人間じゃない
『コーヒーの人 仕事と人生』(大坊勝次・田中勝幸・國友栄一・濱田大介・松島大介+加藤健宏:著/numabooks:編/フィルムアート社:刊)は、《コーヒーに情熱を注ぐ6人のプロフェッショナルの本質にせまるロング・インタビュー》と惹いている。今般は、この本を読んだ人間にインタビューを試みた。それにしても、本当に人間なのか?
─── 映画『ア・フィルム・アバウト・コーヒー』をご覧になられたそうですが、いかがでしたか?
いかがわしい、と思いました。ブランドン・ローパー監督はコーヒーが好きだからこそ、あの映像作品を作ったのでしょうし、フィルムの中で熱く語っていたコーヒー業界の人たちも言いたい放題って感じ。私は二つほど引っかかりました。一つは、主張されている内容がいかにも新自由主義的で、自由競争と資源や富の再配分とを利己的に使い分けて善人ぶっていること。もう一つは、ドキュメンタリー映画としての質の低さ。ポピュリズムこそドキュメンタリー映画が避けるべき要素だろうに、『ア・フィルム・アバウト・コーヒー』はプロパガンダそのものですよ。だから、いかがわしいのです。まあ、言いたいことは言わせておけばよいのでしょうが、映画で訴えられているコーヒーの現状に対する認識は間違っていると思うし、私には出演者たちが主張するコーヒー世界を到底受け入れられません。私は、断固拒否します。あ、あの映画で唯一の救いは、エンドロールの中でサイフォンを突沸させてビックリするジェームス・フリーマンさん、あれだけですね。あれこそが、ジョージ・ハウェルさんが言うところの「究極の一杯」なんじゃないですか?(笑)
─── では、『ア・フィルム・アバウト・コーヒー』から派生して出版された本『コーヒーの人 仕事と人生』は、いかがでしたか?
いかがわしい、と思いました。企画者で編者の内沼晋太郎さんはコーヒー店が好きだからこそ、あの本を作ったのでしょうし、本の中で熱く語っていたコーヒー業界の人たちも言いたい放題って感じ。まあ、言いたいことは言わせておけばよいのでしょうが、「とにかく自分はこうしたい」とか「お客さんにこう言われたい」とか重みがない話しっぷりが多いので、私にはコーヒー店主たちが主張するコーヒー世界を到底受け入れられません。世界と言えば、内沼さんは『コーヒーの人』の「あとがき」で、《世界が注目する東京のコーヒーとは、いったい何なのか》という問いかけで本を作った旨を語っていますが、この前提自体がおかしいんですけどね。東京のコーヒーを注目する「世界」って誰のことですか? まさか、フリーマンさんとローパーさんの二人で「世界」…じゃないでしょうね?(笑) 内沼さんは、既存のコーヒー本には《「店」を巡るためのガイドはたくさんあるだろうけれど、「人」はたいてい、ちらっと顔を出すだけ》だから、《それぞれのコーヒーにかける仕事観や人生観をじっくり聴いていくしかないだろう、と考えました》とも言っていますよね。でも、そういうところを聴くというか、尋ねて言わせちゃダメなんですよ。語っているコーヒー店主たちは、コーヒー屋であって話芸の人じゃないんですから。何かにかける仕事観や人生観を描き出したければ、対象となる「人」をじっくり観察して、その「人」が喋ってくる言葉の裏を読み解いて、それを「ルポルタージュ」として成立させないと。意図は壮大なのに、仕立てが安直なんですよ。だから、いかがわしいのです。
─── 『コーヒーの人 仕事と人生』からは、何も得るところがなかったのでしょうか?
いや、そんなことはありません。だって、あの本には大坊勝次さんの語りが収められているから。まあ、大坊さんの語りがなければ、そもそも本を買っていないか、買って読んでももう捨てているでしょうけどね(笑)。私は、大坊さんと互いに「この野郎、何ていう珈琲をつくるんだ」という腕比べをしていくつもりですから、『コーヒーの人』は相手の出方を探る貴重な資料として有益ですよ。あ、あと田中勝幸さんの騙りも悪くはなかった。本の中で田中さんは、《僕は人間じゃないんですよ。僕は動物になりたいんです》と騙っている。『コーヒーの人』っていう本なのに、最初に登場する田中さんが「人」じゃないって言っちゃう、ここがこの本で最高に笑える唯一の救いですね。《僕のやっていることを好きな人だけがここに来て、(略)それ以外の人たちには、僕は牙を剥きます》とも田中さんは騙るでしょ。人間として最低の発言だけれども、本人が《人間じゃない》って主張しているんだから、私もそれ以上何も言えない(笑)。つまり、『コーヒーの人』という本自体はグダグダのインタビュー集であって、コーヒー屋の素顔を描く「ルポルタージュ」としては成立していないわけだけれども、そこに向けてですら《牙を剥きます》という読み方をした場合には、何か得るものがあるかもしれない。駄本にだって駄本の価値がある、と私は思っています。それは、『ア・フィルム・アバウト・コーヒー』にも登場していたスペシャルティコーヒーやサードウェイブコーヒーの信奉者たち、コモディティコーヒーやコマーシャルコーヒーを小馬鹿回しにする人たちには、理解できないところでしょう。彼らこそが、《人間じゃない》存在なのです。コーヒーも映画も本も、欺瞞や偽善を自覚できないものが最低なわけですが、それを傍から最低と知られるべき価値は残っているのです。
(インタビュアー:鳥目散帰山人/インタビュイー:鳥目散帰山人)
─── 映画『ア・フィルム・アバウト・コーヒー』をご覧になられたそうですが、いかがでしたか?
いかがわしい、と思いました。ブランドン・ローパー監督はコーヒーが好きだからこそ、あの映像作品を作ったのでしょうし、フィルムの中で熱く語っていたコーヒー業界の人たちも言いたい放題って感じ。私は二つほど引っかかりました。一つは、主張されている内容がいかにも新自由主義的で、自由競争と資源や富の再配分とを利己的に使い分けて善人ぶっていること。もう一つは、ドキュメンタリー映画としての質の低さ。ポピュリズムこそドキュメンタリー映画が避けるべき要素だろうに、『ア・フィルム・アバウト・コーヒー』はプロパガンダそのものですよ。だから、いかがわしいのです。まあ、言いたいことは言わせておけばよいのでしょうが、映画で訴えられているコーヒーの現状に対する認識は間違っていると思うし、私には出演者たちが主張するコーヒー世界を到底受け入れられません。私は、断固拒否します。あ、あの映画で唯一の救いは、エンドロールの中でサイフォンを突沸させてビックリするジェームス・フリーマンさん、あれだけですね。あれこそが、ジョージ・ハウェルさんが言うところの「究極の一杯」なんじゃないですか?(笑)
─── では、『ア・フィルム・アバウト・コーヒー』から派生して出版された本『コーヒーの人 仕事と人生』は、いかがでしたか?
いかがわしい、と思いました。企画者で編者の内沼晋太郎さんはコーヒー店が好きだからこそ、あの本を作ったのでしょうし、本の中で熱く語っていたコーヒー業界の人たちも言いたい放題って感じ。まあ、言いたいことは言わせておけばよいのでしょうが、「とにかく自分はこうしたい」とか「お客さんにこう言われたい」とか重みがない話しっぷりが多いので、私にはコーヒー店主たちが主張するコーヒー世界を到底受け入れられません。世界と言えば、内沼さんは『コーヒーの人』の「あとがき」で、《世界が注目する東京のコーヒーとは、いったい何なのか》という問いかけで本を作った旨を語っていますが、この前提自体がおかしいんですけどね。東京のコーヒーを注目する「世界」って誰のことですか? まさか、フリーマンさんとローパーさんの二人で「世界」…じゃないでしょうね?(笑) 内沼さんは、既存のコーヒー本には《「店」を巡るためのガイドはたくさんあるだろうけれど、「人」はたいてい、ちらっと顔を出すだけ》だから、《それぞれのコーヒーにかける仕事観や人生観をじっくり聴いていくしかないだろう、と考えました》とも言っていますよね。でも、そういうところを聴くというか、尋ねて言わせちゃダメなんですよ。語っているコーヒー店主たちは、コーヒー屋であって話芸の人じゃないんですから。何かにかける仕事観や人生観を描き出したければ、対象となる「人」をじっくり観察して、その「人」が喋ってくる言葉の裏を読み解いて、それを「ルポルタージュ」として成立させないと。意図は壮大なのに、仕立てが安直なんですよ。だから、いかがわしいのです。
─── 『コーヒーの人 仕事と人生』からは、何も得るところがなかったのでしょうか?
いや、そんなことはありません。だって、あの本には大坊勝次さんの語りが収められているから。まあ、大坊さんの語りがなければ、そもそも本を買っていないか、買って読んでももう捨てているでしょうけどね(笑)。私は、大坊さんと互いに「この野郎、何ていう珈琲をつくるんだ」という腕比べをしていくつもりですから、『コーヒーの人』は相手の出方を探る貴重な資料として有益ですよ。あ、あと田中勝幸さんの騙りも悪くはなかった。本の中で田中さんは、《僕は人間じゃないんですよ。僕は動物になりたいんです》と騙っている。『コーヒーの人』っていう本なのに、最初に登場する田中さんが「人」じゃないって言っちゃう、ここがこの本で最高に笑える唯一の救いですね。《僕のやっていることを好きな人だけがここに来て、(略)それ以外の人たちには、僕は牙を剥きます》とも田中さんは騙るでしょ。人間として最低の発言だけれども、本人が《人間じゃない》って主張しているんだから、私もそれ以上何も言えない(笑)。つまり、『コーヒーの人』という本自体はグダグダのインタビュー集であって、コーヒー屋の素顔を描く「ルポルタージュ」としては成立していないわけだけれども、そこに向けてですら《牙を剥きます》という読み方をした場合には、何か得るものがあるかもしれない。駄本にだって駄本の価値がある、と私は思っています。それは、『ア・フィルム・アバウト・コーヒー』にも登場していたスペシャルティコーヒーやサードウェイブコーヒーの信奉者たち、コモディティコーヒーやコマーシャルコーヒーを小馬鹿回しにする人たちには、理解できないところでしょう。彼らこそが、《人間じゃない》存在なのです。コーヒーも映画も本も、欺瞞や偽善を自覚できないものが最低なわけですが、それを傍から最低と知られるべき価値は残っているのです。
(インタビュアー:鳥目散帰山人/インタビュイー:鳥目散帰山人)
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