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和久希世    

  • Author:和久希世    
  • 京都との県境近く
    滋賀県大津市南部、
    瀬田川の畔に住まいする
    古希を過ぎた 名も無き嫗でございます。
    事情があって(こちら)しばらく
    「春夏秋冬」で書いていましたが、
    又こちらで書くことになりました。
    今度はお馴染みになりました 
    和久希世(以前は わこ)に改めて再出発とさせて頂きます。
    2010・3・21

    FC2dendrodiumを終了し、
    ライブドアブログdendrodiumに移りました。
    (2016/3/1)

    2019・5・25 又、こちらで書く事にしました。

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日韓合併の正当性について 

日韓併合は合法的に締結された条約に基づく合併だから、日本には何の非もないという説をしばしば目にし、
真実はどこにあるのだろうと検索しましたところ、下記記事に行き当たりました。

実は私の、少女時代は朝鮮人蔑視が当たり前のことであるかのように思っている大人が、大勢見かけられた時代でしたので、
日韓合併が本当に両国の合意のもとに行われたのかどうかに、
疑問を持たざるを得ない感じがしていたのでした。

下記記事を読んだ時、そういう事だったのかと納得できる思いがしました。
合法的ではあるけれど、だからと言って正当であるとは限らないのは、
直近だと、アメリカの言いなりのFTAを結ばされている日本の現実一つを見ても明らかだろうと思います。
米軍基地のために,いまだに飛行空域を制限されていても、
米国に改善要求どころか、不満一つ言得ない政府を見得ても・・・・・

そういえば伊藤博文が朝鮮人に暗殺されたとき
「わしを殺してどうする・・・・・」と言っていたそうですが、
伊藤博文以上に朝鮮人に対して酷い扱いをしそうな政治家が、
当時の日本には大勢あったのかも知れないですね。
     (以下引用)

「日韓併合」の正当性を唱える人たちへの最終メッセージ
2013年10月28日 06:00
松本 徹三
ここ数週間はデジタル教科書問題を書いてきたが、その前の6週間は日韓問題ばかり書いた。その為に今でも私のTwitterではこの関係の議論が多い。
そこでの最も典型的な私への反論は、「日本による韓国の併合は正当なものであり、あの時代に韓国が自らの力で完全な独立を維持する事は元々不可能だったのだから、韓国にとってもむしろ一番良いシナリオだった。だから日本があれは悪い事だった等と認める必要はないし、謝罪等は論外」という趣旨のものだ。

しかし、日本人がこう言い募っている限りは、日韓のわだかまりは永久になくならないだろう。しかも、こういう人たちに限って、当時の韓国人の近代文明への理解の低さをあげつらって、無神経な論調に終始するのだから、反発が収まらないのは当然だ。
いつも申し上げているように、私は歴史問題を議論する時には「事実関係」と「評価(善悪)」を明快に切り分けて議論すべきだと考えている。
「慰安婦問題」などで韓国側が言い立てている事(元を質せば、一人の奇妙な日本人が売名の為に言い出し、朝日新聞などが自らの思惑によって拡散し、最後は宮澤首相—河野官房長官が「臭いものに蓋」の感覚で認めてしまった事なのではあるが)は、「事実関係」が歪められている故に、韓国と韓国人に対して相当強い親近感を持つ私自身でさえも承服し難いのだが、「日韓併合の正当性」という事になると、これは「評価(善悪)」の問題になるから、これを肯定する多くの日本人と私は真っ向から議論したい。
「日韓併合の正当性」を肯定する論者の論点は、
遅ればせながら世界の列強の仲間入りをしつつあった日本としては、至極当たり前の行動であり、列強もこれを認めたのだから、今から遡ってとやかく言われる筋合いのものではない(まして「謝罪」を求められるのは筋違い。それなら、欧米各国は、アジア、アフリカ、中南米の各国にそれに数百倍する謝罪を繰り返さなければならない事になる)。

当時の日本にもしそうするだけの国力がなかったら、当然ロシアが韓国を支配下に置いたであろうし、自国と合体させて多額の投資を行った日本に比べ、ロシアの場合は単に植民地として収奪の対象としただけだっただろうから、韓国民にとっては遥かに良かった筈だ。そのように考えると、日本による併合は、結果として韓国民の為に良かった筈なのだから、感謝こそされ、恨まれる筋合いはない。
日韓併合は、「二国間の条約」に基づいてなされたものであり、国際法に照らしても合法である。韓国の皇帝はハーグの国際司法裁判所に密使を送ってこの非をなじろうとしたが受け入れられず、頼みのロシア皇帝の支援も取り付けられなかったのだから仕方がない。当時の韓国は国際世論から見捨てられていたのだから、その事実を遡って覆そうとしても無理。
上記の何れに対しても、私は、特に「事実関係」が歪められているとは思っていない。しかし、上記に言われていない事が下記の通り幾つかあるので、その事をきっちりと付け加えた上で、あらためて「評価(善悪)」の議論に進みたい。
当時の大韓帝国(清の冊封国家だった李氏朝鮮が、日清戦争の結果として清がその地位を失った為、清と同格の帝国となった)の主権者は皇帝の高宗であり、彼と彼を支える人たちは日本の支配を望まず、むしろロシアとの関係強化を望んでいた。

しかし、日露開戦を間近に控えた日本にとっては、兵站の輸送経路である韓国が「局外中立」であっては絶対に困るので、武力を背景に威嚇し、日本側が望む形での「議定書」を締結。日露戦争に勝利した後は、欧米諸国の暗黙の了承のもとに、次第に権益を拡大して、遂には「併合条約」の締結に至った。その全ての局面で、韓国政府は常に武力による恫喝の下で交渉せざるを得なかった。
「併合条約」締結後は「大韓帝国」は国号を「朝鮮」と改称させられ、朝鮮総督府が支配する「植民地」として運営された。伊藤博文等は、悪質な日本人が善良な韓国人の利益を不当に害する事のないように気を使ってはいたが、実際には悪質な日本人も多かったので、恨みを買う事も多かった。
また、この間、日本の歴史学者たちは、「日韓同祖論」をベースに、強引な「同化政策」の推進に加担した。「同祖論」といっても、「神功皇后による三韓征伐(日本書紀)」という真偽も定かでない一つの「伝承」だけをベースに「古来日本は韓国を支配下においていた」と論ずるとか、その時点での経済力のみを比較して「日本は成功した本家で、朝鮮は落ちぶれた分家」と勝手に決め付けたりしての議論であり、際立って公正さを欠いていた。
さて、私は、「日韓併合条約」は「日本が自らの利己的な目的(国益)の為に、独立国であった大韓帝国の主権者の意志に反して、武力による威嚇を背景に強制的に締結したものである」と理解している。この理解が正しくないと考える人は、上記に含まれる「利己的な目的」「主権侵害」「武力による威嚇」の三要素がなかったと主張されるのだろうから、もしそうであるなら、その根拠を示して頂きたい。先ずは、「それが事実だったかどうか」のみに絞って議論して頂き、その上でその事の「善悪」についてのコメントが欲しい。
次に、私は、日韓併合を正当化する論者に、私が追加した上記四点の最終項目である4)と、日韓併合期間中に日本人の多くが持っていたと思われる「日本人の優越意識と朝鮮人蔑視」についてのコメントを聞きたい。先ずは「そういう事実はあったのかなかったのか」についての考えを聞かせて頂き、次に、その事の「妥当性」及び「善悪」についてはどう考えられるかを聞きたい。
そして、最後に、正当化論者が常に挙げる前述の三点についての私の見解を下記の通り申し上げたい。
当時は列強による植民地争奪戦が世界の常識だったのだから、日本人がこの事に何等「道義的な罪悪感」を持っていなかったのは当然であり、私もその事を難詰するつもりはない。しかし、もし現時点で、「それが道義的に良い事だったかどうか」と問われれば、控え目に言っても「現時点での道義観から言えば、良い事ではなかったと思う」と答えるのが当然ではないだろうか?

ちなみに、「インカ帝国を滅ぼして大量の金を奪ったスペインの行為をどう思うか」「清国に対してアヘン戦争を仕掛けた英国の行為をどう思うか」という質問も同時にすればよい。肯定であれ否定であれ、この二つの質問に対する答えは、「日韓併合」についての質問に対する答と同じであるのが当然だ。
要するに、これまでの人類の歴史は、「基本的に暴力が全て正当化される歴史」だった訳だが、現代においてはそれが反省され、暴力ではなく「法と正義」「人道と人権」が全ての行動規範となるべきだというのが世界の常識になっている。そうであれば、「日韓併合」を今の時点で論じるに際しては、そのような「現時点での道議的評価」がなされて然るべきだ。
「謝罪」については、「英国やスペインが謝罪していないのだから、我々も謝罪する必要はない」とするのは全く意味をなさない。他者がどうであれ、自らが「謝罪に値する」と考えれば謝罪すればよく、そう思わなければしなければよいのだ。それは自らの認識と評価の問題である。その上で「欧米列強も過去の行為に関しては、日本同様に公式に遺憾の意を表するべきだ」とコメントするのは一向差し支えないし、むしろそうするべきだろう。
(なお、かつての大日本帝国の行いを何とかして正当化し、美化したい人たちの中には、「米英に対する日本の戦争(大東亜戦争)は、アジア人を欧米人の頸から解放する為の戦争だった」と今なお強弁する人もいるが、こんな欺瞞に満ちた綺麗事を言うのはやめてほしい。もしそうなら、蒋介石政府と事を構える必要はなく、そのまま仏印や蘭印に攻め込めばよかった訳だし、韓国には「韓国人による韓国人の為の政府」を作るように促せばよかったのだ。「欧米の真似をして植民地が欲しかった」と正直に言った方が、余程話が簡単になる)
当時の日本が韓国を支配下におさめようとしなかったら、ロシアがそうしたであろう事は勿論だろう。しかし、当時の韓国の主権者がそれを望んだのだとしたら、それが結果として韓国の民衆の為になったかどうかは別として、それを尊重すべきというのが道義的には妥当である。
当時は「民主主義」は普遍的な価値観としては未だ確立されていなかったので、「絶対君主が民衆の利益を害している事が明らかなら、周辺国がその事態を正そうとするのは道義的に妥当」という論議は、誰が「民衆の利益」についての判断をするかが明確でないので、容易には受け入れられないだろう。
現在でも、「他国の主権尊重の原則」に優先するのは、「自国の主権に対する侵害」「自国の安全への直接的な脅威」「国際法への明確な抵触」「人道と人権の侵害」「核兵器、生物兵器の拡散の可能性」位である(「民族自決原則の侵害」は微妙なところ)。また、これらの理由があっても、実力行使に至るまでには、国際連合等の場での誠実な協議が求められている。
しかし、この議論に関連してそれ以上に問題なのは、「ロシアの支配より日本の支配の方が良かった筈」という「日本人の立場からの決め付け」をする「独断的な姿勢」である。そんな事は、日本人ではなく、当の韓国人が考える事だ。
成る程、「支配層だけと手を結んで、ひたすら民衆からの収奪だけを考えただろう当時の帝政ロシアの支配」よりは、「資本主義に目覚めつつあった日本の支配」の方が、経済的には韓国にプラスとなったかもしれないが、人間は経済のみによって生きるものではない。
日本人の優越性を露骨に前面に打ち出して、一方的な同化政策を推進し、先祖伝来の姓を捨てさせたり、神社への参拝を強制したりする日本よりは、そんな事には関心のないロシアのほうが、韓国人にとっては「誇りを傷つけられる」事がないだけ良かったかもしれないではないか。
これは簡単な問題で、条約の形式的な合法性などには、誰も関心を持っていない。誰がやろうと、外部からの批判を受けぬよう、形式を整えるのは当然の事だからだ。武力による威嚇をもってすれば(場合によれば反対者を事故を装って謀殺したり、或いは決定的な場面に居合わせる事が出来ないように幽閉したりすれば)このような形式を整える事は比較的容易である(アメリカのハワイ併合条約も、反対者だった女王を監禁する事によって締結が実現したと聞いている)。
以上、私がこの問題に殊更熱心なのには理由がある。自己本位で、「相手の心情を推し量ろう」等という考えはさらさらなさそうな「国粋的(国家主義的)な人たち」の、過去を引き摺った「上から目線」の「論の立て方」と「言葉遣い」に、心底辟易しているからだ。この人たちの存在は、日本が「公正で偏らない判断をベースにした是々非々の議論」を行い、近隣諸国との友好関係を確立する事の阻害要因になっている。

奴国の遺跡から銅鏡の鋳型発見 

国内最古の青銅鏡鋳型 紀元前に国産か、福岡・春日市 [福岡県]
西日本新聞 2015年05月28日
 福岡県春日市教育委員会は27日、同市須玖南の須玖タカウタ遺跡から朝鮮半島の青銅器文化を代表する遺物の一つ、多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)系の石製鋳型の一部が国内で初めて見つかったと発表した。鏡鋳型としては国内最古となる紀元前2世紀ごろ(弥生時代中期前半)のものとみられ、従来の出土例より150~200年古い。多鈕鏡が朝鮮半島製とされてきた説を見直す契機となり、紀元前にも鏡の製造技術があったことを示す貴重な発見としている。

 市教委によると、多鈕鏡は鏡裏側にひもを通す穴のあるつまみ「鈕」が複数付いた鏡で、祭祀(さいし)に使ったと推定される。鋳型片は長さ5・1センチ、幅2・5センチ、厚さ2・3センチ、重さ39グラムの滑石(かっせき)。市教委が出土品の水洗い作業中、幾何学的な文様のある小さな石を見つけた。専門家に鑑定を依頼した結果、石に小さな三角形のくぼみがあり(1)くぼみは鈕の穴部分とみられる(2)文様は複数の直線と曲線の組み合わせ-などから多鈕鏡の鋳型と判断した。多鈕鏡は国内で12の出土例があるが、鋳型が見つかっていなかったため朝鮮半島製と考えられていた。

 これまで国内最古とされた鏡鋳型は、福岡県うきは市出土の小型〓製鏡(ぼうせいきょう)など1世紀ごろの出土品だった。

 同市文化財専門委員の武末純一福岡大教授は「文様は半円形を重ねたような重弧文で日本独自の鏡の可能性が高く、画期的な発見だ。当時、高度な技術が必要な多鈕鏡を造っていた可能性が高くなった」と話している。

 同遺跡は、中国の史書「魏志倭人伝」に登場する「奴国(なこく)」の王都があったとされる須玖遺跡群の中核、須玖岡本遺跡(国指定史跡)の約200メートル西にある。同遺跡群が、高水準の青銅器の一大生産拠点であったことをあらためて示す遺物としても注目される。

 鋳型片は28日~6月3日、春日市岡本の市奴国の丘歴史資料館で展示される。

※本文中の〓は「にんべん」に「方」


反戦塾「邪馬台国前史が始まる」で、
先月末頃古代史にとって重大な発見が、福岡県の奴国の遺跡近くであった事を私は初めて知った。
これ迄は、国内にある卑弥呼の時代以前の銅鏡は、総て大陸から渡来した物だと思われていたが、
奴国の遺跡近くで銅鏡の鋳型が出土した事によって、
銅鏡は卑弥呼の時代より300年以上遡る時代に、既に国内生産されていたという事になるらしい。

以下に上記「反戦塾」の記事を複写させて頂く。
     (引用)
 邪馬台国前史が始まる
 日本史は何時から始まるのか、という課題に答えるのは難しい。少なくとも文献があって時期が特定でき、その文献を裏付ける物的証拠があれば、伝説とか神話ではなく歴史研究の対象になり得る。それに、人名や地名などが加わればもっといい。

 日本の正史『日本書紀』で、完全な歴史と認定できるのは、中国文献と符合する倭王・武(雄略天皇)のころ(477年)からで、それ以前は、『書紀』の記述と巨大前方後円墳の出土品の科学的な年代測定が凡そ合致すれば、「推定・歴史」に昇格できるという程度である。

 その微妙な位置にいるのが『魏志倭人伝』の女王・卑弥呼とその本拠・邪馬台国で、場所と人が分からないことから、戦後は研究者や素人に人気のあるテーマとなった。しかし、巨大前方後円墳古墳の始まり「箸墓」に女性を葬ったとする『書紀』の記述に加え、近くの纏向遺跡からは都の存在を証拠づけるような発掘が進んでおり、論争はやや下火になっている。

 そこに突如として九州での発掘ニュースが入った。
 福岡県春日井市の須玖遺跡で、紀元前100~200年頃の銅鏡の鋳型が見つかったことだ。卑弥呼の時代、239年より300年以上前の時代である。これがきっかけとなり、卑弥呼が魏王から賜ったとされる三角縁神獣鏡100枚の価値が劇的に下がってしまうのである。

 鋳型が発見された場所は、奴(な)国の本拠地とされている一帯の中にある。奴は『魏志倭人伝』に出てくる国名だが、それより前の時代の『後漢書』にも記事がある。


 建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬

 これは西暦57年のことだが、賜った印綬の実物が江戸時代に志賀島の畑で発見されている。「漢委奴国王」と刻まれた金印である。文献があって物的証拠もある。完璧な歴史的事実だ。手元にある河出書房版『日本史年表』の一番最初に掲げられた事績になっている。

 その奴国で卑弥呼の時代よりはるかに古くから精巧な銅鏡を作っていた証拠がでてきてのだ。邪馬台国にはない確実な歴史的証拠の金印が国宝として存在する。これまで奴国が軽視されてきたのは、国王についての情報がなく、九州の福岡市に近い一部を支配するだけで、倭国を代表する存在と見なされなかったということが大きい。

 As20150527004456_comml1_2この地域は、銅鉾、銅剣、銅鏃、せさらには弥生時代近畿・山陰方面で多用された銅鐸まで生産していたことは知られていたが、銅鏡がこんな古くから作られていたというのは驚きであった。国内各地で発掘される卑弥呼以前の古い鏡は、前漢鏡とか後漢鏡あるいは朝鮮半島製など、舶載鏡が直接各地に渡っていたとされることが多かった。

 これまでの定説は「卑弥呼は銅鏡を大変好んだ。魏王に対する朝貢の見返りとして銅鏡100枚を受け取り、さらに国内有力族長を統率するためそれをさらに分与した」というものだ。しかし同デザインの鏡は100枚以上あり、国内でコピーしたいわゆる日本で中国の鏡を真似てつくった倣製鏡説がある。また、国産の大型鏡が生産されていたことから、後の時代には呉の工人が移住してきて生産したなどとも言われている。

 実際にはそのはるか昔から鏡も国産品があり、奴から各地に頒布されている可能性が高まった。奴が倭国を広域支配していたと見なすことは無理があるとしても、通商などで大きな力を持っていたはずである。だからこそ、後漢の光武帝が倭の代表として金印を授けたのだろう。

 倭100余国のひとつに金印を下賜するというのは、やはり考えにくい。銅鏡に関しても今後新鋳型が発見されたり、古鏡の分析・分類が進むことにより、邪馬台国以前の弥生時代への関心が高まって、邪馬台国ブームにとって代わるかも知れない。

 近くに春日市奴国の丘歴史公園という施設がある。比較的近い大宰府天満宮は観光客で人波が絶えないが、塾頭が数年前資料館を訪れた時は人影まだらだった。館長が「関東からわざわざ」と言って親切に案内してもらったが、これからはもっと関心を持つ人が多くなるのではないか。