『月刊日本』今月号に天皇制についてのインタビューが掲載された。このトピックについて長い話をしたのはこれがはじめてなので、ここに再録しておく。
―― 昨年8月8日の「お言葉」以来、天皇の在り方が問われています。死者という切り口から天皇を論じる内田さんにお話を伺いたい。
昨年のお言葉は天皇制の歴史の中でも画期的なものだったと思います。日本国憲法の公布から70年が経ちましたが、今の陛下は皇太子時代から日本国憲法下の象徴天皇とはいかなる存在で、何を果たすべきかについて考え続けてきました。その年来の思索をにじませた重い「お言葉」だったと私は受け止めています。
「お言葉」の中では、「象徴」という言葉が8回使われました。特に印象的だったのは、「象徴的行為」という言葉です。よく考えると、これは論理的には矛盾した言葉です。象徴とは記号的にそこにあるだけで機能するものであって、それを裏付ける実践は要求されない。しかし、陛下は形容矛盾をあえて犯すことで、象徴天皇にはそのために果たすべき「象徴的行為」があるという新しい天皇制解釈に踏み込んだ。その象徴的行為とは「鎮魂」と「慰藉」です。
ここでの「鎮魂」とは先の大戦で斃れた人々の霊を鎮めるための祈りのことです。陛下は実際に死者がそこで息絶えた現場まで足を運び、その土に膝をついて祈りを捧げてきました。もう一つの慰藉とは「時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うこと」と「お言葉」では表現されていますが、さまざまな災害の被災者を訪れ、同じように床に膝をついて、傷ついた生者たちに慰めの言葉をかけることを指しています。
死者たち、傷ついた人たちのかたわらにあること、つまり「共苦すること(コンパッション)」を陛下は象徴天皇の果たすべき「象徴的行為」と定義したわけです。
憲法第七条には、天皇の国事行為として、法律の公布、国会の召集、大臣や大使の認証、外国大使公使の接受などが列挙されており、最後に「儀式を行うこと」とあります。陛下はこの「儀式」が何であるかについての新しい解釈を示されたのです。それは宮中で行う宗教的な儀礼のことに限定されず、ひろく死者を悼み、苦しむ者のかたわらに寄り添うことである、と。
憲法第1条は天皇は「日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴」であると定義していますが、この「象徴」という言葉が何を意味するのか、日本国民はそれほど深く考えてきませんでした。天皇は存在するだけで、象徴の機能は果たせる。それ以上何か特別なことを天皇に期待すべきではないと思っていた。けれど、陛下は「お言葉」を通じて、「儀式」の新たな解釈を提示することで、そのような因習的な天皇制理解を刷新された。天皇制は「いかに伝統を現代に生かし,いきいきとして社会に内在し,人々の期待に応えていくか」という陛下の久しい宿題への、これが回答だったと私は思っています。
「象徴的行為」という表現を通じて、陛下は「象徴天皇には果たすべき具体的な行為があり、それは死者と苦しむもののかたわらに寄り添う鎮魂と慰藉の旅のことである」という「儀式」の新たな解釈を採られた。そして、それが飛行機に乗り、電車に乗って移動する具体的な旅である以上、それなりの身体的な負荷がかかる。だからこそ、高齢となった陛下には「全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくこと」が困難になったという実感があった。
「お言葉」についてのコメントを求められた識者の中には、国事行為を軽減すればいいというようなお門違いなことを言った者がおりましたけれど、「お言葉」をきちんと読んだ上の発言とはとても思えない。国会の召集や大臣の認証や大使の接受について「全身全霊をもって」というような言葉を使うはずがないでしょう。「全身全霊をもって」というのは「自分の命を削っても」という意味です。それは鎮魂と慰藉の旅のこと以外ではありえません。
天皇の第一義的な役割が祖霊の祭祀と国民の安寧と幸福を祈願すること、これは古代から変わりません。陛下はその伝統に則った上でさらに一歩を進め、象徴天皇の本務は死者たちの鎮魂と苦しむものの慰藉であるという「新解釈」を付け加えられた。これを明言したのは天皇制史上初めてのことです。現代における天皇制の本義をこれほどはっきりと示した言葉はないと思います。何より天皇陛下ご自身が天皇制の果たすべき本質的な役割について明確な定義を行ったというのは、前代未聞のことです。私が「画期的」と言うのはそのような意味においてです。
―― 天皇は非人称的な「象徴」(機関)であると同時に、人間的な生身の「個人」でもあります。象徴的行為では、天皇の象徴性(記号性)と人間性(個人性)という二つの側面が問題になると思います。
昭和天皇もそのような葛藤に苦しまれたと思います。大日本帝国憲法下の天皇はあまりに巨大な権限を賦与されていたために、人間的な感情の発露を許されなかった。だから、昭和天皇には余人の計り知れない、底知れないところがありました。開戦のとき、終戦のとき、天皇がほんとうは何を考え、何を望んでおられたのか、誰にも決定的なことは知らない。けれども、日本国憲法下での象徴天皇制70年間の経験は、今の陛下に「自分の気持ち」をある程度はっきりと告げることが必要だという確信をもたらした。
天皇は自分の個人的な気持ちを表すべきではないという考え方もあると思います。そういう考え方にも合理性があることを私は認めます。けれども、政治に関与することない象徴天皇制であっても、その時々の天皇の人間性が大きな社会的影響力を持つことは誰にも止められない。そうであるならば、私たち国民は天皇がどういう人柄で、どういう考えをする方であるかを知る必要がある。「国民の安寧と幸福」に資するために天皇制をどのようなものであるべきかは天皇陛下と共に、私たち国民も考え続ける義務があります。法的に一つの決定的なかたちを選んで、その制度の中に皇室を封じ込めて、それで「けりをつける」というような硬直的な構えは採るべきではない。
日本国憲法下における立憲デモクラシーと天皇制の併存という制度は、出発時点ではどういうものになるのか、想像もつかなかった。その制度が今こうしてはっきりとした輪郭を持ち、日本の社会的な安定の土台になるに至ったのには、皇室のご努力が与って大きかったと私は思います。天皇制がどうあるべきかについての踏み込んだ議論を私たち国民は怠ってきたわけですから。
しかし、国民が議論を怠っている間にも、陛下は天皇制がどういうものであるべきかについて熟考されてきた。「お言葉」にある「即位以来,私は国事行為を行うと共に,日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を,日々模索しつつ過ごして来ました」というのは、陛下の偽らざる実感だと思います。そして、その模索の結論が「象徴的行為を果すのが象徴天皇である」という新しい天皇制解釈でした。私はこの解釈を支持します。これを非とする人もいるでしょう。それでもいいと思います。天皇制の望ましいあり方について戦後70年ではじめて、それも天皇ご自身から示された新しい解釈なのですから、この当否について議論を深めてゆくのは私たち日本国民の権利であり、また義務であると思います。
―― 象徴的行為は死者と自然に関わる霊的行為です。これはシャーマニズム的だと思います。
どのような共同体にもそれを基礎づける霊的な物語があります。近代国家も例外ではありません。どの国も、その国が存在することの必然性と歴史的意味を語る「物語」を必要としている。天皇は伝統的に「シャーマン」としての機能を担ってきた。その本質的機能は今も変わりません。「日本国民統合の象徴」という言葉が意味しているのはそのことです。しかし、鎮魂慰霊すべき「死者」をどう設定するか、これが非常に難しい問題となります。
伝統的に、死者の鎮魂において政治的な対立や敵味方の区分は問題になりません。「死んだら誰もが仏になる」というのは、死者を識別してはならないという私たちの中に深く根付いた死生観を表す言葉です。「こちらの死者は鎮魂するが、こちらの死者については朽ちるに任せる」というような賢しらなことはしてはならない。
かといって、「四海同胞」なのだから人類誕生以来の死者全てを同時に平等に鎮魂慰霊すればいいという話にはならない。それでは「国民統合」の働きは果たせない。象徴的行為の目的はあくまでも国民の霊的統合ですから。どこかで、ここからここまでくらいが「私たちの『死者』」という、範囲について国民的合意を形成する必要がある。
だからこそ、陛下は戦地を訪れておられるのだと思います。宮中にとどまったまま祈ることももちろんできます。けれども、それでは誰を慰霊しているのか判然としなくなる。戦地にまで足を運び、敵も味方も現地の非戦闘員も亡くなった現場に立つのは、「ここで亡くなった人たち」というかたちで慰霊の対象を限定するためです。日本人死者たちのためだけに祈るわけではもちろんありません。アメリカ兵のためにも、フィリピン市民のためにも祈るけれど、「人類全体」のために祈っているわけでもない。そのような無限定性は祈りの霊的な意味をむしろ損なってしまう。死者はただの記号になってしまう。だから、「敵味方の区別なく」であり、かつ「まったく無限定ではない」という条件を満たすためには、どうしても「現場」に立つしかない。それが鎮魂慰霊のために各地を旅してきた陛下の経験的実感だと私は思います。
鎮魂は日本に限ったことではありません。他国には他国の霊的な物語がある。たとえば慰安婦問題がそうです。日韓合意は日本との経済関係や軍事的連携を優先するという合理的な考え方に基づくものだったけど、慰安婦問題を「最終的かつ不可逆的に」解決するには至らなかった。韓国の人たちが「このような謝罪では、死者が許してくれない」という死者の切迫を感じているからです。南京大虐殺もそうです。
鎮魂慰霊というのは生きている人間の実利にはかかわりがありません。そんなことをしてもらっても生きている人間たちの現実には何一つ「いいこと」があるわけではない。けれども、恨みを抱えて死んだ同胞の慰霊を十分に果たさなければ「何か悪いこと」が起きるということは世界のどの国でも、人々は実感しています。死者の切迫とは「これでは死者が浮かばれない」という焦燥のことです。そして、その感覚が現に外交や内政に強い影響を及ぼしている。「成仏できない死者たち」が現実の政治過程に強い影響を及ぼしているという点では、実は古代も現代も変わらない。その意味では私たちは今もまだ「シャーマニズムの時代」と地続きなのです。
ですから、「死者をして安らかに眠らせる」ということが近代国家にとってもきわめて重要な政治的行為となりうるのです。死者のことなんかどうでもいいじゃないかと思っていると、死者は蘇って、「祟り」をなす。死者の切迫をつねに身近に感じて、その怒りや恨みや悲しみを鎮めようと必死で祈り続ければ、死者はしだいに遠ざかり、その影響力も消えてゆく。そういう仕組みなんです。そのことはわれわれ現代人も実際には熟知している。だからこそ、陛下は旅を止めることができないのです。
― しかし安倍政権の対応は冷ややかでした。
官邸の人たちには鎮魂や慰藉ということが統治者の本務だという意識がないからでしょう。天皇は権力者にとって「玉」、「御輿」でいいと、そう思っている。僕は安倍政権の人々からは天皇に対する素朴な崇敬の念を感じません。彼らはただ国民の感情的なエネルギーを動員するための「ツール」として天皇制をどう利用するかしか考えていない。そのためには天皇を御簾の奥に幽閉しておく必要がある。国事行為だけやっていればいい、個人的な「お言葉」など語ってくれるなというのが政権の本音でしょう。それに、今回、陛下が天皇制の「あり方」についてはっきりしたステートメントを発表された背景には、安倍政権が国のかたちを変えようとしていることに対する危機感が伏流していると私は思っています。
正面切っては言われませんけれど、僕は感じます。
―― 天皇陛下のお言葉は、そもそも日本にとって天皇とは何か、という問題を提起していると思います。
この70年間、私も含めて日本人はほとんど「天皇制はいかにあるべきか」について真剣な議論をしてこなかった。私が記憶する限り、戦後間もない時期が最も天皇制に対する関心は低かったと思います。「天皇制廃止」を主張する人が周りにいくらもいたし、冷笑的に「天ちゃん」と呼ぶ人もいた。それだけ戦時中に「天皇の名において」バカな連中がなしたことに対する不快感と嫌悪感が強かったのだと思います。東京育ちの私の周囲には、天皇に対する素朴な崇敬の念を表す人はほとんどいませんでした。私もそういう環境の中で育ちましたから、当然のように「現代社会に太古の遺物みたいな天皇制があるのは不自然だ。何より立憲デモクラシーと天皇制は原理的に両立するはずがない」と思っていました。その頃に天皇制の存否についてアンケートを受けたら、たぶん「廃止した方がいい」と答えたと思います。
しかし、それからだんだん大きくなって、他国々の統治システムについて知り、自分自身も政治的なことにかかわるようになって、話はそれほど簡単ではないと思うようになりました。ソ連や中国のような国家は、たしかに単一の政治的原理に基づいて統治されているわけですけれども、どうも息苦しい。そういう国では権力者たちはほとんど不可避的に腐敗してゆく。アメリカやフランスの場合は、それとは逆に頻繁に政権交代が行われ、対立する二つの統治原理が矛盾葛藤しているけれど、どうもこちらの方が住みやすそうに見える。そういう国の方が統治者が間違った政策を採択したあとの補正や復元の力が強い。どうやら「楕円的」というか、二つの統治原理が拮抗している政体の方が「一枚岩」の政体よりも健全らしい、そう思うようになりました。
翻って日本を見た場合には、天皇制と立憲デモクラシーという「氷炭相容れざるもの」が拮抗しつつ共存している。でも、考えてみたら、日本列島では、卑弥呼の時代のヒメヒコ制から、摂関政治、征夷大将軍による幕府政治に至るまで、祭祀にかかわる天皇と軍事にかかわる世俗権力者という「二つの焦点」を持つ楕円形の統治システムが続いてきたわけです。この二つの原理が拮抗し、葛藤している間は、システムは比較的安定的で風通しのよい状態にあり、拮抗関係が崩れて、一方が他方を併呑すると、社会が硬直化し、息苦しくなり、ついにはシステムクラッシュに至る。
大日本帝国の最大の失敗は、「統帥権」という天皇に属し、世俗政治とは隔離されているはずの力を帷幄奏上権を持つ一握りの軍人が占有したことにあります。「統帥権」というアイディアそのものは天皇の力を不安定な政党政治から隔離しておくための工夫だったのでしょうが、「統帥権干犯」というトリッキーなロジックを軍部が「発見」したせいで、いかなる国内的な力にも制約を受けない巨大な権力機構が出来てしまった。拮抗すべき祭祀的な原理と軍事的な原理を一つにしてしまうという日本の政治文化における最大の「タブー」を犯したせいで、日本は敗戦という巨大な災厄を呼び込んだ。私はそう理解しています。
だから今は、昔の私みたいに「立憲デモクラシーと天皇制は原理的に両立しない」と言う人には、「両立しがたい二つの原理が併存している国の方が住みやすいのだ」と言いた。単一原理で統治される「一枚岩」の政体は、二原理が拮抗している政体よりもむしろ脆弱で息苦しい。それよりは中心が二つの政体の方が生命力が強い。日本の場合は、その一つの焦点として天皇制がある。これは一つの政治的発明だ。そう考えるようになってから僕は天皇主義者に変わったのです。
―― 「國體護持」ですね(笑)
「國體」というのは、この二つの中心の間で推力と斥力が働き合い、微妙なバランスを保つプロセスそのものことだと私は理解しています。「國體」というものを単一の政治原理のことでもないし、単一の政体のことでもない、一種の均衡状態、運動過程として理解したい。祭祀的原理と軍事的・政治的的原理が拮抗し合い、葛藤し合い、干渉し合い、決して単一の政治綱領として教条化したり、制度として惰性化しないこと、それこそが日本の伝統的な「国柄」でしょう。
安倍内閣の大臣たちが言う「国柄」というのは固定的なイデオロギーや強権的な政治支配のことですけれど、僕はそういう硬直化した思考ほど日本のあるべき「国柄」の実現を妨げるものはないと思います。
そう考えるようになった一因は、何年か前に韓国のリベラルな知識人と話したときに、「日本は天皇制があって羨ましい」と言われたことです。あまりに意外な言葉だったので、理由を尋ねるとこう答えてくれました。
「韓国の国家元首は大統領です。でも、大統領は世俗的な権力者にすぎず、いかなる霊的価値も担わないし、倫理の体現者でもない。だから、大統領自身もその一党もつい権威をかさに不道徳なふるまいを行う。そして、離職後に、元大統領が逮捕され、裁判にかけられるという場面が繰り返される。ついこの間まで自分たちが戴いていた統治者が実は不道徳な人物であったという事実は、韓国民の国民統合や社会道徳の形成を深く傷つけています。それに比べると、日本には天皇がいる。総理大臣がどれほど不道徳な人物であっても、無能な人物であっても、天皇が体現している道徳的なインテグリティ(高潔性)は傷つかない。そうやって天皇は国民統合と倫理の中心として社会的安定に寄与している。それに類する仕組みがわが国にはないのです」という話を聞きました。
言われてみれば確かにそうだと思いました。日本でも総理大臣が国家元首で、国民統合の象徴であり、人としての模範であるとされたら、たちまち国中が道徳的な無規範状態に陥ってしまうでしょう。
18世紀の近代市民社会論では、「自分さえよければそれでいい」という考え方を全員がすると社会は「万人の万人に対する戦い」となり、かえって自己利益を安定的に確保できない。だから、私権の制限を受け入れ、私利の追求を自制して、「公共の福利」を配慮した方が確実に私権・私利を守れるのだ、という説明がなされます。「自己利益の追求を第一に考える人間は、その利己心ゆえに、自己利益の追求を控えて、公的権力に私権を委譲することに同意する」というロジックです。「真に利己的な人間は非利己的にふるまう」というわけです。
でも、私はこの近代市民社会論のロジックはもう現代日本においては破綻していると思います。「このまま利己的にふるまい続けると、自己利益の安定的な確保さえむずかしくなる」ということに気づくためには、それなりの論理的思考力と想像力が要るわけですけれど、現代日本人にはもうそれが期待できない。
しかし、それでもまだわが国には「非利己的にふるまうこと」を自分の責務だと思っている人がいる。それだけをおのれの存在理由としている人がいる。それが天皇です。
1億2700万人の日本国民の安寧をただ祈る。列島に暮らすすべての人々、人種や宗教や言語やイデオロギーにかかわらず、この土地に住むすべての人々の安寧と幸福を祈ること、それを本務とする人がいる。そういう人だけが国民統合の象徴たりうる。
私は天皇制がなければ、今の日本社会はもっと手の付けられない不道徳、無秩序状態に陥っているだろうと思っています。
―― 確かに東日本大震災の時、菅直人総理大臣しかいなかったら、もっと悲惨な状況になっていたと思います。
震災の直後に、総理大臣と天皇陛下のメッセージが並んで新聞に載っていました。全く手触りが違っていた。総理大臣のメッセージは可もなく不可もない、何の感情もこもっていない官僚的作文でしたけれど、天皇陛下のメッセージは行間から被災者への惻隠の情が溢れていた。その二つを読み比べて、「国家的危機に際してこんな言葉しか出しえない政治家は国民統合の中心軸にはなれない。でも天皇陛下なら国民を一つにまとめられるだろう」と思いました。
―― 内田さんは天皇の役割について「権威」ではなく「霊的権力」「道徳的中心」という言葉を使っています。
道徳というのは別に「こういうふうにふるまうことが道徳的です」というリストがあって、それに従うことではありません。そう考えている人がほとんどですけれど、まったく違います。道徳というのは、何十年、何百年という長い時間のスパンの中にわが身を置いて、自分がなすべきことを考えるという思考習慣のことです。ある行為の良し悪しの判断というのは、リストと照合して決められることではありません。「私がこれをしたら、死者たちはどう思うだろう」「私がこれをしたら未来の世代はどう評価するだろう」というふうに考える習慣のことを「道徳的」と言うのです。
道徳心がない人間のことを「今だけ、金だけ、自分だけ」とよく言いますけれど、言い得て妙だと思います。不道徳的であることの最大の条件は「今だけ」という考え方をすることです。四半期ベースでものごとの当否を決めるような態度のことを「不道徳的」と言うのです。
ですから、次の選挙まで一時的に権力を付託されているに過ぎない総理大臣と悠久の歴史の中で自分の言動の適否を判断しなければならない天皇では、そもそも採用している「時間的スパン」が違います。安倍政権は赤字国債の発行でも、官製相場の維持でも、原発再稼働でも、要するに「今の支持率」を維持するためには何でもします。死者たちはどう思うか、未来の世代はどう評価するかというようなことは考えていない。自分の任期が終わったあとの日本についてはほとんど何も考えていない。
天皇の道徳性というのは、そのときに天皇の地位にある個人の資質に担保されるわけではありません。1500年という時間的スパンの中に自分を置いて、「今何をなすべきか」を考えなければいけない。そのためには「もうここにはいない」死者たちを身近に感じ、「まだここにはいない」未来世代をも身近に感じるという感受性が必要です。私が「霊的」というのはそのことです。天皇が霊的な存在であり、道徳的中心だというのは、そういう意味です。
―― 古来、天皇は霊的役割を担ってきました。しかし、そもそも近代天皇制国家とは矛盾ではないか、天皇と近代は両立するのか、という問題があります。
現に両立しているじゃないですか。むしろ非常によく機能している。象徴天皇制は日本国憲法下において、昭和天皇と今上陛下の思索と実践によって作り上げられた独特の政治的装置です。長い天皇制の歴史の中でも稀有な成功を収めたモデルとして評価してよいと私は思います。国民の間に、特定の政治イデオロギーとかかわらず、天皇に対する自然な崇敬の念が静かに定着したということは近世以後にはないんじゃないですか。江戸時代には天皇はほとんど社会的プレゼンスがなかったし、戦前の天皇崇拝はあまりにファナティックでした。肩の力が抜けた状態で、安らかに天皇を仰ぎ見ることができる時代はここ数百年で初めてなんじゃないですか。
―― 最後に、これから我々はいかに天皇を戴いていくべきか伺いたいと思います。
それについては、私にはまだよく分からないです。世界中で日本だけが近代国民国家、近代市民社会の形態をとりながら古来の天皇制を存続させている。霊的権力と世俗権力の二重構造が統治システムとして機能し、天皇が象徴的行為を通じて日本統合を果たしている。こんな国は見回すと世界で日本しかない。どこかよそに「成功事例」があれば、それを参照にできますけれど、とりあえず参照できるのは、過去の天皇制が「うまく行っていた時代」しかない。けれども、それを採用するわけにはゆかない。社会の仕組みが違い過ぎます。
かつてレヴィ=ストロースは人間にとって真に重要な社会制度はその起源が「闇」の中に消えていて、たどることができないと書いていました。親族や言語や交換は「人間がそれなしでは生きてゆけない制度」ですけれども、その起源は知られていない。天皇制もまた日本人にとっては「その起源が闇の中に消えている」ほどに太古的な制度だと思います。けれども、21世紀まで生き残り、現にこうして順調に機能して、社会的安定の基盤になっている。いずれ天皇制をめぐる議論で国論が二分されて、社会不安が醸成されるリスクを予想した人はかつておりましたが、天皇制が健全に機能して、政治の暴走を抑止する働きをするなんて、50年前には誰一人予測していなかった。そのことに現代日本人はもっと「驚いて」いいんじゃないですか。
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日本国憲法9条
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