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Dendrodium 2017年05月
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和久希世    

  • Author:和久希世    
  • 京都との県境近く
    滋賀県大津市南部、
    瀬田川の畔に住まいする
    古希を過ぎた 名も無き嫗でございます。
    事情があって(こちら)しばらく
    「春夏秋冬」で書いていましたが、
    又こちらで書くことになりました。
    今度はお馴染みになりました 
    和久希世(以前は わこ)に改めて再出発とさせて頂きます。
    2010・3・21

    FC2dendrodiumを終了し、
    ライブドアブログdendrodiumに移りました。
    (2016/3/1)

    2019・5・25 又、こちらで書く事にしました。

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象徴天皇制は日本国憲法下において、昭和天皇と今上陛下の思索と実践によって作り上げられた独特の政治的装置 

内田樹さんが天皇制に付いて話された『月刊日本』でのインタビュー記事を、ブログに載せておられました。
今上天皇が象徴天皇というものをどういうものと捉えておられ、
今後の天皇にも、天皇として守って行かせたいとお考えなのかなどについて、
内田さんのお考えなど多岐にわたって述べておられます。

いちいちに同感したと言ったらおこがましいですが、
漠然と思っていたことを、良く分かるように説明して下さっていると思いました。
昨年のお言葉で天皇陛下が示された天皇のあり方に付いてのお考えについて、
国民に諮って賛否を問うこともせず、
安倍政権は天皇陛下のご意思を握り潰そうとしています。
今上陛下はご在位期間を通じて身を持って体現して来られた象徴天皇像を、
向後の天皇も維持し続ける為に、天皇の定年制を希望しておられたのでしたが、
安倍政権は今上天皇一代限りのご譲位法案として終おうとしています。
(これでは今上天皇が高齢を理由に辞めたがっておられることを、
今上陛下の我儘と規定する事になりかねません。
しかも安倍政権は憲法に記載された皇室典範の改正をせず、
特例法で陛下一代限りのご譲位にしてしまおうとしています。

安倍総理に天皇への崇敬の念が少しでも有るのなら、
天皇陛下が一生掛けて取り組まれた新しい天皇像・象徴天皇像を、
一顧の値打ちもないと言わぬばかりに、踏みにじる様な強引な法改正など出来るはずがないと思うのですが・・・・・

以下に内田樹さんの当該記事を複写させて頂きます。

天皇制についてのインタビュー

『月刊日本』今月号に天皇制についてのインタビューが掲載された。このトピックについて長い話をしたのはこれがはじめてなので、ここに再録しておく。

―― 昨年8月8日の「お言葉」以来、天皇の在り方が問われています。死者という切り口から天皇を論じる内田さんにお話を伺いたい。

昨年のお言葉は天皇制の歴史の中でも画期的なものだったと思います。日本国憲法の公布から70年が経ちましたが、今の陛下は皇太子時代から日本国憲法下の象徴天皇とはいかなる存在で、何を果たすべきかについて考え続けてきました。その年来の思索をにじませた重い「お言葉」だったと私は受け止めています。
「お言葉」の中では、「象徴」という言葉が8回使われました。特に印象的だったのは、「象徴的行為」という言葉です。よく考えると、これは論理的には矛盾した言葉です。象徴とは記号的にそこにあるだけで機能するものであって、それを裏付ける実践は要求されない。しかし、陛下は形容矛盾をあえて犯すことで、象徴天皇にはそのために果たすべき「象徴的行為」があるという新しい天皇制解釈に踏み込んだ。その象徴的行為とは「鎮魂」と「慰藉」です。
ここでの「鎮魂」とは先の大戦で斃れた人々の霊を鎮めるための祈りのことです。陛下は実際に死者がそこで息絶えた現場まで足を運び、その土に膝をついて祈りを捧げてきました。もう一つの慰藉とは「時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うこと」と「お言葉」では表現されていますが、さまざまな災害の被災者を訪れ、同じように床に膝をついて、傷ついた生者たちに慰めの言葉をかけることを指しています。
死者たち、傷ついた人たちのかたわらにあること、つまり「共苦すること(コンパッション)」を陛下は象徴天皇の果たすべき「象徴的行為」と定義したわけです。
憲法第七条には、天皇の国事行為として、法律の公布、国会の召集、大臣や大使の認証、外国大使公使の接受などが列挙されており、最後に「儀式を行うこと」とあります。陛下はこの「儀式」が何であるかについての新しい解釈を示されたのです。それは宮中で行う宗教的な儀礼のことに限定されず、ひろく死者を悼み、苦しむ者のかたわらに寄り添うことである、と。
憲法第1条は天皇は「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴」であると定義していますが、この「象徴」という言葉が何を意味するのか、日本国民はそれほど深く考えてきませんでした。天皇は存在するだけで、象徴の機能は果たせる。それ以上何か特別なことを天皇に期待すべきではないと思っていた。けれど、陛下は「お言葉」を通じて、「儀式」の新たな解釈を提示することで、そのような因習的な天皇制理解を刷新された。天皇制は「いかに伝統を現代に生かし,いきいきとして社会に内在し,人々の期待に応えていくか」という陛下の久しい宿題への、これが回答だったと私は思っています。
「象徴的行為」という表現を通じて、陛下は「象徴天皇には果たすべき具体的な行為があり、それは死者と苦しむもののかたわらに寄り添う鎮魂と慰藉の旅のことである」という「儀式」の新たな解釈を採られた。そして、それが飛行機に乗り、電車に乗って移動する具体的な旅である以上、それなりの身体的な負荷がかかる。だからこそ、高齢となった陛下には「全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくこと」が困難になったという実感があった。
「お言葉」についてのコメントを求められた識者の中には、国事行為を軽減すればいいというようなお門違いなことを言った者がおりましたけれど、「お言葉」をきちんと読んだ上の発言とはとても思えない。国会の召集や大臣の認証や大使の接受について「全身全霊をもって」というような言葉を使うはずがないでしょう。「全身全霊をもって」というのは「自分の命を削っても」という意味です。それは鎮魂と慰藉の旅のこと以外ではありえません。
天皇の第一義的な役割が祖霊の祭祀と国民の安寧と幸福を祈願すること、これは古代から変わりません。陛下はその伝統に則った上でさらに一歩を進め、象徴天皇の本務は死者たちの鎮魂と苦しむものの慰藉であるという「新解釈」を付け加えられた。これを明言したのは天皇制史上初めてのことです。現代における天皇制の本義をこれほどはっきりと示した言葉はないと思います。何より天皇陛下ご自身が天皇制の果たすべき本質的な役割について明確な定義を行ったというのは、前代未聞のことです。私が「画期的」と言うのはそのような意味においてです。

―― 天皇は非人称的な「象徴」(機関)であると同時に、人間的な生身の「個人」でもあります。象徴的行為では、天皇の象徴性(記号性)と人間性(個人性)という二つの側面が問題になると思います。

昭和天皇もそのような葛藤に苦しまれたと思います。大日本帝国憲法下の天皇はあまりに巨大な権限を賦与されていたために、人間的な感情の発露を許されなかった。だから、昭和天皇には余人の計り知れない、底知れないところがありました。開戦のとき、終戦のとき、天皇がほんとうは何を考え、何を望んでおられたのか、誰にも決定的なことは知らない。けれども、日本国憲法下での象徴天皇制70年間の経験は、今の陛下に「自分の気持ち」をある程度はっきりと告げることが必要だという確信をもたらした。
天皇は自分の個人的な気持ちを表すべきではないという考え方もあると思います。そういう考え方にも合理性があることを私は認めます。けれども、政治に関与することない象徴天皇制であっても、その時々の天皇の人間性が大きな社会的影響力を持つことは誰にも止められない。そうであるならば、私たち国民は天皇がどういう人柄で、どういう考えをする方であるかを知る必要がある。「国民の安寧と幸福」に資するために天皇制をどのようなものであるべきかは天皇陛下と共に、私たち国民も考え続ける義務があります。法的に一つの決定的なかたちを選んで、その制度の中に皇室を封じ込めて、それで「けりをつける」というような硬直的な構えは採るべきではない。
日本国憲法下における立憲デモクラシーと天皇制の併存という制度は、出発時点ではどういうものになるのか、想像もつかなかった。その制度が今こうしてはっきりとした輪郭を持ち、日本の社会的な安定の土台になるに至ったのには、皇室のご努力が与って大きかったと私は思います。天皇制がどうあるべきかについての踏み込んだ議論を私たち国民は怠ってきたわけですから。
しかし、国民が議論を怠っている間にも、陛下は天皇制がどういうものであるべきかについて熟考されてきた。「お言葉」にある「即位以来,私は国事行為を行うと共に,日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を,日々模索しつつ過ごして来ました」というのは、陛下の偽らざる実感だと思います。そして、その模索の結論が「象徴的行為を果すのが象徴天皇である」という新しい天皇制解釈でした。私はこの解釈を支持します。これを非とする人もいるでしょう。それでもいいと思います。天皇制の望ましいあり方について戦後70年ではじめて、それも天皇ご自身から示された新しい解釈なのですから、この当否について議論を深めてゆくのは私たち日本国民の権利であり、また義務であると思います。

―― 象徴的行為は死者と自然に関わる霊的行為です。これはシャーマニズム的だと思います。

どのような共同体にもそれを基礎づける霊的な物語があります。近代国家も例外ではありません。どの国も、その国が存在することの必然性と歴史的意味を語る「物語」を必要としている。天皇は伝統的に「シャーマン」としての機能を担ってきた。その本質的機能は今も変わりません。「日本国民統合の象徴」という言葉が意味しているのはそのことです。しかし、鎮魂慰霊すべき「死者」をどう設定するか、これが非常に難しい問題となります。
伝統的に、死者の鎮魂において政治的な対立や敵味方の区分は問題になりません。「死んだら誰もが仏になる」というのは、死者を識別してはならないという私たちの中に深く根付いた死生観を表す言葉です。「こちらの死者は鎮魂するが、こちらの死者については朽ちるに任せる」というような賢しらなことはしてはならない。
かといって、「四海同胞」なのだから人類誕生以来の死者全てを同時に平等に鎮魂慰霊すればいいという話にはならない。それでは「国民統合」の働きは果たせない。象徴的行為の目的はあくまでも国民の霊的統合ですから。どこかで、ここからここまでくらいが「私たちの『死者』」という、範囲について国民的合意を形成する必要がある。
だからこそ、陛下は戦地を訪れておられるのだと思います。宮中にとどまったまま祈ることももちろんできます。けれども、それでは誰を慰霊しているのか判然としなくなる。戦地にまで足を運び、敵も味方も現地の非戦闘員も亡くなった現場に立つのは、「ここで亡くなった人たち」というかたちで慰霊の対象を限定するためです。日本人死者たちのためだけに祈るわけではもちろんありません。アメリカ兵のためにも、フィリピン市民のためにも祈るけれど、「人類全体」のために祈っているわけでもない。そのような無限定性は祈りの霊的な意味をむしろ損なってしまう。死者はただの記号になってしまう。だから、「敵味方の区別なく」であり、かつ「まったく無限定ではない」という条件を満たすためには、どうしても「現場」に立つしかない。それが鎮魂慰霊のために各地を旅してきた陛下の経験的実感だと私は思います。
鎮魂は日本に限ったことではありません。他国には他国の霊的な物語がある。たとえば慰安婦問題がそうです。日韓合意は日本との経済関係や軍事的連携を優先するという合理的な考え方に基づくものだったけど、慰安婦問題を「最終的かつ不可逆的に」解決するには至らなかった。韓国の人たちが「このような謝罪では、死者が許してくれない」という死者の切迫を感じているからです。南京大虐殺もそうです。
鎮魂慰霊というのは生きている人間の実利にはかかわりがありません。そんなことをしてもらっても生きている人間たちの現実には何一つ「いいこと」があるわけではない。けれども、恨みを抱えて死んだ同胞の慰霊を十分に果たさなければ「何か悪いこと」が起きるということは世界のどの国でも、人々は実感しています。死者の切迫とは「これでは死者が浮かばれない」という焦燥のことです。そして、その感覚が現に外交や内政に強い影響を及ぼしている。「成仏できない死者たち」が現実の政治過程に強い影響を及ぼしているという点では、実は古代も現代も変わらない。その意味では私たちは今もまだ「シャーマニズムの時代」と地続きなのです。
ですから、「死者をして安らかに眠らせる」ということが近代国家にとってもきわめて重要な政治的行為となりうるのです。死者のことなんかどうでもいいじゃないかと思っていると、死者は蘇って、「祟り」をなす。死者の切迫をつねに身近に感じて、その怒りや恨みや悲しみを鎮めようと必死で祈り続ければ、死者はしだいに遠ざかり、その影響力も消えてゆく。そういう仕組みなんです。そのことはわれわれ現代人も実際には熟知している。だからこそ、陛下は旅を止めることができないのです。

― しかし安倍政権の対応は冷ややかでした。

官邸の人たちには鎮魂や慰藉ということが統治者の本務だという意識がないからでしょう。天皇は権力者にとって「玉」、「御輿」でいいと、そう思っている。僕は安倍政権の人々からは天皇に対する素朴な崇敬の念を感じません。彼らはただ国民の感情的なエネルギーを動員するための「ツール」として天皇制をどう利用するかしか考えていない。そのためには天皇を御簾の奥に幽閉しておく必要がある。国事行為だけやっていればいい、個人的な「お言葉」など語ってくれるなというのが政権の本音でしょう。それに、今回、陛下が天皇制の「あり方」についてはっきりしたステートメントを発表された背景には、安倍政権が国のかたちを変えようとしていることに対する危機感が伏流していると私は思っています。
正面切っては言われませんけれど、僕は感じます。

―― 天皇陛下のお言葉は、そもそも日本にとって天皇とは何か、という問題を提起していると思います。

この70年間、私も含めて日本人はほとんど「天皇制はいかにあるべきか」について真剣な議論をしてこなかった。私が記憶する限り、戦後間もない時期が最も天皇制に対する関心は低かったと思います。「天皇制廃止」を主張する人が周りにいくらもいたし、冷笑的に「天ちゃん」と呼ぶ人もいた。それだけ戦時中に「天皇の名において」バカな連中がなしたことに対する不快感と嫌悪感が強かったのだと思います。東京育ちの私の周囲には、天皇に対する素朴な崇敬の念を表す人はほとんどいませんでした。私もそういう環境の中で育ちましたから、当然のように「現代社会に太古の遺物みたいな天皇制があるのは不自然だ。何より立憲デモクラシーと天皇制は原理的に両立するはずがない」と思っていました。その頃に天皇制の存否についてアンケートを受けたら、たぶん「廃止した方がいい」と答えたと思います。
しかし、それからだんだん大きくなって、他国々の統治システムについて知り、自分自身も政治的なことにかかわるようになって、話はそれほど簡単ではないと思うようになりました。ソ連や中国のような国家は、たしかに単一の政治的原理に基づいて統治されているわけですけれども、どうも息苦しい。そういう国では権力者たちはほとんど不可避的に腐敗してゆく。アメリカやフランスの場合は、それとは逆に頻繁に政権交代が行われ、対立する二つの統治原理が矛盾葛藤しているけれど、どうもこちらの方が住みやすそうに見える。そういう国の方が統治者が間違った政策を採択したあとの補正や復元の力が強い。どうやら「楕円的」というか、二つの統治原理が拮抗している政体の方が「一枚岩」の政体よりも健全らしい、そう思うようになりました。
翻って日本を見た場合には、天皇制と立憲デモクラシーという「氷炭相容れざるもの」が拮抗しつつ共存している。でも、考えてみたら、日本列島では、卑弥呼の時代のヒメヒコ制から、摂関政治、征夷大将軍による幕府政治に至るまで、祭祀にかかわる天皇と軍事にかかわる世俗権力者という「二つの焦点」を持つ楕円形の統治システムが続いてきたわけです。この二つの原理が拮抗し、葛藤している間は、システムは比較的安定的で風通しのよい状態にあり、拮抗関係が崩れて、一方が他方を併呑すると、社会が硬直化し、息苦しくなり、ついにはシステムクラッシュに至る。
大日本帝国の最大の失敗は、「統帥権」という天皇に属し、世俗政治とは隔離されているはずの力を帷幄奏上権を持つ一握りの軍人が占有したことにあります。「統帥権」というアイディアそのものは天皇の力を不安定な政党政治から隔離しておくための工夫だったのでしょうが、「統帥権干犯」というトリッキーなロジックを軍部が「発見」したせいで、いかなる国内的な力にも制約を受けない巨大な権力機構が出来てしまった。拮抗すべき祭祀的な原理と軍事的な原理を一つにしてしまうという日本の政治文化における最大の「タブー」を犯したせいで、日本は敗戦という巨大な災厄を呼び込んだ。私はそう理解しています。
だから今は、昔の私みたいに「立憲デモクラシーと天皇制は原理的に両立しない」と言う人には、「両立しがたい二つの原理が併存している国の方が住みやすいのだ」と言いた。単一原理で統治される「一枚岩」の政体は、二原理が拮抗している政体よりもむしろ脆弱で息苦しい。それよりは中心が二つの政体の方が生命力が強い。日本の場合は、その一つの焦点として天皇制がある。これは一つの政治的発明だ。そう考えるようになってから僕は天皇主義者に変わったのです。
―― 「國體護持」ですね(笑)

「國體」というのは、この二つの中心の間で推力と斥力が働き合い、微妙なバランスを保つプロセスそのものことだと私は理解しています。「國體」というものを単一の政治原理のことでもないし、単一の政体のことでもない、一種の均衡状態、運動過程として理解したい。祭祀的原理と軍事的・政治的的原理が拮抗し合い、葛藤し合い、干渉し合い、決して単一の政治綱領として教条化したり、制度として惰性化しないこと、それこそが日本の伝統的な「国柄」でしょう。
安倍内閣の大臣たちが言う「国柄」というのは固定的なイデオロギーや強権的な政治支配のことですけれど、僕はそういう硬直化した思考ほど日本のあるべき「国柄」の実現を妨げるものはないと思います。
そう考えるようになった一因は、何年か前に韓国のリベラルな知識人と話したときに、「日本は天皇制があって羨ましい」と言われたことです。あまりに意外な言葉だったので、理由を尋ねるとこう答えてくれました。
「韓国の国家元首は大統領です。でも、大統領は世俗的な権力者にすぎず、いかなる霊的価値も担わないし、倫理の体現者でもない。だから、大統領自身もその一党もつい権威をかさに不道徳なふるまいを行う。そして、離職後に、元大統領が逮捕され、裁判にかけられるという場面が繰り返される。ついこの間まで自分たちが戴いていた統治者が実は不道徳な人物であったという事実は、韓国民の国民統合や社会道徳の形成を深く傷つけています。それに比べると、日本には天皇がいる。総理大臣がどれほど不道徳な人物であっても、無能な人物であっても、天皇が体現している道徳的なインテグリティ(高潔性)は傷つかない。そうやって天皇は国民統合と倫理の中心として社会的安定に寄与している。それに類する仕組みがわが国にはないのです」という話を聞きました。
言われてみれば確かにそうだと思いました。日本でも総理大臣が国家元首で、国民統合の象徴であり、人としての模範であるとされたら、たちまち国中が道徳的な無規範状態に陥ってしまうでしょう。
18世紀の近代市民社会論では、「自分さえよければそれでいい」という考え方を全員がすると社会は「万人の万人に対する戦い」となり、かえって自己利益を安定的に確保できない。だから、私権の制限を受け入れ、私利の追求を自制して、「公共の福利」を配慮した方が確実に私権・私利を守れるのだ、という説明がなされます。「自己利益の追求を第一に考える人間は、その利己心ゆえに、自己利益の追求を控えて、公的権力に私権を委譲することに同意する」というロジックです。「真に利己的な人間は非利己的にふるまう」というわけです。
でも、私はこの近代市民社会論のロジックはもう現代日本においては破綻していると思います。「このまま利己的にふるまい続けると、自己利益の安定的な確保さえむずかしくなる」ということに気づくためには、それなりの論理的思考力と想像力が要るわけですけれど、現代日本人にはもうそれが期待できない。
しかし、それでもまだわが国には「非利己的にふるまうこと」を自分の責務だと思っている人がいる。それだけをおのれの存在理由としている人がいる。それが天皇です。
1億2700万人の日本国民の安寧をただ祈る。列島に暮らすすべての人々、人種や宗教や言語やイデオロギーにかかわらず、この土地に住むすべての人々の安寧と幸福を祈ること、それを本務とする人がいる。そういう人だけが国民統合の象徴たりうる。
私は天皇制がなければ、今の日本社会はもっと手の付けられない不道徳、無秩序状態に陥っているだろうと思っています。

―― 確かに東日本大震災の時、菅直人総理大臣しかいなかったら、もっと悲惨な状況になっていたと思います。

震災の直後に、総理大臣と天皇陛下のメッセージが並んで新聞に載っていました。全く手触りが違っていた。総理大臣のメッセージは可もなく不可もない、何の感情もこもっていない官僚的作文でしたけれど、天皇陛下のメッセージは行間から被災者への惻隠の情が溢れていた。その二つを読み比べて、「国家的危機に際してこんな言葉しか出しえない政治家は国民統合の中心軸にはなれない。でも天皇陛下なら国民を一つにまとめられるだろう」と思いました。

―― 内田さんは天皇の役割について「権威」ではなく「霊的権力」「道徳的中心」という言葉を使っています。

道徳というのは別に「こういうふうにふるまうことが道徳的です」というリストがあって、それに従うことではありません。そう考えている人がほとんどですけれど、まったく違います。道徳というのは、何十年、何百年という長い時間のスパンの中にわが身を置いて、自分がなすべきことを考えるという思考習慣のことです。ある行為の良し悪しの判断というのは、リストと照合して決められることではありません。「私がこれをしたら、死者たちはどう思うだろう」「私がこれをしたら未来の世代はどう評価するだろう」というふうに考える習慣のことを「道徳的」と言うのです。
道徳心がない人間のことを「今だけ、金だけ、自分だけ」とよく言いますけれど、言い得て妙だと思います。不道徳的であることの最大の条件は「今だけ」という考え方をすることです。四半期ベースでものごとの当否を決めるような態度のことを「不道徳的」と言うのです。
ですから、次の選挙まで一時的に権力を付託されているに過ぎない総理大臣と悠久の歴史の中で自分の言動の適否を判断しなければならない天皇では、そもそも採用している「時間的スパン」が違います。安倍政権は赤字国債の発行でも、官製相場の維持でも、原発再稼働でも、要するに「今の支持率」を維持するためには何でもします。死者たちはどう思うか、未来の世代はどう評価するかというようなことは考えていない。自分の任期が終わったあとの日本についてはほとんど何も考えていない。
天皇の道徳性というのは、そのときに天皇の地位にある個人の資質に担保されるわけではありません。1500年という時間的スパンの中に自分を置いて、「今何をなすべきか」を考えなければいけない。そのためには「もうここにはいない」死者たちを身近に感じ、「まだここにはいない」未来世代をも身近に感じるという感受性が必要です。私が「霊的」というのはそのことです。天皇が霊的な存在であり、道徳的中心だというのは、そういう意味です。

―― 古来、天皇は霊的役割を担ってきました。しかし、そもそも近代天皇制国家とは矛盾ではないか、天皇と近代は両立するのか、という問題があります。

現に両立しているじゃないですか。むしろ非常によく機能している。象徴天皇制は日本国憲法下において、昭和天皇と今上陛下の思索と実践によって作り上げられた独特の政治的装置です。長い天皇制の歴史の中でも稀有な成功を収めたモデルとして評価してよいと私は思います。国民の間に、特定の政治イデオロギーとかかわらず、天皇に対する自然な崇敬の念が静かに定着したということは近世以後にはないんじゃないですか。江戸時代には天皇はほとんど社会的プレゼンスがなかったし、戦前の天皇崇拝はあまりにファナティックでした。肩の力が抜けた状態で、安らかに天皇を仰ぎ見ることができる時代はここ数百年で初めてなんじゃないですか。

―― 最後に、これから我々はいかに天皇を戴いていくべきか伺いたいと思います。

それについては、私にはまだよく分からないです。世界中で日本だけが近代国民国家、近代市民社会の形態をとりながら古来の天皇制を存続させている。霊的権力と世俗権力の二重構造が統治システムとして機能し、天皇が象徴的行為を通じて日本統合を果たしている。こんな国は見回すと世界で日本しかない。どこかよそに「成功事例」があれば、それを参照にできますけれど、とりあえず参照できるのは、過去の天皇制が「うまく行っていた時代」しかない。けれども、それを採用するわけにはゆかない。社会の仕組みが違い過ぎます。
かつてレヴィ=ストロースは人間にとって真に重要な社会制度はその起源が「闇」の中に消えていて、たどることができないと書いていました。親族や言語や交換は「人間がそれなしでは生きてゆけない制度」ですけれども、その起源は知られていない。天皇制もまた日本人にとっては「その起源が闇の中に消えている」ほどに太古的な制度だと思います。けれども、21世紀まで生き残り、現にこうして順調に機能して、社会的安定の基盤になっている。いずれ天皇制をめぐる議論で国論が二分されて、社会不安が醸成されるリスクを予想した人はかつておりましたが、天皇制が健全に機能して、政治の暴走を抑止する働きをするなんて、50年前には誰一人予測していなかった。そのことに現代日本人はもっと「驚いて」いいんじゃないですか。

天皇の意思をも握り潰す安倍政権 

<陛下>退位議論に「ショック」 宮内庁幹部「生き方否定」

毎日新聞 5/21(日)

 天皇陛下の退位を巡る政府の有識者会議で、昨年11月のヒアリングの際に保守系の専門家から「天皇は祈っているだけでよい」などの意見が出たことに、陛下が「ヒアリングで批判をされたことがショックだった」との強い不満を漏らされていたことが明らかになった。陛下の考えは宮内庁側の関係者を通じて首相官邸に伝えられた。

【図で分かりやすく】退位を巡る出来事と安倍晋三首相の発言

 陛下は、有識者会議の議論が一代限りで退位を実現する方向で進んでいたことについて「一代限りでは自分のわがままと思われるのでよくない。制度化でなければならない」と語り、制度化を実現するよう求めた。「自分の意志が曲げられるとは思っていなかった」とも話していて、政府方針に不満を示したという。

 宮内庁関係者は「陛下はやるせない気持ちになっていた。陛下のやってこられた活動を知らないのか」と話す。

 ヒアリングでは、安倍晋三首相の意向を反映して対象に選ばれた平川祐弘東京大名誉教授や渡部昇一上智大名誉教授(故人)ら保守系の専門家が、「天皇家は続くことと祈ることに意味がある。それ以上を天皇の役割と考えるのはいかがなものか」などと発言。被災地訪問などの公務を縮小して負担を軽減し、宮中祭祀(さいし)だけを続ければ退位する必要はないとの主張を展開した。陛下と個人的にも親しい関係者は「陛下に対して失礼だ」と話す。

 陛下の公務は、象徴天皇制を続けていくために不可欠な国民の理解と共感を得るため、皇后さまとともに試行錯誤しながら「全身全霊」(昨年8月のおことば)で作り上げたものだ。保守系の主張は陛下の公務を不可欠ではないと位置づけた。陛下の生き方を「全否定する内容」(宮内庁幹部)だったため、陛下は強い不満を感じたとみられる。

 宮内庁幹部は陛下の不満を当然だとしたうえで、「陛下は抽象的に祈っているのではない。一人一人の国民と向き合っていることが、国民の安寧と平穏を祈ることの血肉となっている。この作業がなければ空虚な祈りでしかない」と説明する。

 陛下が、昨年8月に退位の意向がにじむおことばを表明したのは、憲法に規定された象徴天皇の意味を深く考え抜いた結果だ。被災地訪問など日々の公務と祈りによって、国民の理解と共感を新たにし続けなければ、天皇であり続けることはできないという強い思いがある。【遠山和宏】

 【ことば】退位の有識者会議

 天皇陛下が昨年8月、退位の意向がにじむおことばを公表したのを踏まえ、政府が設置。10月から議論を始めた。学者ら6人で構成し、正式名称は「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」。11月に16人の専門家から意見聴取し、今年1月の会合で陛下一代限りの特例法制定を事実上推す論点整理をまとめた。4月に最終報告を首相に提出した。

陛下は、有識者会議の議論が一代限りで退位を実現する方向で進んでいたことについて「一代限りでは自分のわがままと思われるのでよくない。制度化でなければならない」と語り、制度化を実現するよう求めた。「自分の意志が曲げられるとは思っていなかった」とも話していて、政府方針に不満を示したという。とある様に、
陛下も安倍政権の独断専横にご不満であらせられるそうである。

平和憲法の下、象徴天皇像を築き上げられた今上陛下のお考えを、
国民的議論を経る事なく、安倍政権は一存で否定し、
明治憲法下の皇室に戻そうと目論んでいる。

有識者会議という名で公平を期している振りをしながら、
自分の意を受けた学者を使って安倍総理は独断専横に、
特例法で皇室典範の改正もせず、一代限りの退位法を断行しようとしている。

安倍総理は時によっては憲法を無視したり、捻じ曲げたりするくせに、
天皇は国政に関わってはいけないという憲法三条を利用して、
天皇の意思を独断で排除している。
第三条  天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。 )

天皇家は「続くことと祈ることに意味がある」のだから、
今上天皇の様に、天皇の務めを全身全霊で果すには高齢すぎるなどという心配は無用であると安倍政権は、
今上天皇のお考えを、頭ごなし切って捨てるような裁決を下そうとしている。

安倍政権の求める天皇像は、国民に全然寄り添う事なく、
宮殿の奥深くでお行儀良くしてくれていたら良いというものの様である。
天皇陛下が何をお考えか、国民に知られない方が、
政府は天皇の名を使って好き勝手が出来るという考えを安倍総理は隠そうともしていない。

明治憲法下の天皇制なら、
政府は天皇陛下のために命がけで働けと、国民に命令できる。
国民にとっては、再び天皇の名を騙る政府を許すなどトンでもない事である。
天皇陛下にとっても、政府の都合で戦争をはじめているのに、
その戦争の責任を一身に担わされる戦前のような制度に戻されるなど、
絶対に受け入れ難いとお思いなのではないだろうか?

そして、安倍政権はそういう天皇像をこそ求めているという事なのだろう。

詰まり、昭和天皇が戦時中に苦しみぬかれた経験から、戦後そういう天皇像を否定する事で、
新しい天皇像・象徴天皇のあるべき姿を模索し続けて来られた今上天皇には、
安倍政権の目論む戦前の軍国主義的天皇になど、
絶対に戻されたくないとお考えなのだろうと拝察される。

安倍政権は衆参両院で3分の2以上の議席を獲得している事を武器に、
森友学園疑獄、加計学園疑獄で、違法行為を命じた証拠を提示されても、
示された証拠を握り潰して終う横道振りである。
その上天皇陛下に対して此処まで人権蹂躙とさえ言える様な御扱いをしていると言うのに、
如何して天皇の右翼を任じる人々が、
不敬専横極まりない安倍総理を、放置しているのだろう?
安倍総理が即刻辞任に追い込まれないことが、不思議でならない今日このごろである。

 秋篠宮眞子さまのご婚約、安倍政権の皇室利用リークに思う 

田中龍作ジャーナル「皇室の政治利用 「安倍スピン」に乗せられるな」によると、
秋篠宮様の長女眞子さまのご婚約について、
宮内庁職員は安倍政権の勝手な皇室利用に、かなりご立腹のようだったそうである。
田中龍作ジャーナルの記事の一部を引用させて頂く。
    (前略)
宮内庁の職員が田中に話した言葉が意味深だった ―

 「これは発表ではありません。きのうNHKが(夕方)7時のニュースで勝手に流しただけですから」。

 宮内庁職員は不愉快そうに語った。官邸の差し金によるリークに腹を立てていることがうかがえた
    (中略)
「記者クラブではない、あの人(田中)が入れるのはおかしい」と抗議するカメラマンもいたが、宮内庁職員は、田中の取材を黙認した。官邸のスピンを海外に伝えてくれればと、思ったのだろうか。 

 スピンは明らかに「共謀罪」「森友・加計学園」隠しである

秋篠宮家は安倍政権によって皇嗣殿下という地位につけてもらい、
皇族費をこれまでの3倍にしてもらっているのだそうである。(こちら
安倍政権は自分の言いなりになる皇族と組んで、
とんでもない悪い事をしそうだと、私は以前から危惧していたが、
やっぱり、という感じである。

そして今回の事で、
秋篠宮家は安倍政権の誘いに乗る気満々であるという事が、
証明された様な気がする。

悪辣な内閣と組んで国を壟断するような皇室だったら、
天皇制は廃止した方が良いのではないかと思う。
その方が将来戦争屋内閣によって、
戦争責任者にされる心配がなくなるだけ、
皇室にとっても良いのではないだろうか?

もし将来日本が、混沌とする時代が来た時に、
天皇に中心になって頂くためにも、
天皇の信用を落とさせる現内閣の様な、アメリカの戦争屋従属内閣の下の天皇制は、
廃止した方が国民のためでもあると思う。

追記
関電は17日高浜原発4号機の再稼動を強行した模様である。(こちら
安倍政権は北朝鮮のミサイルを恐れて、東京の地下鉄を停止させたそうだと聞くが、
比較にならないくらい危険な高浜原発の再稼動は、停止させる事なく、
関電のなすがままにさせているのはどうしたことだろう?

安倍政権が北朝鮮危機を煽っているのは、
自分自身の政治目的(例えば森友疑獄隠し、軍事予算増強etc)の為であって、
国民の命を守るのが目的ではない。
安倍総理は少しも国民の身を案じてなどいない、
案じている振りをしているだけなのだという事が如実に見える、
安倍政権が、ミサイルを発射したと危惧した振りをし非難し続けている北朝鮮の、
目と鼻の先の日本海沿岸にある関電高浜原発の今回の再稼動容認であった。

1日も早い安倍政権の追放を、ひたすら願っている。


続きに《 秋篠宮家と加計学園と安倍首相の浅からぬ関係 》。を複写させて頂く。

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大衆の意思を遂行するのが民主主義だったby植草一秀 

植草一秀の「知られざる真実」韓国大統領選は民主主義の勝利である に大衆迎合主義に付いての考えを書いておられました。
所謂ポピュリズムと批判的に言われる言葉の意味です。
大衆迎合主義と批判する者は、政治の決定権は大衆ではなく、
別の存在が決定権を持つべきであると思っている事を顕わしている、との見方。

確かに・・・・と思いました。

詰まり国政は大衆が決めるべきではないという信念を持っている者が、
民主主義の旗手の振りをしている所に、現在の民主主義国は置かれているから、
民主主義等夢幻に過ぎなくなっているのだと思います。

しかしながら、強欲な権力者から毒饅頭を隠して、良さそうなことを言われ、
易々と騙されるものだらけであるという面が国民の側にもあるから、
一概にポピュリズムという批判を、非難出来ない面もあるのかも知れませんね。

結局天下というものは、どんな制度を創っても、
より強欲でより賢く度胸のある者に、横領されるように出来ているのかも知れませんね。

そして、強欲集団の無慈悲が過ぎるとき、
それを是としない強欲でない賢者が、弱者の為に一肌脱ごうと立ち上がる、
そういう鬩ぎ合いを体感できるというのが、この地球という星の持ち味となっているのかも知れません。
・・・・なんて又変な事を書いてしまいましたが・・・・・


「大衆迎合主義」


という言葉は、


大衆ではない、別の存在が決定権を有しているとの意味を表している。


決定権を有する別の存在、


つまり、


政治社会を支配する支配者が大衆とは別に存在する


との考え方を示している。


その支配者は大衆の意思に迎合してはならない。


これが「大衆迎合主義」=「ポピュリズム」を批判する構造である。


そうではない。


「民主主義」


とは、


大衆が主人公なのだ。


民衆が主権者であり、民衆の意思に沿って政治を運営する仕組み。


これが民主主義なのだ。


つまり、米国の大統領選結果も、英国の国民投票結果も、


「民主主義」そのものであり、


「ポピュリズム」


ではなく


「デモクラシー」


である。


18世紀の産業革命以降、資本主義と民主主義は


調和の関係にはなく、緊張の関係にある。


資本が資本の利益の極大化を求める行動と


民主主義は


対立するのである。


つまり、利益極大化を追求する大資本が支配する資本主義と


民衆が支配者である民主主義とは常に緊張関係、対立関係が生じるのである。


この大資本=資本主義にとって、民主主義は「天敵」であるとも言える。


だからこそ、民衆が民衆の視点で判断を下すときに、大資本はこれを否定すべく


「ポピュリズム」


と表現して、誹謗中傷するのである。


韓国の主権者は大資本の支配に抗して、革新政権を樹立した。


韓国民衆の力量を高く評価しなければならない。


そして、私たちの国、日本でも、政治の改新を実現しなければならない。


主権者の意思に沿う政治体制を確立するのである。

安倍総理には憲法改正を言う権利はない。・ 


年施行目標」の見出しで、安倍晋三首相のインタビューを掲載した。

   ここで安倍首相は、東京五輪・パラリンピックが行われる20年を目標に、憲法9条に自衛隊の根拠規定を設けるなどの改正を行いたいとの考えを示した。

   ここで安倍首相は、東京五輪・パラリンピックが行われる20年を目標に、憲法9条に自衛隊の根拠規定を設けるなどの改正を行いたいとの考えを示した。具体的な改正内容や時期を明言したことで、改正に向けた具体的な議論が加速しそう。
    (以下略)

安倍総理は憲法記念日に憲法改正を行いたいと言う考えを示したそうです。

安倍総理の嫌いな憲法には、
第九十九条  天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

と言う条項があるのをご存じのようで、国会で長妻議員の質問に対し、

自民党総裁としての考え方は相当詳しく聞読売新に書いてある「ぜひそれを熟読」していただいてもいい。(こちら)と言ったそうです。


例え自民党総裁としての意見であっても、現在総理大臣であることは厳然たる事実なのですから、
安倍総理は憲法99条の,大臣は憲法を尊重し擁護する義務に違反すると思います。

安倍総理が憲法違反を犯したのは今回が初めてではないとは言え、
憲法を尊重し擁護せねばならない総理大臣が、
率先して憲法改正を主張したからには、
総理大臣を辞任してからにするという姿勢を示さねばないと思います。

憲法違反のままの安倍総理が改憲を主導したのでは、
改正案の良し悪しに関わらず、
安部晋三氏には憲法を守る気など全然ないのに、何のために憲法改正などに拘るのだろう?
との疑いを国民が持つことになるのは、致し方ないことになるのではないでしょうか?

森友学園問題への関与も逃れられない事が明白になりつつありますし、
安倍総理は潔く辞任して、一市民として改憲を主張なさるべきではないでしょうか。
安倍総理の改憲案は日本国の国情を変えてしまう位のものだそうですから、
このまま安倍政権下で憲法改正を強行したのでは、
総理大臣が国をひっくり返したことになってしまいます。(こちら

安倍総理には憲法改正を言い出す権利はないという事を、肝に銘じてほしいものです。

天橋立へ家族旅行 

5月7日から8日に掛けて天橋立に行って来ました。
私も娘も天の橋立ては初めてではなかったのですが、
夫が行った事がないと言っていたので、思い切って出かける事にしました。
二十数年ぶりの家族旅行でしたが、
80代半ばと70代半ばの者を引率しての家族旅行で、
小さかった頃とは逆に、今度は娘が大変だったかも知れません。

乗り遅れを心配して一寸早いバスで出かけたら、
京都駅で予定の電車の出発時間まで。40分も待つ事になってしまいました。
天の橋立ては舞鶴方面に行く電車と同じ電車(途中で切り離される)に乗る事になっています。
待合室にはセーラー服に帽子を被った青年が、個々に何人か電車を待っておられました。
帽子には「舞鶴敦賀隊」と書かれた横帯が付いていました。
自衛隊の隊員さんたちのようです。
自衛隊員さんたちもゴールデンウィークの、お休みがあったのでしょうか。
7日はゴールデンウィーク最後の日ですから、
帰省先から個々に隊に帰ろうとしておられる様に見受けられました。

北朝鮮危機は日米韓の国民に対するプロパガンダなのだろうと思っていましたが、
やっぱり、国民に危機感を煽ろうとしていただけだったのですね。
政府や公務員(自衛隊員も含む)は普通どおりにお休みには、お休みをさせてもらえていたようです。
大臣方は海外視察という名の海外旅行を楽しんでおられたようですし・・・・・

ゴールデンウィークの最初の頃の天気予報では、
ずっと良いお天気の予報になっていたので、
7~8日ごろは雨の周期が来るのかと心配していたのですが、
天気予報も徐々に変わって行って、
最終的には私達の旅行予定日前後は、曇りや雨マークとなり、
7~8日はお日様マークと変わっていました。

日本の気象台は優秀な様で予報に違わず、
旅行中は2日間とも、願ってもない様な晴天で、しかもそれ程暑くもならず、
本当に有り難い限りの天候に恵まれた2日間でした。
(9日の今日は天気予報どおり、お昼過ぎから弱い雨が降っています。)

京都から天の橋立てまでの車窓は、
新緑の候という言葉通り、山々は萌え出したばかりの若い芽が清々しく、
所々に自生の藤の花が咲き乱れていました。

12時半到着の電車だったので、駅前で昼食をとった後、
宿に荷物を預かってもらって、天橋立に向かいました。
日向は陽差しがきつくて日傘がなくては敵わない感じでしたが、
天橋立の松の道は両側を海に挟まれているし、松林の木の下陰は涼しく、
私達のような年寄り連れでも、楽に全部歩ききることが出来ました。

モノレールで山上に上って、天の橋立ての股覘きをしたのですが、
若い頃には本当に天にかかった橋の様な気がしたのに、
今回は何故か、天と地の逆転現象を感じる事が出来ませんでした。
やっぱり感覚の老化現象なのでしょうか。

山上のお寺に詣で一通りの行程を済まして下山し、
戻りは観光船で帰りました。

日本海のすぐ傍の宿だから、お魚が美味しいだろうとの期待は裏切られなかったのですが、
海の幸に拘り過ぎられているからか、
最初筍豆腐という物が出た次からは、お刺身につまの大根があっただけで、
煮魚、魚の蒸し物、魚と貝の焼き物、鮨、酢の物etc、ハマグリのお吸い物にも、
三つ葉の1枚も入ってなくて、野菜類が一切入っていませんでした。

初めは美味しいねと言いながら食べていたのですが、
段々と野菜のない料理に嫌気が差して来ました。

次は締めにご飯をと言われた時には、
今度こそお野菜の入ったお味噌汁が出るかと楽しみにしていましたが、
鯛茶付けという事で、ご飯の上に鯛の切り身が載っているだけでした。
「次にデザートを持ってきます。」と言われた時、
デザートと言えば果物だろうから、今度こそ植物性の物が食べられるかと期待して待っていましたら、
アイスクリームを持って来られました。
これにはホトホト顎を出した感じでした。
娘は夫や私が食べきれないからと言って勧めた物まで食べていましたので、
余計負担が大きかったものと見え、
夜中にお魚のお化けに襲われる夢を見た等と言っていました。

テレビ等で見ている時には、活きの良いお魚だったら、幾らでも食べられるだろうと思っていましたが、
いくら活きが良くても、魚ばかりだったら嫌になるのだと言うことを、
たった一日で思い知ることが出来ました。

翌朝の食事はさすがにお野菜も出ており、
宿の人は総じて親切な応対をして下さったのですが、
此の魚介類以外殆ど出されないという方針だけは、
何とかされた方が良かろうと思いました。

そう助言してあげたい気分になりましたが、
そんな事を言ったら相手を傷つけるだけになりかねないので、
そんな事、言い出すことは出来ませんでしたが・・・・・

昨年夏直腸がんの手術をした夫ですが、
お陰様ですっかり元気になっていて、
宿の夕食で最初2本のお銚子を注文した時、
2本位なら良いかなと思っていましたら、
どんどん飲み進んで行き、全部で4本も飲んでいました。

翌日二日酔いが出てないかと気になって聞いてみましたら、
夫は「全然何ともない。」と言って、
その晩、家に帰っても又普通どおりに、お酒を飲んでいました。

手術後6ヶ月検診の時(2月)、肝臓に癌と思われる小さな影が3つあるから、
手術をした方が良いのではないか、と執刀医さんに言われたのですが、
前回の手術から1年もしない内に又手術などしたら、
幾ら年齢よりは若い体だからと言っても、
84歳の老人には負担が大きすぎるからと、
お医者さんのご意見を無視する事にしたのでした。

癌の手術後転移したと言われ手術したら、
次から次にと転移して行って、
それを次々手術していくうちに、とうとうご主人は亡くなって終ったという奥さんの話を、
テレビか何かで聴いたことがあったので、
娘も私も「手術はよした方が良くない?」と、夫に言っていたのですが、
簡単な手術だとお医者さんも言っておられるのだから、
今のうちに手術した方が良かろうと、夫は最初は手術に拘っていたのでした。

しかし肝臓の手術は、大腸癌ほど簡単ではないかもしれないと知って、
老人は例え癌が大きくなるとしても、若い人程進行は早くないから、
1年後にもう一度見てもらってからでも晩くはないだろうという事になり、
手術しないことにしたのでした。
(抗がん剤も必要なかろうという事で、癌に関係する薬も一切飲まないでいます。)

夫は一泊旅行で少々お酒を過ごし、
旅行2日目の昨日も観光や、帰宅の為の電車の乗り降りで、歩き回らされたにもかかわらず、
至って元気で、今日も普通どおりにしています。

お天気にも恵まれ、夫の元気なことも確かめられて、
本当に良い旅行をすることが出来た、有り難いゴールデンウィークでした。





世界中には戦争に巻き込まれて殺されている子供達がいる現実 

今日は子供の日です。
ゴールデンウイークで、お隣に来られたお孫さん達で、
常には静まり返っている我家の前の道も、俄かに賑やかになっています。
子供達が楽しそうに遊んでいる声には癒されますね。

日本では36年間子供が減り続けているそうですが、外国ではどうなのでしょう?
トランプ大統領はシリアで科学兵器で子供達が殺されたという事で、
シリア政府がやったという確証をを掴む前(調査する前)に、シリアを攻撃させましたが、
ガザでは子供達がドローンからの爆撃で、日常的に殺されているそうです。
爆撃しているのがイスラエルだと分かっていても、
トランプ大統領の心が少しも痛まないのは何故なのでしょう?

日本政府はシリアが化学兵器を用いて子供達を殺したのだから、
アメリカがシリアを爆撃したのは当然の制裁であると、アメリカを擁護しながら、
ガザの大勢の子供を含む大勢の人々を殺す為のドローン開発に、
日本が関わる事に如何して平気でいられるのでしょうね。

以下に田中龍作ジャーナルの記事を複写させて頂きます。

ガザの子供を殺してどうするのだ? イスラエルと共同兵器開発する日本

即死状態で救急病院に運ばれてくる子供たちの骸は、瞬く間に白い布に巻かれた。命のあっけなさに愕然とする他なかった。=2014年7月、ガザ市内 撮影:筆者=

即死状態で救急病院に運ばれてくる子供たちの骸は、瞬く間に白い布に巻かれた。命のあっけなさに愕然とする他なかった。=2014年7月、ガザ市内 撮影:筆者=

 きょうは端午の節句。中東に「子供の日」がある訳ではないが、子供の命があまりに軽いガザに思いを馳せる。

 2014年、イスラエルの軍事侵攻で2,000人余りのパレスチナ人が殺害された。

 救急病院の遺体安置室は、小さな骸が大半を占めていた。子供の犠牲が多いことを物語る。

 爆撃の中心は空爆だ。空爆の9割以上をドローンが占める。ドローンは24時間、重低音のエンジン音を立てて上空を旋回していた。

 そして陸上の移動物体を見つけるとミサイルを放つ。

 海岸の波打ち際で遊んでいた男の子たちが対人ミサイルに直撃された。

 陸上基地でモニター画面を見ながらドローンを操縦するイスラエル軍兵士は、攻撃対象が子供であることを十二分に認識していたはずだ。

 子供たちの親もドローンで殺されている。現地医療機関の調査によると、子供たちがPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症する原因のトップはドローンだ。

 日本はイスラエルと兵器を共同開発する、という。こともあろうにドローンだ。

 パレスチナの子供たちを殺してどうするのだ? 私たち日本の納税者に突きつけられている重くて厳しい問いである。



憲法記念日 安倍政権の憲法改悪には絶対に反対です 

今日は70回目の憲法記念日ですね。

私達国民を守る平和憲法を安倍政権は2020年施行を目標に改悪する積りにしているそうです。(こちら

憲法というのは国民の基本的人権を守る為、政治を縛る目的で創られたものだそうですから
本来内閣総理大臣が憲法改正を言い出すのは、99条違反になるのではないでしょうか?

第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。 )

第九十九条  天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。)

安倍総理の様に、戦争屋のために隣国と殊更揉め事を起こすような内閣は、
憲法によって拒否される筈のものでしょうに、
安倍内閣は憲法を無視して、集団的自衛権行使容認の法整備を強行しました。
そしてその第一回目の出動として、
米艦船の護衛と称する自衛隊の出動を強行しました。

集団的自衛権行使容認を決めた時安倍政権は、
「日本はアメリカに守ってもらっているのだから、日本もアメリカを守らねばおかしい。」と言っていました。
百歩譲ってその説に賛成するとしても、
今回の米艦船の護衛に、自衛隊が出動する理由は、皆無なのではないでしょうか?
米艦船は悠々と航行しているだけで、全然危険が迫っているわけではありません。
如何して自衛隊の護衛が必要なのでしょう?

この件一つ取って見ても、安倍政権が米戦争屋の手代として、
日本の自衛隊を、アメリカの手足としようと目論んでいる事が見え見えです。

そんな戦争屋商売の人間を、日本の総理大臣として居座らせ続けていたら、
日本人はどんな酷い目に合わされるか計り知れません。
(安倍総理お気に入りの稲田防衛相は、夫名義で軍事関係の会社の株を買いこんでいるそうですが・・・・・)

そう言えば、今朝の京都新聞によると、
民進党が憲法改正の案として、緊急時の議員任期延長を言っているそうですね。
そんな事をしたら、議員に居座る為に緊急時を作る(戦争を初める)という内閣が出かねません。
こんな危険なことを民進党が言っているなんて・・・・・

緊急時にこそ選挙をして、国民の意思を問うべき時ではないでしょうか?

安倍政権の憲法改悪には絶対反対です。

(続きに、憲法の全文を複写して置きました。)

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