五感を使い世界を知る 三井物産会長・安永竜夫さん
NIKKEI The STYLE 「My Story」
三井物産会長の安永竜夫さんは世界を舞台にビジネスを手掛けてきた。コロナ禍前は年間120日、国内外の出張に出かけていたほどだ。その国の、その人を知りたいと、現地の言葉を話し、食卓を囲み、酒を酌み交わすなど五感を駆使して相手の懐に飛び込む。
「グローバル企業のトップとしての原動力はなんですか?」。2016年9月、三井物産がエネルギーなどの分野で協業する米ゼネラル・エレクトリック(GE)と共同イベントを行った時、GE社員にこう問われた安永さんは、迷わず「Curiosity(好奇心)」と答えた。
物事の本質は何か、多様な国・地域にはどういった価値観や文化・歴史があるのか。自分で直接感じないと腹に落ちない。ビジネスを成立させるためにも、その感覚を大事にしている。同席していたGEの当時の最高経営責任者(CEO)、ジェフ・イメルトさんも「自分も常に現場にいるのが好きだ」と深くうなずいたという。
「田舎から出たい」 知識欲を強く刺激
好奇心を育んだ原体験は幼少期に遡る。生まれ育った愛媛県菊間町(現今治市)は、造船の街である今治市の近くにあった。「高齢者が多い地域で、田舎特有の閉鎖的な環境」で、得られる知識は限られる。新聞の到着も遅い。対岸の中国地方のラジオ電波を受信するなど、「とにかく情報に飢えていた」という。
様々な情報に接しようと必死だったのだろう。今治市には多くの外航船が到着し、外国人船員が街に繰り出していたという。1歳に満たない時期のアルバムを見ると、イタリア人船員に抱かれた様子が写っていた。
大正生まれの父は戦前に損害保険会社に勤め、酔うと決まって駐在先の香港での話をした。楽しそうに話す姿が印象的だった。アルバムにあるイタリア人船員と父の海外の思い出話は、幼心に刻まれた今につながる自身の原風景だ。
愛媛にいた時から海外や商社を志望していたわけではないが、「田舎から出たい」という思いは切実だった。知的好奇心を満たせるものがない環境が、逆に知識欲を駆り立てた。
祖父が医師だったこともあり、高校3年生の1月まではとりあえず医学部を目指していた。ところが、職場が生涯病院になることのイメージがどうしても湧かず、試験直前に進路希望を変更。「絶対田舎に戻らない」という固い決意に父も背中を後押しし、東京大学理科1類に進むことができた。
入学すると得意だった数学や物理では上には上があることに気付く。それならばと好きな語学に力を入れることにし、英語だけでなくドイツ語やフランス語にまで手を伸ばした。工学部都市工学科に所属したが、卒業生は商社や保険会社、マスコミに就職するなど、学科の自由な雰囲気が肌に合った。
「いろんな所に行って、いろんな人に会ってみたい」。商社には入社してから何をするかを決められる寛容さがあると感じた。1983年に三井物産に入社した時の志望理由は漠然としていたが、実際に安永さんの好奇心をそそるような人が多く在籍していた。社内にいる多様で個性的な先輩たちを手本に、仕事にまい進した。
英語は仕事のツールとして必要だが、「相手の国に思い入れがあると思ってもらうためには、現地の言葉を少しでも話せることが欠かせない」という。加えて、現地の食事や歴史文化を「見たい、食べたい、触りたい」という気持ちが安永さんを揺り動かした。
若手時代から培った 相手を知りたい思い
北京の外国人用住宅の開発案件に携わった際には、協業先の国営企業の担当者と中国語を駆使して距離を縮めた。「極寒の北京でコートを着込んで交渉し、白酒で歓待を受けた」ことを覚えている。4月にインドネシアの新興財閥CTコープとの提携が実現したのも、5年にわたる交渉が大きい。2年前にジョコ大統領との面談の場でインドネシア語で若手時代の話を披露し、「仲間の一人として認識してもらった」という。
30代後半になると本当の意味でゼロからイチを生み出す仕事を任されるようになる。1990年代後半にはロシアの液化天然ガス(LNG)事業「サハリン2」や黒海パイプライン事業への参画交渉など、多くの大型案件を手掛けた。ロシアで巨大エネルギー企業ガスプロムを相手にした際は、交渉相手の担当が細かく分かれているといった商習慣の違いにも戸惑った。時にはウオッカを酌み交わし距離を詰め、時には自社の利益と相手の条件の瀬戸際で痛風の発作が出るくらいの交渉もこなした。政府要人や国営会社を相手に動じず、社内では「修羅場に強く、交渉負けしない」と言われた。
安永さんは社長就任時に「32人抜き」という異例の抜てき人事で社内外で話題になった。2015年1月、54歳の執行役員だった安永さんは、早朝のホテルで当時の社長、飯島彰己さんから告げられたという。現場経験が豊富で顧客との関係を大事にしていた点が評価された。突然の後継指名には驚いたが受け入れた。「元上司が部下になってしまった状態でも、年齢に関係なくそれぞれの力量や人望を大事にして人事を決めてきた」と振り返る。
社長就任1年目は世界的な資源価格の急落を受け、最終赤字からのスタートだった。不採算事業の撤退をすすめ、事業の入れ替えを急いだ。三井物産は純利益の6割を鉄鉱石など資源分野で稼いでいた。資源価格に左右されない安定事業を育てるため、アジア有数の病院グループ、IHHヘルスケア(マレーシア)への大型出資やCTコープとの提携など非資源事業の拡大に道筋をつけた。社長就任後も率先してトップとして、交渉の場に立った。
コロナ禍で広まったオンラインの仕事は、「あくまでも相互の理解や共通の理解に支えられている」と話す。土台を築き上げるまでには、自分の考えを伝え、相手の言葉の行間を読みつつ、冷や汗をかきながらコミュニケーションを重ねる必要がある。アフターコロナを見据え、最前線の「現地現物」で経験を積む重要性を今後も伝え続ける。
【My Charge】孫と過ごす癒やしの時間 一緒の写真を名刺入れに
孫と過ごす時間が癒やしだ。子供は3人、孫は6人と「孫だくさん」。みな0~3歳の間で子育てが大変な時期だ。コロナ禍前は週末に子供の家族が自宅に集まり、にぎやかに過ごしていた。孫らに「じいじ」と呼ばれ、一緒に遊んでいる間だけは仕事のことを忘れている。孫に囲まれた撮った写真はラミネート加工して、常に名刺入れに入れて持ち歩いている(写真上)。
今は男性も育児休暇を取るが、当時は仕事一筋だった。妻は三井物産の社員は長期間の海外出張が普通だと思っていたようだが、のちに「うちだけだった」と気づいた。子供が生まれる瞬間は立ち会ったが、直後には出張に出ていた。
妻には「子供が小さい時に(あなたは)いなかった」と言われる。不在にした分、「孫と過ごす孫孝行の時間は増やしていきたい」。コロナ禍で今はほとんど対面で会えないが、スマートフォンでいくらでも話すことができる。週末は画面越しに孫らと話す時間を楽しみにしている。
出張の際、仕事の合間の楽しみといえばB級グルメを食べることだ(写真下)。必ず現地の人と同じものを食べて溶け込むようにしている。日本人はおにぎりを食べないと力が出ないという人もいるが、「郷に入っては郷に従え」だ。
米国人と交渉するときは必ずステーキを食べてから交渉に臨む。シンガポールといえば肉骨茶(バクテー)、インドネシアはアヤムゴレン(鶏肉の揚げ物)、中国・北京周辺だと水ギョーザだ。日本料理を食べたいと思ったことはない。イランでは商談先に「ケバブが好きだ」と話したら、毎日ケバブが出てきたこともある。
ローカルフードは、その国の気候や食習慣、そして組み合わせる飲み物が密接に関連している。ビールが典型例で「米国のビールを日本で飲むと何か違うし、米国で日本のビールを飲むとくどく感じる」という。
海外出張は最短でも2週間、長くて1カ月半滞在することもある。その国の食べ物でやっていけるように自分を適応させないと生きていけなかった。若い頃は露店にも足を運んだが、今は周りに止められている。「幸い、現地のものをおいしいと思う味覚の持ち主」で、食べられないものはほとんどない。
薬文江
鈴木健撮影
【NIKKEI The STYLE 2021年9月12日付「My Story」】
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