希少な男性土偶を発見か 「震災復興のきっかけに」
歴史新発見 福島県楢葉町・高橋遺跡
楢葉町中心部近くのJR竜田駅東側で、ホテルや事故関連の施設の建設計画が進められている。工事に先立って、昨年5月から周辺の高橋遺跡で発掘調査が行われた。
■縄文時代の拠点集落
高橋遺跡は井出川右岸の太平洋に面した標高約17メートルの平たんな段丘上に立地。約1万2000平方メートルのうち工事の対象となる約4000平方メートルが調査された。
その結果、縄文時代の竪穴住居跡19棟や大型の柱穴群、住居跡から離れた場所で大型の埋設土器50基など遺構や遺物が次々に見つかった。また、南向きに開いたU字型状に直径約30~40センチの川原石を並べた配石遺構や炉跡なども出土した。
大型柱穴は直径1~1.5メートルで深さ約1メートルある巨大な穴が約30あった。楢葉町から委託され調査にあたったいわき市教育文化事業団の猪狩みち子・調査第2係長は「柱4本あるいは6本で1セットになっていたのかもしれない。北陸で多く見られる木柱列のようなものだったのかは分からないが、とても大きく目立つものであったのは間違いない」と話す。
特筆すべきなのは、現在までに約20体確認した土偶の中に男性をかたどったとみられる土偶が見つかったことだ。縄文後期の住居跡の床面のかすかに上で発見したという。床面から直接見つかったのではないことから、住居が埋もれる過程の早い段階の遺物とみられる。
大きさは高さ約6センチ、幅約4.3センチと小型。一緒にみつかった土偶と比べても一回り小さい。顔、両腕、右足が欠けた状態で見つかった。足の付け根部分の正面には男性器を模したとみられる長さ8ミリ、太さ3ミリの突起がついている。
他の土偶と比べ表面がつるつると滑らかで、丁寧に写実的に作られているのが特徴だ。土偶は一般的に顔面や腕、足、体形などにシンボル化された独特の表現が施されていることがよく知られている。これに対し発見された土偶は「背面のお尻の部分をみてもよくわかる通り、実に細かく丁寧に仕上げた形になっている」と、猪狩係長は指摘。明瞭な写実性を備えていることから「男性をかたどった土偶」と説明する。
なぜ、男性をかたどった土偶は珍しいのだろうか。土器と同様、土をこねて人形を野焼で作る土偶は独特の形から教科書などで印象深いが、そもそも土偶とは何なのか、というと分からない点が多い。
土偶に詳しい文化庁の原田昌幸・主任文化財調査官によると、これまでに発見されたのは約1万8000体。年間300~400体の割合で増え続けている。国内では沖縄県を除くすべての都道府県で出土している。
土偶は縄文時代草創期の約1万3000~1万2000年前ごろから作られ始めた。弥生時代に入る約2500年前ごろになると作られなくなり、急速に姿を消してしまう。地域ごとに形態上、大きな違いがあるのも特徴だ。
最古の草創期のものとみられるのは滋賀県東部の相谷熊原遺跡の1体と、三重県中部の粥見井尻(かゆみいじり)遺跡の2体。両遺跡ともに首、両腕、両足がない、いわゆるトルソだ。
■男性土偶の可能性は数例
以降、早期(1万2000~7000年前)は九州、関東の太平洋岸、東北北部、北海道と広範囲に及び、前期(7000~5000年前)も北海道南部や東北北部、関東から東海地方で見つかっている。
中期(5000年~4000年前)に入ると、劇的な変化が訪れる。顔面の造形が行われ、次第に表情も明瞭になる。手足がつき身体がしっかりと立体的に作られて大型化し、立像化する。また、様々なポーズを取るようになる。
後期(4000~3000年前)では、大量に出土する地域が東北地方に偏る。「ハート型」、「山形」、「ミミズク形」などと呼ばれる頭部や顔面部分に明確なモチーフを持った像が出現。晩期(3000~2500年前)には、眼鏡をかけたような大きくデフォルメされた目で知られる遮光器土偶が東北地方で作られる。
歴史的にみると、出現期から前半は時代を経るに従って人間らしい表現が増していくのに対し、後半になると次第に象徴性や抽象性が高まっていく。モダンアートの作品と見まがうほど美的な造形に優れ、いわゆる人間らしさから離れていく傾向が出てくる。
では、何のために作り、どのように使ったのだろうか。「縄文人にとって彼らの土偶とは何を意味したのか――(中略)これが土偶論についての現下の最大かつ基本的問題といわざるを得ない」。東京大の渡辺仁・元教授は2001年出版の遺作『縄文土偶と女神信仰』でこう記した。
明らかな丸みや突起した乳房、腹部など女性的な身体的特徴を分かりやすく表現し、とりわけ妊婦とみられる像が多いことなどから、子孫繁栄や豊穣(ほうじょう)を祈念して作られたとするのが一般的な解釈だ。だが、豊猟祈願、玩具、呪物、安産護符、神像、装飾品など多数の見解が考古学者からだけではなく芸術家らを含め出されているものの、定説はまだない。
これまで男性土偶ではないかと指摘が出たのは北海道千歳市のウサクマイ遺跡、岩手県花巻市の石鳩岡遺跡、盛岡市の川目A遺跡などから出土の数例に過ぎないが、原田調査官は「男性と思われていたものが後に出産をかたどった土偶と見解が変更されたことがある。男性表象の明瞭な土偶が、ひとつの独立した土偶型式として認識できるだけの類例の蓄積を待たなければならないと考えている。今回のものも破片を含め慎重に検討を進める必要がある」という。
■「ふるさとをかけがえないものとして」
楢葉町は昨年9月、東京電力福島第1原子力発電所事故により全住民が避難対象になった自治体の中で、初めて避難指示が解除された。だが、約7300人の町民のうち戻ったのは400人足らずで止まったまま。約5%に過ぎず、子供が学校に通う若い世代の世帯は戻ってきていないという。
そんな中、昨年12月中旬に高橋遺跡の発掘について楢葉町教委は現地説明会を開催。福島県内からだけではなく仙台市などからも含め約100人が参加した。
「縄文時代の昔からここに人が住んでいたことに思いをはせてもらえれば」と楢葉町の坂本和也・文化財係長は開催した理由を話す。「どうしても後ろ向きの考えになりがちな町民が多いようだが、今回の発掘をひとつのきっかけとして、ふるさとをかけがえないものとしてとらえてもらえればうれしい」
楢葉町には天神原遺跡や、高橋遺跡に隣接する堂ノ前遺跡など、幾つも遺跡がある。古くから地域の拠点的な集落となっていたことは明らかだ。坂本係長は、閉鎖されたままの楢葉町歴史資料館が一日も早く再開され、今回発掘された遺物が展示されることを願っている。
(本田寛成)
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