回答(4件)

別にシューベルト自身が三大歌曲集と言ったわけではないし、出版社やレコード会社あるいは興行屋の営業用コピーなんだからどうでもいいことです。

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白鳥の歌という連作歌曲賞をシューベルトは作曲していない。 白鳥の歌は周りの関係者がシューベルト死後に編集した寄集め集で、詩人も統一されていないので他の二つの歌曲集とはまるで別物。なので二大歌曲集としても一向にかまわないが、白鳥の歌としてまとめられた歌曲集もこれだけで一晩のプログラムとなりうる立派なものなので、そういう意味で3大歌曲集と呼ばれるようになったんだろう。 なので自分は3大歌曲集で構わないです。

なんで? せっかく「三大」になったものをなんで元に戻す必要があるの? 時に2つしか見つからないものを、かなり強引に3にすることだってあります。「3大テナー」なんかその気味が... シューベルトの歌曲集も「ひとまとまりのストーリー性」という枠で考えるなら「旅」と「水車小屋」はひとまとまりになってるからバラすことはできない。「白鳥」は3にするために意図的にまとめたと言えなくもない。 でも、せっかく3になったのになぜ2に戻す必要があるのか? ヒューゴ・ヴォルフに「スペイン歌曲集」と「イタリア歌曲集」というのがあります。 でも、これらに「2大歌曲集」の冠はつけない。 もし「ドイツ歌曲集」か「フランス歌曲集」でもできてたら「3大」になっていたかもしれないです。 「ドイツ3B」ってバッハ・ベートーヴェン・ブラームスでしたっけ。そこで、もし彼らと同程度のBがしたとしたら「4大B」にしてただろうか? 否 必ず、誰かひとりを候補から落として「3大」にしてたはずなんです。 それくらい「三位一体」は収まりの良い安定形態なのです。 古事記に記される「3神」 天照・素戔嗚・月読 後に天照と素戔嗚の姉弟が大げんかをするんですが、僕の見立てではこの姉弟、宿命的に気の合わない2人だったんだと思います。 その2人が衝突しないような緩衝材になっていたのが性別不詳の神、月読だった。おそらく天照=太陽だから、月=妹だったのではないかと思うんですが、とにかく月読がいたからこそ2人の蜜月が成立していたんだと思います。 そして月読はほとんど古事記に記載されることなくいつの間にやら姿を消す。 ひょっとしたら病弱な妹だったのかも。 いずれにせよ、彼(彼女)が早逝したのは確かのようです。 そして緩衝材の無くなった後、燃える野心と鋼鉄の意志を持った2人が激突して歴史が動いていきます。 ということで せっかく3にしたものを2に戻す根拠が見当たらないです。 3は安定印の特許であります。

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シューベルトの三大歌曲集は一般的に「美しき水車小屋の娘」「冬の旅」「白鳥の歌」を指しますが、ご指摘の通り、前二者と「白鳥の歌」には性質の違いがあります。 「美しき水車小屋の娘」と「冬の旅」はどちらもヴィルヘルム・ミュラーの詩による連作歌曲集で、一貫したストーリーを持ち、シューベルト自身が構成を決めて出版しました。 一方「白鳥の歌」はシューベルトの死後に出版社が編纂したもので、異なる詩人の作品を集めた連作ではない歌曲集です。そのため音楽学的には前二者と同列に扱うことに異論もあります。 ただ、芸術的価値や音楽史上の重要性から「三大歌曲集」という呼称が定着しており、「白鳥の歌」に含まれる「セレナーデ」や「ます」などの名曲の存在も無視できません。 二大歌曲集とするか三大歌曲集とするかは、連作性を重視するか作品の重要性を重視するかによって見解が分かれる興味深い論点だと思います。

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