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人間に挑み続けて30年 古参ソフト「柿木将棋」は進化する

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日本古来のボードゲームである将棋の楽しみ方は、通信とコンピューターの進化によってこの10年で大きく変わった。1970年代に開発が始まったとされる将棋ソフトの実力は、現役のプロ棋士を脅かすほどに進化。1月に元名人を公開対局で破ったことも記憶に新しい。インターネットの活用で相手が遠くにいても対局でき、プロ棋士の対局はどこからでもチェックできる。スマートフォン(高機能携帯電話=スマホ)やタブレットで動くデジタル書籍との連携も始まっている。

主なネット中継ソフトやデジタル書籍を開発するのは、将棋ソフトの開発を30年にわたって続けてきた柿木義一さん(52)。自身の名を冠した「柿木将棋」をベースに、棋譜をデジタル化し、アプリを連携させた新しい将棋の楽しみ方を提案している。

ネット中継の局面を使い、デジタル書籍を検索

将棋名人戦の挑戦者を決めるA級リーグ戦が佳境を迎える2~3月は、棋界が最も注目を集める時期。同リーグ最終戦がある日は「将棋界の一番長い日」と呼ばれ、大盤解説会には多くのファンが詰めかける。2012年は3月2日に予定されている。

重要な対局は、インターネット中継されるのが当たり前になった。パソコンや携帯電話で動く中継アプリが、現在の局面を表示し、初手からの指し手を1手ずつ再現する。中継ソフトは、従来型携帯電話(フィーチャーフォン)を除きパソコン版のほとんどとスマホ版は柿木氏の手による。

iPhone版とiPad版の中継アプリには、もう一つ特別な機能がある。ライブ中継の局面を基にデジタル書籍を検索して、同じ局面を説明したページを表示してくれるのだ。

以前の対局を頭に入れておくことは、勝利への近道とされる。特に手数が進んでいない序盤は、以前の対局と同じ局面が出現する例が少なくない。しかし記憶力が高いプロ棋士はさておき、一般の将棋ファンには同じ局面を見つけ出すのも一苦労。雑誌などのバックナンバーから同じ局面を見つけ出して該当の記事に当たることができれば、指し手1手ごとの理解を深められる。

「デジタルの書籍を、対局中の局面から検索できないのか」――。デジタル書籍の開発は10年5月、日本将棋連盟モバイルの編集長を務める現役棋士の遠山雄亮四段(当時・現五段)と柿木氏の雑談から始まった。柿木氏はその翌日には、中継アプリとデジタル書籍が連携するイメージ図を創り上げていたという。

アプリ連携の鍵を握るのは、将棋の1手1手を記録した「棋譜データ」。デジタル書籍に棋譜データを埋め込んでおくことで、ほかのアプリから局面を検索できるようにした。

 デジタル書籍は棋譜データを持つことで、端末の画面で指し手を1手ずつ再現することも可能になった。書籍内の図面部分をタップするだけで、指し手を1手ずつ進められる(1手ずつ戻すこともできる)。雑誌や新聞、書籍ではスペースの都合で表現できなかった局面も表示できるため、読者は指し手の意味を理解しやすくなる。

デジタル書籍の局面検索は、コンピューターと対戦する「柿木将棋」からでもできる。プロ棋士の思考と自分の読み筋を比べたり、書籍の解説を基に自分が指す次の一手を決めたりできる。将棋アプリがデジタル化された棋譜データを橋渡し役にして連携し、従来の紙では不可能だった楽しみ方がいくつも可能になった。

棋譜データの「kif」という形式も柿木氏が定めたもの。このフォーマットは国内最大のオンライン将棋道場「将棋倶楽部24」で使われるなど、プロアマを問わず棋譜データをやり取りする際のデファクトとして使われている。

kif形式は「棋譜を分かりやすく記述するために作った」(柿木氏)。例えば「7六歩(77)」(7七にいた歩が7六に動いた)と漢字を使って記述するため、有段者などは目で追うだけで局面を頭の中に描ける。駒の移動前の座標(升目)が明記されているのでコンピューターも間違えずに処理できる。人間にもコンピューターにも読める"ユニバーサル"なフォーマットだったのだ。「ほかにもフォーマットがあったが、ほかの将棋ソフトがkif形式への書き出し機能を備えるようになっていった」(柿木氏)。

インターネット中継のシステムは、kif形式をベースに作られている。柿木氏が開発した棋譜入力ソフトをスタッフが操作し、パソコン用と携帯電話用のサーバーに棋譜データを送る。棋譜入力ソフトは棋譜データや局面のイメージ画像を簡単に生成でき、中継サーバーまでデータをアップロードする機能も備える。これらスタッフのかゆいところに手が届く機能は、柿木氏が現場の意見を聞いてプログラムに手を加えて追加した。

将棋ソフトの強豪、ソフト選手権も立ち上げ

1959年生まれの柿木氏が、ソフト開発に着手したのは78~79年。「SC/MP II(スキャンプツー)」と呼ぶマイクロプロセッサを使いコンピューターを自作したころからだ。ちょうどそのころ始めた将棋のソフトを開発しようとしたが、「性能が低くてプログラムが動かなかった」(柿木氏)。

80年に富士通研究所に入社した柿木氏は、翌年に富士通のパソコン「FM8」を購入。詰め将棋ソフトからスタートし、指し将棋ソフトの開発を始めたのは84年ころ。当初は「初段程度の強さになること」を目標においていたという。

CPUの処理速度が低くメモリー容量が小さかった当時のパソコンでは、プログラムにも限界があった。「現在の将棋プログラムの棋力は低く、最強のものでも恐らく3~6級程度」――。パソコンを手に入れてから10年近くが経過した90年に発行した著書で、柿木氏はこう述べている。

 この年に柿木氏は、現在の将棋ソフトの隆盛につながる「コンピュータ将棋選手権」(現・世界コンピュータ将棋選手権)の立ち上げに関わった。将棋ソフト同士がリーグ形式で対局し最強の座を争う場で、現在も開発者たちの登竜門となっている。柿木自身は選手権の運営に携わりながら、「柿木将棋」で参戦。第1回は残念ながら2位で、以後21年間休まず選手権に出場してきた。

当時から将棋ソフトの開発者は共通して、開発手法を積極的に公開していた。「公開されている情報が少なく、情報交換自体が楽しかった」(柿木氏)という。こうした先駆者たちの姿勢は、のちの将棋ソフトの革新的進化につながっていく。

柿木氏は93年に富士通研究所を退職し、ソフト開発に専念する。市販のパソコン向け将棋ソフトは当時1万円を超える価格で販売され、専用ゲーム機に将棋ソフトを移植するニーズもあった。パソコンは95年のWindows95の登場で普及に弾みが付き、「(強豪将棋ソフトを開発していた)トップ4人ほどは、生活ができるくらいは収入を得られた」(柿木氏)という。

開発者の大局観を「評価関数」に落とし込む

柿木氏が開発を始めた当時の将棋ソフトは、あらかじめ意味のある手を候補として選び、その中から有効と思われる手を深読みする「選択式探索」というアルゴリズムを採用していた。持ち駒を再利用できるという独特のルールを持つ将棋は、ある局面で選べる手の数は多いときで数百手に達する。それぞれの手ごとに4~5手先まで読み進めて形勢を判断するため、選択肢が膨大になる。

すべてをしらみつぶしに読んで最もよい手を探す方法を「全幅探索」と呼ぶが、この方法で所定の時間内に指し手を決めるにはパソコンの性能が圧倒的に不足していた。そこで選択式探索で限られた性能のなかで最適な指し手を決めていたのだ。

将棋ソフトの指し手を決める部分は「思考部」と呼ばれ、その実態は局面の駒の損得、大駒の働き、駒の位置、王の堅さ(安全度合い)といった項目を数値化する「評価関数」というものだった。評価関数の算出結果で局面ごとの形勢を判断し、その先の指し手を考える。ソフト開発者が自身の将棋の経験で培った"大局観"を落とし込んだものといえる。

この評価関数は、開発者によって評価に使う項目や評価値が異なっており、柿木将棋は「1000項目程度」(柿木氏)だったという。「項目数が1000程度ある多項式を解くようなもので調整が微妙で難しい」(柿木氏)。ある評価項目を修正すると評価結果も変わる。以前は有利と判断していた局面の評価が不利に変わることもざらだった。こうした難しさもあって、90年ころに「(これからハードウエアが進化して性能が上がっても)現在のソフトウエア工学ではいずれ行き詰まるのでは」と危機感を口にする開発者もいたという。

ボナンザがもたらした将棋ソフトの大変革

将棋ソフトは思考部の工夫に加えて、ハードウエアの性能向上で実力を高めていく。柿木将棋は「初段になる」という目標を96年ころにクリアし、00年には三~四段の実力に達していたという。

そして05年に出現したソフト「Bonanza(ボナンザ)」が将棋ソフト開発を一変させる。

ボナンザは評価関数にコンピューターが自動学習する技法を取り入れた。「これまでも評価関数の自動調整を試みた将棋ソフトはあったが、どれも研究レベル止まりで実用には至らなかった」(柿木氏)。ボナンザは翌06年の選手権で、初出場にもかかわらず優勝という快挙をなし遂げる。

柿木氏の将棋ソフトとコンピューター将棋の歩み
柿木氏の将棋ソフトコンピューター将棋
74年ころ将棋対局ソフトの開発が始まる
78~79年コンピューターを自作
80年富士通研究所入社
84年パソコンで将棋ソフトの開発を開始
90年第1回コンピュータ将棋選手権開催。柿木将棋は準優勝
93年富士通研究所を退職、ソフト開発に専念
96年ころ柿木将棋、初段程度の実力に
2000年柿木将棋がアマチュアとのリーグ戦で優勝。実力は三~四段程度
06年5月、「ボナンザ」が選手権に初参加で初優勝
11月、ボナンザの自動学習手法を開発者の保木邦仁氏が公開
07年5月、ボナンザが渡辺明竜王と公開対局。渡辺竜王が勝利
09年1月、iPhone版柿木将棋を公開
日本将棋連盟の特別顧問に
10年5月、iPad版柿木将棋を公開
10月、iPhone版中継アプリ公開
12月、iPad用デジタル書籍発売
10月、「あから2010」が清水市代女流王将(当時)との公開対局で勝利
11年10月、Android版中継アプリ公開
12年1月、「ボンクラーズ」が米長邦雄永世棋聖との公開対局で勝利

 11月にはボナンザの開発者である保木邦仁氏が、評価関数の自動学習の手法を公開する。「この学習法を取り入れて、ほかの将棋ソフトが一気に強くなった」(柿木氏)。柿木将棋では1000程度だった評価項目は、自動学習型将棋ソフトでは大幅に増え「現在では数十万から数百万という数字も聞く」(柿木氏)。人間による調整を離れたことで、一気に思考部の強化が加速していった。

ボナンザはもう一つ、将棋ソフトの決まり事をひっくり返していた。「全幅探索」の採用だ。「それまでは選択式探索をベースにしながら、選択する手の幅を広げていたが、ボナンザが考え方をがらっと変えてしまった」(柿木氏)。この方式の採用で、選択式探索の課題だった"読み抜け"がなくなる。

保木氏は著書の中で「むしろ選択式探索のほうがハードの能力が必要とされる」と述べている。アルゴリズムが単純な分、ハードへの負荷を抑えられるという。古くからの開発者には、パソコンの性能が全幅探索に対応できるほど高まっていたことが盲点になっていたのだ。

ボナンザが提起した新たな手法を取り入れ、ほかのソフトが自動学習を消化して評価関数に磨きをかけるなか、柿木将棋は「自動学習の対応に後れを取ってしまった」という。現在の思考部は対局の前半に「選択式探索」を使い、後半に「全幅探索」を使うハイブリッド方式となっている。

柿木将棋は21年続けて参加してきた選手権で1度も優勝していない。ボナンザの方式に加えハードウエアでもクラスタリングに対応するなど最先端の技術を取り入れたほかの将棋ソフトと柿木将棋はどう戦うのか。

柿木氏に本音を聞くと、「(予選を勝ち抜いた上位ソフトが戦う)決勝リーグには届かないだろうが、今年も選手権には参加する」という。「可能性がゼロではないかぎり、開発を続け挑戦する」――。

連盟の委託でスマホ版を開発

柿木氏はここ数年、スマホやタブレットへの将棋アプリの移植やデジタル書籍の編集作業に追われる毎日だ。パソコン向けの柿木将棋をiPhoneに移植したのは09年1月。「ユーザーインターフェースの開発でObjectivCを習得する必要があったが、それでも数週間でできた」という。iPhoneで対局できる将棋ソフトとしては初めてだったため「数万本が売れた」(柿木氏)。

 その年から連盟の特別顧問になり、スマホ向け中継アプリの開発を始める。スマホが急速に普及するなか、ライブ中継アプリの開発が急務だったのだ。iPad版やAndroid版は、デジタル書籍と並行して開発したという。

遠山五段は、「スマホ版は柿木さんがどんどん直してくれる」と信頼を寄せる。最近ではコンピューターに詳しいプロ棋士が増えてきたが、プログラムを小まめにメンテナンスするところまでは手が回らない。将棋とプログラミングに通暁している柿木氏は、ルールとの矛盾を修正することはもちろん、ツイッターやブログなど、ネット上を流れるアプリへの意見に反応し、素早く問題点を改善していく。将棋のプロである棋士たちに欠かせない存在になっている。

将棋のデジタル化にある二つのベクトル

将棋ソフトは強さではプロ棋士を脅かすところまで成長し、1月には引退したとはいえ元名人の米長邦雄永世棋聖を公式の場で破る快挙を挙げた。トップクラスの棋士とコンピューターが雌雄を決する日は、そう遠くないかもしれない。

一方で、デジタル化により「ここ10年くらいで、将棋の楽しみ方は大きく変わった」と柿木氏はいう。「郵便将棋」さえあった個人の対局は、オンライン将棋道場の拡大で、いつでもどこでも誰とでも可能になった。携帯電話からでも利用できるため、将棋を指すのにパソコンさえ要らなくなった。新聞や雑誌、書籍などで伝えられていた情報はデジタル化で瞬時に伝わり、検索機能によって利便性も高められた。

では今後の将棋ソフトの開発はどこに進むのか。遠山五段はコンピューターに期待する役割の1つとして、将棋ファンの裾野拡大を挙げる。「将棋をおぼえたての初心者に、最適な指し手を教える役割を果たしてくれればありがたい」――。

将棋ソフトなら、駒の動かし方を覚えた程度の相手にも、一定レベルの強さで手を選び、緊張を切らないように対局を続けられるというのだ。柿木氏も「評価関数を調整して、適度な強さを維持し続けることはそう難しくない」と興味を示す。

詰め将棋の創作では、コンピューターが人を助けることが当たり前になっている。詰め将棋は指し将棋よりも指し手の選択肢が狭いため、コンピューターが人間よりも詰め手順を間違いなく見つけられる精度が高いという。柿木将棋は、データベース検索機能などを盛り込んでいることもあって、詰め将棋を作る創作者から支持を得ている。

柿木氏は「強いソフトを作る」だけでなく「将棋ファンにとって使いやすいものを作る」というベクトルにも力を注いできた。1200万人いるとされる将棋愛好家向けのソフトには、まだいくつも開発の余地が残っている。

(電子報道部 松本敏明)

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