ボブ・ディラン氏、ノーベル賞の熱狂と距離
【ラスベガス=兼松雄一郎】ボブ・ディラン氏のノーベル賞受賞後初となるコンサートが終わった。受賞へのコメントは一切ない。同氏は受賞の喧騒(けんそう)から明らかに距離を置こうとしているように見えた。米誌ニューヨーカーが「受賞を祝おう。グロテスクなトランプ台頭に代わる明るい話題だ」との記事を出すなど、既に政治的な対立にも巻き込まれつつある。それに対し冷静に振る舞うことで米国における大統領選と音楽の蜜月関係にも一石を投じようとしているように見える。
米西部ネバダ州ラスベガスで13日夜(現地時間)、ノーベル文学賞の受賞決定後初となるディラン氏のコンサートが開催された。開演前から多くのファンが詰めかけた。近郊から来た自営業のキース・スコット氏(59)は「1970年代からずっとファン。ノーベル賞は正当な評価だと思うよ」と笑顔をみせた。会場にはカジュアルな服装の50歳代以上とおぼしき落ち着いた白人夫婦が目立った。受賞を祝う横断幕などの浮かれたものは全くない。
ディラン氏がステージに登場すると、観客は総立ちとなり、大歓声で迎えた。だが、同氏は受賞後のメッセージを待つかのような観客には目もくれずピアノ演奏に入った。
「雨の日の女」、「くよくよするなよ」、「追憶のハイウエー61」、「It's all over now baby blue」と代表曲が続く。「運命のひとひねり」でギターを持つと会場は一気に盛り上がった。
コンサートは着席式で、スマホの使用も一切禁止という近年では珍しい厳格な会場運営。ノーベル賞受賞を受けてやって来た取材陣に対しても観客への取材は申請制にして規制するという過剰なまでの厳戒態勢だ。会場中に不自然なほど多くの係員が配置され、スマホを使っていないか監視している。
ディラン氏は受賞後も一切コメントを出していない。コンサートではノーベル賞受賞の話題だけでなく、曲以外の会話そのものが一切なかった。ステージは暗くディラン氏の顔もかろうじて見える程度。声と曲が強調される「歌が全て」という演出だった。
ステージでは、アンコールに応え代表曲「風に吹かれて」を演奏した後、最後はフランク・シナトラが歌って有名な「Why try to change me now(なぜ今僕の気持ちを変えようとするの?)」で締めた。世間から少し離れた自分の世界に入り「そっとしといて」と歌う曲だ。意味ありげな選曲だった。
「詩人」と呼ばれるディラン氏はかすれた声で言葉を一つ一つ慎重に曲に乗せ、ほぼ全ての曲を独白するように歌い上げた。原曲に様々なアレンジが加わっており、ライブならではの楽しさがあふれる。それに独白調のボソボソとした歌唱が加わることで、かつてのような政治性やフォークの要素は驚くほど感じさせない。今のパフォーマンスはおそらく熱狂的なフォークファンなら物足りなさを感じるものだろう。
日本ではロックフェスで政治的な言論活動をすることの是非が一時期ネットで盛り上がっていたが、米国では音楽ジャンルが歴史的に政治と密接に結びついており、そもそもそんなことは問題にならない。
「共和党の候補者よ。おまえこそクビだ!」10月5日、サンフランシスコ近郊。米顧客情報管理(CRM)大手セールスフォース・ドットコムが主催するイベントでライブを開催したロックバンドU2のボノ氏はこう叫んだ。民主党の支持者が多い観客席からは大歓声が上がる。ステージの巨大画面には共和党のドナルド・トランプ候補が映し出されている。同氏をあおる激しい批判のメッセージが続く。
ライブの後、民主党の熱烈な支持者として知られる主催者のセールスフォースのマーク・ベニオフ最高経営責任者(CEO)は「素晴らしいメッセージだった」と投稿した。U2のパフォーマンスは米国における重要な政治の道具としての音楽の姿を改めて印象づけた。
この文脈で民主党、リベラル派が特に好んで使うのがフォークだ。ヒラリー・クリントン候補と民主党の指名を争ったバーニー・サンダース氏の集会で繰り返し使われていたのはフォーク色が強いサイモン・ガーファンクルの「アメリカ」やニール・ヤング氏の「ロッキン・イン・ザ・フリーワールド」などだ。
一方、カントリーを好むのが共和党。米人気ポップ歌手テイラー・スウィフト氏はもともとカントリー歌手で、共和党支持者として知られる。共和党のブッシュ政権のイラク政策を批判した米カントリーバンド、ディクシー・チックスがファンから猛反発を浴び、謝罪に追い込まれたこともあった。これもファンに共和党支持者が多いためだ。
また、二大政党ともに雰囲気を盛り上げるためにイベントでロックの曲を使うことも多い。だが、歴史的に選挙への曲の使用を巡ってはよくトラブルが起こっている。一般的にミュージシャン側はリベラルな傾向があり、民主党支持者が多いためだ。
今回の大統領選では、トランプ候補がローリング・ストーンズ、エルトン・ジョン氏ら多くのミュージシャンから曲の使用で抗議を受けている。ストーンズは人種差別の厳しい環境の中から生まれてきたブルースの影響が濃い。エルトン・ジョン氏は両性愛者だと公言している。共和党の支持母体には人種や同性婚への差別是正に消極的な保守系団体も多い。どちらも政治性を意識してトランプ氏に限らず、曲の使用に反対した可能性は十分ある。
かつてディラン氏はこの民主党色が強いフォークの象徴であり、音楽と政治の蜜月を体現した存在だった。共和党の支持層と重なる保守系団体を激しく批判したこともある。明らかに思想信条は民主党寄りで、オバマ政権誕生を歓迎するコメントを出し、2010年にはホワイトハウスに招かれコンサートに参加したこともある。
ただ、その一方で「答えは風に吹かれている」と繰り返す代表曲「風に吹かれて」に象徴されるように、基本的には特定の思想信条や政党に深入りすることにはずっと懐疑的な立場を取り続けてきた一面もある。ディラン氏の音楽遍歴もそれを反映している。政治色の強いフォークを離れ、ロック、ブルース、ゴスペルなどが入り交じる音楽に、旧約聖書の詩篇、シェイクスピアなどエリザベス朝文学から影響を受けた抽象的なモチーフを乗せる独自の様式を築き上げてきた。
ディラン氏のコンサート会場では曲や歌詞にうなずきながら座って音楽をじっくり楽しむ客が大半だ。全体的にジャズのコンサートに近いような落ち着いた雰囲気だ。熱狂から一定の距離をおくこと、冷静に考えること。そこには大統領選を控えた米国の国民にディラン氏が歌を通じて求めている姿が体現されているようにも見えた。
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