新選組前身のナンバー3か 壬生浪士組の谷右京、複数文献に
新選組の前身「壬生浪士組」に谷右京という幹部がいたことを複数の文献から歴史研究家が確認した。局長の芹沢鴨、近藤勇に続いて名前が記載されたものがあり、「ナンバー3だったのではないか」とみている。砲術に秀でており、浪士組離脱後も研究を続け、自作の防弾盾を万国博覧会に出品したとされる。
山口県文書館が保存する「上京有志姓名録」には、1863年に江戸から7組に分かれて京都に向かった浪士組隊士200人強の名前、出身、年齢などが記されている。谷は5番組の2番目に名前があり、丹波柏原藩(現兵庫県丹波市)元藩士で63歳とされている。
京都での会津藩の動静などが書かれた「文久元治亥子太平録」(福島県会津若松市立会津図書館所蔵)では、「壬生浪士頭」として芹沢、近藤の次に「丹波産 谷右京」と出てくる。幹部として、名前が記載されているのは3人だけだった。
谷が浪士組を離脱した理由は不明だが、1881年に漢学や医学などに詳しい学者蒲生重章が編さんした「近世偉人伝」に、かつて谷右京と名乗っていたとして、谷水石の名前で離脱後の活動が紹介されている。
偉人伝によると、谷は黒船来航などをきっかけに独学で外国製と同じ仕組みの銃を開発したほか、車楯(くるまだて)という羽毛製の防弾盾を作った。幕臣・勝海舟の援助を受けて車楯を1873年のウィーン万国博覧会に出品したという。
これらの文献を分析した歴史研究家あさくらゆうさんは「浪士組が砲術を用いていたことは分かっていたが、師範役は不明だった。谷がその役割を担っていたと十分に考えられる。志を忘れず、砲術の研究を続けた先見性のある人物だったのだろう」と話している。
浪士組は薩摩、会津両藩と御所を警護し、長州藩などを追放した1863年の「八月十八日の政変」の功績が認められ、新選組を名乗ることが許された。新選組は今年で結成150年。〔共同〕