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夏目漱石のこころの、 「また来ましたね」といった。「ええ来ました」といって自分も笑った。 私は外の人からこういわれたらきっと癪に触ったろうと思う。 ↑この部分で、なぜ私は外の人から「また来ましたね」と言われたら癪に触ると思うのかが分かりません。 「また来ましたね」には何か皮肉的な意味があるのでしょうか?
文学、古典・64閲覧
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「また来ましたね」 という言い方からは、先生のあきれた様子がうかがえます。 「私」と同年代の若者風に言えば、 「なんだよ、また来たのかよ! まだ何か用があるのか?」 という感じでしょうか。 「私」からすれば、せっかく訪問しているのに、歓迎されていないわけですから、癪にさわるのは当然です。でも、「私」は先生に引かれる気持ちが強いあまり、そんなことは気にもならなかったということです。
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世の中の人は、みなあなたと同じ考え方をするわけではないのですから、全てに共感できるわけはありません。 小説に出てくる人物が、<「また来ましたね」と言われたら癪に触る>と書いてあるなら、つまり「私」というのはそういうタイプの人物なのだ、と読むことです。 責められたりしたわけでもないのに、「また来たのか」と言われると、他人の自分の行動をとやかく言われた気になるとか、そこに「物好きな人だ」みたいなニュアンスを勝手に読み取って嫌な気分になる人もいます。 他人の目を気にするタイプで「また来た」と言われることを気に病むタイプとか。 また、相手がどういう性格かまだわからないとか信用していない場合は、「また来た」と言われたら、「迷惑なのか」「ひまな奴だなという皮肉だろうか」と思うこともあるでしょう。 ここで大事なのは、他人だと「また来た」という言われ方でも気にしてしまうような「私」が、先生にはそういわれても気にならず、また来たいと思うほど心を許していたということだし、 また、その行の前に先生が「なぜ来るのか」と聞いて、「来てくれるのを喜んでいる」と言っている、つまり先生にとっても嬉しいことであり、私と先生の間にそれだけの友情があった、ということがここに描かれているのです。
文学は特別難しくありません。その言語を話す人々の常識さえ知っていれば読めます。夏目漱石の『こころ』であればそれが書かれた大正時代の日本の常識です。大正時代に生きていた普通の日本人なら誰でも理解できるように書かれています。 今もかもしれませんが、少なくとも大正時代の東京では、特別に親しくもない他人の家を頻繁に訪問するのは無遠慮に受け取られます。だから「また来ましたね」は皮肉に聞こえます。つまり普通の人がそう言えば「頻繁過ぎるから遠慮してほしい」という気持ちが込められています。しかし「先生」はそういう人ではないようですね。
「また来ましたね」は、ふつう「別に来なくていいのに、また来ましたね」という含意を持ちます。 料理の例でいうと、「また作ったんですね」は「別に頼んでいないのに、また作ったんですね」、「また頼んだんですね」は、「そう美味しい料理でもないのに、また頼んだんですね」という含意を持ちます。 一般に「また…したんですね」は、「別にしなくてもいいのに」という含意を持つ、だから「癪に触る」と言ったのです。
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