回答(8件)
毛利輝元と徳川家康が裏で繋がっていたから 大坂城から出陣しなかったし吉川、小早川の 毛利一門は動かなかった。 文字通り西軍として参軍して戦に負けたら 毛利一門の改易は免れなかったろうし。 家康の催促に痺れを切らした小早川秀秋の15000は松尾山から降り大谷吉継の陣へと 突入し東軍が勝ったんだけど。。。 戦後、毛利は120万石から30万石へと 石高が減封されてましてや移封されるわ 石見銀山まで徳川に召し上げられた。 その怨みが果たされるのが幕末まで 待たないといけなかったんだから。
毛利単独では徳川の国力には敵いません。 だから西国に毛利の勢力を広げようとしていたんでしょう。 関ヶ原で決戦が行われたのは予定外でしょう。 まして預けた本隊が戦わない訳ですし。 まぁその辺りの戦略徹底が為されてないから西軍が負けたんだと思います。
「関ヶ原」が「天下分け目の決戦」だと後世の人間は知っていますが、それは結果論であって、当時の人間にはそれは分からなかったのです。 当時の大多数の認識は「日本の大名を二分する紛争はそう簡単には終わらない」ということで長期戦を想定していたわけです。 このため毛利輝元は大坂城に毛利の主力を置き、大坂・京都という政治経済の中心地を抑えつつ、各地の動向を把握して総指揮を執るつもりだったと思われます。 これは合理的な判断であり決して後世言われるような愚将だったわけではないです。 それに対し徳川家康は主力を自ら率いて一気に岐阜に侵攻し、そこで短期決戦を挑みました。 これは口で言うのは簡単ですが、実際には東海道の大名たちが誰か裏切って足止めされる可能性もあり、また途中で幾つもの川を越えねばならず、天候が悪化して川を越えられなくて主力が遊兵になってしまう、などなど多くのリスクを抱えた言わば「イチかバチかの賭け」だったのです。 もちろん家康にも成算はあったでしょうが、それでも失敗すればその時点で中立の大名はもちろん、徳川に味方している大名たちも一斉に寝返る危険性があったのですが、家康はその賭けに勝ったのです。 言わば「慎重かつ合理的に長期戦を戦おうとした毛利輝元」に対し「イチかバチか全力で短期決戦を挑んだ徳川家康」が勝利したのです。 そして江戸時代には「神君家康の関ヶ原の勝利」をアピールされる一方で毛利家も有力な大名としては存続していたので、頭から否定するわけにもいかず、その落としどころが 「毛利輝元は石田三成や安国寺恵瓊らに担ぎ出されたお飾りの総大将」 というものだったのです。
石田三成が真田家に送った書状から、西軍の戦略はこうだった事がわかってします。(慶長5年7月晦日 真田昌幸宛石田三成書状より) ・年末~年初にかけて関東征伐(家康)←会津征伐の大半は大坂に戻ってくる前提(当暮来春の間、関東御仕置のため差し遣はさるべく候) ・西国の兵をまず江州(現滋賀県)に陣取らせるので兵糧も送らせる ・前田利長はこちらの味方だけど母親を人質に取られているので向こうにもいい顔をするから誤解のないように まぁこんな感じでまさか会津征伐組が怒涛のように押し寄せるなんてまるで考えていません。 だから畿内を固めつつ関東征伐の準備を進めますというのが当初の西軍の認識。伏見城攻めから伊勢攻めと北陸攻めに分けたのもその一環。 当然総大将の毛利輝元もその戦略に沿いつつ、自領拡大にもつながる四国平定、かつての宿敵・大友家の再興の手配なんかをしていたわけです。 戦線があちこちにあるので総大将・毛利輝元が大坂城にどっかり居座るのはまぁ当然。 一方の東軍も会津組のほぼ全てが家康に味方するところまでは良かったのですが、そこから先は流動的なので家康も最初は江戸にどっかり居座って情勢を見ようとしていました。 ところが先発させた東海道組が戦意高くじゃんじゃん美濃を攻略しはじめたので家康は慌てて出発しました。 日本各地で戦いがあった中、関ヶ原の戦い前日まで誰も一日で勝負が決するとは恐らく家康本人も思っていなかったと思います。 勝った家康でさえ直前まで関ヶ原で大会戦が行われるとは想定していなかったでしょうから、毛利輝元が大坂を動かなかったのも無理はありません。 毛利家としても四国方面・大津城・美濃方面と兵を分派しており、しかも家康が美濃まで来たことを直前まで知らなかったので仕方がないですね。