回答(4件)

後白河法皇の院宣は発布されていません。これより公的で法的根拠のある、後鳥羽天皇宣旨が発布されています。本来はこれにより畿内で徴兵する予定でしたが、武士が全く集まらず、予定を変えて豊後武士の緒方氏が味方となったので、九州に船で行くことにし拠点化しようとしましたが、出港直後に大風で難破し、没落しました。この意味で役にたちませんでした。当時の武士は宣旨のような紙切れを信用するのはなく、情勢を見極めて勝つかどうか判断し自身に特になるかを見極めてから宣旨に従うかどうかを決めますから。

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いや、もし九州下向が成功していれば、 局面は大きく変わったんじゃないですか。 後の足利尊氏は、いったん九州に逃れて勢力を盛り返し、 新田、楠木らの軍勢を打ち破って、 京の都を奪還しています。 政治センスが極めて低い義経が、頼朝に代わって、 武家全体のリーダーに君臨できたとは、考えにくいですが、 戦闘面では、大きな影響があったのではないですか。

義経としては、自分は頼朝ときょうだいなのだから、同格である、と、自分の立場を高いと思ってのことでそういうものを手に入れたでしょうが、その時点で国内は、頼朝政権の支配下にある、というわけで、絵に描いた餅でしかない、ただの紙切れ、ということに思いもよらなかった、のだと思います。