もやいの湯浅誠さんのお話
2009-02-22(Sun)
最近お玉が参加している某所で議論中に小競り合いがあって・・そのままわけのわからない人格攻撃に発展して・・・・そうなってくるとだれも止められない。はじめは遠慮がちだった批判が、言われれば言われるほどに大きな火となって・・もう今は怖くて誰も止められないの。
きっと今、そこの管理人さんは、夜も眠れない状況じゃないかなあ・・・・このままでは某所が崩壊してしまいそうなギリギリのところで、管理人さんは特別措置を今とりつつあるようです・・・・(あくまでも某所ということで・・・これに関するご意見はお許しを)
ロスジェネ第二号を読んでいたら、湯浅誠さんが日本の左翼について「欠点を見つけるのはうまいけれども、共通点を見つけ出すのは苦手」ということを指摘していて・・・この人の講演会や著書の中でもしばしば、このことに触れているんですねよ。
もちろん左翼だけじゃないと思う。どんな人であっても欠点を見つけて指摘することのほうがみな、上手だと感じてる・・・でもそれではどんな運動も伸びないとお玉は思う。
お玉は共闘という言葉がどうも苦手だけれど、人のいいところを探して・・共通点を探す努力は続けていきたい。言い換えれば、お玉的運動論としては、それしかできないからねえ・・
それをきれいごととか、偽善とか言われちゃうとしてもね。
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近代の左翼の原点が「自分が正しいから嘘をついても殺しても自分の理想を実現する。」と言う点だからです。
共通の敵に対してはいっせいに袋だだきにしますが、敵が見えなくなると仲間内でもお互いの違いにいがみ合う。その辺りが「欠点を見つけるのはうまいけれども、共通点を見つけ出すのは苦手」の属性の一つ。
すぐにレッテルを貼りたがるのも、左翼の主観での欠点を相手に決め付けて共通の攻撃対象にすると言う、左翼の習性からの行動と言ってもいいでしょう。
こうして自分の正しさを、レッテルや決め付けで敵を決めつけ相手を叩き潰すと言う行為で補完し続けた結果が、「人類史上最大の殺戮者が左翼」と言う歴史に残る現実です。
元々は弱者や知識が無いものでも一緒に頑張るためにやっていた事だったのですが、すぐにおかしくなってしまったのです。
今でも二重基準なおかしな人達、特に護憲派と言っているのに日本国憲法を守る気が無い様な人達は同じ道を目指しているといえるでしょう。
私のお手伝いしている労働組織の一つは労働者の為の活動をする為に思想的な物は一切無くすると言う方針で、順法的かつ民主的にしか活動していないのですが、逆にそういう組織の方が実績があるみたいです。
沖縄の頼母子講は「もやい」ではなく「もあい」=模合。沖縄にまだ色濃く残るユイマール社会(共同体の最も原初的な助け合い)の名残として紹介されている。
昭和53年日銀沖縄支店が行った調査では地元3銀行の個人預金残高の2割程度の規模。
最近の低金利社会では摸合の性格もせいぜい集まって一杯やる程度ではなかろうかとの推測もある。
佐野真一著「沖縄だれも書かれたくなかった戦後史」P427~より。
(ウル覚えで記述した。不正確ですみませんでした)
いずれにしても、本土の頼母子講と同じく民間金融という形をとりながらもやい精神に準じた風習として今でも残っているのだろう。
「もやい」という言葉を聞いて頭に浮かぶのは相互扶助とか助け合い。これは今でも田舎ではお金の相互扶助として頼母子講(たのもしこう)が残っている。私が幼いころ、今は亡き母から聞かされた言葉に「もやいあって」というのがあった。今も残る農業の共同作業に「道作り」というのがあるがこれも「もやい」の一種だろう。
全国各地をくまなく歩いた民俗学者の宮本常一は、調査したことを「忘れられた日本人」や「民間暦」などの本として残している。彼の故郷である山口県・周防大島には彼が全国から集めた資料館も建設された。それらを見たり読んだりすると日本人の心は間違いなく相互扶助の精神が生活の中から生まれてきて、それが親から子へと連綿と続けられているのがわかる。だから「もやい」という精神は昭和の一時期までどこの人々でも普通に持っていた感情であったと思う。
ただし、農業における共同作業のしきたりは、それに外れる異質なものに対しては「村八分」という対応が待っているわけで、もやいと村八分は閉鎖社会の必然の現われであったとも言える。何月号の世界誌だったか忘れたが「沖縄という窓」というコラムに沖縄の村八分のことが書かれてあった。閉鎖性の強い沖縄は相互扶助の精神も旺盛だがいったん村八分になると半端じゃないという主旨であった。それは佐野真一氏も「沖縄 だれも書かれたくなかった戦後史」にももやい(頼母子講)が盛んでこのアンダーマネーに銀行もお手上げ状態ということの記述がある。
それが崩れていったのは昭和39年の東京オリンピック、昭和45年に開催された大阪万博から高度経済成長を経てからだと思う。当然当時の大企業における労働組合も会社の「生産性研修」を通じてそれまでの対決姿勢から労使協調に変質していったわけで、会社が導入する労務政策に対しては「生産性向上」に協調するというお題目の下、積極的に協力してきた歴史がある。労働組合を人事部労働組合課と揶揄された所以である。
今の派遣問題も労働組合の歴史の経過から考えると必然性があったと言わざるを得ない。
「もやい」というお互いが助け合うというキーワードは、類人猿から猿人、原人、と続いて生まれてきてそれらがすべて滅びたと同時期に、ホモ・サピエンスも生まれてくるのだが、なぜホモサ・ピエンスだけ栄えてこられたかの謎解きにも通じると思う。
つまり、人間の本能は決して争い好きではなかったというのが現在の科学の到達点だそうだ。それは欠点を言い合って争うというのがけっして人間らしい仕業ではないことを示していると思う。
整然と説明などする技量はないので、思ったことを書きますが、他の方々が言われる「国家」とか地域に根ざす秩序とかいうものを考えるとき、その構成員となりうる個々の人間の意味合いとはいったい何なのかと思わざるを得ません。
先に、個人を成功・失敗の区分けで判断することを嫌う文章を上げました。それは、個人はある意味で、周囲にある人間集団の認め方によってその存在価値が決められる一面を持っていることを否定できないからです。たとえば、周囲が否定すればその個は存在を認められないという結果になります。日本以外の国での例がわかりやすいですが、夫以外の男と関係を持った女性は断罪され、死が相当とされる文化・風習の下では、その過ちを犯した女性はもうこの世に存在することを許されません。この例に限らず、一般的に人は他の人間集団との関係によって自分の存在価値をある程度決められてしまいます。企業でノルマを達成できない社員は出世の階段を登ることができない。あるいは経済力がなく国民を飢えさせる国家は少なくとも国際社会において正当な影響力を持てない。また、誠実で処世術に欠けた人間は場合によっては重要とみなされない。まあ、ちょっと例のとり方が悪いかも知れませんが、言いたいことは、個そのものが絶対的な価値を持っているのではなく、周囲との関係によってその価値が決められる事実です。
こういう見方をすれば、個人の成功、失敗というものはその置かれた環境や条件にうまく適応していけるか否かによって決まるものだと考えられます。そして、成功することが必ずしも必要なのかどうかはまた別問題です。さらに別の見方をすれば、弱肉強食の環境で食い殺された個は、失敗した個なのだろうか。それは単に環境の中での必然に過ぎないのではないか。他を殺す必要を持つ個があれば、殺される個体が出るのは当然です。それは争いの結果であって、個の存在価値の問題ではありませんね。
内容がずれていますか。もういい加減に結論へいきます。社会で生きる人間にとって、国家だとかあるいはもっと身近な集団でのお互いの関係が乱れていることが、問題を引き起こすと考えています。「もやい」のような相互扶助の関係を見捨ててきた結果、今のような不毛な社会になっているわけで、かといって今から新たに相互の信頼関係をすぐ再建できるなどという戯言は言えません。今の日本の政治的混乱など見ても、すでに私たちは集団として機能するスキームを見失っているんだろうと思えます。個の成功・失敗だけを勘案してみても、互いの関係が育たないままでは社会そのものがズタズタになるだけだと思っています。あいつはうまくやった、気にいらないから引きずり下ろそう、俺は満足できていない、だから他人のことなんか構いはしまい。そういう精神的な風土がこの社会の基底に流れているはずです。それは、社会において他者と互いによい関係をつくり、維持していこうとする意思やそのための方法が失われているからでしょう。
休みなのにたくさんやることがあるので、このへんで失礼します。
「完結した個」であるとか、「失敗した個」であるとか。
こうした話を「そもそも論」でやってしまうと、論ずるに値しないという話になってしまいますし、それは正しいと私も考えます。完結、成功、失敗...どれも基準があっての話ですが、しかし、生身の人間の絶対的基準など存在しません。言うまでもないことです。
しかし社会、つまり「The System」は基準がなければ動作しません。逆に言うと「The System」が動作しているということは、そこに何らかの基準があるということであり、「The System」内部の「卵」はその基準に従って日々選別されている。こうした実態があることも現実なのですね。社会は「そもそも論」では動いていません。
話をエントリーの所へ戻しますと、それは右翼や左翼と言ったことでも同じです。右、左というからには何らかの基準があるはず。たとえその基準は万人共通のものではなくても、そう判別される以上、基準はあるはずなのです。
そして、「左翼は共通点を見つけ出すのが苦手」という現実があるとするならば、それは左翼は基準に忠実な人であると推論することが可能です。「共通点を見つけ出す」という作業にも基準は必要ですが、それはさまざまな基準で検討するという作業があってのこと。左翼はそれをあまりしない、ということになるのです。
さらに基準に忠実であることは、その基準において完結した個、という生き方に繋がっていく。「「個」は「個」でありながら完結してはいけない」とは、言い換えれば「多様な基準を持つべし」ということ。基準が多ければ多いほど共通点を見つけやすい。と同時に基準は相矛盾しているのが普通ですから、いつまで完結しないということになるのです。
お久しぶりに投稿いたします。
とはいえ、全然更新されておりません(料理プログのほうも…)。
お玉さま、大丈夫でしょうか?
何事も無く、ただのお休みでしたら良いのですが、ヘンなところから抗議が来ているのが原因だとしたら…。
先日、最近殆ど見ていない某メーリングリストをひさしぶりに観たところ、内ゲバ状態になっていました。そういうところの人間から攻撃が来たら、まったくもってヤナ感じです。
さて、前回投稿しました
>皆様、「もやい」ってどういう意味かご存知ですか?
の答えですが、「もやい」とは沖縄にある地縁社会の、相互扶助、地場産業投資、ただ飲み会などをひっくるめた、ある地域ごとにあるサークルの事です。
たとえば、沖縄のマックでは、よく「この話は儲かるかもしれん…」とか話し込んでいるおっちゃんが何人もテーブルを囲んでいる姿をよく見ますが、あれが「もやい」(わたしは「もあい」と聞こえておりました)の集まりです。
人と人との繋がりが、他県の人間より一段と緊密な、沖縄ならではの光景だといえるかもしれません。
僕は、個というのはいつでも、外部との関係性を持ちつつ変化している存在だと思います。人間の身体は外から取り入れる栄養などで常に更新されていて、内部の組織は新しくなっていきますね。それと同じように、精神、心の面でも、人は他者からの影響を受けて変化していきます。その度合いが小さいか大きいかは人により、また年齢や環境によって異なりますが、ひとりの人間がまったく外の世界の影響を受けずに生きていくことはできません。多くの人がお金の代わりにクレジットカードを使うようになった時代に、それまでカードを持ったことがなかった人も新たに使いはじめました。生活習慣や労働の形態、他者とのかかわりの持ち方なども、時代や社会、周囲の人間との関係の中で決定されていきます。つまり、個というものはどんどん変化するものであり、ある一定の期間で考えれば同じ形であるように見える、ということなのではないでしょうか。その意味で言うと、「完結」はありえませんね。
問題とされているのはたぶん、その時代の主要な価値観で測られた場合の人間のランク付けのことではないかと思います。成功した「個」、あるいは失敗した「個」とはまた、ものすごいセンセーショナルな言い方をするなあと思うんですが、たとえばリストラされて家族を失い自殺してしまう人がいた場合、彼は失敗したと分類されるのですか?なんとも、安易ですねえ。成功は社会的名誉ですか、金銭的価値ですか、それとも精神的な優越感でしょうか。あまり考えるに値するとは思えません。
愚樵さん
>その定義不可能なものを追い求めているという「実態」はあるのではないか?
ひとつ反論があるとすれば、「それでも、『完結された個とは何ぞや』を考えだしていく姿勢は必要、ただし、共通認識になりにくいということは、それもまた欠陥があるという認識を持とう」ということかな、と思います。
大切なのは、『完結された「個」』そのものを見つけるという「結果」ではなく、それを見つけていく過程においての「思考錯誤」。
これが人を成長させる糧になるんだろう、ということです。
>これは逆立ちした議論なんですが、そういう現状はあちこちに見られるように思います。「メロドラマ」の構図もそれです。
すまん、「メロドラマ」は見ないから、さっぱりわからん。
>そうなると次に考えるべきは、一体誰が認めるのか?
国家でも共同体でもない、「自分自身」ですよ。ひとりひとりが認めること。それは、お互いの尊厳を認めることもありますが、自分自身のためでもある。
「現在の条件では『失敗』でも、将来の条件では『完結』かも知れない。」
「現在の条件では『完結』でも、将来は『失敗』に転じるかも知れない。」
成功者にとっては転ばぬ先の杖ですし、失敗者にとっては成功に転じる端緒にもなる、ということですね。
この部分は明確に反論ですが、共同体だとか国家だとかは、所詮は人の集まりに過ぎないのであって、「共同体」「国家」という物質があるわけではない。ましてや自生的秩序なるものは、本当にそれが秩序として機能するものかどうかすら不明瞭です。すなわち、認めるも認めないもない、ということ。
でも、この反論について懸念を持つことはないと思います。ひとりひとりが「失敗した個もまた、認めるべき個だ」と認識できていれば、おのずから愚樵さんが求める結果を導くことができると考えるからです。
喜八殿
「保守か革新か」「サヨクかウヨクか」を区分けすること自身に意義などないです。イデオロギーは、思考や性質を理解しやすくするために、ポジショニングする感覚で唱えることはアリなんでしょうが、それでも「概ね」であって、反対に近い見解や意見の部分があってもいいし、極端にいえば51:49で保守、51:49で革新でもいいぐらいです。
私も、私自身が保守か革新か、サヨクかウヨクかなんて、あまりにくだらないので、自分を位置付けることはしませんしね。(勝手に位置づける人もいますけど。)
時間差レス、すみません。
>>つまりは、お玉さんの言う「愛」ですね(笑)
>そういう結論になんのかい。(笑)
オチと言っていただきたい(爆)
>ただひとつ疑問に思うのは「では、どういうのが『完結した個』なのか」というのが、いまいちわからない。
はい。私にも分かりません(笑)。
自分で言い出しておいて、分からないとはふざけているとお叱りを受けるかもしれませんが...、けど、大まじめです。つまり、言いたいのは、私たちはわけの分からないものを追い求めているのではないか? ということです。
『完結した個』などといったものを定義しようすることは不可能です。けれども、その定義不可能なものを追い求めているという「実態」はあるのではないか? と感じるのですね。
これは逆立ちした議論なんですが、そういう現状はあちこちに見られるように思います。「メロドラマ」の構図もそれです。そして、インテリほどこういった構図に嵌りやすいという印象を受けます。
>「失敗した『個』」とは、「認めるべき『個』」だと思います。
はい。そうなると次に考えるべきは、一体誰が認めるのか? ということです。認めるべきは国家という「the system」でしょうか?
もちろん国家も認めるべきでしょう。けれど、その前にそう主張する人が認めるべきです。認め合うと、そこに発生するのは「自生的秩序」であり「共同体」なのではありますまいか? というのが私の考えのですが...
*****
喜八さん
湯浅誠さんは「右でも左でもない、上」なんでしょう。
もちろんこの「上」は、「左右」はもちろん「上下」も区別しないという意味での「上」です。
湯浅誠さんが東京大学大学院博士課程で研究されていたのは、江戸時代前期の儒学者「伊藤仁斎」だそうですね。
となると、湯浅誠さんは正真正銘の「保守思想家」だと考えるのが自然です。
伊藤仁斎の儒学思想に基づいて社会と国家の強化を図る、きわめて実践的な思想家だと。
「湯浅誠はサヨクだ!」なんて一部の人たちの批判は、とんでもなくピント外れかもしれません・・・。
>左翼の前提は確立した「個」です。その上で正しさを追究しようとしますから、独りよがりになる傾向はどうしても出てくる。対して右翼は集団のなかに「個」のアイデンティティを埋没させようと志向しますので、傾向としてはどうしても全体主義的になる。
私は左翼も右翼も、それほど造詣があるわけではないですし、愚樵さんのその発言を肯定的に捉えていますので、「反論」というよりも「別の見方」として述べますね。
現象面から見ると、左も右も、思考プロセスはほぼ一致しているかなって思っています。そしてそのポイントは「共有」。
ただし、その発露が、左翼の場合は「権利、自由、生活」などであり、右翼の場合は「伝統、権威、歴史」というものだと思います。
このために、愚樵さんが述べたようなことになるんだろうと、私は思うわけです。
>確立した「個」を保持しつつ、他者との共感を探る。追求すべきは論理よりも共感です。言葉も表記された意味の正しさを求めるのではなくて、その言葉が発せられた意味を求める。ダイアローグを上手く行うには、文脈を読み取るリテラシーが重要です。
う~ん、これは、比較対照のものではなく、「目的と手段」の話になるのかなって思いますね。
『共感を覚え、共感を深めるためにこそ論理を構築して理解しやすくする。』『込められた意味を正しく伝え、正しく理解するために、表記された言葉の意味を正しく理解する。』
超能力でもない限り、接する時間が少ない、生活してきた環境や条件が異なる人が、違う言葉、違う論理で共感を覚え、意味を正しく理解することは困難を極めると思います。このために不幸な誤解も生じる。
なので、「AよりもB」ではなく「BのためのA」ということになるのかな、という認識です。
>それには「個」は「個」でありながらそこで完結してはいけないんですよ。完結した「個」を前提にすると、あとは「個」の完成度の比較に陥り、勢い相手の欠点に目がいく。
言いたいことは何となくわかりますが、ただひとつ疑問に思うのは「では、どういうのが『完結した個』なのか」というのが、いまいちわからない。
おそらく、完成度にこだわるというのは、まさに「個」に対する追求が中途半端なのかな、という感じがしますが、でも、こう思考するのもまた、「個」に対する追求が中途半端なゆえかも知れません。
>そうではなくて、仮に相手の言葉が失敗であったとしても、なぜそうした失敗をしたのか、失敗した「個」も確立した「個」だと認める姿勢が大切でしょう。
私は「失敗した『個』」というのはないと思っています。
「今現在の環境や条件では不適合である『個』のひとつの在り方」だという捉え方ですね。これも、言い換えれば、「成功した『個』にいつでもなりうるもの」だということです。従って、愚樵さんがいう「失敗した『個』」とは、「認めるべき『個』」だと思います。
>つまりは、お玉さんの言う「愛」ですね(笑)
そういう結論になんのかい。(笑)
「愛」ほど抽象的なものはないので、「愛国心」ということも「こんな感じなのかなぁ?いや、こうかもしれんぞ」という感じなんですが、でも、違うとは絶対に言えないですね。
いや、共産党への愛ある(?)批判には皆さん生き生きするなぁ・・・と。
具体的な「運動」で共産党と関わったことない癖にエラソーに言っちゃいますが、
「共闘」「支持しない」理由を共産党の中に見つけようと躍起になっているなぁ・・・、なんて
見えちゃうんですよね。
キンピーさんはその書き方から「運動」で具体的に関わっている中での発言だと思うので、
関わっていない人間のオキラク発言になっちゃっています。
しかも、共闘・支持しない、できないとは一言も書いていないですし。
いや、すみません。
きっと期待があるから愛の批判があるんですよね。
期待していないヒトには、ハナから苦言を呈そうと思いませんから。
>左翼の共闘・共通点とは“俺さまの正しさの下に集まれ”と言っているだけに過ぎませんし
「過ぎない」というのは言い過ぎだと思うけど、概ね同意できます。
もちろん、わくわくさんがいうように「欠点は見つけやすく、共通点を見つけるのは難しいってのは、左翼に限った話じゃない」と私も思いますが、湯浅氏が特に左翼に対してそのように指摘していることの意味を見失ってはいけないと思います。
これは左翼のアイデンティティのあり方と深く関連がある話だと考えています。左翼の前提は確立した「個」です。その上で正しさを追究しようとしますから、独りよがりになる傾向はどうしても出てくる。対して右翼は集団のなかに「個」のアイデンティティを埋没させようと志向しますので、傾向としてはどうしても全体主義的になる。
ちなみにどこを切っても金太郎飴の共産党は、左翼でありながらメンタリティー的には右翼なんですよね。最近は違った動きもあるようですが。
今や時代の流れはディスカッションではなく、ダイアローグでしょう。確立した「個」を保持しつつ、他者との共感を探る。追求すべきは論理よりも共感です。言葉も表記された意味の正しさを求めるのではなくて、その言葉が発せられた意味を求める。ダイアローグを上手く行うには、文脈を読み取るリテラシーが重要です。
それには「個」は「個」でありながらそこで完結してはいけないんですよ。完結した「個」を前提にすると、あとは「個」の完成度の比較に陥り、勢い相手の欠点に目がいく。そうではなくて、仮に相手の言葉が失敗であったとしても、なぜそうした失敗をしたのか、失敗した「個」も確立した「個」だと認める姿勢が大切でしょう。
つまりは、お玉さんの言う「愛」ですね(笑)
答えは後日発表します。
<ヒント>
ウチナー口です。
>湯浅誠さんが日本の左翼について「欠点を見つけるのはうまいけれども、
>共通点を見つけ出すのは苦手」ということを指摘していて
全くその通りだと思います。
極めて厳しい言い方をすれば、多分、「道を聞くこと百にして己に若(し)く者莫(な)しと為す」人が、多いからでしょう。
お玉さん、こんばんは&久しぶりです。
良くはわからないけど、
それだけは許せないです。「それ」って人格攻撃です。
一番、納得がいかないからで、誰が「一番、すぐれた人格なのか」ってことでしょう?
そんな奴いるか?
難しいことは分かんないけど、理論で来るなら理論で・・・論理で来るなら論理で・・・で、
どうすんの?
が一番の庶民の願いだと思います。
「そんなに優れている人格者がいるんだったら、何で、この世は変わらないのか」って言いたいです。
批判は、つらいけど・・・来るなら来い・・・です。
お玉さんに迷惑をかけるようなら、削除してくださいな。
ええと、「凡人日記2.5」で検索して下さい。
ちなみに、理屈だけの人間は相手にしますけど軽蔑するタイプです。筋が通っている人なら、どんな人でも敬意を持って遇します。
「右翼」に、そんな骨のある人がいないのが悲しいです。
ボクは、いわゆる「左翼」ですが、命をかけた「右翼」も知っているので、「口ばっかり」の奴は、大嫌いなのです。
「人格」そのものを、誰かが攻撃をしているって聞いて、我慢できませんでした。悪しからず。
欠点は見つけやすく、共通点を見つけるのは難しいってのは、左翼に限った話じゃないと思いますよ。
欠点というのは、損失が発生したり、不快な気分にさせるために見出せるのであって、『見つける人にとっては受け身』なんです。だからカンタンにわかるもの。
長所というのは、自分自身が見つけようとしなければ、なかなか気づかないものです。つまり『見つける人にとっては能動的』なんですね。
特に共通点となると、根本認識が同じだとしても、言葉が異なったり、あるいは自分が体験していない事例で説明されると、自分との共通点だと認識するまでには「思考」というプロセスを介在させざるをえないわけで、「他人と比べて、人の長所を見つける、共通点を見つけるのが得意な人」であっても、その人にとっては「欠点の方が見つけやすい」のです。
>どんな人であっても欠点を見つけて指摘することのほうがみな、上手だと感じてる・・・でもそれではどんな運動も伸びないとお玉は思う。
『欠点を見つけて指摘する方が上手』と感じていても、それを自分自身で認識していれば、そこへの注意を心がけることになりますから、逆に自制が効き、自分の悪いところが出てきても、すぐに修正することができるのです。
むしろ怖ろしいのは、『欠点を見つけて指摘する方が上手』なのに、それを認識していない方です。自分自身の行為を理解していないことほど、修正が難しいことはありません。
なので、お玉さんが望むことが成就するために必要なことは、そんなに難しいことではありません。時には自分自身の道程を振り返り(反省)、何かするときは一歩立ち止まって再考してみる(念押し)、これでやれると思いますけどね。
共闘とか、イデオロギーのような視点で連帯しようとすると、互いの差異の処理方法が問題になるのかな、と思います。政治的な勢力図をにらんで連帯したり反目するんでしょうが、結局本来の目的でなくて感情面で左右されてしまうのでは?あのやり方は気に入らない、認められない。あるいは利益になるなら多少のことは目をつぶる、とか。そうでなくて、本当に目的達成の手段を吟味するならば、好き嫌いにこだわっている場合ではありませんね。理性的に判断できれば、人格攻撃で憂さを晴らすなんてことはしないはずです。そのへんで、議論のルールができていないといけないですよね。
欠点なんて人間の特徴です。ないはずはない。そんなものにこだわっていてどんな未来が拓けるものか。危機迫る今、つまらないことで労力を無駄にしちゃダメです。
>「欠点を見つけるのはうまいけれども、共通点を見つけ出すのは苦手」
心を広く持つとかそういうものとはちょっと違う組織の在り様の問題だと思います。
なんて言えば伝わるのか分かりませんが、左翼(政党・団体)って“正しさ”に裏打ちされた活動をしていると自負しておりますので、他の“正しさ”を認めたがらないわけで。
左翼の共闘・共通点とは“俺さまの正しさの下に集まれ”と言っているだけに過ぎませんし、運動をただの拡大の場として位置付けている場合が多いです。
とくに共産党はそうですが、他の左翼(政党・団体)も思い当たる節はあるでしょう。
お玉さん、こんにちわ!
意見が違ったときにどう調整するか、ほんとに大変ですよね。目指すところは同じなのに、ささいな(?)ことでこだわると人格批判までつながって、あとはもうということがしばしばあります…。
そういうときに私もディスカッションに出ていた湯浅さんの議論の進め方を見て感動しちゃいましたよ。
冷静に相手の批判を受け止めて、そのうえできちんとデータを出して相手の批判ポイントがずれているところに気づかせ(ここで鬼の首をとったようにいわないところが大人!)、そして議論のための議論ではなく、この議論を通じて目指すものは何かを発言するー素晴らしいなぁと思います。
猪瀬直樹さんの番組にゲストで出たときも、彼に対する偏見から入ったりしないんですね。対等に向かい合いつつ、猪瀬さんに聞きたいことを素直に聞きながら、湯浅さんの持論を述べていつのまにか猪瀬さんをも味方につける。根本にあるのは、憲法25条が守られる社会にするにはどうしたらいいかという問題意識で、それが明確だからぶれがないし、議論でも常に冷静にいられるのかもしれません。
私的には姜尚中さんに次ぐ論客が現れたなぁという感じです♪
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09年2月22日 日曜日 憂楽嘲(ごまめの翁)ブログの目次
昨日コメントに
「よくまちがうね」
とお便りをいただいた。ご指摘ありがとうございます。ただ発信元が分からないのが残念です。
私は80歳近い高齢と、戦争孤児で無学ですから、誤字脱字が多いと思っています。
今日、電車に乗ったら、中吊りがありました。【「ヘベレケ中川」同行記者批判でネット炎上】どういう内容か見たく書店に入りましたが、まだ発売日ではありませんでした。
出たら、買うか、立ち読みしようと思います。
http://www.mainichi.co.jp/syuppan/sunday/
私
最近、某所で捕鯨問題について議論したり、また、ガザ紛争を巡る議論を見たりしていて、つくづく思うのが、多くの日本人の考える相互理解と...