太平洋戦争末期
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「桐 (松型駆逐艦)」の記事における「太平洋戦争末期」の解説
1945年(昭和20年)1月4日、「桐」はタモ04船団を護衛して基隆を出発した。内地帰投後の「桐」は呉海軍工廠で3月まで本格的修理を行った。修理中の2月5日付で第五艦隊が解隊されて第十方面艦隊が新編され、第三十一戦隊は連合艦隊付属を経て、3月15日付で第二艦隊に編入された。 4月20日、第二艦隊と第二水雷戦隊の解隊により、第三十一戦隊は連合艦隊付属となった。5月20日、第三十一戦隊と軽巡洋艦「北上」(人間魚雷回天母艦)などで海上挺進部隊が編成され、「桐」も同部隊に所属した。その後は瀬戸内海で回天との訓練に従事し、7月に入ると柳井で待機した。そのまま8月15日の終戦を迎えた。10月5日に除籍され、12月1日に特別輸送艦となり復員輸送に従事する。
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太平洋戦争末期
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「槇 (松型駆逐艦)」の記事における「太平洋戦争末期」の解説
「槇」は三菱長崎造船所で1945年(昭和20年)3月15日まで修理をおこなった。またこの時大型水中聴音機も装備した。修理完了後は呉に回航された。第五艦隊は前月5日に解隊されており、第三十一戦隊は連合艦隊附属を経て、第二艦隊に編入されていた。第二艦隊編入時の第三十一戦隊旗艦は秋月型駆逐艦「花月」であった。 3月19日、米軍機動部隊艦上機による呉軍港空襲がおこなわれた。この戦闘で43駆僚艦「竹」が機銃掃射で若干の被害を受けた。28日17時30分、第三十一戦隊(花月、槇、榧)をふくむ第一遊撃部隊は佐世保回航のため呉を出撃したが、直後に回航は中止された。翌29日、駆逐艦「響」が機雷で損傷、曳航されて呉に帰投した。 4月5日夕刻、第一遊撃部隊の沖縄出撃が伝達され、第三十一戦隊は出撃各艦に弾薬を移載した。6日15時20分の第一遊撃部隊徳山沖出撃では(大和特攻/坊ノ岬沖海戦)、呉防備戦隊の各部隊や海防艦「志賀」等と協力し、前路掃蕩隊(花月、榧、槇)として豊後水道出口まで第一遊撃部隊に随伴した。16時20分、伊藤中将より帰投命令があり、第三十一戦隊は引き返した。第三十一戦隊は待機部隊に編入され、第十一水雷戦隊司令官の指揮下に入った。 4月20日をもって第二艦隊や第二水雷戦隊が解隊され、第三十一戦隊は連合艦隊附属になった。5月20日、軽巡「北上」(人間魚雷回天母艦)と駆逐艦「波風」および第三十一戦隊を基幹として海上挺進部隊が新編され、第43駆逐隊の「槇」も同挺進部隊所属となる。出撃の機会はなく、瀬戸内海で訓練と待機の日々を過ごした。以後は瀬戸内海で数回の対空戦闘を行ったが無傷で、終戦時は呉に在泊していたとも、3隻(竹、榧、槇)で山口県屋代島の日見海岸に疎開し、そのまま終戦を迎えたともされる。10月5日に除籍。12月1日に特別輸送艦に指定され、復員輸送に従事。1947年(昭和22年)8月14日、賠償艦としてシンガポールでイギリスに引渡された。その後、「槇」は解体された。
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太平洋戦争末期
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佐世保入渠中の2月12日から26日まで第八〇一海軍航空隊作戦指揮下に編入。3月10日、モシ01船団(復航はシモ01船団)を護衛して上海に向け門司発。24日に門司帰着。25日、第百一戦隊は戦時編制から除かれ、鵜来は第一護衛艦隊に編入される。 4月25日、第二十二海防隊に編入、隊内区分第二小隊に配される。終戦時は日本海で行動中。8月25日、佐世保鎮守府第一予備海防艦に定められる。 11月30日、海軍省の廃止に伴い除籍された。
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