忘れ草をもう一度
♪ ふいに聞いた 噂によれば 町はそろそろ 春のようです
君のいない 広い荒野は いつも 今でも 冬というのに
君の町は 晴れていますか 花の種は 育ちましたか
僕はここで 生きてゆきます 未練なジジイになりました
忘れ草を もう一度 そだててよ あの人の思い出を 抱きしめて
忘れ草を もう一度 はこんでよ あの人の 夢にとどけ ♪
あんた、「運び屋」したら人生終わりやで!(税関ポスター)…うるせえ! このクソアマ! デイリリー(忘れ草)を愛でた「運び屋」レオ・シャープまでも《あんた》呼ばわりするならば、テメェら許されざる者だ。ハリー・キャラハンならば‘Go ahead, Make my day.’と言って銃を向けるだろう。だが、オレは黙ってクソアマのツラに穴を空けてから家に戻って赤ん坊のように眠るね。…何ぃ? アメリカ白人の夢想を描いた映画『グラン・トリノ』(2008)を最後に俳優引退の宣言をしたクリント・イーストウッドが、主演(兼製作・監督)で戻ってきたぁ? …あんた、「運び屋」したら人生終わりやで!
『運び屋』(The Mule) 観賞後記
《アメリカの「歴史」をイーストウッドはかつて一度だって「終わり」から見ようとしなかったことを、私は改めてそこに痛感した。そうか、うっかりしていたと思った。腰の座った、揺るぎない「思考」がそこにあったと言ってもよい。それが生きている者だけとの交通によるものだったのかが危うかった。この映画の速度を呼吸するに必要なものを、「生」の文脈において求めるには、あまりに映画の被っていた空気が緩慢だったからである。そしてそれが緩慢だと感じるのは、いわば私が「映画」を忘れることに慣れてしまっているからである。「映画」を忘れることが、あたかも「現在」の必然であるかのような私たちの意識を、イーストウッドの新作が静かに振り返らせていると言い換えてもよい。忘れることを知るのは思いだすからである。》 (稲川方人 「ハデスの国の群像」/『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン No.24 映画の21世紀Ⅷ クリント・イーストウッドの肖像』 勁草書房 1998)
クリント・イーストウッドの監督作品『真夜中のサバナ』(1997)を観た稲川方人の評は、そのまま今般に『運び屋』を観た私の評とする。『運び屋』(2018)に関するインタビューで「学ぶことに年齢は関係ない」と、『グラン・トリノ』の時と同じことを言っているイーストウッド。少なくとも10年、いや20年、いやいや半世紀ほど前から、クリント・イーストウッドは《揺るぎない「思考」》の個人主義者として変わっていない。『真昼の死闘』(1970)の舞台であるメキシコと『グラン・トリノ』の舞台であるデトロイトの間を行ったり来たりした『運び屋』のアール・ストーン(イーストウッド:演)のように、イーストウッドは年齢に関係なく全く学んでいない。そして、「クリント・イーストウッド、ジジイなのにスゲェ」と《あたかも「現在」の必然であるかのような私たちの意識》もまた、年齢に関係なく《うっかりして》全く学んでいないのである。それを《イーストウッドの新作が静かに振り返らせている》、何せ“The Mule”(=頑固者)だから。映画『運び屋』は、‘Waffle House’でアール・ストーンとコリン・ベイツ(ブラッドリー・クーパー:演)が朝食を摂りながら語り合うシーンが好かった。《忘れることを知るのは思いだすからである》、何せデイリリー(忘れ草)を愛でた「運び屋」だから。
♪ 春や夏や秋が あるのは しあわせ行きの ヤクの客です
君が乗せた 最後のチャリが 消えた荒野は 長い冬です
君は今も 咲いていますか 誰のために 咲いていますか
僕はムショで 生きてゆきます 未練なジジイになりました
忘れ草を もう一度 そだててよ あの人の思い出を 抱きしめて
忘れ草を もう一度 はこんでよ あの人の 夢にとどけ ♪
君のいない 広い荒野は いつも 今でも 冬というのに
君の町は 晴れていますか 花の種は 育ちましたか
僕はここで 生きてゆきます 未練なジジイになりました
忘れ草を もう一度 そだててよ あの人の思い出を 抱きしめて
忘れ草を もう一度 はこんでよ あの人の 夢にとどけ ♪
あんた、「運び屋」したら人生終わりやで!(税関ポスター)…うるせえ! このクソアマ! デイリリー(忘れ草)を愛でた「運び屋」レオ・シャープまでも《あんた》呼ばわりするならば、テメェら許されざる者だ。ハリー・キャラハンならば‘Go ahead, Make my day.’と言って銃を向けるだろう。だが、オレは黙ってクソアマのツラに穴を空けてから家に戻って赤ん坊のように眠るね。…何ぃ? アメリカ白人の夢想を描いた映画『グラン・トリノ』(2008)を最後に俳優引退の宣言をしたクリント・イーストウッドが、主演(兼製作・監督)で戻ってきたぁ? …あんた、「運び屋」したら人生終わりやで!
『運び屋』(The Mule) 観賞後記
《アメリカの「歴史」をイーストウッドはかつて一度だって「終わり」から見ようとしなかったことを、私は改めてそこに痛感した。そうか、うっかりしていたと思った。腰の座った、揺るぎない「思考」がそこにあったと言ってもよい。それが生きている者だけとの交通によるものだったのかが危うかった。この映画の速度を呼吸するに必要なものを、「生」の文脈において求めるには、あまりに映画の被っていた空気が緩慢だったからである。そしてそれが緩慢だと感じるのは、いわば私が「映画」を忘れることに慣れてしまっているからである。「映画」を忘れることが、あたかも「現在」の必然であるかのような私たちの意識を、イーストウッドの新作が静かに振り返らせていると言い換えてもよい。忘れることを知るのは思いだすからである。》 (稲川方人 「ハデスの国の群像」/『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン No.24 映画の21世紀Ⅷ クリント・イーストウッドの肖像』 勁草書房 1998)
クリント・イーストウッドの監督作品『真夜中のサバナ』(1997)を観た稲川方人の評は、そのまま今般に『運び屋』を観た私の評とする。『運び屋』(2018)に関するインタビューで「学ぶことに年齢は関係ない」と、『グラン・トリノ』の時と同じことを言っているイーストウッド。少なくとも10年、いや20年、いやいや半世紀ほど前から、クリント・イーストウッドは《揺るぎない「思考」》の個人主義者として変わっていない。『真昼の死闘』(1970)の舞台であるメキシコと『グラン・トリノ』の舞台であるデトロイトの間を行ったり来たりした『運び屋』のアール・ストーン(イーストウッド:演)のように、イーストウッドは年齢に関係なく全く学んでいない。そして、「クリント・イーストウッド、ジジイなのにスゲェ」と《あたかも「現在」の必然であるかのような私たちの意識》もまた、年齢に関係なく《うっかりして》全く学んでいないのである。それを《イーストウッドの新作が静かに振り返らせている》、何せ“The Mule”(=頑固者)だから。映画『運び屋』は、‘Waffle House’でアール・ストーンとコリン・ベイツ(ブラッドリー・クーパー:演)が朝食を摂りながら語り合うシーンが好かった。《忘れることを知るのは思いだすからである》、何せデイリリー(忘れ草)を愛でた「運び屋」だから。
♪ 春や夏や秋が あるのは しあわせ行きの ヤクの客です
君が乗せた 最後のチャリが 消えた荒野は 長い冬です
君は今も 咲いていますか 誰のために 咲いていますか
僕はムショで 生きてゆきます 未練なジジイになりました
忘れ草を もう一度 そだててよ あの人の思い出を 抱きしめて
忘れ草を もう一度 はこんでよ あの人の 夢にとどけ ♪
コメント
to:t.matsuuraさん
帰山人
URL
[2019年03月29日 19時51分]
‘eastwooding’な一人芝居を見せられるかもなぁ、という憂慮を抱えて観た『運び屋』ですが、結果としては「なくてもいいがあってもいい」佳作だった。学んでいない半世紀のうちに、アメリカのリバタリアニズムもまた「なくてもいいがあってもいい」程度のものになったんだなぁ、と。
「雲雀東風」は『荒野の七人』ですか…いずれは『荒野の用心棒』と言ってもらえる作を目指します。
No title
t.matsuura
URL
[2019年03月30日 15時12分]
イーストウッドの西部劇は「許されざる者」以外観ていないので、西部劇の代表として「荒野の七人」を思い浮かべてしまいました。(あとは「真昼の決闘」も)
まずは「荒野の用心棒」「夕日のガンマン」探してみます。今度おすすめの西部劇教えてください。
to2:t.matsuuraさん
帰山人
URL
[2019年03月30日 19時42分]
レオーネ&イーストウッドの(いわゆる)ドル箱三部作は‘マカロニ’だけどね。や、薦めようにも(本家だろうがマカロニだろうが)私は西部劇をあんまり観ていないのよ。そこらへんは岡本喜八とか小鷹信光とか大林宣彦とかマニア骨頂の人へ振っておきます。
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グラン・トリノと脚本家が同じなだけに
より歳月を忘れてしまう感覚でした。
「学びのなさを学ばされる」というのも貴重な体験ですね。
字幕も忘れ草にすれば良かったのにと思います。
ところで今回の珈琲遊戯「雲雀東風」の感想ですが、
大地を感じさせる力強さに西部劇をイメージしたので
「荒野の七人」でした。
(クリント・イーストウッドではなかったので)