李鵬元首相死去 「太子党」はしり、世襲の根深さ象徴
【北京=多部田俊輔】1989年の天安門事件で民主化運動への弾圧を指示するなど保守派の代表格だった李鵬氏。周恩来元首相に育てられ、革命戦争に参加した党幹部の子弟である「太子党」のはしりとして首相まで上り詰めた。息子と娘も「太子党」の代表であり、李鵬家は中国共産党が抱える「世襲」の根深さを示す。
「父の健康状態は良く、日記を整理しています」。2008年3月の全国人民代表大会(全人代=国会に相当)の時、中国紙記者と一緒に李鵬氏の長女、李小琳氏を取材すると、話題は父親である李鵬氏のことばかり。李小琳氏は派手なファッションと父親の近況を漏らすことで李鵬家の存在感を高めていた。
李鵬氏の実父、李碩勲氏は1927年に周元首相らと南昌蜂起を主導した人物で、国民党に逮捕されて処刑された。母親の趙君陶氏は周元首相とともに仏留学中に中国共産党のヨーロッパ総支部を結成した趙世炎氏の妹。そんな縁から周元首相夫妻に育てられた。
ソ連に留学し、帰国後は発電の技術者として電力工業省で出世の階段を駆け上がり、88年に首相に就く。その後ろには周元首相とその妻で政治局員も務めた鄧穎超氏ら長老の強力な後押しがあった。鄧穎超氏は李鵬氏の名前を呼んで亡くなったとされる。
天安門事件では、「李鵬下台!」(李鵬は辞任しろ)と民主化を要求する学生運動の標的にされた。当時の最高実力者、鄧小平氏の意向を背景に北京に戒厳令を敷き、弾圧を主導したとされ、欧米からも強い反発を受けた。天安門事件後は三峡ダム建設で経済をてこ入れする一方、中国の首相として初めて世界の著名人らが集まるダボス会議に参加し、開放政策の継続を主張した。
全人代の閉幕後に首相が記者会見する習慣が定着したのも、李鵬氏から。自らの主張を発言することに意欲的だった。引退してからも、現役時代に毎日書いた日記をもとに約10冊の本を出版し、重要政策の決定過程などを明らかにしている。
日本には3度、公式訪問した。最後の来日となった2002年には、全人代委員長として日中国交正常化30周年の記念事業に参加した。
李鵬氏は自らの子供も電力畑を歩ませたため、李鵬家は電力利権を握るファミリーとされてきた。長男の李小鵬氏は国有発電大手でキャリアを積んでトップまで上り詰めた。その後、山西省長を経て、交通運輸相を務める。長女の李小琳氏も国有電力大手の幹部だった。
電力利権で蓄財していないのか――。習近平(シー・ジンピン)国家主席が権力基盤を固めるために進める反腐敗運動の矛先として、李鵬家が取り沙汰された。パナマの法律事務所から流出したタックスヘイブン(租税回避地)利用の実態を暴く「パナマ文書」でも李鵬氏の一族の名前が挙がっていた。
中国共産党の幹部には「太子党」が多く、国民の反発は根強い。習国家主席は反腐敗運動を加速させているが、自らが「太子党」の代表であるだけに、中国の権力構造が抱える世襲の仕組みにメスを入れることは難しそうだ。