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現代音楽(「現代で流行している音楽」の意味ではありません)を演奏/作曲、あるいはリスナーとして楽しまれている方への質問です。 あくまでも純粋な疑問であって、現代音楽そのもの、および現代音楽を楽しまれている方への批判の意図は一切ございません。 また、今回の質問においての現代音楽とは、主に「無調であったり、不協和音をふんだんに使っていたりする、『一般人が聴いたら不快感を示すような響きの音楽』」とさせてください。適切な言葉が思いつかなかったため「現代音楽」と表記していますが、他に適切な言葉があればご教示いただけると幸いです。 以下質問 ①私は「現代音楽は『現代音楽を楽しもうとする人々』の間で楽しまれているだけで、決して市民権を得ることはない」と認識していますが、私の認識は正しいと思いますか? ②あなたは現代音楽が市民権を得る(たとえばチェーンのカフェのBGMとして調性音楽と同じぐらいの割合で用いられたり、イヤホンで現代音楽を聴きながら通学する学生が増えたりする)ことを望んでいますか? ③あなたが現代音楽に触れようと思ったきっかけは何ですか? ④多くの人は調性音楽を聴いて育ちました。そのため、無調であったり不協和音をふんだんに用いた楽曲というのは感覚的に忌避する人が多いと思います。そして、いま現代音楽を楽しまれている多くの方も元々はそうであったと認識していますが、その「忌避」がなくなったきっかけは何ですか? 自然になくなっていきましたか? それとも明確なタイミングがありますか? 以上の4点について、答えられる範囲で構いませんのでお答えいただけると幸いです。 また、私の認識、および質問内容に至らぬ点がございましたら申し訳ありません。 よろしくお願いします。

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回答(5件)

①市民権っていう言葉が引っかかりAIさんに質問してみました。 『特定のものが広く認められ、一般化することを「市民権を得る」と表現することもあります』とのこと。 質問者さんにとって現代音楽の前提は 「一般人が聴いたら不快感を示すような響き」とのこと。 であるならば現代音楽は『一般人の不快感を示す』表現のあり方として 市民権を立派に得ていると言えます。 映画やアニメ、テレビ番組で、不快な心情を表す場面で 現代音楽の要素が結構使われていますよね? ② 当方、音楽のあり方として 「BGMが市民権を代表する」という前提を否定したく存じます。 カフェでもデパートでもスーパーでもBGMが聴こえてくるこの国。 正直、疑問を持ちます。 音楽ってBGMありきで創作されている代物ですか? イヤホンでお経、イヤホンで雅楽、イヤホンで長唄 イヤホンでイスラム音楽、イヤホンで民族音楽、イヤホンでグレゴリオ聖歌 いずれも人々が望んでいるとは思えないのですが、なぜ現代音楽だけが槍玉に? 『自分一人だけの世界』に浸る手段として広い汎用性を持つ音楽だけを 質問者さんは「市民権」と呼んでいるのでは? ③映画『2001年宇宙の旅』のリゲティです。 ④耳慣れないもの、嗜好に合わないものに戸惑うのは仕方のないこと。 日本の古来からの伝統音楽を聴き慣れた当方にとって 調性とか不協和とかの垣根は限りなく低かった。 感覚的に忌避する人はそういう機会に恵まれなかったのかも ・・・という考え方もできますね。 心地よいか否かだけで判断するのではなく 心の奥に潜む感情を、正悪や清濁取り合わせて呼び起こせるか否か 私個人はそういう捉え方をしています、音楽に対して。 不協和の流れは悪や濁をどうしてか連想させる。 だから 自分の悪の感情・負の感情に積極的に浸ろう、とは思えない。 そういう意味で不協和バリバリの楽曲を進んで聴くことは避けたいですね。 弱い人間なので。

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①自分もそう思います。 ②望んではいませんし、その可能性も無いと思いますが途絶えてほしくはないのである程度の普及は必要だと思っています。 ③大学でピアノ専攻、大学院で音楽学専攻でした。中学高校時代から先生のご主人(作曲科の教授)と音楽美学的議論をするのが好きだったので自然に触れていたし、ピアノ演奏も古典派、ロマン派よりも近現代が得意だった。 ④慣れだと思います。実は幼少からピアノやソルフェージュをやっていく中で、最初の頃(たぶん3,4歳の頃)は全ての不協和音に違和感を自覚していました。あとで振り返ると属7の和音にも違和感を感じていたのです。 しかし、練習を重ねるうちに不協和音になれるだけではなく調性の不安定さや無調と調性の間のグラデーションに強い魅力を感じるようになっていき 増減和音や付加音の少ない古典派作品を退屈に感じるようになります。 一方で完全な無調であるセリアリズムに徹した音楽にはいまだに馴染めません。

市民権を得る、、、 ということは「ポピュラーな音楽になる」とほぼ同じだと思いますが、 なぜなら、状況としてそういうこと以外にはなさそうだからだと思われるからです それで ①はい →ポピュラーな音楽は目指していないであろうから、ないです ②どちらでもかまいません。何の望みも抱くことはない、と思います →一時的な現象はたまにはあると思います ③意味がわりにくいこですが、 調性音楽でなくてもへーきになったきっかけですか? →いつの間にか、です。 演奏者なので取り組む必要はあります 音楽の外形よりも、音楽が主張したい中身の方に意識が向くので、美しいかどうかなどはどうでも、よくなります。 ④調性音楽は、大雑把に言えば「人が聞きやすいと思う音楽を作るための便利なテンプレート」です 現代音楽は、その枠を外れ、拡大した芸術です(という枠にもはまっていないものも存在する) 音楽には文学や哲学や、絵画や、演劇や、数学や、科学、、 等々の外の学問と結び付いているものも多く、それを音で表現するジャンルというものです。 その際に、便利な調性音楽だけを使用したのでは、表現仕切れない。 実験的である場合もあるし、 もはや音よりも主張したい中身のほうが意味がある場合もある 芸術としての側面が強いのが、「現代音楽」だとも言えるので、 「商業用音楽」や「大衆音楽」や「マス向けのポピュラー音楽」のような聞きやすいとものである必要はない と思います

①「市民権」が何なのかあまりはっきりしないですし、「無調であったり、不協和音をふんだんに使っていたりする、『一般人が聴いたら不快感を示すような響きの音楽』」の指す範囲も広過ぎるので、何とも言えないです。 「『私の認識』には正しい部分も誤っている部分もある。50年後、100年後には現在とは状況はかなり違っているだろう。」ぐらいのことしか言えないです。 そもそも、「市民権を得る」ということが「チェーンのカフェのBGMとして用いられる」とか「学生がイヤホンで聴きながら通学する」を指すのであれば、調性音楽のほとんども「市民権」なんて得ていないわけです。 ベートーヴェンの後期作品(弦楽四重奏曲とかピアノソナタとか)を一般の人が聴いても何も分からないでしょうし、そういう曲がBGMとしてかかることは無いですし、たいていの人はそういうものを一度も聴かずに生涯を終えます。 つまり、議論が粗雑過ぎるということです。 ②そんなことは望んでいません。発想がおかしいです。 私は BGM のようなものは大嫌いです。音楽への冒瀆だと思っています。音楽はもっと真剣に聴くべきものです。 現代社会には、テレビを初めとした映像や商業施設などに「聴き流すための音楽」が大量に使われており、それが当たり前のものと思われていますが、そのこと自体が異常です。 ③中学校の図書館に「名曲解説全集」があり、そこでメシアンやシェーンベルクなどを知り、興味を持ちました。 その本には譜例が載っていますが、例えばメシアンの「付加された音価」があると「4拍子」が「4.5拍子」などと普通の拍子ではなくなります。そういうものを見て、「何だこれは!」というような驚き、自分がそれまで知らなかったものへの興味が先行していたと思います。 そこで名曲解説全集を何冊か借りてきて、家でピアノで弾いてみたりして、中1の終わり頃には自分で無調の曲をいくつか作ったりしていました。 自分で無調を開拓したということではなく、既にそういう音楽がたくさんあるわけですから、特に何も違和感は無かったと思います。 ④これも議論が粗雑過ぎます。 無調の曲の中にも、調性音楽に非常に近く、ごく自然に聴けるものもありますし、「異様に耳障りだ」と思うものもあります。一聴しただけで「これはとんでもなくすごい作品だ」と分かる無調の曲も、「何度聴いても何だかよく分からない」という無調の曲もあります。 しかし、それらをどれも全部同じものだと考えているふしがあります。質問者さん自身が、無調の曲をほとんど聴いていないのではないか。 基本的には、分かり易い音楽(聴き易い音楽)とそうでないものがある、というだけで、「調性←→無調性」の対立軸で考えるのは適切ではないと思います。 調性音楽でも、ポップスは異様に分かり易く作られているので大衆に人気があり、クラシックは必ずしも分かり易くはないので人気がない。 そういうことと同じです。 「無調であったり不協和音をふんだんに用いた楽曲というのは感覚的に忌避する人が多いと思います。」 というのは、「調性音楽ではないから」ということなのではなくて、「聴き手が未熟である(音楽的水準が低い)から」ということです。 もし中世の時代の人たちにモーツァルトを聴かせたら、「不協和音だらけで聴いていられない」というでしょう。そのように、協和・不協和というようなことは相対的なものなのです。 音楽的水準が上がってくれば聴こえ方が変わってきますから、無調であってもある種のものはごく普通に聴くことができるようになります(もちろん、その時点でも聴き難いものもあります。いろいろな段階があるからです)。 ロシア語を知らない人には、ロシア語の会話は意味不明な音の連続ですが、ロシア語の勉強を重ねるにつれてしだいに聞こえ方が変わって来て、そこに意味を汲み取れるようになります。 ある程度ロシア語が話せて読み書きができる人でも、ロシア語の取扱説明書は読めても小説になると難しくて読めないというようなこともあります。いろいろな段階があるということです。 そういうことと同様であると思います。

20世紀前半のクラシック音楽の多くは純粋な「調性」の音楽ではなく、「拡大された調性」であって、18・19世紀の調性音楽と1945年以降の無調を主体とする現代音楽との「つなぎ」の役割を果たしています。 例えば、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ラヴェル、オネゲル、バルトーク、バーバーなど。 これらの音楽の多くは枠組み自体は非常に伝統的であり、「三和音を主体とした和声感」、「拍節的なリズム」、「メロディー」、「伝統的な形式」は維持されています。しかし、音使いの中には19世紀までの音楽とは異なる要素が織り込まれています。 こういう音楽は比較的聴き易いですから、まずこういうものに十分に親しむということが必要ではないかと思います。 音楽史の展開の上から考えても、こういう中間段階を飛ばしていきなり戦後の現代音楽を聴いたとしたら、分かりにくいに決まっているだろうと思います。

一応音大の作曲専攻です。無調も使います。 ①これはどちらとも言えません。どんな曲でも評価は時代や聴衆、演奏された場所などによって変わるからです。 例:ストラヴィンスキー 春の祭典 ②望みはしないけど無調というだけで全てを否定する人は減ってほしいです。曲を聴く努力もせず頭おかしいというのは私からすると不快極まりないです。 ③クラシックを沢山聴き込んでいって古典〜近現代まで行ってその流れでシェーンベルクに辿り着いた感じです。 ④多分全ての時代の曲を飽きる程聴いたら無調も聴けるようになります。無調の曲好きで聴ける人はクラシック音楽ある程度詳しい人がほとんどです。 でも、どこからが無調でどこからが不快なのか、どこまでが音楽なんでしょうね。 ドビュッシー、マーラー、プロコフィエフや新ウィーン楽派の調号書いてある曲も完全に調性音楽で不快な響きがないと言えるのか カウエルのクラスターの上に調性音楽が乗っているのはどうなのか••• 現代音楽というと電子音楽や奏者の動きを取り入れたもの、特殊奏法をふんだんに使ったものなども現代音楽なので、今回の質問では調性が無いもしくはあいまいと表記するのがいいと思いました。