日本側の証言例とは? わかりやすく解説

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日本側の証言例

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 10:13 UTC 版)

「万人坑」記事における「日本側の証言例」の解説

自身満州採炭所に勤めていた経験を持つ五味川純平は、1955年小説『人間の条件』出版した。ここには、満州炭鉱での中国人劣悪な労働条件と、その中でも特殊工人呼ばれる人々への残酷な対応が描かれ、これは実態を基にしたモデル小説と受けとめられた。三一新書版だけで発行部数450部を超え単行本などを加えると1千万部を超える空前の超ロングセラーとなり、映画化もされ、その映画ヒットした当時小説描写され中国人労務者悲惨な状況について、その真偽大きな問題となったという話はあまり聞かれない。 しかし、1990年代になって異論提唱され始める。田辺敏雄によれば、「20年余り電気技術者として撫順炭鉱勤務した久野健太郎は、電力設備をはじめ電柱1本にいたるまでが管理責任にあった送電線新設の際には、現地測量架設工事従事した。「この間文字通り山、谷、川を徒渉してきたが、金輪際万人坑”なるものはなかった」と断言した」とする。また、南満鉱業社友会から紹介され会った3人は、いずれも万人坑全面否定し工人対す残虐行為などとんでもないときっぱり否定し、「中国の旅」連載知っていた2人は、怒り隠そうとしなかった」と田辺述べたという。 上羽修は、1993年出版著書中国人強制連行軌跡』で、鉱警隊員補助警察官資格を持つ武装警備員)として恒山採炭所(黒竜江省鶏西)の訓練所一つ務めていた者にインタビューしその結果載せている。その話によれば、鉱警隊員軍刀ピストル小銃携帯許されていて、日本人20余りその4~5倍の雇われ満人幾つかの採炭所と水源地火薬庫倉庫等の警備にあたっていた、収容者から聞いた話として彼らは単に浮浪者狩り連れて来られた、炭鉱では収容後に逃亡する者がいても銃撃許されなかった、食物十分な量が出ていた、収容期間は2、3年でまじめに働けば短縮された、家族来て居ついた人間もいるという。(ただし、松村髙夫の研究によれば労務者の高い逃亡率を前にして、逃亡防止するために炭鉱側等が家族同伴歓迎している。戦国時代人質のようなもので、家族呼び寄せ炭鉱側の圧力強制によって、あるいは労務者自身騙され連れて来られたのであれば当の労務者本人隠して当人知らない内に、その家族騙して来させた可能性もあり、その実態の研究が必要である。)一方で病気になると横着と言われ仮病扱いされていたこと、休むと賃金が全くなくな支給以外の食物購入ができなくなることや、都合が悪い質問になると証言者の口が重くなったことを報告している。また、鉱業所はシュブントウ(投降匪の大物である謝文東可能性もあるが、不明。)という者が把頭で、その配下工人を理の通らないことでリンチにすればその人物が怒るため、リンチはなかったという証言をしている。それですら死亡率10%高く証言者が賃金出たのは初めだけとしており、多く何らかの要因でじきに働けなくなると賃金支払われなくなり証言者は食事出してたとするが、実際十分なものではなく栄養不足から衰弱して死んでいったのではないかと、上羽疑っている。また、オオカミ群れがすぐそばに出没するような場所で、凍死の危険の高い極寒2月でさえ、工人らが隙さえあれば、なぜ脱走図ろうとするのかを聞くと、証言者は単に、工人自身にとっては不本意な仕事であったこと、自由がなかったことを挙げたが、上羽理由として薄弱とみている。反面野晒し白骨近辺多かったものの、それは寧ろ先のシュブントウの配下多かった坑道側に多かったことで、これは現地人らに火葬習慣がないため、薄いによる土葬・風葬結果としてオオカミなどに荒らされて、そうなったではないか上羽推測している。逆に証言者の鉱警員管理坑道側に焼却施設があり、オオカミ死体をあさらないよう焼いていたとのではないかとの証言対し上羽は、何のためにわざわざ焼却施設用意したのか、疑念抱いている。動けなくなった人間病院医者かからせることはなかったとの証言聞き、死ぬまできちんとした対応を取っていたのか、上羽疑っている。そういった質問に入ると、証言者は彼らの立場からの都合合わせた推測による回答ばかりで、結局実態自分らの知ることではないといった状態であった。しかし、取材対象者収容所管理者ではなく警備員であるため、その理由内部状況については彼ら自身分からずはっきりした回答出来ないのはやむをえないと、そのインタビューでの真相追及上羽断念している。 内モンゴルハイラルでは1934年からソ連軍進攻備えた工事が行われ、その際徴用された者らが工事殺害され、その万人坑があると現地住民から聞いた読売新聞記者が、その場所に市職員案内してもらって行き遺棄され人骨未だに点々転がっていたことを確認している。同所あるいは少なくとも近辺同様な場所と思われる地域青木茂調査チーム一員として行き同行した医師から特に人骨ではないといった異存は出なかったこと、遺骨あり様現地風葬習慣則ったものではなかったことを証言している。その一方で、彼自身掘り返してみたわけではなく見た限りでは、例え針金縛られていたとかいった風に明らかに殺害以外ありえないと言うこと出来るものはなかったとしている。 太平洋戦争後、東京裁判備え連合軍国際検事局尋問受けた陸軍兵務局であった田中隆吉は、1934年から1941年1945年とした箇所もあり)にかけて満州国境に要塞建設した際、工事多数人々使用され10万人が殺されたこと、満州匪賊中国正規兵の捕虜工人としては、戦争捕虜による特殊工人扱いとなる)が毒ガス実験目的多数殺され、その多く要塞建設使用された後、用がなくなった人々だと考えていることを証言した捜査課長のロイ・モーガンは、これを彼の調査結果ではなく聞き及んだことと彼自身所見に過ぎないとし、これに関し粟屋憲太郎日本軍毒ガス使用について(冷戦下での成果利用秘密保持のため)免責方針取ったため、モーガン突き放したのだとする。実際にこの時の田中証言彼の他の証言比べ異様に短く尋問開始時刻記されているだけで、他の証言には必ず記載されている終了時刻の記載がなく、また、要塞建設地が今日知られている場所と異なっている等の奇妙な点が多い。実際に長時間行われ毒ガスという秘密に属す事項絡んでいたため、いろいろ書かれなかったことやすり替えられた内容があった可能性もある。また、東京裁判では語られなかったが、満州虎頭要塞建設では多く中国人労働者動員され小屋には二千人が居住していたが、(完成後、口封じに)日本人憲兵によって虐殺されたとの田中証言もある。 否定論・否定証言主な内容問題点 否定論・否定証言主な論拠問題点以下の通りである。なお、否定論の論拠其れ対す反論も、しばしば異な事実認識それぞれ前提にしているため、互いに矛盾・抵触し合うもの(例えば、田辺敏雄は、万人坑日本人誰も見たことも聞いたともない証言していることを長らく万人坑がなかったとする重要な根拠としていたが、後に、これを事実上放棄した形で、万人坑存在した其れは単なる現地人共同墓地であるという主張行っている)があることに注意要する前提となる事実速断できない以上、いずれをも記す。 事態責任あると見られる日本関係者終戦後すぐに逃げようとしなかった。実際に日本人でこの問題現地裁判裁かれた者がいない。←満州開拓団引揚時に襲撃を受け、多数殺害され悲劇みられるように、当時日本人現地人恨み買っており、少数逃げることは極めて危険であったまた、これらの主張は、当時激し国共内戦の中で国共双方がむしろ政府レベルでは表向きは「怨み報ゆるに徳をもってす」とのスローガン日本人取り込もうとしていた状況無視している。国民党は、炭鉱・鉱山工業所には副社長や副課長といったお目付け役を置くだけで、日本人任せていた。その状況から、日本人関係者らは、事件自体立件も困難であり裁かれることはあるまいとタカ括っていた節があり、それがその通りになったのである日本本土でのタコ部屋問題においても、経営層・管理者層の場合は、しばしば産業開発・発展で功を挙げて栄達図ろうとする県令警察管轄する)と癒着しなあなあ事態取扱われていたし、たとえ問題化しても現場末端勝手に行った事として、また、多く末端関係者末端関係者で、他所起こったこと、他人がやったことで自分関係ないと言って他人事済まし済ましてきた。それと同様に済むと思っていたのである。(上妻斉の『撫順秘話』では、虐殺事件として国際連盟問題になった平頂山事件でさえ、関係者ウヤムヤになると思っていたとされる。)実際のところ、多く現場関係者にとっては、建設現場全体炭鉱・鉱山全体で日に平均5~6人以上死んだとしても、死者数告示されるわけでもなく、其の全体像分かるわけでもない立入禁止にでもされた裏山廃坑死体捨てられていれば、自身飯場・坑道・寮等で数日一人二人割り、あるいは年間一度二度多数死んでも、事故病気あるいは偶発的な喧嘩結果として済むことだと思っていても不思議はなく、全く悪意なく本当に全体像気づかないままという事あり得る瀋陽開かれた国民党裁判では、平頂山事件裁かれたにもかかわらず万人坑問題となっていない。←平頂山事件現地マスコミ騒いだため取り上げられたものであるが、既述通り、国共双方日本人取り込み図っていたため、国民党政権中枢も本心は追及自体に熱心でなかった節がある死者炭鉱の特殊工人が多いと考えられており、もし、特に国民党関係者が、特殊工人華北出身戦争捕虜であるから自分らの敵である八路軍関係者ばかりと思い込んでいれば、追及に全く無関心であった可能性もある。 なお、平頂山事件死刑となった撫順炭鉱久保孚は、一度は重要書類焼却にかかわる戦犯容疑逮捕されその後いったん釈放されている。原勢二によれば書類焼却敗戦自暴自棄となった一部社員過失とするが、当時敗戦とともに日本政府・軍から日本国内もとより海外軍・官庁・関係諸機関に至るまで重要書類処分指令出て各地寧ろ意図的に焼却処理が行われていたことはよく知られており、過失による消失というのは額面通りには受け取れない釈放後、久保満鉄の上司にあたる副総裁平島について、「針をつけて泳がされているだけで何時釣りあげられる分からない」と、まるで自身とは無縁な事であるかのように他人の心配をしていたというが、一方で平頂山事件については、山下貞は当時既に15年も前の事件であり、多くの人が忘れかけていたとする。もし仮りに異常な死亡者数・死亡率存在事実であれば久保自身は、寧ろ其の問題こそ、自身責任追及本命考えていたものの、裏付けとなる資料多くなくなっており、釈放されたことで、もはや自身立件されることはないだろうとの自信深めていたとも考えられる撫順炭鉱では資料処分により、満州国成立1932年以降資料多く失われており、辛うじて残っていた1931年資料満州事変この年9月起こっている)では死者数が年3,346人と、死者数それ以前(1907-1930年)の年平均298人に比べていきなり10倍に跳ねあがっており、満州事変開始後、中国人労務者扱い激変したことを窺わせる山下によれば1932年秋の段階で、撫順炭鉱防備隊歩兵1個大隊機関銃中隊山砲小隊から成り給与満鉄から、武器満鉄やその職員献納であったという。満鉄にとって、撫順炭鉱1932年にはそれほど武装費用をかけて護る必要があるものになっていたことになる。 万人坑などあれば現地住民怒り買って襲撃されたはずである、現地人による報復襲撃起こっていないのが、万人坑無かった証拠である。←実際に満州人による報復襲撃は、満州開拓団引揚げ時の悲劇のような農村地帯だけでなく、むしろ鉱業都市大規模に起こっている。撫順吉林でも起こっており、これらは略奪目的だけのものであったとする主張もあるが、撫順では逃げ遅れた者が多数殺害されており、吉林関係者の証言によればソ連軍による制止が遅れれば全滅なりかねない様相であったという。また、山田一郎の『通化山河によれば通化では、デマであったものの、満州人10月10日蜂起して日本人皆殺しにするという噂が流れたという。襲撃時にはしばしば意外なほど多く助かっているが、これは普段から情報掴んでいて、襲撃受けた時はいち早く避難所等に逃げることに成功した面が大きい。このこととの関係性不明だが、通化郊外二道溝の元製鋼所所長は平素から各所密偵放っていると語って松原一枝驚かせている。(なぜ、一私企業一事業所そのような密偵放つ必要があったのか、詳しい内容については、松原質問しなかったようで何も語っていない。) 炭鉱労働者は特殊工人以外は自由労働で、自由に移動することができたとする主張がある。←日本タコ部屋問題と同様、時期や場所、状況により、実態異なることに注意しなければならない。まず、鞍山通化近く石人鉱業所のように、時期によるが特殊工人である輔導工が主力の場所があった。また、上羽修の研究によれば労働統制法による供出工人労働勤労奉公法による義務労働があり、これらは事実上強制であった考えられる1943年撫順炭鉱供出工人退散は3823人で率は48.9%にのぼり、その内訳は依願当人事故・病気等で働けなくなったための、炭鉱側から依願思われる235人、逃亡3477人、死亡111人である。逃亡となっていることから、身体的・物理的にどの程度拘束されていたかはともかく、少なくとも法的な拘束労働であったことが分かる。さらに、本来は自由労働であるはずの募集工も、本来は違法なことながら事実上権力暴力容易に強制労働転化された、とくに太平洋戦争進捗による増産要請とともにこれがひどくなったとされるまた、行政当局にも責任の残る供出工に比べ募集工の方がむしろ境遇過酷であった可能性もあり、松村高夫研究では、まだ状況がましだったと伝えられる撫順炭鉱でさえ、常傭夫の死亡率は1942年・1943年には10%超えたという。 自分万人坑など見たことも聞いたともないという多数日本人証言がある。←実は満州では、一般満州人でさえ多数餓死凍死危機晒され多数満州人死んだとしても、おかしくはない時期があった。これらの証言者は、そのような時期に、労務者らがどのような状況になっていたのか、特に拘束されていた労務者について使用者側がどのような救済措置とっていたのか、何ら語っていない。太平洋戦争進捗とともに満州では、日本本土食糧不足解決南方支援のために糧穀その他農作物割当供出制度がとられた。これにより、極めて過酷な雑穀類の徴発が行われたが、連合軍日本との間の海上通商破壊により、遡って輸送大陸段階滞り飢餓が始まる中で穀物満鉄沿線倉庫貨車腐っていくという様相呈した。(この供出制度導入実施した満州国政府日本人官吏現地住民憎しみを買い、戦後現地処刑されたという。また、その娘は、まだ敗戦前の時、遠足行った折りに、自分と同じくらいの年の現地少年が行倒れとなって死んでいたが、見ないふりをして通り過ぎるしかなかったとの手記を残している。)輸出優先であるが、配給制度の下で、例え大豆ならば残り豆粕(これも肥料飼料として輸出対象になりうる。)等を現地日本人優先的に配給し朝鮮人・現地人後回しになったという。穀物見返り日本からは木綿・綿等の繊維類が提供されるはずであったが、1944年になると南方支援優先のため、満州にはほとんど入って来ず満州では深刻な衣料不足を呈し憲兵であった土屋芳雄によれば僻地行ったときに冬でも裸の子供がいたことを見たばかりか調べると熱河省長城付近では住民大半丸裸同然暮らしていたことが分かったという。満州国官吏であった広川佐保は、1944年5月関東軍要請農牧民約 400-500名を満ソ国境防御施設建設為に動員供出工と思われる)したところ、関東軍は本来の期限9月になって夏服徴発され労務者返すことを拒否、冬用の衣服布団用意しようとはしなかったため、広川らが防寒服求めて都市駆け回ったものの、物資不足で十分に集まらず、結局 10月まで延びた作業為に蒙古人就労者だけで 100近く凍死者が出たという。広川場合責任感じて自身動員した現地人労務者のために努力した例だが、行政当局自体がこのケース関東軍関係者のように現地労務者状況冷淡なであったり、もし期間がさらに延びていればどうなっていたのか、このような場所は他にもなかったのか、この種の問題どのように解決されていたのか、田辺紹介する証言者はこれらの問題に全く気づいていなかったのか、何ら語っておらず、事態全貌どれほど把握していたのか甚だしく疑問が残る。 なお、東京撫順会の調査聞き方では、「見たことも聞いたともない」と答えるよう示唆しているようなものではないかとの批判もある。そもそも見たことも聞いたともない」と答えた431人は中国語満州語がどの程度出来たのか、現場立入禁止にされていれば見たことはないのは当然であり、現地語が分からなければ聞いたとがないのは当然となる。また、日本語となった千人坑・万人坑という言葉であれば日本人社会当時その単語入って来てなければアンケート質問して意味がない。(山下貞は、万人坑とは、現地中国において戦後出来た言葉だと思ったとしている。) 万人坑とは単なる共同墓地のことである。満州では、アヘン中毒行き倒れ、冬の凍死者が多かったので、ハルビン大観園近く共同墓地万人坑があった。同様にそのような遺体収容する万人坑各地存在することに不思議はない。←であれば初期田辺調査東京撫順会の調査に、「見たことも聞いたともない」と答えた人々は単に無知や無関心万人坑存在知らずそのように答えただけで、彼らの回答は全く意味がないということになる。また、炭鉱・鉱山では労務者がしばしば賃金一部代わりとしてアヘン受取っていたこと、さらに、太平洋戦争末期糧秣不足・衣類不足からすれば炭鉱・鉱山には下層労働者多数集中しがちであるため、寧ろ万人坑があって当然となる。炭鉱・鉱山における万人坑存在否定するのは自家撞着他ならない中国人経営する鉱山移動自由なため万人坑は無いが日本人経営する鉱山には必ず万人坑があると伝えられていること、あまりに異常な数の遺骨があったり、処刑リンチの跡を示す遺骨残っていると中国側主張されていることをどう考えるのか、個々万人坑存在確認した上で其々実態論議すべきである炭鉱鉱山に連れてこられても、身体検査が行われ、必ずしも鉱員として採用されるわけではない。←炭鉱都合で必ずしも採用されるわけではないからといって労働者の方から希望者が殺到するような職場だったということにはならない建前もあって些少でも賃金を払う以上、経営側は当然、労働に耐えられる人員かどうか検査して採用決めることになる。また、そうでなければ人員連れて来た仲介業者にも無駄に仲介料を払わねばならなくなる。また不思議なことに、この証言をする者はいずれも、当然セット出て来るべき話であるにもかかわらず仲介業者遠方から連れて来られ採用されなかった者の行く末はどうなったのか、また、それについて裏付ける資料出せるのか、何も語っていない。鉱山側等が仲介業者側の問題として放置し、もし他所から連れて来られ人間当地行き倒れならざるをえなくなったことでもあれば、近代刑法観念からいえば、当然、鉱山側もその共犯、さらにその内次第では従犯どころか寧ろ主犯として罪を問われることになりかねない問題である。これに対し本多勝一の『中国の旅』では、(華北での募集が始まる前の初期のことであろうが)比較近く住民植民地下の政策大量に破産し過酷な職場分かっていても餓死するよりはましとして、大量に押しかけ希望者の一部臨時工として採用されるだけであったとする記述もある。 家族呼び寄せて炭鉱居住する者もいた。←逃亡悩まされるため、炭鉱側で対策として家族呼び寄せ奨励していた。奨励といっても勿論、建前で、実態圧力・強制かかっていた可能性が高い。撫順炭鉱では、工人らが到着直ちに、炭鉱炭鉱側に都合の良い内容まで示して家族手紙書かせることがマニュアル化されており、また、手紙全て検閲されていた。比較待遇マシ考えられていた撫順炭鉱でさえ此の有様で、炭鉱側にとっては労務者本人気づかない内に家族騙して呼び寄せることも、やろうと思えば可能な状態であった脱出退去本人一人ならば可能であっても家族が来た以上は、その後のことも含めた成算なければ容易に実行できない。つまり、家族事実上炭鉱側に人質にとられていたのである戦後炭鉱居住し続ける者もいた。←敗戦とともに直ちに、日本軍含めそれまで日本側の体制全て自動的に解散・消滅したわけではない例えば、日本軍多く国民党軍・ソ連軍等への武器引渡まで武装保ち引渡後も自主解散等を行った部隊少なく引揚シベリア送りまで見た目はしばし組織体裁保っていた。そのような状態が続く中で、炭鉱・鉱山体制中国人人員直ち入れ替るわけではなく従来日本人による経営・運営体制残したまま、単に副社長や副課長を置く形となったこれでは一般労働者にとっては、日本人管理・操業体制まともな中国人当局者らによって本当に支配・統制されているのか、日本人経営陣腐敗堕落した中国人有力者らを買収・籠絡しているのか、簡単に見極められるわけではなく、危険があって当分の間迂闊な行動出来るはずがなかった。現に、日本でも、むしろタコ部屋等の問題告発し続けていた小林多喜二の方が、これは直接には社会主義者として弾圧結果であってタコ部屋等の労働問題口封じではないとはいえ警察拷問され殺害されているのである日本人武装していたわけではない虐待どすれば坑道などで逆襲されかねない。←以下、武装有無関しこれまでの既述総括多く炭鉱・鉱山経営者である満鉄は、帝国主義時代植民地鉄道会社によく見られる通りある程度武装認められ鉄道周辺附属地での一定の警察権さえ持っていた。1938年のこの警察権満州国へ引渡し後も、軽武装ながら補助警察官権限を持つ武装警備員置いていた。さらに、炭鉱所出身の五味川純平小説描いたように炭鉱憲兵詰めていることも多かった田中隆吉証言によれば満州虎頭要塞建設では完成後、日本人憲兵によって口封じ二千人の労務者虐殺されたとも伝えられる。場所や状況次第では、軍隊護衛につくこともあった。また、実際に占領地では、法的問題曖昧に住民企業自警団作って自ら事実上武装することも多く撫順炭鉱至っては、歩兵一個大隊機関銃中隊山砲小隊、後には高射機関銃中隊高射砲から成る防備隊組織、自らを防衛させていた。もし、坑道での逆襲怖れるなら、坑外運び出してきた採掘量等の結果見ればよい、実際に大石橋マグネシウム鉱山では1日トロッコ5台、後に電化されると15いっぱいにして出すことがノルマとされた。 元々大同炭鉱働いていた根津司郎は、20ヶ所の万人坑があるとされる大同訪問した際、教育館長から、通訳通して万人坑と言うと日本人数千人くらいはあるものと想像するが、実際は小は数人、大は数十人の規模だと、恐縮されたという。←ただし、元々中国の主張は、大同万人坑二十余ヶ所で死者6万人である。ために、これでは総数足らず通訳を通す中で、小は数人から数十人という話が入れかわったではないか思われる。(ただし、この話は二十余ヶ所の万人坑といっても元々の言葉の意味としてはそれらの総体万人坑呼んでいた可能性示唆する。)各場所がしばしば炭鉱事故により発生した死者捨て置きにされた場所である可能性も高い。大同は、華北占領により、満鉄撫順炭鉱携わっていた人間派遣され炭鉱であるが、撫順炭鉱はよく露天掘り知られるが、露天掘りだけでなく、良質な脈があると、目先の効率追い求め安全性無視してそればかり追った坑道掘り進め、よく事故起こしたとされる。とくに火災でも起これば生きている者がいても直ち坑道封鎖したという。また、一般的に火災事故では多数死者が出ることもあった。本渓炭鉱では、1942年4月26日ガス爆発事故起こり炭坑内に火災発生したため日本人採炭所長坑内への送風止め入口閉鎖し多く中国人労務者坑内閉じ込められ死亡した。このとき、たまたま研修生として来ていた日本人学生30もともに死亡したとされる。この件については、日本人側自ら墓碑建てたが、そこでは殉難者が1,327人とされているが、これは実態をより小さく隠すためで、撫順戦犯管理所語られた話では1,800人以上、現場の労工らは3,000人以上が死んだ話しているという。(実際には、特殊工人は軍の機密事項とされていたので、炭鉱管理者としても人数入れることが軍から許されなかったのかもしれない。)経済性をまず優先し人命軽視ないし無視されることは戦後の日本炭鉱でも実際に起こっている。 炭鉱アヘン工人使用されていたことを死者出ていたことと結びつける説もあるが、例えば、大同炭鉱でのアヘン配給については、炭鉱立上りの一時期把頭を通じて工人配布していたが、これは古くからの習慣アヘンがないと働かなかったからである、アヘン統制品で非常に高価であったから炭鉱側にとって頭の痛い問題であった。←別に炭鉱側はアヘン高価な市価購入し無料労務者支給していたわけではない大同炭鉱においても、給料一部として、現金を出す代わりにアヘン支払っていたことが証言されている。そして大同炭鉱満鉄経営する撫順炭鉱関係者携わったのであるが、この満鉄重要な収入源一つ他ならぬアヘン売買であった例えば、当時炭鉱では給料一部炭鉱内の専売所でのみ使用できる切符支給されることも多く、この専売所の商品はなべて外部で買うより高値であった同様に、(別に専売所でアヘン売っていたわけではないが)満鉄は、本来は給料として渡すべき金を渡さずに、代わりに安値仕入れたアヘンを渡すことによって、よりいっそう収益増やすことが出来たのである根津司郎は、大同での1943年コレラ発生時は工人210名が死に内160人を4回に分けて焼いて遺骨埋めて合同墓地作った行倒れ多かったし、病気で死ぬ者もいて、引取り手のない死体誰でも自由に採炭できることになっていた入会地のような小炭鉱の跡地に穴に投げ込んでいた。万人坑そのようなものだ。←別にそのような万人坑があることを否定しているわけではない問題は、日本企業乃至日本軍過酷な扱い虐殺結果として伝えられる万人坑存在することで、そういった個々万人坑具体的な内容検討避けたり、あるいは無視して、単に一部の例をもって全ての万人坑について問題の無いものと証明したということにはならない。 その他、日本人でさえタコ部屋被害者となりうる時代であり、現に戦後には九州炭鉱秋田花岡鉱山中国人鉱員・外国人捕虜多数死者明るみ出ている、したがって当時からの年輩世代人々にとっては寧ろ幾らでもあり得る事は分かっている筈だ、日本人引揚手記見て日本側の加害責任にはほとんど触れず自身苦労話ばかりを書く傾向があり、まして加害責任取り沙汰されかねない当時炭鉱やその利害関係者らが万人坑はなかったと言っただけで軽々しくそれを信じるのはおかしいと云った主張がある。また、特殊工人最大被害者であった可能性高く、彼らは鉱山をやめたくとも辞められなかったことを田辺認めているが、各調査における多く回答者が特殊工人状況まで把握して答えているのか極めて疑わしいといった問題がある。

※この「日本側の証言例」の解説は、「万人坑」の解説の一部です。
「日本側の証言例」を含む「万人坑」の記事については、「万人坑」の概要を参照ください。

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