収容者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 00:50 UTC 版)
一般的に振武寮は、エンジントラブル等で引き返した特攻隊員を軟禁していた施設と説明されることが多いが、これは正しい説明ではない。 振武寮に送られた最大80名の特攻隊員の内で、一番多かったのは喜界島からの帰還者で、1945年6月11日~13日に他部隊に異動したことが判明している者だけで45名にもなった。海軍の航空基地があった喜界島には、様々な理由で特攻機ないし通常作戦機を失った陸海軍の搭乗員が取り残されており、日本陸海軍は搭乗員を救出するため、喜界島に数回に渡って重爆を出しているが、4月28日と5月15日の2回は重爆がアメリカ軍の夜間戦闘機に撃墜されて失敗している。5月28日には陸軍航空輸送部第9飛行隊の九七式重爆撃機2機が喜界島に無事着陸し、1機当たり約20名の搭乗員(合計約40名、海軍航空隊搭乗員と特攻隊員以外の陸軍航空隊搭乗員も含む)を救出している。救出された隊員の中には、特攻出撃後に敵機に攻撃されて機体を損傷し不時着した搭乗員や、機体の不調で徳之島に不時着後、アメリカ軍の空襲で機体を破壊されて喜界島に移動した搭乗員の他にも、喜界島に出撃のために前進していたが、内地へ帰還する参謀に機体を貸与し出撃できなかった第30振武隊の横田正顯少尉のような、特攻出撃から帰還したわけではない搭乗員も含まれていたが、同日に救出された特攻隊員28名は、福岡に到着すると全員振武寮に送られている。 他にも、第65振武隊の片山啓二少尉ら5名のように、出撃前に特攻機が故障したため、代替機を受取るために福岡を訪れ『大誠館』に宿泊していたが、そこでの生活態度が自堕落であったのを倉澤に咎められ、特攻に出撃することもなく、そのまま振武寮に送られた隊員もいる。片山は戦後にこの経験を振り返って「緊張のあとで放心自失して、死のうという決心がつかずだらけていただけである。」とし、このような処罰をされる筋合いはなかったと倉澤らを非難している。 第54振武隊の小川光悦少尉は金浦飛行場で三式戦闘機での訓練中に重傷を負い入院した。退院した後、第54振武隊に合流するため芦屋飛行場に向かったが、第54振武隊は出撃した後で、1人取り残されることとなってしまった。そこで芦屋飛行場の部隊長から第6航空軍の司令部に行って倉澤の指示を仰ぐよう言われ、倉澤を訊ねたところ、倉澤からは軍医に検査を受けた後に、福岡女学校の寄宿舎(振武寮)に宿泊するよう命じられた。 このように振武寮に送られたのは、出撃して引き返した特攻隊員のみでなく、送られる基準というのは明確ではなかった。
※この「収容者」の解説は、「振武寮」の解説の一部です。
「収容者」を含む「振武寮」の記事については、「振武寮」の概要を参照ください。
「収容者」の例文・使い方・用例・文例
- 被収容者全員が収容所から解放された。
- この病院では150人の職員が90人の収容者の手当てをしている。
- 彼らは、政治犯を他の収容者から隔離した
- 連邦犯罪により投獄に処される収容者を投獄するための刑務所と拘置施設の全国的システムを操作する司法省の法執行機関
- その他の被収容者の大部分は飢(き)餓(が),強制労働,感染症,個人的な処刑や医学実験で亡くなりました。
- それは「働けば自由になれる」という意味ですが,被収容者は十分な食事や休憩を与えられることなく働いていました。
- 被収容者の大部分は,アウシュヴィッツに到着するとすぐにそのままガス室へ送られました。
- これらは被収容者の靴の一部です。
- ナチスは収容者の所有物を集め,それらをドイツに送っていました。
- アウシュヴィッツ博物館は被収容者のめがね,トランク,衣服や義足を集めたものを展示しています。
- 被収容者は,ヨーロッパ中のさまざまな場所から列車でアウシュヴィッツに連れて来られました。
- 被収容者がアウシュヴィッツ第2収容所で列車を降りると,彼らは選別されました。
- この写真には被収容者用施設内のトイレが写っています。
- 衛生状態が悪く,多くの被収容者が感染症にかかって亡くなりました。
- 収容者のページへのリンク