パソコン30年、ジョブズ氏の予想超すデジタル革命
米IBMが初のパソコンを発売して30年。パソコンは個人の知的生産活動を高め、インターネットとつながることで情報化社会を実現した。スマートフォン(高機能携帯電話)など新しい情報端末がパソコンに代わりつつあるが、地球規模で起こったデジタル革命はさらに進化し、加速しようとしている。
「パソコンはまもなくデジタルライフの主役でなくなる」。米アップル最高経営責任者(CEO)のスティーブ・ジョブズが6月、新しいサービス「アイクラウド」の発表会でパソコン時代の終えんを宣言した。
米調査会社のIDCによると、今年はスマートフォンの世界出荷台数が4億5千万台を超え、初めてパソコンを追い抜く。実はジョブズは10年前、記者とのインタビューで、台頭し始めた高機能携帯電話の将来性に疑問を投げかけ、「パソコンは情報端末の主役であり続ける」と語った。カリスマ経営者の予想を超す技術革新がこの間に進んだわけだ。
パソコンは米西海岸にある米ゼロックスのパロアルト研究所(PARC)が1973年に開発した「アルト」が原型だとされる。ジョブズもマウスで動くアルトを見て「マッキントッシュ」の開発を思い立ったという。
当時、PARCで多機能な情報端末を提唱し、「ダイナブック」と名付けたのが"パソコンの父"と称されるアラン・ケイだ。その概念は長らく実現しなかったが、「30年以上たってようやく形だけでも近いものが生まれた。その1つがiPadだ」とケイは言う。ケイはジョブズと同時にマイクロソフトを創業したビル・ゲイツにも強い影響を及ぼした。
一方、ビジネス市場でパソコンを事業化しようと考えたのがIBMだ。個人がコンピューターを持つ時代を想定、80年にフロリダ州ボカラトンに開発部隊を設けた。ドン・エストリッジをリーダーにわずか12人で社内ベンチャーを組織、IBMとは異なる開発手法を採用した。
「我々の命題は1年で開発することだった」。設計を担った最初の技術者の1人、デイビッド・ブラッドリー(62)は語る。すべてを内部で作るIBMのやり方では開発に3年はかかる。ベンチャー方式はそれを半分に短縮する狙いだった。
すでに当時、電気店の「ラジオシャック」を営む米タンディやゲーム機の米コモドールもパソコンを発売。一刻も早く開発するには外部の技術も使うことにした。今日でいう「オープンイノベーション戦略」である。
白羽の矢が立ったのが16ビットマイクロプロセッサー(MPU)を開発した米インテルと基本ソフト(OS)の「MS-DOS」を提供するマイクロソフトだった。
実はIBMの本社が見込んだPCの販売目標は5年で24万台だった。ところが一気にパソコンブームが起き、10倍以上の300万台近くを販売。12人のチームは3年で1万人を超す大所帯へと発展した。さらにハードディスク搭載機を発売すると販売はもっと勢いづき、累計出荷台数でアップルを追い抜いた。
IBM-PCはなぜ成功したのか。ブランド力に加え、重要な役を演じたのが「標準化とオープン戦略」だった。IBMの秘密主義を排し、仕様書を公開すると、コンパックやデルなどの「IBMクローン」と呼ばれた互換機メーカーが登場、産業集積全体として発展した。
だが繁栄は長続きしなかった。エストリッジ氏が85年に航空機事故で亡くなると、特許料を当て込む本社の要請でOSを独自仕様の「OS/2」に転換、求心力を失った。代わってパソコンの盟主となったのが、IBMから母屋を奪ったマイクロソフトインテルの「ウィンテル連合」だった。
それから四半世紀。今度はスマートフォンやタブレット端末を舞台に新たな技術革新と規格競争が進む。アップルと米グーグルが展開する「iOS対アンドロイド」の戦いもその1つである。
IBM出身でレノボの社長を務めるローリー・リード(49)は「今の情報端末の能力は70年代のIBMの大型汎用機よりも高い」と指摘する。汎用機やパソコンの分野では日本企業も米企業と共に世界をリードしたが、携帯端末を巡る今の競争の構図では日本企業の影は極めて薄い。
しかし勝負はまだ終わったわけではない。この30年でパソコンが手のひらに収まったように、次の30年には人間の五感を自由に操れる新しい技術が登場してくるだろう。何でも実現できる「ドラえもんのポケット」のようなコンピューターが登場するに違いない。
日本企業に今問われているのは、かつてアップルやIBMが挑戦したように、次の30年を先取りする技術戦略と、それを実行する経営力である。=敬称略
(編集委員 関口和一)