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戦国時代での美濃の重要性は何度も教え貰いましたが、信濃が多くの領土に接している地政学上の重要性の実感する事が美濃や近江よりも小さかったのは何故でしょうか?有名な川中島の戦いなどでも。

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それって、言っちゃえば「司馬遼太郎の読みすぎ」と言うか、悪い意味での「司馬史観」って言われる奴で、しばしばバカにされる類の考え方とも言えると思います。 まず、日本では「伝統的首都である京都」の存在がとても大きいから、単純に言うと「京都に近いほど重要」というのが大前提にある訳です。 だから、その意味では「信濃に比べれば美濃の方が重要」とかは言えますが、例えば、ちょっと出ている「近江」に対しても「美濃が重要なのか?」は疑問もある所です。 ただ、司馬遼太郎が「国取り物語」の中で、まあ彼は「美濃の斎藤道三」を起点に、彼の功績を受け継いだ織田信長が実質的に天下を掌握した、みたいなことを「美濃を制する者は天下を制する」みたいに連呼したのが有名になっちゃっただけです。 まあ、ちょっとその言い方がウケたのは確かです。 確かに、日本史において「中央と地方との境界線」みたいなのが「近江と美濃の間」にあったことは確かなんです。 墨俣の関しかり、関ケ原しかりで、後者は古代の「壬申の乱」でも「不破の関」などで重要地にもなりましたからね。 それに対して「信濃」では、少なくとも「京都」に圧力をかけるには遠すぎる、直接天下を狙える地ではないってだけです。

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京からも鎌倉からも遠い 山がちで平地が少なく接してると言っても簡単に進軍出来るような土地じゃない だからずっと村上や諏訪や小笠原が分割して統治してたんです

日本の背骨ともいうべき山岳に区切られ、山脈の合間の峡谷や盆地に集落がバラバラに存在せざるを得なかった。東西を結ぶ交通路が、沿岸を進む総街道と北陸道を除き、幾つもの峠を越える中山道のみということから、ここが、政権や文化の中心となることは無かったということ。

単純に畿内に隣接してないからでしょうね。 近江の隣は美濃、その隣りが信濃。 美濃と信濃を結ぶ木曽路も険しく往来も不便。 信濃に価値を見出すのは隣の飛騨や甲斐ぐらいでしょうね。

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信濃が美濃や近江ほど地政学的重要性が認識されにかった理由としては、以下の点が考えられます。 ・地形的制約:信濃は山岳地帯に囲まれており、特に中央アルプス、南アルプス、北アルプスなどの険しい山々が移動や軍事行動の障壁となっていました。美濃や近江が平野部を多く含み、交通の要衝だったのに対し、信濃は山間部が多く、軍勢の移動が困難でした。 ・経済的価値:美濃や近江は京都への物資輸送ルート上にあり、経済的価値が高かった一方、信濃は鉱山資源などはあったものの、全体的な経済価値は相対的に低く見られていました。 ・政治的中心からの距離:信濃は京都などの政治中心地から遠く、直接的な影響力が及びにくい地域でした。 ・川中島の戦いの特殊性:川中島の戦いは有名ですが、これは主に上杉謙信と武田信玄という二大勢力の対決という側面が強調され、信濃自体の地政学的価値よりも、両雄の対立という文脈で語られることが多かったためです。 ・分断された地域性:信濃は地形的に分断されており、統一的な支配が難しく、複数の勢力が入り乱れる状況が続いたため、一つの重要拠点として認識されにくかった面があります。 ただし、実際には信濃は関東と北陸、中部を結ぶ位置にあり、戦略的には重要な地域でした。武田氏や上杉氏がこの地域の支配権を巡って激しく争ったのも、その価値を認識していたからと言えるでしょう。

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