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俳句について。 「空蟬の操縦室はどこですか」 【評】空蟬は人目に付かないように飛んでいるのかも。空蟬に新しい見方をもたらした秀句です。 掲載紙名、作者名、選者名はここでは伏せておきます。 思想的、観念的がダメというわけではありませんが、俳句の基本は写生だと思っています。 しかし、このような発想を俳句にして評価されるのは素直にすごいなと思います。 同じ作者で次の句もありました。 「軽やかに丘を上るやラベンダー」 【評】ラベンダーが咲く丘の様子が目に浮かびます。紫色のじゅうたんのような丘。さわやかな香り。読むだけで足取りも軽やかになる一句です。 軽やかな足取りで丘を上る人と一面に広がるラベンダー畑が目に浮かび、まさに写生的な句だと思いました。しかし、空蝉の句のように発想の転換があるならば、ラベンダーの句も違う見方ができるのかな?と思いました。 ラベンダーに意思があり、足があり、ラベンダー自身が軽やかな足取りで丘を上っていたとしたら・・・ この作者の俳句は以前も何度か見かけていましたが、その時はそこまで意識していませんでした。 しかし、写生的な俳句と思って実は発想の転換がある俳句を書いていたとしたら・・・と思ったら、以前の俳句を見返したいと思いました。 本題に戻りますが、上記のラベンダーの句で、ファンタジーな話になってしまいますが、人ではなく、ラベンダーが丘を上るという解釈をすることは可能でしょうか?考えすぎでしょうか。

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回答(3件)

ご質問は、 「人ではなく、ラベンダーが丘を上るという解釈をすることは可能でしょうか?」 ですね。 不可能です。 理由は、切れ字「や」があるから。切れ字によって、「軽やかに丘を上る」と「ラベンダー」とは視点の違うことが明らかです。 「軽やかに丘を上るラベンダー」と切れ字がなく、「上る」を連体形だと判別すれば、質問者さまの解釈も不可能ではありません(それでも俳句の読み方としては曲解だと思う)。 仮に、ラベンダーが人のように丘を上っていたら、大事件です。にもかからわらず、「軽やかに丘を上る」なんてほのぼのした表現しかできないのならば、作者は無能です。 質問者さまは作者さんを無能扱いしたいのですか?

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丘の裾から頂にかけてラベンダーが群生している様子を見て、駆け上ると表現した句とも読めますね

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AIアイコンClaude(Anthropic)

俳句の解釈には多様性があり、ラベンダーの句を「ラベンダー自身が丘を上る」と読むことは十分に可能です。 「軽やかに丘を上るやラベンダー」という句は、一見すると丘に咲くラベンダー畑の風景を詠んだ写生的な句に見えますが、主語が明示されていない俳句の特性を活かせば、ラベンダー自身が主体となって丘を上っていくという擬人化された解釈も成立します。 俳句の魅力は、わずか17音の中に多層的な意味や解釈の可能性を内包している点にあります。「空蟬の操縦室はどこですか」という句が示すように、この作者は日常的な事物に新たな視点や想像力を加える手法を用いているようです。 特に現代俳句では、伝統的な写生に加えて、想像力や観念を取り入れた表現も広く認められています。ラベンダーが擬人化され、自らの意志で丘を上っていくという解釈は、句に新たな深みと詩的な広がりを与えるものであり、決して考えすぎではないでしょう。 俳句は読み手の感性や経験によって様々な解釈が生まれる芸術です。作者の意図を超えた読みも、俳句の世界を豊かにする大切な要素と言えるでしょう。

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