日本の指導者を悩ます「従順」「妄信」
編集委員 武智幸徳
日本で「監督」と呼ばれる人と話をすると、上は代表監督から下は小学生チームの監督まで、必ずといっていいほど出てくるのが選手が従順すぎること。言われたことをすぐやるのはいいのだが、やり過ぎることがしばしばあるらしい。
名古屋で指揮を執り、今はイングランドの強豪アーセナルを率いるフランス人のアーセン・ベンゲル監督はかつて「(日本は)コーチにとっての理想の場所」と語ったことがある。監督の言葉に熱心に耳を傾けるし、練習態度も申し分ない。試合では与えられた指示を献身的に遂行しようとする。本物、特に本場とか外来のものを吸収しようとする気持ちが半端ではないのである。
アチラを立てればコチラが立たず
日本代表、磐田などを率いたオランダ人のハンス・オフトは日本で指導を始めて数か月たったころ「自分が話すことを選手がまったく疑っていない」ことに気づいてがく然としたという。話したことに疑問がぶつけられ、それをよりよい理解につなげていくのがコミュニケーションの意味だとしたら、疑いを持たない選手は永遠に理解から遠いことになる。あるいは、そういう妄信的なコミュニケーションが人と人の間に成立することに戦慄(せんりつ)したのかもしれない。神サマと人間の関係じゃないのだから……。
先日もJリーグの試合が終わった後、FC東京の城福浩監督が「きょうはアグレッシブに行こう! と選手に指示したらチェンジ・オブ・ペースがおろそかになって……」とこぼしていた。「積極的に」と示すと一本調子になって緩急を忘れる。「慌てるな、焦るな」と示すとゴールを襲う迫力を失う。コチラを立てればアチラ、アチラを立てればコチラが立たず――。
それもこれも監督の言葉に選手があまりにも愚直なために起きる現象だろう。監督たちも悪気はないことが分かっているので頭ごなしに怒れない。「自分の言い方が悪かった」「自分が強調し過ぎたせいでこうなった」と選手をかばったりする。監督と選手というより親と子みたいな……。
2月下旬から3月上旬にかけてオランダ、スペインを取材で回った。どちらでも日本語の通訳の方に言われたのが、とにかく子供が生意気なこと。というか、日本語の敬語に相当する言葉がないので子供が大人にタメ口をきいているように、日本人の感覚では思えてしまうらしい。
子供でもベンチの指示に反発
オランダでは小学生でも監督が試合中にベンチからやいのやいのと指示すると「うるさい」と怒鳴り返すという。子供でそうなのだから、大人でも例えば、大学の教授と学生、監督と選手、みんな対等。肩書に実質が伴って初めて敬意は表される。
スペインのFCバルセロナでコーチ修業中の白石君は年端もいかない子供に「日本人が僕らに何を教えてくれるわけ」と上から目線で話されて切れそうになったそうだ。
要するに今、ここにいるアナタはワタシにどんなメリットを提示できるのか、ということをちゃんと明示するように子供でも求めてくるわけである。
自主的な判断を重んじる環境を
個人的には、日本の節度ある師弟風コミュニケーションの取り方は好みだ。が、サッカーというスポーツの特性を考えると、あまりにも現状は監督に寄りかかりすぎかなとも思う。
サッカーは異なった要素(建設と破壊、攻と守、連係と独行)を瞬時に求められるスポーツである。だからこそトランジション(切り替え)は現代サッカーのメーンテーマにもなっている。持ち場、持ち場で個人が処理しなければならない情報量は増えるばかりで、とてもじゃないが、ベンチにお伺いを立てているヒマなどない。前半を参考にハーフタイムで与えた指示が後半開始早々には陳腐化していたなんてことも珍しくない。ピッチの外からの指示とピッチの中の現実がかみ合わないとき、選手に求められるのは現実に即して動ける対応力である。そういう意味では子供のうちから自主的な判断を重んじる環境をもっと用意する必要があろう。