。
ロッシュが徳川幕府の軍事力強化のためにフランス陸軍の超一級の人物を送り込んだことは紛れもない事実である。その後この二人は日清戦争においてわが国に貢献したことが認められ、明治政府からシャノワーヌに勲一等旭日重光章、ブリュネに勲二等旭日重光章が授与されたことは記憶に留めておきたいところである。
慶喜が幕府を守るために新政府軍と戦う意志を最後まで持たなかったことは、ロッシュにとっては想定外のことであったろう。彼がこれまで推進してきた対日戦略が大失敗に終わり、フランス公使を罷免されたロッシュは、帰国後外交官を辞して58歳の若さで引退したという。
そして1901年6月23日、ボルドーにおいて91歳の長寿で没したのだそうだ。
**************************************************************
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
↓ ↓
【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。
フランスの指導により近代的陸軍を整えながら徳川慶喜はなぜ大政奉還したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-489.html
明治維新と武士の没落
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-361.html
明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-362.html
江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-363.html
静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-365.html
徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-367.html
徳富蘇峰の『近世日本国民史 第68冊』に、パークスと直接交渉した木梨精一郎の話(『維新戦役実座談』)の一節が引用されているので紹介したい。
【木梨精一郎】
「その時にパークスが言うには、今日の政府は徳川にある。王政維新になったと言っても、いまだ外国公使へ通報もなし。私はどこまでも前条約を以て、徳川政府を政府と見ている。
なるほど内部を見れば、天子朝廷の命令というものは重きものなれども、条約上に於いて、今徳川氏の外国奉行の手を経てでなければ承知されぬというのは、本国に報知することが出来ぬ。すなわち条約面によって、今ここへ兵を多く繰り込めば、自然フランスの一大隊、オランダの二大隊、あるいは衝突を起こすかも知れぬからという。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139500/188
そこで木梨は「徳川幕府の政令は朝廷に奉還して、外国奉行というものは存在しても名前だけで実体はない」と答えたところ、パークスは「今の朝廷から、表方ご通知があったなら、私どもの方も、陸へ上げた兵を艦へ乗せ、国へ返しもしようが、その命のあらざる間は砲撃などのことは、暫らく見合わせてくれ」と答えたという。
このパークスの言葉は一般の歴史書などではほとんど無視されているのだが、非常に重要なことを述べている。
もしある国で革命政権が樹立された場合に、前政権による対外債務や条約がそのまま自動的に引き継がれるというわけではない。
欧米諸国がわが国と条約を結んだ相手は徳川幕府であり、その徳川幕府が朝廷に政権を返上したとはいえ内戦状態に突入してしまって、現段階ではどちらが勝利するかはわからない。イギリスとしては、内戦が終結して書面上でもその権利の承継の手続きがなされるまでは、従来の条約の相手方である幕府を重視することは当然の事なのだ。
そもそも朝廷には外交問題を仕切れる人材は皆無であった。したがって、徳川慶喜が大政奉還を奏上しそれが決定した8日後の慶応3年10月23日に、朝廷は外交に関しては引き続き幕府が中心となって行うことを認める通知を出している。そのため11月19日の江戸開市と新潟開港の延期通告や28日のロシアとの改税約書締結は徳川幕府が行なっているのである。
パークスが、木梨に対して「条約上に於いて、今徳川氏の外国奉行の手を経てでなければ承知されぬ」と言っているのはそのことを意味するが、普通に考えれば、わが国で政権が朝廷に移ったにもかかわらず外交だけは今まで通り徳川幕府というのは、欧米諸国にとっては理解し難いことでであったと思われる。だからパークスは「(このことは)本国に報告することは出来ぬ」と述べたのであろう。
外国人の立場で考えればわかる事なのだが、日本でクーデターが起こり、これから新政府軍が幕府勢力との間で本格的な内戦に発展してもおかしくない情勢になってきたのであれば、彼らにとっての最大の関心事は、幕府の瓦解によって無政府状態に陥っている中で、多数の外国人居留民がいる横浜などの治安をいかに確保するかであったはずだ。
萩原延壽氏の『遠い崖―――アーネスト・サトウ日記抄 7 江戸開城』に、イギリス公使パークスが本国のスタンレー外相に宛てた手紙が引用されている。手紙日付の西暦1868年4月9日は、和暦(陰暦)慶応4年3月17日で、西郷と勝が江戸無血開城の談判を行なった3日後のことである。
パークスはこう記している。
「横浜に上陸してみると、ミカドの軍隊の先遣部隊が、東海道と呼ばれる公道の、江戸まで10マイル(約16km)ないし15マイルの地点に進出していた。そして、この部隊からはぐれたかなりの数の武装した兵士が、横浜に入り込んできた。」
「私が帰還する2日前、ロコック氏(公使館書記官)はサンキー陸軍大佐(第9連隊)に要請して、この町に通じる主要な入口である橋に衛兵を配置したが、これは賢明な措置であった。此の武力の誇示は、2つの目的にかなうものであった。ひとつは、大君(たいくん)*政府の役人と警吏に対して、それぞれの部署にふみとどまる勇気を与え、かくして恐慌状態の下で日本人が掠奪と混乱に襲われるのを防止することであり、もうひとつは、ミカドの軍隊の乱雑な、規律が整然としているとはいいがたい兵士に対して、この町が大君政府以外の兵(外国軍隊)によっても防衛されていることを明示することであった。」
「4月1日(陰暦3月9日)、神奈川奉行が訪ねてきて、この町の行政をミカドの政府が任命した役人に引き渡す用意ができているが、まだそのような役人が到着したという通知を受け取っていないと語った。さらに奉行は、町に入り込んでいる武装した兵士を取締る力が彼にはないことを認め、且つこの町の外国人と日本人に対する彼らの態度には遺憾な点があると述べた。」(『遠い崖 7 江戸開城』p.8-9)
*大君(たいくん:江戸時代に対外的に用いられた征夷大将軍の外交呼称。ここでは徳川慶喜を指す。「大君政府」は徳川幕府。)
横浜の治安については、大政奉還されたのであれば幕府から朝廷側に引き継がれていなければならないところだが当時はまだ実施されておらず、訪ねてきた神奈川奉行はこれから大挙してやってくる新政府の東征軍から横浜の外国人や日本人を守る力がないと述べたという。ならば、自力で横浜を守るしかないではないか。
諸外国の代表は対応策を協議して、新政権が横浜の治安の維持にあたるまでの間、各国の軍隊を出動させて横浜の要衝を占拠し、幕府軍と協力して東征軍兵士の横浜立入を阻止することを申し合わせ、4月3日(陰暦3月11日)からそれを実施したという。
パークスが横浜の自国居留民を守ることに動き回っていた矢先に、東征軍参謀・木梨精一郎と渡辺清がのこのこと現われて、これから内戦が始まるので傷病人の面倒を見て欲しいと依頼にきたことになるのだが、このような経緯を知るとパークスが激怒した理由が見えてくる。
【イギリス公使 パークス】
またパークスは、同じ4月9日付(陰暦3月17日付)でハモンド外務次官あての手紙にこう記している。
「江戸のもめごとに対処するのに手遅れでなかったことを知って、ほっとしている。しかし大君は抵抗の意思を放棄しているので、このもめごとも、たぶん1ヶ月で解決するであろう。そして、戦闘は相互に憎み合っている大名の家来たちや、この国に多大の害毒を流している『浪人』たちのあいだの、不正規な小ぜりあいに限られるであろう。われわれは、横浜の安全を確保することが出来たと思う。」(同上書 p.21)
このように、パークスは横浜を守れたことに安堵するとともに、内戦はあと1ヶ月で終るだろうと予想したのだが、実際には戊辰戦争はあと半年も続いたのである。パークスの考え方は、概ねイギリス人の代表的な考え方であり、彼らにとってはこれからしばらく小競り合いが続こうが、慶喜に戦意がなくて新政府が勝つことが自明であるような戦争にはそれほど関心がなく、居留地の治安が守られていることが最大の関心事であったようだ。
一方フランスは、薩長を裏で支援してきたイギリスに対抗してこれまで一貫して徳川幕府を支援し、そうすることで対日貿易の拡大を図ろうとしてきたのだが、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が大敗したためにその目論見が大きく崩れてしまった。もし幕府が敗れることになれば、フランスの対日貿易は激減することになる。フランス公使のロッシュは、そうなっては困る立場にいたのだ。
鳥羽伏見の敗戦の後、フランス人が相次いで日本人に襲われているのだが、その事件が外国勢力を巻き込む内戦に発展する可能性はなかったのか。一般の歴史書には触れられることの少ない事件を振り返っておこう。
最初の事件は、慶応4年1月11日(旧暦)に起きた神戸事件である。
1月3日(旧暦)に鳥羽伏見の戦いが始まり、徳川方の尼崎藩を牽制するために、明治新政府は備前藩に摂津西宮の警護を命じていた。
【滝善三郎切腹の図】
Wikipediaの解説によると神戸事件とは、
「神戸三宮神社前において備前藩(現・岡山県)兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させ、銃撃戦に発展し、居留地予定地を検分中の欧米諸国公使らに水平射撃を加えた事件である。備前事件とも呼ばれる。明治政府初の外交問題となった。
この事件により、一時、外国軍が神戸中心部を占拠するに至るなどの動きにまで発展したが、その際に問題を起こした隊の責任者であった滝善三郎が切腹する事で一応の解決を見た」とある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6
簡単にまとめればそうなるのだが、この事件直後の諸外国の怒りは尋常のものではなかった。徳富蘇峰の『近世日本国民史 第67冊』に彼らが提出した威嚇的な文章が引用されているが、この事件の対応次第では日本は諸外国の敵とみなし報復措置をとると宣言されている。
“You must immediately come forward and explain this matter. If full reparation be not given, it will be assumed that you are the enemy of foreign nation, who will take measure to punish the outrage.”
“It must be borne in mind that this matter will then concern not only the Bizen clan, not may also cause grave trouble to the whole of Japan.”
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1139485/132
そして神戸に領事館を持つ列強諸国は、同日中に、居留地(外国人居留地)防衛の名目をもって神戸中心部を軍事占拠し、兵庫港に停泊する日本船舶を拿捕したのである。
この時点では、諸外国に対して徳川幕府から明治政府への政権移譲を宣言していなかったので、朝廷は1月15日(旧暦)に急遽幕府から新政府への政権移譲を表明したのだが、諸外国は在留外国人の身柄の安全保障と日本側責任者の厳重処罰を要求したという。
Wikipediaには、「この問題の行方によっては薩英戦争同様の事態に進展する可能性もあり、さらに神戸が香港の九龍や上海の様に理不尽な植民地支配下に置かれる事態も起こり得たことから、滝善三郎の犠牲によって危機回避がなされた」と解説されているが、先ほど英語で引用した文章を読めば、おおげさな話ではないことが理解できる。
この事件は鳥羽伏見の戦いで幕府軍がわずか4日で惨敗した直後に起こったのだが、これまでイギリスに対抗して幕府を支援してきたフランス公使のロッシュは失意のどん底にあり、諸外国の中で新政府との交渉をリードしたのはイギリス公使のパークスだったようだ。
しかしながら、フランスがイギリスと同一歩調で動いてもチャンスは生まれない。対日貿易を拡大するためにはやはり幕府と組んで新政府と対抗するしかない。
そう考えてロッシュは神戸事件から1週間後の1月18日(旧暦)に慶喜に謁見を求めて、「此のまま拱手して敵の制裁を受け給わんこと、如何にも残念なり。かつは御祖先に対しても、御申しわけあるまじ。わが仏国は奮って一臂の力を貸しまいらすべければ、是非に恢復を図らせらるべし」と、フランス軍が新政府軍と共に戦う力になることを提案したのだが、慶喜は「天皇に向かっては弓を引くことはあってはならない」と述べ、ロッシュの提案を断っている。
【堺事件, ルモンド・イリュストレ紙挿絵(1868)】
そして2月15日(旧暦)にまたフランス人が犠牲になる事件が起きた。
フランス海軍のコルベット艦デュプレクスが堺港に入り、士官以下数十名のフランス水兵が上陸し市内を遊びまわり近隣の苦情が出たことから、土佐藩兵は仏水兵を捕縛しようとしたが逃げられたために咄嗟に発砲し、そのために11名の仏水兵が死亡してしまったのである。(堺事件)
当然のことながら、フランス公使のロッシュはこの事件に激怒した。
【ロッシュ】
Wikipediaの解説がわかりやすい。
「ロッシュは、…2月19日、在坂各国公使と話し合い、下手人斬刑・陳謝・賠償などの5箇条からなる抗議書を日本側に提示した。当時、各国公使と軍艦は神戸事件との絡みで和泉国・摂津国の間にあった。一方、明治政府の主力軍は戊辰戦争のため関東に下向するなどしており、一旦戦端が開かれれば敗北は自明の理であった。明治政府は憂慮し、英公使パークスに調停を求めたが失敗。2月22日、明治政府はやむなく賠償金15万ドルの支払いと発砲した者の処刑などすべての主張を飲んだ。これは、結局、当時の国力の差は歴然としており、この状況下、この(日本側としては)無念極まりない要求も受け入れざるを得なかったものとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
15万ドルといっても、できたばかりの明治新政府にそんな大金を支払う余裕があるわけではなかったのだが、昭和6年出版の『摘要堺市史』によると市民や酒造組合等が募金を献じてその金を工面したという。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1212616/71
新政府はフランスの要求を全て飲んで、2月23日に堺の妙国寺で土佐藩士20名の切腹が行なわれることとなったのだが、切腹の場で藩士たちは自らの腸を掴み出して、居並ぶフランス水兵を大喝したという。
当時イギリス公使館の二等書記官であったアルジャーノン・ミットフォードは『英国外交官の見た幕末維新』のなかで、こう記している。
「最初の罪人は力いっぱい短剣で腹を突き刺したので、はらわたがはみ出した。彼はそれを手につかんで掲げ、神の国の聖なる土地をけがした忌むべき外国人に対する憎悪と復讐の歌を歌い始め、その恐ろしい歌は彼が死ぬまで続いた。次の者も彼の例にならい、ぞっとするような場面が続く中を、十一人目の処刑が終わったところで―――これは殺されたフランス人の数であったが―――フランス人たちは耐えきれなくなって、デュ・プチ・トゥアール艦長が残り9名を助命するように頼んだ。彼はこの場面を私に説明してくれたが、それは血も凍るような恐ろしさであった。彼はたいへん勇敢な男であったが、そのことを考えるだけで気分が悪くなり、その話を私に語る時、彼の声はたどたどしく震えていた。」(講談社学術文庫『英国外交官の見た幕末維新』p.153-154)
フランス人たちはあまりに壮烈な土佐藩士の割腹に目も当てられなくなり、その場で9人の助命を申し入れたという。そして翌24日に外国事務局総督山階宮晃親王がロッシュを訪ねて堺事件についての明治天皇からの謝意を伝え、ロッシュは9名の助命を公式に了承した。又ロッシュは宮中への招待を受けて30日に御所に参内し、天皇からの謝意をうけてこの事件は解決したのである。
このように、フランスが挑発するつもりで厳しい要求をしても新政府はその要求を飲み、軍事行動を起こす口実を与えなかったし、慶喜も戦意が無かった。
幕府を援けて対日貿易を拡大するロッシュの対日政策は完全な失敗に終わったために、フランス本国においてこれまでの佐幕派支援政策が全面的に見直され、ロッシュは公使を罷免されて、5月4日にはわが国を離れて帰国の途についている。
ところがロッシュが徳川幕府を支援するために送り込んだフランス人軍事顧問団の一部がわが国に残り、フランス軍籍を離脱して戊辰戦争に参加し旧幕府軍とともに戦っている。
【榎本武揚】
以前このブログで書いたことがあるが、新政府は5月に徳川家に対する処分として、駿河、遠江70万石への減封を決定した。それまでは800万石であったので、これでは徳川家の膨大な家臣団を養うことは不可能だ。多くの幕臣が路頭に迷うことを憂いた海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させようとした。
【ジュール・ブリュネ】
フランス人軍事顧問団のメンバーは日本を離れるようにとの勅命が出ていたのだが、ジュール・ブリュネ大尉以下5名は、軍籍を捨てて榎本武揚や彼らが指導した伝習隊のメンバーらと共に新政府軍と戦う道を選んだのである。
Wikipediaによると、彼らは「イタリア公使館での仮装舞踏会の夜に侍の扮装のまま脱走し、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に合流」し、榎本武揚を総裁とする「蝦夷共和国」の創設を支援したという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%8D
旧幕府軍は明治元年(1868)12月15日には蝦夷地を平定したものの軍資金は乏しく、翌年春から本格化する新政府軍の進軍に押されて、明治2年5月18日(新暦1869年6月27日)に土方歳三は戦死し、榎本武揚らは新政府軍に降伏して戊辰戦争は終りを告げた。ジュール・ブリュネらフランス人兵士は五稜郭陥落前に碇泊中のフランス船に逃れたようだ。
その後ブリュネは6月に帰国し、軍に復帰が認められたのち普仏戦争などで活躍し1898年にはフランス陸軍参謀総長にまで登りつめたという。
【陸軍大臣時のシャルル・シャノワーヌ】
また、軍事顧問団の隊長であったシャルル・シャノワーヌは、ブリュネのように旧幕府軍と共に戦う道を選ばなかったが、フランス帰国後は陸軍大将まで昇進し、1898年にはアンリ・ブルッソン内閣の陸軍大臣に就任している。
ロッシュが徳川幕府の軍事力強化のためにフランス陸軍の超一級の人物を送り込んだことは紛れもない事実である。その後この二人は日清戦争においてわが国に貢献したことが認められ、明治政府からシャノワーヌに勲一等旭日重光章、ブリュネに勲二等旭日重光章が授与されたことは記憶に留めておきたいところである。
慶喜が幕府を守るために新政府軍と戦う意志を最後まで持たなかったことは、ロッシュにとっては想定外のことであったろう。彼がこれまで推進してきた対日戦略が大失敗に終わり、フランス公使を罷免されたロッシュは、帰国後外交官を辞して58歳の若さで引退したという。
そして1901年6月23日、ボルドーにおいて91歳の長寿で没したのだそうだ。
**************************************************************
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。よろしければ、この応援ボタンをクリックしていただくと、ランキングに反映されて大変励みになります。お手数をかけて申し訳ありません。
↓ ↓
【ご参考】このブログでこんな記事を書いてきました。良かったら覗いてみてください。
フランスの指導により近代的陸軍を整えながら徳川慶喜はなぜ大政奉還したのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-489.html
明治維新と武士の没落
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-361.html
明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-362.html
江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-363.html
静岡に移住した旧幕臣たちの悲惨な暮らし
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-365.html
徳川家旧幕臣らが士族身分を捨てて開拓した牧之原台地
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-367.html
- 関連記事
-
- 討幕の密勅、大政奉還から王政復古の大号令までの歴史を振り返る 2012/11/08
- フランスの指導により近代的陸軍を整えながら徳川慶喜はなぜ大政奉還したのか 2017/01/25
- 大政奉還のあと討幕派はいかにして王政復古に持ち込んだのか 2017/02/02
- 王政復古の大号令の出た直後に京都が戦火に巻き込まれてもおかしくなかった 2017/02/08
- 武力解決派の挑発に乗ってしまった徳川幕府 2017/02/14
- 洋服に陣羽織入り乱れる鳥羽伏見の戦い 2017/02/20
- 江戸無血開城の真相を追う 2017/02/26
- イギリスとフランスにとっての戊辰戦争 2017/03/04
- 大政奉還したあとの旧幕府勢力に薩長が内乱を仕掛けた理由 2018/01/05
- 攘夷論者が、実行できないことがわかっていながら「攘夷」を唱え続けた理由 2018/01/18
- 戊辰戦争で官軍は東北地方で乱暴狼藉を繰り返した 2018/01/25
- 仙台藩ほか東北諸藩は、なぜ「朝敵」とされた会津藩を助けるために薩長と戦ったのか 2018/02/08
- 東北諸藩は薩長の新政府を嫌い、別の国を作ろうとしたのではないか 2018/02/15
- 兵力で優位にあったはずの列藩同盟軍は、何故「白河口の戦い」で大敗したのか 2018/02/22
- 激戦となった「二本松の戦い」と、二本松少年隊のこと 2018/03/01