回答(7件)

代官庄屋が、鉄砲組の者に、ケモノ狩りを命じてましたから。 信濃では集落に2人はいて、村5つ2500人の山村に50丁は有りましたよ?弓箭射手併せて100人は居たかと。槍が100〜150、歩兵150馬方と口取りが併せて100。 馬方は名字帯刀の朱塗りの長持が許可された郷士身分です。

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里と山との境界地帯は、下草が一本もないくらいに里人総出で手入れをし、獣が降りてこないようにします。犬の尿などをまいておくと一層効果的です。その上で、犬も一種の武器として放し飼いにしました。飼い犬による事故もあったそうです。その上での鉄砲だそうです。鉄砲が出てくるのは事件があった時です。 炭焼きや緑肥生産、柴刈りでヒトが犬を連れて立ち入るため、熊山騒げ、犬山黙れ、のように、ある程度の要注意地帯は分かっていました。気休めの長い丈夫な杖は、山犬相手には多少の威嚇になったとか。山犬というのは、時代が降ると狼ではないことが増えたそうです。

鉄砲です。 農村では、「猪猿負」という目的に限定して、代官所から鉄砲の所持と使用が認めら、鉄砲主に対して手形を発行していました。 この鉄砲については隔年で見直しが行われ、許可される銃の数は増減していますが。おおむね一つの村に数丁です。

明治時代の国定教科書に「孝行亀松」がありました。 信濃の亀松少年の父が狼に襲われ、少年は鎌一本で狼に立ち向かい、撃退しました。 その話は幕府にも伝わり、少年に対して幕府から褒章金が授与されたというものです。

オオカミは、江戸時代にはかなり減ってしまっていたから、 既に農民には、大きな脅威ではありませんでした。 クマやイノシシには、鉄砲が最大の武器です。 獣害対策があるから、農村で槍や刀の保持は禁止されていましたが、 鉄砲は対象外でした。