需要があるようなので少し追記する。
・集まってるのは根暗のニートというより明るくて自信満々の性格が悪いクズが多い。
・なぜか圧倒的にアニオタ系が少ない。
・ニー株の自信満々の連中を見ていると2ちゃんねらーやネトウヨのほうがよっぽど可愛げがあることに気づく。
・案の定数少ない女性の前でええカッコしようとする大学生のノリが出てきてウザい。
・これなら近所のコンビニでバイトしたほうがマシだろ笑という状況。
(全員が全員嫌な奴ということは無いが、まともな人がいても地方民だったりするのでこれ株式会社にする意味あんのか?とお手上げ状態)
彼が在日韓国人なのか、被差別部落出身なのか、精神病の疑いがあるんだか、微罪扱いなのか、そのほかの理由なのか知らないけど。
例の花火のガソリン発電機での爆発事件を起こした出火元の露天商の名前って全然出て来ないんですよね。
こういう手加減というか、半人前扱いが、余計に不信感を増幅してますね。
「サーフェス」なのかよ
ずっと「サーフィス」だと思ってたわ
同僚に指摘されて公式サイト確認したのにカタカナ表記全然見つからんし、ネイティブ発音だと「サーフィス」の方が近いからずっとそっちだと思ってた
通販サイトとかITニュース系が全部「サーフェス」で統一されてるから、多分どこかでオフィシャルに発表されていたのかも知れんけどさ、これから艦これのために買おうという俺みたいな人間にはもの凄く不親切だよなあ
HJのK.a.Signatureバーザムに関してのカトキ先生のコラムより引用
カトキハジメより
私がバーザムを描くと、それがいつでもセンチネル版になるというわけではありません。
そもそもバーザムを描く機会というのはなかなか巡ってこない訳で、これまで2003年にG.F.F版をリリースした時と、最初に『センチネル版』を描いた時の2回しかありません。
G.F.Fではセンチネル版バーザムを立体化しましたが、Mk-IIとコンパチで遊ぶのは面白いよね、という以上にセンチネル版バーザムを推したいということはありません。
むしろオリジナルバーザムは立体物が少なすぎて手に入らないことが気になっていますし、”本来のスタイルをちゃんと形作れるのだろうか”というのはかなり面白いテーマで、そのことは頭のどこかでずっと考えていました。
何しろバーザムのデザインというのはスカートはないし、太腿がむき出しで太く、腕はすごく長い。このユニークな(褒め言葉です)体型こそがオリジナルバーザムだけが有する個性といえるでしょうし、それは普通のMSのかっこよさとは全然違っています。
このデザインをどうまとめるのかは、現物の写真を見ていただくことにして、バーザムのもう一つの問題にも触れておきます。それは設定身長が19.4mであるということ。これも立体にする上で地味に面倒なポイントです。
過去にも何度か語りましたが、MSの設定身長というのは、そのとおりに模型を作っても、イメージしていたサイズと違ったりすることがあるのです。
例えば正しい設定身長で作ったゲルググとRX-78-2ガンダムを並べると、ゲルググが大きすぎる印象ではないでしょうか。また百式はMk-IIよりスマートなイメージがありますが、設定では同じ全高です。
バーザムの設定身長は19.4mですが、これはかなり大きな数字で、この時代のMSと並べると不揃いなくらいに背が高いのですが、フィルム中のイメージでは、そうした印象はないですよね。
この度のK.a.Signatureでは今時のアクション・フィギュアとして、設定身長を大事にしたいので、オーソドックスなMSよりも幾分大きい仕上がりを予定しています。この辺は今後、比較写真などで実感していただけるよう記事内で取り上げていきたいと思います。
お互いに怪我したくないので、選手同士の不文律ができるんだろうな。
んでそれを守らない奴は打席にたったら頭にボールが飛んできたり
明らかに変な所だけを指摘して、「だから韓国の国自体は積極的に好きとは言えないです」って言えば、別にどうという事にはならないのに。
2009年に千葉と同じような戦法で甲子園を戦った佐藤涼平のことは知らないか?
http://www.hb-nippon.com/column/397-michinoku/4164-clmn2009-01-date20100211no03tm
http://www.hb-nippon.com/column/397-michinoku/4167-clmn2009-01-date20100213no03tm
http://www.hb-nippon.com/column/397-michinoku/4169-clmn2009-01-date20100214no03tm
小兵に小兵なりの戦い方を叩き込んだのは監督とコーチで間違いない。
佐藤涼平は花巻東を卒業後、日体大に進み、そこで自ら命を絶った。
周囲に比べて明らかに見劣りする身体、そして「正統ではない」戦い方を疎まれて潰されたのではないか?
イった振りなのわからなかったの?
どうせ放っておいても失点するんだし、誰がどう見ても韓国が悪い所がいくらでもあるんだから、わざわざどうでもいいの在日認定とか、殺すだの差別語使って罵ったり、積極的に排外的な事いう必要が無いのにね。
なんで、こちらからわざわざ失点をするのかが解らないよ。
明らかに変な所だけを指摘して、「だから韓国の国自体は積極的に好きとは言えないです」って言えば、別にどうという事にはならないのに。
にーたーぱんだよお
日韓フォーラム:ソウルで開始 関係改善へ向け共同声明へ- 毎日jp(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/news/20130823k0000m030045000c.html
それと似てると思うんだが、俺は
「善意でやってたら相手が甘え出してムカついて止める」
ってことが多い。
俺が舐められる雰囲気を持ってるんだろうな。
面白いので、定期的に投下してくれ
自意識過剰すぎって言われればそうなのかもしれないってだけのことかもしれないんだけれども。
好きなことに夢中になって頑張っていると、気がついたらいろんな人からいろんな期待を寄せられていることがあって。
普段はそれをプレッシャーに思うことはないんだけど、ふとしたことで「あ、俺期待されてんだ」ってことに気負い始めると、途端に周りの期待がプレッシャーになって、あたふたすることがある。
そんな時に、キミにはこういうことを期待しているんだ!頑張れ!みたいなことを言われると、いやいや、ほっといてくれよって思ってしまう。
どんなに純粋な気持ちでそういう言葉をかけてくれたとしても、鬱陶しくて仕方なく感じてしまう。
期待をかけられない寂しさというのも、とても辛いものがあるけれども、期待に対して過度に気負ってしまうのもまた、心理的には負担なんだなってことを、もう何度経験したことだろうか。未だにそれに対する処方を知らない。
人気のある映画でありながら、同時に「見たけどよく分からなかった」という感想が多い。
ホッテントリにもなった岡田斗司夫の解説(http://blog.freeex.jp/archives/51395088.html)を私なりに要約(ややネタバレあり)するなら、
その内容は「戦争をはじめとした外界の醜い現実には興味を持たず、飛行機のような美しい世界を追い求めた人の物語」、
という事になるのだろうけど、そこまで読み取れずに「よく分からなかった」となってしまう。
(敬称略。私自身も説明されて、はじめて「ああ、確かにそういう話だ」と思った。)
こんな感じで視聴者にあまり理解されない作品になってしまった理由について、自分なりに考えてみた。
それを説明する為に、まず、私がこの映画を見たときに思った不満について述べる。
(後述するように、実はこの不満が、映画が理解されない理由と直結する。)
その不満とは、技術系の研究者の映画であるにもかかわらず、研究者がうまく描けていない事だ。
私は技術系の研究職を生業としているのだが、そんな職業であるためか、この映画を見て、
いかにも技術に詳しくない素人が想像したリアリティの無い研究者像が描かれていると
思ってしまったのだ。
そう思ったシーンはいくつもあるのだが、特に気になったのが、サバの骨から飛行機に関するアイデアを思いつくシーンだ。
このシーンで気になった点はいくつかあった。
例えばサバの骨の曲線がどんな数式で表されるのか分からなけりゃ飛行機の設計に生かせるはずないんじゃないかとか、
飛行機に関して膨大な知識と経験を持つはずの主人公がいまさらサバの骨くらいで何かを思いつくのは考えにくいとか。
(例えて言うなら、小学生のちょっとした一言で大学受験の数学の難問が解けてしまったような荒唐無稽さを感じたのだ。
ちなみにニュートンのリンゴも事実かどうかかなり微妙らしい。)
しかしこのシーンでもっとも気になったのは、(技術系)研究者が描けていない事だ。
研究者が本当になにか重要な事を思いついたのなら、突然場の雰囲気や目つきがガラリと変わるだろう。
さすがにその場で研究のためにサバの骨をいじくり倒したりはしないかもしれないが、
少なくとも心の中ではそうしたいと思っている事を隠しきれないはずだ。
だって思いついたばかりの感覚的なアイデアをその場で言語化できるかたちに落とし込まなければ、
あとで考え直したときに感覚が失われてアイデアが何だったか分からなくなってしまう危険があるから。
だから本音を言うと、私はこのシーンを見て、本当に飛行機を作りたいと思ってるのか?と感じてしまった。
さて、本論に入ろう。なぜ「風立ちぬ」はあまり理解されなかったのか。
岡田斗司夫の解説が正しいとすれば、この映画は芥川龍之介の「地獄変」や映画「アマデウス」の宮崎駿版だという事になる。
しかし「地獄変」や「アマデウス」に対しては「分からない」という声はあまり聞かれないのに、
なぜか。それは前述の研究者が描けていない事と関係しているのだと思うのだ。
「地獄変」や「アマデウス」は、小説家や映画監督という「芸術家」が「芸術家」を描いたものだ。
だから鬼気迫るシーンや天才故の生き辛さが印象的な形で活写される。
しかし宮崎駿は軍用機を見る方のマニアではあっても軍用機を作る研究者ではない。
もちろん、ただ技術系研究者を活写すればよいだけなら、簡単にできる。
例えば先ほどのサバのシーンで、周囲に目もくれずサバの骨をいじりつづけ、「おいおい君大丈夫か?」と
周囲に言われてしまう、なんてのを付け加えればいい。
しかしそれをやってしまうと、ほとんどギャグになってしまい、作品の雰囲気をぶち壊してしまう。
つまり、宮崎駿は作品の雰囲気と研究者を活写する事を両立できなかったのではないか?
岡田斗司夫によれば本作の主人公=宮崎駿であるが、なら素直に芸術家を主人公にすれば良かったのに、(軍用機を描きたいから)そうしなかった。
結果として研究者でない宮崎駿が雰囲気を壊さずに研究者を描くという相当困難な作業が必要になった。
だから本作の主題であるはずの「周囲を無視して飛行機を追い求める」という部分が説得力をもって描けず、
結果として「分からない」という感想のでる物語になってしまったのではないかと思うのだ。
追記:
「風立ちぬ」が理解されないのは「物語」がないからじゃないかという、とても的確なトラバがついた。