「これはケータイじゃない」
iモードと呼ばれる前(5)
開発コード名は「トナカイ」
富士通の社内では、ブラウザーを搭載する携帯電話機をこう呼んでいた。発売予定がクリスマスシーズンだったからだ。サンタクロースがトナカイの引くソリに乗ってプレゼントを運んでくる。そんなイメージで名付けた愛称だった。
トナカイという名前には、納期を絶対に守るという開発陣の誓いも込められていた。
「冒険することも必要だが、顧客の求めに応じることが先決だ。何よりも納期を優先しよう」
移動通信・ワイヤレスシステム事業本部 ビジネス推進統括部ソフトウェア部担当部長(端末担当)(当時)の片岡慎二はこう言って技術者にハッパを掛けた。最後発で開発に参加したことが、納期の遅れにつながってはならない。NTTドコモの仕様を確実に実装し、スケジュール通りに納めることが第一だ。中途半端に機能を強化しても、それが原因で他社に遅れを取ってしまったら元も子もない。それよりも、あわよくば端末の納入で一番乗りし、他社に一泡吹かせてやりたい。片岡の思いは痛切だった。
それだけに、1998年8月のNTTドコモの決断に、片岡は内心忸怩(じくじ)たるものを感じずにはいられなかった。「iモード」のサービス開始時期を当初予定の1998年12月から、1999年2月に延期したのである。携帯電話機メーカー各社の開発スケジュールが遅れに遅れていることが原因だった。富士通もご多分に漏れなかった。
「もうこれ以上の延期は死んでもダメだ。次は絶対に間に合わせるぞ」
片岡は、発売が2カ月延びたことで安心するどころか、NTTドコモの期待を裏切ったという悔恨の念に一層さいなまれていた。
1998年9月末。富士通の開発陣は東京・神谷町のNTTドコモ・ゲートウェイビジネス部(当時)を訪れ、製品企画のプレゼンテーションを実施した。
この時、富士通がNTTドコモに提示したのは単なるモックアップではなく、一部の機能が動作する試作機だった。片岡は知らなかったが、同じころにNECも製品企画を説明していた。NECが動かないモックアップしか出せなかったのに対し、富士通の試作機には既にブラウザーが載っていた。完成には程遠いものの、試作機の電源を入れて、画面に文字を映し出すことができた。何が何でもスケジュールを遵守するという片岡の執念は、確かな実を結びつつあった。
「他社さんの製品とは見栄えが違うのではないでしょうか」
片岡が自信たっぷりの様子で差し出したのは、黒光りする筐体だった。アクリル樹脂を筐体の表面に配し、独特の質感を出している。従来機種では液晶パネルのカバーだけにアクリル樹脂を使っていたが、今回の製品では画面やキーボードが並ぶ面全体をアクリル樹脂で覆った。筐体全体の質感を統一するためだった。
この携帯電話機をデザインしたのは、富士通 総合デザインセンター プロダクトデザイン部(当時)の上田義弘らのグループ。片岡の自信満々の態度も、上田らの苦労があればこそだった。
拒否反応示した松永真理
上田に対して、携帯電話機開発部門からデザインの依頼があったのは1998年6月のことだった。
――デザインが1日でも遅れたら、その分のツケが実装のスケジュールに回ってくる。実装部隊は上田に容赦なくプレッシャーをかけた。
1998年7月。作業に着手して2週間余りで、上田は早くもデザイン画のプレゼンテーションに駆り出された。上田の前にはNTTドコモ・ゲートウェイビジネス部の松永真理が座る。彼女を納得させない限り、どんなデザインも文字通り絵に描いたままで終わってしまう。
短期間のうちに、上田は明快なコンセプトのデザインを生み出していた。上田が一番こだわったのは、画面の大きさが目立たないことだった。画面が従来の携帯電話機よりも大きいブラウザー搭載機は、手に持つ部分の幅を従来機と同じにするとどうしても「しゃもじ型」になってしまう。これを避けるため、上田は全体の幅を画面に合わせて広げることにした。
すると数字キーの横に、ボタンの列をもう1列増やせる程度のスペースができる。ならば本当にボタンを増やしてしまおう。上田は数字のキーが縦3列で並んでいる左横に、もう1列、仮名漢字変換などに使う操作キーを縦に並べて配置した。
これが裏目に出た。松永は4列目のキーの存在を知ると、一瞬にして顔を曇らせた。
「これはケータイじゃない」。携帯電話機の常識を逸脱した代物に、松永は拒否反応を示した。
「使い勝手が変わるようじゃダメ。広く普及させたいのよ。普通のケータイだけど、ちょっと新しくて、格好いい。そんなケータイが欲しいんです」。松永は、にべもなくデザイン画を押し返した。
次で決めないと…
次の打ち合わせでデザインを決めないと、予定通りの発売は夢に終わる。
松永に賛同を得られなかったと知った実装部隊の担当者は、がっくりと肩を落とした。何とかして納期に間に合わせたいという思いは、上田も同じである。再提案がもし受け入れられなかったら、と考えれば考えるほど、余計にデザイン案を絞り込めなくなった。
「もう、松永さんに決めてもらうしかありませんね」。上田らは、これまで考えたあらゆるデザイン案をNTTドコモに持ち込んで、松永の好みを聞き出す窮余の作戦に出た。
「これは、我々が『F20X』系の先行開発に向けて作ってきたデザイン案のすべてです。この中に松永さんの考える携帯電話機に近いものはありますか」
机の上には、所狭しとモックアップやデザイン画が並んだ。どれも派手な色合いや、数字キーの形などで、これまでの携帯電話機とは少し違った個性を持っている。松永は顎に手を当て、すべてをじっくりと見定める。松永の指が動いた。
「これよ、これ。これ、いいじゃない」
松永は、黒光りする筐体が描かれたスケッチを指さした。デザインのコンセプトは、何もない真っ黒の筐体から、光や文字がいきなり飛び出してくる機器。次世代の表示装置が実用になるもっと先の世代で使おうと、上田らが温めていたデザインだった。
歩留まりが悪い
「アクリル樹脂の1枚板なんて、材料コストが高過ぎるよ。4回も印刷工程が必要?歩留まりのこと考えてる?」
実装の担当者が上田に詰め寄った。ガラスはどうかと聞かれても、上田は首を横に振った。耳を当てる場所や数字キーが並ぶ部分に3次元的な凹凸を付けたかったからだ。ガラスでは真っ平らな板しか作れない。ポリカーボネート樹脂も検討したが、透明度が低く、コンセプトにそぐわなかった。
黒い筐体から文字を浮き出させるため、従来機のようにボタンに文字を印刷するのではなく、ボタンに隣接するアクリル樹脂の上に文字を印刷することにした。バックライトが点灯すると文字が浮き上がる効果を出せる。
「松永さんは、光沢のある筐体から文字が浮き出すアイデアに興味を示してくれた。一見歩留まりが悪そうでも、きっとNTTドコモは採用してくれる」
上田の説得で、次第に社内に賛同の声が増えていった。数カ月後には、その誰もが予期しないほどの脚光に、この黒光りする筐体は照り輝くことになる。
線表の重み
その日は、NEC 第三パーソナルC&C事業本部 モバイルコミュニケーション事業部 第二基礎開発部 技術課長(当時)の西山耕平の人生の中でも最悪の一日になった。
朝、西山は20年間の技術者生活で初めて、寝過ごすという失態を犯した。移動中の電車で上司に電話をかけても一向につながらない。NTTドコモに提出する書類を、前日までに上司に見せると約束していたが、西山には書類を作っている時間がなかった。上司の反対を押し切り、当日の朝まで待ってほしいと願い出た。その約束を西山は自らの手でほごにしてしまった。
「俺の言う通りにしないからだ」。待ちわびた上司は、西山の顔を見るなり大目玉を食らわせた。それはまだ序の口だった。
「一度守ると断言した線表を、簡単に変更するものではない」。上司を伴って訪れたNTTドコモ。いつもは温厚な端末開発責任者が、この時ばかりは声を荒げた。西山らは必死の形相で同じ言葉を繰り返すしかなかった。
「何とか発売をあと1カ月延ばしていただけませんでしょうか」
NTTドコモに対して提出するスケジュール表は「線表」と呼ばれている。NTTドコモが発売を1999年2月に延期すると決めた時、線表は余裕をもって再設定されたはずだった。それにもかかわらず、再び約束は破られた。前回の決定からわずか3カ月しかたっていない。
今度こそ、再度の延長は有り得ない。
開発の足を引っ張っているのが何であるかは明白だった。新たに作り上げなければならないソフトウエアの規模があまりにも大き過ぎた。
従来の「デジタル・ムーバ N206 HYPER」と比べてブラウザーを搭載する携帯電話機のソフトウエアの行数は、RAMで4倍、ROMは2倍。西山らが追加した新機能は、開発の負担を当時の常識から懸け離れた水準に引き上げていた。
西山らの頭を特に悩ませたのは「音着」の問題だった。パケット通信時に電話がかかってきた場合に、ブラウザーの動作を一端中断して通話に切り替える操作である。この部分をつかさどるソフトウエアがギリギリまでうまく動かない。とうとう電気通信端末機器審査協会(JATE)に無線端末としての認定を受ける審査に落ちてしまった。NECがようやく審査を通り抜けたのは、再度の発売延期を申し出る直前の1998年10月30日だった。
「西山さん、私たちに何かしてほしいことはありますか」。2度目の発売延期が決まった日、NTTドコモの現場の担当者は心配そうな声で西山に声を掛けてきた。
NECが独自性にこだわって大規模なソフトウエアを開発していることを担当者は知っている。しかしこれ以上スケジュールに遅れが出ては、サービスに影響が及んでしまう。何か手助けできないかという心遣いだった。
「ありがとうございます。音着に苦労しておりましたが、何とかなりそうです。もう二度とご迷惑はおかけしませんから」。西山は苦渋に満ちた表情で答えた。
管理者としての責任
「社会人になって今まで、あれほど忙しかったことはないですよ。自分もさることながら、管理者として、健康を害する技術者が出ないかが心配でした」
西山が日々、頭を悩ませたのは開発の遅れだけではなかった。スケジュールが遅れれば遅れるほど、部下の残業時間が増えていった。
西山とソフトウエア開発を共にしていたNEC 第三パーソナルC&C事業本部 モバイルコミュニケーション事業部 第二基礎開発部 主任(当時)の林啓一も、並外れた残業時間を記録している技術者の1人だった。
林はブラウザーの開発を担当するACCESSを毎週2~3回は訪問し、ソフトウエアのバグを修正する生活を続けていた。ACCESSのCompact NetFront Browserはまだベータ版の段階で、作り込みの真っ最中だった。ACCESSから担当者がNECに来てくれれば、林の負担は少なくなるというものだが、複数のメーカーを同時に相手にしているACCESSの大城明子らをNECに掛かり切りにさせることは無理だった。
林は、NECが内製するソフトウエアの開発も担当している。平日はどうしても社内の打ち合わせやバグの修正作業に手を取られてしまう。林は休日をACCESSでのブラウザー開発作業に充てざるを得なかった。
土曜日にはACCESSに向かい、仕様変更やバグの修正に関する要望を伝える。打ち合わせが終われば、直ちに帰社して先方からの返答を待ち構えた。土曜日の深夜になって、大城から回答のメールが届くことは当たり前で、それから早朝まで林の修正作業は続くのだった。
とにかく負けたくなかった
当初は十分な数の技術者を配していたつもりでも、残業時間はずるずると伸びていった。西山の要求する仕様が次々と増えていったからだ。スケジュールの遅れを知りつつも、西山はACCESSの大城に対し、ブラウザーの起動時間などについて、厳しい改善要求を出し続けた。
「多分、数あるメーカーの中でNECの要求が一番厳しかったと思います」
こう西山が断言するほど、西山や林の要求は細部にわたった。大城らACCESSの技術者も逼迫したスケジュールの中で、この挑戦を受けて立った。両者が燃えれば燃えるほど、技術者の勤務時間は青天井に近づいていく。こうした現状を見かねた会社から、西山は再三警告を受けた。西山はできるだけ早い時間に技術者を帰そうと、追い立てるように声をかけて回ったりもした。しかし「バーディーを取る」と意気込む技術者たちは、ひたすら作業に没頭し続けた。
「上司に呼び出されて注意されたこともあったし、組合から調査に来ると警告されたこともありました。もっと技術者を楽にさせてやりたいとは思いました。でも、それは難しかった」。こう語る西山自身、製造を担当するNEC埼玉に出向し、工場近くのホテルで缶詰生活を送る身だった。
いつからか西山は、何時に寝たかを日記につけるのが習慣になっていた。今にして振り返れば、明け方近い時間に寝る日が数週間は続いた。朝は8時30分に工場が動き始める。当然西山も、現場に出て指揮を採らなければならない。
「大変だったのは、ウチだけじゃなかったとは思います。とにかく、製品で他社に負けたくなかったんです」
そんな折、西山を勇気付けたひと言があった。ACCESSの取締役副社長(当時)の鎌田富久がふと漏らした言葉である。
「西山さん。私はね、2番手の会社を1番にするのが好きなんですよ」
まさに、西山が目指していることだった。今の苦労はすべて、他社を打ち負かすため。ここで妥協したら1番にはなれない。試作機に付けた開発コード名である「バーディー」に恥じぬよう、絶対に1つ上、トップシェアに躍り出てみせる。鎌田のひと言は、疲労の極にあった西山を再び奮い立たせた。
遅れは、製品の特色で取り戻す
1998年の晩秋。大阪・尼崎の三菱電機。携帯電話機の開発現場を指揮する三菱電機 通信システム統括事業部 移動通信端末事業センター 技術第一部長(当時)の濱村正夫には、ひそかにライバル心を燃やすメーカーがあった。富士通である。
ブラウザーを搭載する携帯電話機の発売が1998年12月から1999年2月に延期になると決まった時、NTTドコモからこう聞いたからだった。NECと松下通信工業の開発が大幅に遅れている。この2社と比べるとスタートが遅かった富士通と三菱電機の方が、むしろ先行して作業を進めているというのだ。少しでも早く製品を売り出したいNTTドコモは、富士通と三菱電機の開発の進捗状況を見て、2月ならば大丈夫だろうと発売時期の照準を定めたという。
「富士通に先を譲るな」。濱村は今度こそ、納期を遵守すると意気込んだ。
濱村が常々「素人集団」と称していた通り、開発メンバーの多くは他の部門から招集された半ば新人だった。それでも濱村は果敢に、初めて携帯電話機に32ビットマイコンを採用するという賭けに打って出た。たとえ素人の集まりであっても、やる気にあふれた人材をそろえたという自負があった。事実、新人技術者の熱の入れようは、濱村の期待を満たして余りあるほどだった。彼らの奮闘は実を結び、いよいよ作業は最終局面を迎えていた。
「お前らならできる」。濱村の怒号が、技術者が詰める大部屋に響き渡った。
「PDA」にしてはならない
濱村が納期を守るために徹底して貫いた方針は、NTTドコモの仕様を確実に実装することだった。NTTドコモの意向に沿わないデザインや新機能を提案して作業を滞らせている暇はなかった。とりわけ気を使ったのは、大きさや使い勝手を従来の携帯電話機と極力同じにすることだった。
PDAにはしないでほしい――。
濱村はNTTドコモの担当者からこう釘を刺されたことがあった。携帯電話機にWWWサイトの閲覧や電子メールの送受信機能を盛り込んだからといって、画面や筐体がPDA(携帯情報端末)のように大型になったり、携帯電話機の使い勝手が大きく変わってはならないとのことだった。
濱村はその意を酌んで、既存の三菱電機製の携帯電話機に可能な限りデザインを近付けることにした。濱村の狙いは確かだった。他社がデザインを確定するまでにNTTドコモから何度もやり直しを命じられていたにもかかわらず、三菱電機はデザイン案についてほぼ「一発OK」の回答をもらっていた。
「へぇ、ここまで小さくなるの」。製品の最終提案の場で、NTTドコモの松永真理は、三菱電機が提示したモックアップを不思議そうな顔をして手に取った。
小型のモックアップは数々の技術上の工夫に裏打ちされていた。液晶パネルのサイズを従来機と同等に収め、筐体の大きさが従来機を大幅に上回ることのないように努めた。8文字×6行と多い文字数を、従来機に近い表示領域に映すため、フォントを小さくした。単純にフォントを縮小すると文字がつぶれてしまう。そこでシャープが開発した「LCフォント」を採用した。文字を縦長にするなどの工夫で、液晶ディスプレー上で細かい字を読みやすくしたフォントである。
濱村らは、筐体を小型にするために、ボタンの数も減らした。これを可能にしたのが「イージーセレクター」と呼ぶ新型ボタンである。イージーセレクターは画面の真下に付けたカマボコのような形をしたボタンで、上下に動かして画面のスクロールやメニューの選択ができる。押し込めば、決定ボタンの役目も果たす。ブラウザーの基本的な操作を1つのボタンで実行できるわけである。
従来機では他のボタンにあてがっていたアドレス帳の操作などもイージーセレクターに割り振った。この結果、ボタンの数は18と、1998年1月に発売した三菱電機製の携帯電話機「デジタル・ムーバD206HYPER」の20をさえ下回った。
もう1つ、濱村ら開発陣が知恵を絞ったのは「iモード」のサービスに接続する「iボタン」の位置だった。従来機にはないこのボタンをどこに置けば、小型化と便利な使い勝手を両立できるのか。キーボードの周辺に取り付けると、ただでさえ数の多い数字キーに埋もれてしまって分かりづらい。その上、せっかく減らしたボタンが1つ増えてしまう。
開発陣がたどり着いたのは、当時、三菱電機製の携帯電話機の特徴であった「フリップ」の表面を利用する発想だった。フリップは、筐体前面のキーボードの部分を覆う開閉式のフタである。
「閉じたままでかけられる、話せる」――これが従来機の謳い文句だった。ならば「閉じたままでコンテンツを見られる」ことが今回の携帯電話機では売りになるはず。濱村は自信を持って提案の場に臨んだ。
「これはいいね」。松永や榎啓一らNTTドコモ ゲートウェイビジネス部の面々は、即座に濱村らの提案を受け入れた。
バグの恐怖
同じく1998年の末。京阪電鉄 西三荘駅から歩いて15分の所にあるお好み焼き屋「ひろや」。テーブルを挟んで座っていたのは、松下電器産業 マルチメディア開発センター 情報グループ 情報第3チーム 技師(当時)の菱田利浩と秦秀彦である。
2人は携帯電話機向けブラウザーの開発に奮闘するプログラマーであり、激務の合間を縫ってはこの店を訪れる仲の良い常連客だった。木枯らしが吹く季節。鉄板の上のお好み焼きから上がる湯気も、程よい暖房に感じられた。
「秦君、ブタ玉の加減、良さそうやで」。
菱田が鉄ヘラでクルリとお好み焼きをひっくり返した。
「あ、すんません」。秦は、胸ポケットに入れた携帯電話機をしきりに気にしていた。
「メシ食うときぐらい、仕事のことは忘れたらええのに」。菱田は手際良くお好み焼きを切り、互いの皿に盛り分ける。
「僕だってそうしたいんはやまやまですけど、いつ和田さんからバグの知らせが来るかと思うと、気が気やなくて」。
秦はブタ玉をほお張りながら、再び携帯電話機に目をやった。
大阪・西三荘の松下電器産業では、情報第3チームの主任技師(当時) 和田浩美が率いる技術者のチームがソフトウエアの不調に苦しんでいた。ブラウザーの自社開発を開始してから半年以上が過ぎ、ブラウザーは既に試作機の上で動いていた。問題はあまりにも動作が不安定なことだった。いまだ現場のプログラマーは未曾有の数のバグに頭を悩ませていた。
もう完璧、もう完璧と全員が何度も思った。それでも出てくるバグの多さのあまり、誰も完璧という言葉を口には出さなくなっていた。ある程度のバグは仕方ないんじゃないか。そんな弱音も漏れるほど、誰もが憔悴していた。新たなバグの発見はもはや恐怖だった。
「僕ら、正月休みって、ありますかね」
「まあ、今のままやったら無理やろうな、絶対」
「あ、もう11時ですよ。今日は、これで帰ってもええですよね」
「そうやな。たまにはこんな日があってもいいやろ。オレも昨日は結局、京橋のビジネス・ホテルやったし、帰れるときは帰らんと、体が持たへん」
菱田が口を閉じた瞬間、秦の携帯電話機がブルブルと振動した。
「もしかして、和田さん?」。菱田が青ざめた顔で聞く。
「いえ、河野さんです」
電話の主は、同じソフトウエア開発者である松下ソフトリサーチ 開発部 マルチメディア第6グループの技師(当時)、河野雅一である。
「はい、秦です」
「河野ですけど、今どこ?」
「『ひろや』でお好み食うてます。河野さんも来ますか?」
「行けるわけないやろ。今、和田さんと一緒に札幌や」
あ、そうだった。秦は苦り切った表情をした。今ごろ札幌から電話とは。やっぱり今日もまた家には帰れそうもない。
札幌には、ソフトウエアのコーディングを担当する松下システムエンジニアリングの支社がある。和田と河野は、札幌と大阪を行き来して作業の進捗状況を逐一確認していた。
「けさ、秦君に直してもらったバグが、またおかしくなっとるんや。和田さんも予定が遅れるってイライラしとる。悪いんやけど、今すぐ直してくれへんかな」
「分かりました。すぐ会社に戻ります」
聞いていた菱田も事情を察してガックリと肩を落とした。「またトラブったんか?」
「あー、僕もう、終電が…」
「まー、しゃーないで。戻ってはよ、片付けようや」
菱田は、無言で店主に勘定のサインを出した。
「昆虫の館」
数日後、和田が札幌の事務所でパソコンに向かっていると、秦から1通の電子メールが入っていることに気付いた。
――和田さん、新しいWWWサイトを作ってみました。虫を誰が1番多く見つけるか、競争ですよ。アドレスは…
和田は早速「Internet Explorer」を立ち上げ、URLを打ち込んだ。開いたウインドウが映し出したページのトップに「昆虫の館」の文字。技術者が自由に情報を書き込める電子掲示板だった。各技術者が発見したバグの情報を知らせ合って、共有しようというアイデアである。早くも秦が発見したバグが書き記されていた。
「私だって、けさ見つけたんやから」。和田は早速、バグ情報を書き込む。
既に和田ら技術者には、ブラウザーを搭載した試作機が手渡されていた。試作機にはパケット通信機能が備わっており、NTTドコモの携帯電話網を経由してテスト用のWWWサイトにアクセスできた。技術者たちは自社のサーバー内のテスト用サイトに接続し、画像や文字をブラウザーで表示して不具合が生じる個所をくまなく探していた。
昆虫の館を利用し始めたことを、早速秦に知らせよう。パソコンの電子メールソフトを操作しながら、和田はふと気が付いた。秦からのメールに読み忘れた文章が残っている。
――ちなみに、この掲示板には試作機からもアクセスできます
和田は飛び上がった。試作機を使って発見したバグを、同じ試作機から直接昆虫の館に書き込めるなんて。
「すごいやん、これ」。和田は札幌支社の部屋中に聞こえるような大声で叫んだ。
ケータイっておもろい
昆虫の館がオープンして以来、和田はどこへ行くにも試作機を手にするようになった。どんな場所でもバグを探すことができるし、発見したバグの報告まで済んでしまうからだ。もちろん、試作機の存在を部外者に絶対に悟られてはならない。人前で昆虫の館を見るときには、必ず何かで筐体を隠すようにした。それが余計に、和田の胸を高鳴らせた。
試験用サイトにあるピカチュウのGIF画像とミッキーマウスのGIF画像を連続して表示させたら画面が固まった。原因は…
昼食の最中にも、スタッフからのコメントが掲示板に寄せられた。
アニメキャラクターの話ばかりで、知らない人が見たら、仕事の話だとは絶対に思わへんよね
和田は慣れない手つきで入力する。書き込みを終えると、続々と返答が帰ってきた。
和田は当時の心境をこう表現する。「パソコンの画面でコンテンツを見ているのとは全く違う、心の中に直接メッセージが飛び込んでくるような、何とも言えない新しい感覚を覚えました」。
同様の感覚は他のスタッフにも芽生えていた。昆虫の館に続いて、自分専用のWWWサイトを作ったり、日記を公開するスタッフまで現れた。声で会話を交さなくても、みんなどこかでつながっている。そんな携帯電話の新しい楽しみ方が、身に染みて和田には分かってきた。
「ケータイが、こないにおもろいなんて。ヒット間違いなしやわ」。和田はそう確信した。
指にタコができた
大阪に戻った和田は、オフィスの廊下をぶぜんとした表情で突き進んでいた。向かった先は、デザイン部隊だった。
「あのな、バグ取りしすぎて、指にタコができたんやけど」。和田は担当者に詰め寄った。試作機を使ったバグ取りと昆虫の館へのアクセスし過ぎの結果だった。
「ほら、ちょっと見て。この試作機、ジョイスティックの先が尖ってるやろ。毎日これでバグ取りしてるもんやから、指にタコができて…。先を丸く削るとか、改良の余地があるんと違うの?」
「え? タコができるほど使うてくれたんですか、うわー、うれしいわ。そないに一生懸命使うてくれたなんて」
「はあ?」
デザイナーが平謝りするものとばかり思っていた和田は、開いた口がふさがらない。最初の威勢はどこへやら。すっかり形勢が逆転してしまった。
「いや、そんなんやなくて…」。何とか不満を伝えなければ。相手の勢いに負けじと和田も反論する。指にタコができるまでの経緯をかんで含めるように説明した。試作機と親指をデザイナーの眼前に突き出し、必死にタコの痛みを伝えた。
「あぁ、ほんまや。ジョイスティックが尖ってますねぇ。分かりました。も少し丸くしときます」
ようやく担当者が納得したころには、和田はヘトヘトに疲れ切っていた。
「ほんま、ごめんね」。文句を言いにきたつもりが、頭を下げている自分に、和田は何とも煮え切らない思いだったが、目的は達成したと納得することにした。
「あー、しんどいわ」。仕事場へと戻る途中、和田は充血した目を押さえた。連日のバグ取り作業で和田の身に生じた変化はタコだけではなかった。近ごろ、試作機の画面がかすんで見えるのが気になっていた。尋常でないほど長い時間にわたって画面を見続けたためか、いつしか視力が低下していた。生まれてこのかた、眼鏡の必要性など感じたことがなかったのに。
「何事も、ほどほどにせなあかんということか」。和田はぼやきながら、仕事場へと先を急いだ。
自分だけのケータイに
いつまでたっても、昆虫の館への書き込みは一向に減らなかった。取っても取っても新しいバグが見つかる。寝ている間以外は、和田は試作機を手元から放せなかった。遊びで使っているのならまだしも、しょせんは仕事の道具である。和田は試作機の殺風景な風体に、いささかうんざりし始めた。
そんな和田が、あることに気付いたのは半ば必然だったのかもしれない。和田は、ぼんやりとパソコンを眺めていた。どのパソコンも同じような形をしているのに、それぞれ何かが違っている。誰のパソコンかが一目瞭然だ。一体なぜだろう。
「そうか、壁紙だ」。アニメのキャラクターや大自然の写真など、いずれのパソコンにも各人の個性をうかがわせる画像が張り付けられている。だからこそ似たようなパソコンが全く違って見えるのだ。だったら携帯電話機にも壁紙を張り付けちゃえばいい。
開発中の携帯電話機にはGIF画像を保存して何度も見ることができる機能を備える予定だった。この機能を利用して、自分の好きな写真を常に表示できるようになったら「金太郎あめ」のように同じ格好をした携帯電話機が、個性をまとったツールに生まれ変わる。
和田のアイデアは、社内で大好評を博した。賛同した技術者たちは、ほかに山ほど業務があるにもかかわらず、目にも留まらぬ速さで、壁紙を表示するソフトウエアを書き上げた。NTTドコモの担当者も和田のアイデアに喜び、即座に機能追加の承諾が下りた。
自分のアイデアが好評と聞き、最高の気分になった和田だが、余韻に浸っている暇は無かった。壁紙の着想に刺激されたのか、デザイン部門から次なる依頼が寄せられたのである。
「ケータイの画面上で動かしてほしいモノがあるんやけど」
この期に及んでさらに機能を追加するなんて。あまりにも唐突な申し出に、和田は目を丸くした。(文中敬称略)
(日経エンタテインメント! 白倉資大)
[日経エレクトロニクス2002年12月16日号と2003年1月20日号の記事を基に再構成]