日本人の貯蓄、大丈夫? 将来の国債消化に影響
シニア消費増え先細りも
章司はニッセイ基礎研究所経済調査室長の斎藤太郎さん(46)を訪ねた。斎藤さんは「日本の家計貯蓄率が2013年度にマイナスに転じたとみています」と説明を始めた。
「家計貯蓄率がマイナスって、どういうこと?」。家計貯蓄率は内閣府が国内総生産(GDP)などを算出する「国民経済計算」の数字の一つだ。国全体の家計(個人)の収入から税金や社会保険料を差し引いた可処分所得のうち、消費支出を除いて、貯蓄に回される比率を指す。貯蓄率がプラスなら1年間に蓄えられるフローの貯蓄が増えていき、マイナスならだんだん減っていく。マイナスが続けば、今後の金利や株価の動向にもよるが、3月末で1630兆円に達する日本の個人金融資産が減少する可能性もある。
大まかにいえば、国全体で個人の可処分所得よりも消費支出のほうが多い状態だ。所得の伸びよりも消費の伸びのほうが大きければ、貯蓄に回すお金が減るので貯蓄率が下がる。さらに、これまでにためた貯蓄を取り崩してお金を使う人や、新たに住宅ローンなどの借金をする人が多くなれば国全体として貯蓄率がマイナスになる。「今年1~3月期に増税前の駆け込み需要で個人消費が大きく伸びたため、13年度の家計貯蓄率はマイナス0.5%になった」と斎藤さんは推計する。
日本人はかつて「消費よりも貯蓄好き」と言われ、家計貯蓄率は1980年代に18%まで上昇。その後は徐々に低下して12年度は1.0%だった。13年度にマイナスになれば、現在の統計手法でさかのぼれる80年度以降で初めて。それ以前の統計でも、マイナスは64年前の49年度が最後だ。ちなみに経済協力開発機構(OECD)の推計によると、13年(暦年)に家計貯蓄率がマイナスになるのは先進国ではデンマークだけだ。
「そんなにみんな消費しているのかな」。章司は金曜日の夕方に東京・日本橋の百貨店、高島屋へ足を運んだ。「食品売り場はかなりの混雑だし、婦人服売り場や紳士服売り場も思ったよりお客さんがいるな」。買い物に来ていた東京都内在住の60歳代の女性に聞くと「4月以降も特に買い物を減らしたという感じはありませんね」と話した。
将来の国債消化 鈍る恐れ
高島屋の広報担当者に話を聞いた。「駆け込み需要で3月の既存店売上高は前年比31.7%増と想定より大きく伸びました。その反動で4月は13.5%減に落ち込みましたが想定の範囲内。5月は6.5%減と回復しています」
さらに調べると、5月の阪急阪神百貨店は1.3%増と早くも前年を上回った。軽自動車の5月の販売台数も5.3%増となるなど、個人消費は思いのほか堅調なようだ。
章司は第一生命経済研究所の首席エコノミスト、熊野英生さん(46)を訪ねた。熊野さんは「ちょっと逆説的ですが、消費税率を引き上げたから消費が増えたのだと思います」と説明を始めた。
増税による増収分は社会保障財源になる。そのメリットは若い現役世代よりシニア層のほうが大きい。そこで「これまで将来への不安から消費をためらい、お金をため込んでいたシニア層が安心してお金を使うようになった」というのが熊野さんの見立てだ。「アベノミクスによって将来の物価上昇を予想する人が増え、早くお金を使ったほうがいいと考え始めていることも影響しています」という。
熊野さんも「13年度の家計貯蓄率はマイナス」とみる。「駆け込み需要の反動減で14年度は再びプラスになったとしても、堅調な消費が続けば15年度以降は継続的にマイナスになる可能性があります」。長期的には高齢化が進み、年金以外に収入の無い人が増えて、これまでにためこんだ貯蓄をどんどん取り崩すようになるからだ。「高齢化が進めばマイナスになることはわかっていましたが、想定していたよりもかなり早くその時が来たという感じですね」
「家計貯蓄率がマイナスになるとどんな影響があるのでしょう」。章司は慶応義塾大学経済学部教授の土居丈朗さん(43)に質問をぶつけた。土居さんは「中長期で考えると、財政への影響が無視できません」と解説を始めた。
日本はこれまで、個人と企業が貯蓄を増やし、その貯蓄を元手に金融機関が国債を買う資金循環が続いてきた。増え続ける国の借金を国内民間部門の貯蓄で賄ってきた。
「個人の貯蓄が減り始めれば、国債を国内だけで消化できず、海外の投資家に買ってもらう必要が出てきます。巨額の公的債務を抱える日本の国債を、今のような超低金利では海外投資家は買ってくれないでしょう。今のような財政運営は持続不可能になりそうです」と土居さんは警鐘を鳴らしていた。
「消費が増えて日本経済は意外と堅調なようですが、個人の貯蓄が減ることには課題もあるようです」。章司が事務所に戻って報告すると、所長がうなずいた。「我が家の貯蓄も減る一方なんだ。もっとしっかり働いて、事務所の稼ぎを増やしてくれよな」
企業の貯蓄は年々増加
民間部門の貯蓄のうち、家計の貯蓄が長期的には減少していく一方、企業の貯蓄はどうなるのだろうか。
1990年代半ばまでは日本全体としてみると、企業は基本的に資金不足で、貯蓄が増えるようなことはなかった。もともと、株主から集めた資金や銀行からの借入金を使って効率的に投資することで、利益を上げ株主に還元するのが企業本来の姿。個人の貯蓄が銀行などの金融機関を通じて企業の借金になるのは自然なことだった。
ところがバブル崩壊後、民間企業は投資を減らし、借入金を減らし、それでも余った資金は企業内にため込むようになった。これは企業の貯蓄が増えていくことを意味する。2008年の世界的な金融危機以後、企業はますます貯蓄を増やすようになり、金融機関も自己資本の充実などのために貯蓄を増やした。企業の貯蓄超過額は年間20兆円以上に達する。
今後、景気回復や政府の成長戦略の効果で民間設備投資が増えれば、企業のカネ余りが解消される可能性はある。だが「当面、企業の貯蓄が大きく減ることはないだろう」(ニッセイ基礎研の斎藤太郎氏)との見方も多い。少子高齢化で国内市場の縮小が避けられない以上、有望な投資先を見つけるのが難しいためだ。中国経済など、海外のリスク要因も日本企業を慎重にさせている。
(編集委員 宮田佳幸)
[日本経済新聞朝刊2014年6月24日付]