回答(3件)
源頼朝になります。 徳川家康の「神君伊賀越え」については、これまでの逃亡ルートが再検証されています。 『石川忠総留書』には、山城国宇治田原から、南近江の近江国信楽に至り、同地から多羅尾光俊ら甲賀・伊賀の国衆を味方に付けて、伊賀・伊勢路を経て、伊勢国白子より船路にて三河国大浜へ出て、岡崎城に戻ったとされていました。 しかし、甲賀の多羅尾一族や、伊賀の国衆などのところにも、古文書として家康の感謝状が現存してはいません。 そこから、近江国信楽からは、伊賀領ではなく、ほとんど甲賀領を甲賀の国衆だけに守られて安全な状態で、伊勢国白子に到着したのではないかと現在では考えられています。
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頼朝でしょう。 石橋山で敗れて家来たちは一度バラバラになり、頼るは義父の北条時政だけ。 家康は伊賀越えの時に少数だが本多忠勝のような猛者が折り、地理に詳しい服部半蔵、金銭面で助けた豪商の茶屋四郎次郎らがいました。 どこまで本当かわからないけど、かつての主君の危機を知った本多正信が一族郎党を率いて救援に駆け付け、その変わらぬ忠義を認められて徳川家中への帰参が許された、と言う話もありますね。 三河の方には自らの領地もあったわけだし。
これはまた、甲乙つけがたいすごいところを突く質問ですね。 まあ敢えて選ぶとしたら、頼朝の方が大変だったんじゃないでしょうかね。 理由はいくつかあります。 まず、徳川家康はあの時点ですでに日本有数の大大名です。伊賀さえ超えればとりあえず安全が保障されていました。 それに対してあのときの頼朝は、仮に石橋山を奇跡的に逃げ切ったとしても、その先も確実に頼れる相手というか保障など何もありませんでした。というか、状況を考えたらあそこで大敗した頼朝が房総半島で多くの部下を得ることができたことのほうが、奇跡的なことと言えるかもしれません。 それから、頼朝は実際に死にかけたというか、敵にしっかり発見されています。 たまたま発見者の梶原景時が見逃してくれるという奇跡をはるかに超えたとんでもないことが起きてしまいましたが、あれは99.99%あそこで命を落とすパターンだったはずです。 ※この梶原景時に救われたというエピソード自体を作り話じゃないかと疑う人もいるでしょうが、それは違うんじゃないでしょうかね。というのも、北条氏の大本営発表のようなものである「吾妻鏡」に書いてあるわけで、しかも北条氏と対立して一族皆殺しにされた梶原景時をアゲているわけですから、事実の可能性が十分あります。