主な古墳
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誉田御廟山古墳国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成 仲ツ山古墳 岡ミサンザイ古墳 軽里大塚古墳 主な古墳の一覧古墳名形状墳丘長史跡指定宮内庁治定備考誉田御廟山古墳(誉田山古墳) 前方後円墳 425m 国の史跡(外濠外提) 応神天皇陵 世界遺産 仲ツ山古墳(仲津山古墳) 前方後円墳 290m 国の史跡(周堤) 仲姫命陵 世界遺産 岡ミサンザイ古墳 前方後円墳 242m 仲哀天皇陵 世界遺産 市ノ山古墳(市野山古墳) 前方後円墳 230m 允恭天皇陵 世界遺産 墓山古墳 前方後円墳 225m 国の史跡 応神天皇陵陪冢 世界遺産 津堂城山古墳 前方後円墳 210m 国の史跡 藤井寺陵墓参考地 世界遺産 軽里大塚古墳(前の山古墳/白鳥陵古墳) 前方後円墳 200m 国の史跡(周堤) 白鳥陵(日本武尊墓) 世界遺産 野中宮山古墳 前方後円墳 154m 古室山古墳 前方後円墳 150m 国の史跡 世界遺産 野中ボケ山古墳 前方後円墳 122m 仁賢天皇陵 高屋築山古墳 前方後円墳 122m 安閑天皇陵 白髪山古墳 前方後円墳 115m 清寧天皇陵 大鳥塚古墳 前方後円墳 110m 国の史跡 世界遺産 二ツ塚古墳 前方後円墳 110m 応神天皇陵陪冢 世界遺産 はざみ山古墳 前方後円墳 103m 国の史跡 世界遺産 峯ヶ塚古墳 前方後円墳 96m 国の史跡 世界遺産 高屋八幡山古墳 前方後円墳 90m 春日山田皇女陵 島泉丸山古墳 円墳 75m 雄略天皇陵 鍋塚古墳 方墳 70m 国の史跡 世界遺産 向墓山古墳 方墳 68m 応神天皇陵陪冢 世界遺産 浄元寺山古墳(wikidata) 方墳 67m 国の史跡 世界遺産 青山古墳(wikidata) 円墳 62m 国の史跡 世界遺産 鉢塚古墳 前方後円墳 60m 国の史跡 世界遺産 唐櫃山古墳 帆立貝形古墳 59m 国の史跡 稲荷塚古墳 帆立貝形古墳 50m 国の史跡 東山古墳(wikidata) 方墳 50m 国の史跡 世界遺産 八島塚古墳 方墳 50m 仲姫命陵陪冢 世界遺産、三ツ塚古墳の1つ 中山塚古墳 方墳 50m 仲姫命陵陪冢 世界遺産、三ツ塚古墳の1つ 島泉平塚古墳 方墳 50m 雄略天皇陵 誉田丸山古墳 円墳 50m 応神天皇陵陪冢 世界遺産 小白髪山古墳 前方後円墳 46m 清寧天皇陵陪冢 西馬塚古墳(wikidata) 方墳 45m 応神天皇陵陪冢 世界遺産 栗塚古墳(wikidata) 方墳 43m 応神天皇陵陪冢 世界遺産 宮の南塚古墳 円墳 40m 允恭天皇陵陪冢 野中古墳 方墳 37m 国の史跡 世界遺産 助太山古墳 方墳 36m 国の史跡 世界遺産、三ツ塚古墳の1つ 割塚古墳 方墳 30m 国の史跡 サンド山古墳 30m? 応神天皇陵陪冢 東馬塚古墳(wikidata) 方墳 23m 応神天皇陵陪冢 世界遺産 蕃所山古墳 円墳 22m 国の史跡 松川塚古墳 方墳 20m 国の史跡 隼人塚古墳 方墳 20m 雄略天皇陵陪冢 野々上古墳 方墳 20m 仁賢天皇陵陪冢 衣縫塚古墳 円墳 20m 允恭天皇陵陪冢 赤面山古墳 方墳 15m 国の史跡 なお、河内大塚山古墳(大塚陵墓参考地)を古市古墳群に含める説がある。
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主な古墳
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「大室古墳群 (前橋市)」の記事における「主な古墳」の解説
前二子古墳 中二子古墳 後二子古墳 小二子古墳 内堀1号墳(M1号墳) 内堀4号墳(M4号墳) この他、内堀1号墳の西側などにも小円墳群が存在していたことが発掘により判明している。 前二子古墳 中二子古墳 後二子古墳 小二子古墳 M-1号古墳 M-4号古墳
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主な古墳
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41号墳 円墳。直径約11メートル。主体部の埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、玄室は長さ2.9メートル・幅1.3メートル、羨道は長さ2.3メートル以上・幅0.9メートルを測る。石室の天井石は取り除かれている。玄室床面からは副葬品として、須恵器(坏身2・坏蓋2・短頸壺1・提瓶1)・土師器(小型壺1)・鉄釘1・鉄製品1が検出されている。築造時期は7世紀前半頃と推定される。 46号墳(八幡社古墳) 前方後円墳。墳丘長21メートル(または24メートル)。墳丘表面で葺石・埴輪は認められないほか、墳丘周囲に周濠も認められていない。主体部の埋葬施設は横穴式石室3基からなり、後円部・くびれ部・前方部に1基ずつが構築される。石室の規模は次の通り。後円部石室(1号石室/A室)両袖式。 玄室:長さ4.2メートル、幅1.5-2.2メートル、高さ2.0メートル(現状) 羨道:長さ3.0メートル(現状)、幅1.1-1.2メートル、高さ1.2メートル(現状) くびれ部石室(3号石室/B室)片袖式。 玄室:長さ3.15メートル、幅1.1メートル、高さ1.8メートル(現状) 羨道:長さ2.9メートル(現状)、幅0.8メートル、高さ1.2メートル(現状) 前方部石室(2号石室/C室)両袖式、L字形。 玄室:長さ4.8メートル、幅1.6メートル、高さ2.3メートル(現状) 羨道:長さ2.8メートル(現状)、幅1.2-1.6メートル、高さ1.2メートル(現状) 副室:長さ1.8メートル、幅1.6メートル、高さ1.2メートル(現状) これらの石室は、後円部→くびれ部→前方部の構築順と推定される。後円部石室は墳丘築造当初、くびれ部石室・前方部石室は後の追造と見られ、3基の構築時期は6世紀後半から末までの短期間とされる。滋賀県内で最も新しい時期の前方後円墳である点、後期古墳群中の前方後円墳である点、1墳丘3石室である点、L字形石室を有する点で特色を示す。 41号墳 出土品観峰館企画展示にて撮影。 46号墳 石室開口部左から前方部石室、くびれ部石室、後円部石室。 46号墳 前方部石室奥から左へ副室が続く。 46号墳 くびれ部石室 46号墳 後円部石室
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主な古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/12/29 03:34 UTC 版)
生野山将軍塚古墳直径60メートル、高さ7メートルの円墳。墳頂に粘土槨、墳裾に箱式石棺が造られていた。粘土槨から鉄片、石棺から鉄剣、有肩鉄斧、鉄製鎌出土。5世紀中頃の築造。 生野山銚子塚古墳墳頂58メートルの前方後円墳で、前方部を西に向けている。6世紀前半の築造。 物見塚古墳直径42メートル、長さ11メートルの造り出しのある円墳。墳頂に標高139.1メートルの三角点が設置されている。5世紀前半の築造。
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主な古墳
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久津川車塚古墳 - 国の史跡。久津川古墳群の中だけでなく山城地域周辺では最大級の前方後円墳で、竜山石製の長持形石棺が発見された。 丸塚古墳 - 国の史跡。帆立貝形古墳。 青塚古墳 - 前方後方墳。 赤塚古墳 - 円墳。平川廃寺跡に隣接。 芭蕉塚古墳 - 国の史跡。前方後円墳。 梶塚古墳 - 方墳。久津川車塚古墳と敷地が一部重なる。 指月塚古墳 - 円墳。城陽市立久津川小学校の敷地内に位置する場所にかつて存在し、現在は建物の下敷きとなり失われている。 箱塚古墳 - 前方後円墳。 山道古墳 - 方墳。現在は住宅地となり失われている。 芝ヶ原古墳群 - 大小13基から成る古墳群。芝ヶ原12号墳は「芝ヶ原古墳」として国の史跡に指定されている(史跡「久津川古墳群」には含まれない)。また城陽市立久世小学校の中庭部分に保存されている芝ヶ原9号墳は「久世小学校古墳」として国の史跡に指定された。 尼塚古墳群 - 大小7基から成る古墳群。尼塚1号墳~5号墳は住宅地となり失われ、6、7号墳は保存されている。 上大谷古墳群 - 大小20基から成る古墳群。11基が保存されている。 下大谷古墳群 - 大小2基から成る古墳群。2号墳は住宅地となり失われ、1号墳は保存されている。 西山古墳群 - 下大谷古墳群の近くにかつて存在したが、住宅地開発により全て失われた。 大竹古墳 - 方墳。
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主な古墳
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前期古墳 西の山古墳 - 楽音寺地区。前方後円墳。 向山古墳 - 大竹地区。後円部はほとんど削り取られ、一部は平安時代から鎌倉時代にかけて瓦を焼く窯として用いられた。 花岡山古墳 - 楽音寺地区。大学造成により現存しない。 中期古墳 心合寺山古墳 - 大竹地区。前方後円墳。 詳細は「心合寺山古墳」を参照 鏡塚古墳 - 大竹地区。前方後円墳であったとされるが、墳丘の大半・石室が失われてしまっており、 一部のみが残っている。ここの土をいじると腹痛を起こすといわれ、「腹痛山」の別称がある。 後期古墳 愛宕塚(あたごづか)古墳 - 神立地区。神立共同墓地の少し西側にある、高さ9m、直径約22mの横穴式円墳。巨大な石室が現存する。かつては楽音寺・大竹古墳群を構成する古墳とされていたが、現在は楽音寺・大竹古墳群の範囲からは外れている。 詳細は「愛宕塚古墳 (八尾市)」を参照
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主な古墳
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古墳番号は現在専門書等で用いられている、深澤の論文(1988)によって確定したもの。 24号墳:全長約27メートルの前方後円墳。1983年に発掘が行われた。墳頂部と、墳裾に当たる前方部と後円部との境目付近から埋葬施設が検出され、墳裾の埋葬施設は筑波山付近からもたらされた片岩製の箱式石棺であった。須恵器、大刀、鉄鏃、刀子、耳環、切子玉などが検出された。築造年代は出土した須恵器の形式から6世紀半ば以降で、7世紀半ば頃に追葬がなされたと考えられている。 101号墳:龍角寺古墳群の東南端にある墳丘の直径が約25メートルの円墳で、幅約3メートルの二重の周溝を持つ。1984年から1986年にかけて発掘が行われ、5ヶ所もの埋葬施設が検出され、土師器、須恵器、金銅製耳輪、管玉、直刀、鉄製馬具、鉄鏃、鉄鎌などの出土品が発掘された。また墳丘横部の第三主体部からは8体の人骨が検出された。古墳の築造時期は発掘された須恵器などから6世紀前半と考えられ、墳丘部から大量に検出された形象埴輪、円筒埴輪の内容も、6世紀後半期の下総型埴輪成立以前のものであり、6世紀前半期に築造されたとの結論が支持出来る。ただし埋葬施設が多く、検出された須恵器は6世紀前半から7世紀初頭のものが見られることから、長期間にわたっての追葬が行われたと考えられている。なお101号墳は墳丘と古墳を巡っていた埴輪群が復元され、1992年より公開されている。 岩屋古墳(105号墳) みそ岩屋古墳(106号墳):岩屋古墳の北側にある一辺が35メートル×30メートル、高さ5.5メートルの方墳、墳丘周囲には周溝が巡っている。1976年には早稲田大学考古学研究室が墳丘と横穴式石室を測量した。岩屋古墳と同じく貝化石を含んだ砂岩の切石を煉瓦のように互い違いに積み上げた横穴式の石室がある。築造時期は岩屋古墳の後で7世紀。出土品はない。 108号墳:一辺約16メートルの方墳で、墳丘周囲には約2.5メートルの周溝がめぐる。1980年、県道成田安食線建設のために発掘が行われ、現在は消滅している。埋葬施設は片岩と貝化石を含む砂岩で造られた小型の横穴式石室で、大刀、鉄鏃、須恵器が検出され、築造時期は7世紀中ごろと考えられている。 浅間山古墳(111号墳) 112号墳:古墳群の北西部にあり、1982年、県道成田安食線建設のために周溝部分、そして1992年には全体の発掘が行われ、現在は消滅している。帆立貝形前方後円墳で、墳丘長は26.5メートルである。墳丘の前方部と後方部とのくびれ部分から片岩の石塊が検出され、埋葬施設があったものと考えられている。鉄鏃、刀子などとともに墳丘部から下総型に近いタイプの形象埴輪、円筒埴輪が大量に検出された。6世紀末から7世紀初頭の造営と考えられ、龍角寺古墳群で最も良く確認されるタイプの前方後円墳である。
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主な古墳
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操山古墳群の古墳の形体は、前方後円墳、円墳、方墳など様々である。後期から終末期にかけての古墳は合葬が可能な石組みの横穴式石室を持ち、丘陵全体に散在している。確認されている古墳には、番号が割り当てられている。ここでは特に名称のついている古墳を列記する。
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主な古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/04 13:52 UTC 版)
黒田2号墳前方部を西南西に向けた帆立貝形古墳。残存長33メートルであるが、前方部は大きく土取りされており、築造時の全長は41メートルあったことがわかっている。周溝からは形象埴輪片(人物・馬)が発掘されている。6世紀末の築造。 黒田17号墳直径22メートルの円墳で、幅約6メートルの周溝が巡る。主体部は川原石を用いた胴張りのある横穴式石室で、全長5.24メートルである。副葬品は、大刀1、七窓鐔1、鎺2、鉄鏃10、刀子2、耳環1、ガラス製小玉46以上が出土した。なお墳頂部から高さ97.4センチメートルの完形の大刀形埴輪が出土しており、1993年(平成5年)3月10日付で埼玉県有形文化財に指定された。6世紀末の築造。
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主な古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/05 15:09 UTC 版)
「諏訪山古墳群 (東松山市)」の記事における「主な古墳」の解説
諏訪山1号墳墳丘は大きく変形している。墳頂部に粘土槨2基。1号槨は全長3.65メートル、幅0.9メートル。鉄剣2、鉄鏃3、管玉8、切小玉2、ガラス製小玉12が出土。2号槨は1号槨の南側に構築された。全長3.44メートル、幅0.9メートル。大刀1、鉄鏃7、鉄製楕円形鏡板付轡1、鉄製板状辻金具4、鉄製鉸具1、鉄製飾金具1、青銅製鈴付腕輪1、垂飾十数片出土。5世紀末の築造。鈴付腕輪は1971年(昭和46年)6月4日に市指定有形文化財(考古資料)に指定された。 諏訪山3号墳墳丘は採土工事により半分以上が破壊されている。片袖型横穴式石室。大刀3、鉄鏃11、刀子2出土。6世紀中頃の築造。 諏訪山4号墳3号墳の西約150メートルに築造された円墳。無袖型横穴式石室。全長4.7メートル、幅1.75メートル。大刀3、鉄鏃6、刀子3、金環4、碧玉製管玉4、ガラス製小玉22、土製棗玉7、土製丸玉28出土。6世紀後半の築造。 諏訪山29号墳1960年(昭和35年)の日本セメントの引込線の敷設工事による破壊とその後の崩落により北側の半分以上が失われている。当初は前方後円墳とみられていたが、1984年(昭和59年)の調査で墳長53メートルの前方後方墳であることが明らかにされた。出土した土師器から4世紀前半から中頃の築造とみられている。 諏訪山古墳(諏訪山35号墳)29号墳の前方部右前方に所在する前方後円墳で、1957年(昭和32年)11月29日に東松山市指定史跡に指定された。墳長68メートル、後円部径40メートル、高さ9メートル、前方部幅30メートル、高さ4メートル。諏訪山29号墳との位置関係や埴輪、葺石が存在しないことから4世紀後半の築造と考えられる。
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主な古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 22:23 UTC 版)
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主な古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/11/07 23:42 UTC 版)
肥塚古墳 「熊谷56号墳」と編号されている。墳丘は、中央から南側が大きく破壊されているが、南北22メートル・高さ2.8メートルである。主体部は、角閃石安山岩を用いた強い胴張りのある横穴式石室で、北半分の玄室の奥壁と左右側壁の一部が現存する。 古塚古墳 かつて諏訪神社境内にあったとされる古墳。形状・規模は不明。この古墳から掘り出されたとされる石棺が成就院境内に展示されている。凝灰岩製で、一部が残り原形は失われている。深さ0.5メートル・蓋石長2.4メートル・幅1.2メートル。昭和53年11月3日付けで市指定有形文化財に指定された。ほかの出土品は伝わっていない。
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主な古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 14:11 UTC 版)
稲荷塚古墳さいたま市立大宮西高等学校(現・さいたま市立大宮国際中等教育学校)敷地内にある群中最大の古墳。内径37メートル、外径48メートルの円墳である。1950年(昭和25年)、中学校建設のため古墳の周囲が掘り返されたが、その際に円筒埴輪、馬形埴輪・人物埴輪が出土したと伝えられている。1953年(昭和28年)に埼玉大学によって行われた調査では、馬蹄形の周溝が巡らされていることが明らかにされ、周溝から人物埴輪、円筒埴輪が掘り出された。その後の調査では人物埴輪や勾玉が発掘された。埴輪の特徴から6世紀中頃から後半の築造と考えられている。 側ヶ谷戸11号墳2001年(平成13年)に行われた調査の際、周溝の一部が発掘された。推定直径22メートルの円墳で、6世紀中頃 - 後半の築造。周溝から出土した埴輪は2003年(平成15年)4月30日付けで市指定有形文化財に指定された。
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主な古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 13:52 UTC 版)
馬塚古墳(うまづかこふん、名張市美旗町中)美旗古墳群の中で最大の前方後円墳である。近鉄美旗駅の南側に位置する。 全長142mの前方後円墳。後円部は直径98m・高さ14m、前方先端部幅100m・高さ6m。 貴人塚古墳(きじんづかこふん、名張市下小波田)全長約55mの前方後円墳。後円部直径35m・高さ4.5m、前方先端部幅35m、高さ4m。6世紀初頭の築造。 毘沙門塚古墳(びしゃもんづかこふん、名張市新田)全長約65mの前方後円墳(帆立貝式古墳)。後円部直径約44m・高さ7m、前方先端部幅20m、高さ3m。 女良塚古墳(じょろうづかこふん、名張市新田)全長約100mの帆立貝式古墳。後円部直径約73m・高さ9m、前方部幅40m、長さ約30m、高さ約3m。 赤井塚古墳(あかいづかこふん、名張市上小波田)現存直径22m・高さ8.5mの円墳(直径30m前後あったと考えられる)。南側に開口する両袖型の横穴式石室がある。6世紀後半の築造。 殿塚古墳(とのづかこふん、名張市新田)美旗古墳群で最初に築造された全長約92mの前方後円墳。後円部直径56m・高さ7.2m、前方部幅40m、高さ6.2m。4世紀末頭前後の築造。 馬塚古墳 貴人塚古墳 毘沙門塚古墳 女郎塚古墳 赤井塚古墳 赤井塚古墳 石室 殿塚古墳 小塚古墳
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主な古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/28 17:43 UTC 版)
本古墳群内の前方後円墳には、次の6基がある。 纒向石塚古墳 桜井市太田字石塚に所在する。周濠の一部が調査され、周囲に幅20メートルあまりの周濠をもつことが確認された。周濠内から鶏形木製品2点、弧文円板1点、大量の鋤・鍬のほか纒向1類の完形土器が出土している。石塚古墳においては、周濠の最下層から出土したヒノキの板材の残存最外年輪の暦年は炭素14年代測定法によって西暦177年との測定結果が出ている。しかし、年輪年代学の光谷拓実は、残存の辺材部の平均年代幅をもとに推計し、「その伐採年はどうみても200年を下ることはない」と結論づけている。 纒向矢塚古墳 桜井市東田町字矢塚に所在する。埋葬部は未調査であるが、墳頭部より板石が露出しているので竪穴式石室・箱式石棺が考えられる。出土遺物は、埴輪、纒向3類の須恵器、瓦器であるが、いずれも遺構にともなうものではない。 纒向勝山古墳 桜井市東田町字勝山に所在する。上述の石塚古墳・矢塚古墳と本古墳を結ぶとほぼ正三角形の配置となる。葺石をともなうが埴輪は検出されていない。埋葬部は未調査のため詳細不明であるが、主として周濠より遺物が出土している。主なものとしては、木製の刀剣把手、団扇、槽等の祭祀具、U字形木製品、布留0式期の土師器がある。 東田大塚古墳 桜井市東田字大塚に所在する。葺石をともなうが埴輪は検出されていない。埋葬部は未調査であり、不明な点が多い。出土遺物には、土師器(布留0式)、木製品があり、周濠外堤部より東海系壺片で蓋をした中部瀬戸内系土器棺による甕棺の埋納痕跡を確認している。なお、試掘調査により前方部に盛土が残っていることが確認され、2007年、桜井市教育委員会は全長がこれまでの推測より14メートル長く110メートル以上におよぶ旨発表した。 ホケノ山古墳 桜井市大字箸中字ホケノ山に所在し、三輪山の西山麓、箸墓古墳の東側に位置する。葺石をともなう。1999年9月から奈良県立橿原考古学研究所と桜井市教育委員会によって発掘調査が実施された。墳頂部中央から「石囲い木槨」を検出した。大きな土壙内に内側の長さ約7メートル、幅約2.7メートルの石室状の施設で、その内部にコウヤマキ製の約5メートルの刳抜式(くりぬきしき)木棺(割竹形木棺もしくは舟形木棺を納めた大規模な木槨である。天井は木材を渡し、その上に地元の川原石を積んでいる。水銀朱で覆われていたと思われる。土器は、庄内式の二重口縁壺が20体出土している。 副葬品や出土遺物の詳細については「ホケノ山古墳」を参照 箸墓古墳(箸中山古墳) 詳細は「箸墓古墳」を参照 桜井市箸中に所在する前方後円墳で、上の5基とは隔絶した規模と整った外形をもち、埴輪をともなう。被葬者として宮内庁より倭迹迹日百襲姫命が治定されている。周濠内の築造後30年ほど堅く積もった堆積土の中から布留1式の土器とともに4世紀初めのものと推定される木製輪鎧が出土しているが、、橿原考古学研究所によれば、両遺物は後世の撹乱等で混入した可能性はないとのことである。 なお、箸墓古墳を定型化古墳のさきがけとみなし、それ以外の5基の前方後円墳を「前方後円形墳丘墓」とみなす見解もある。いっぽう、寺沢薫は石塚以下の5基を「纒向型前方後円墳」として古墳時代草創期に位置づけている。
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主な古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/31 02:29 UTC 版)
安満宮山古墳 3世紀中頃、古墳時代初頭の古墳。三島古墳群最古。 岡本山古墳 3世紀後半、古墳時代初期の古墳。三島地方最初の王墓。全長約120m、後円部径約70mの前方後円墳。 弁天山古墳 3世紀末〜4世紀初頭、古墳時代初期の古墳。三島の王の王墓。全長約100m、後円部径約70mの前方後円墳。 闘鶏山古墳 国の史跡 4世紀前半、古墳時代前期の古墳。全長86.4m、後円部径約60mの前方後円墳。 郡家車塚古墳 4世紀末、古墳時代前期の古墳。三島地方の王墓。全長が約85.6m、後円部径約51.3mの前方後円墳。 太田茶臼山古墳 継体天皇陵 5世紀中頃〜後半、古墳時代中期の古墳。総長250m・総幅約150mの前方後円墳。 今城塚古墳 国の史跡 6世紀前半、古墳時代後期の古墳。総長約350m・総幅約340mの前方後円墳。淀川流域最大の墳墓。 塚原古墳群 6世紀中頃〜7世紀中頃の古墳群。かつては15群・約110基を数えたが、現在では約40基が残る。塚原八十塚と呼ばれ、ウィリアム・ゴーランドによって世界に紹介され、古墳研究の先駆けとなった古墳群。 塚脇古墳群 6世紀後半〜7世紀の古墳群。約50基の古墳で構成されている。 安満古墳群 6世紀後半〜7世紀の群衆墳。40数基の横穴式石室をもつ古墳が確認されている。 阿武山古墳 国の史跡 7世紀末、古墳時代終末期の古墳。盛り土はなく、直径82mの円墳。藤原鎌足の墓とされる。 郡家車塚古墳 太田茶臼山古墳 今城塚古墳 阿武山古墳
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主な古墳
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雷電山古墳三千塚古墳群の盟主墳とされる全長85メートルの帆立貝形古墳。墳丘から埼玉県最古の埴輪が出土した。 弁天塚古墳第3支群2号墳と編号されている古墳で、第3支群の主墳と考えられる。前方部を北西に向けた墳頂40メートルの前方後円墳である。主体部は竪穴式石室が想定されている。墳丘から土師器、円筒埴輪、人物埴輪が出土。6世紀後半の築造と考えられる。 秋葉山古墳秋葉塚とも。雷電山古墳に最も接近して築造された、第5支群の主墳と考えられる墳長44.5メートルの前方後円墳で、1号古墳と編号されている。後円部に全長7メートルの片袖型横穴式石室、前方部に全長1.7メートルの竪穴式石室(石槨)が構築されている。横穴式石室からは鐔2が出土した。埴輪が見つかっていないことから、6世紀末の築造と考えられる。 長塚古墳自然地形を利用して築造された前方後円墳で、1号古墳と編号されている。墳丘長35メートル、後円部径24メートル、前方部長11メートル、前方部幅11メートル。後円部に全長5.7メートルの右片袖型横穴式石室、前方部に全長2.3メートルと推定される竪穴式石室が構築されている。どちらも盗掘を受け、副葬品は横穴式石室から銀環2が出土したのみである。築造時期は6世紀後半、秋葉塚より若干古いと考えられる。 三千塚古墳群出土 頭椎大刀埼玉県立歴史と民俗の博物館展示。 三千塚古墳群出土 馬形埴輪埼玉県立歴史と民俗の博物館展示。
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主な古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/24 13:50 UTC 版)
第1支群1号墳(狸塚1号墳)支群中最大の前方後方墳で古墳群のほぼ中央に位置している。墳長35.3メートル、後方部辺長20メートル、高さ4.2メートル、前方部幅11.7メートル、高さ1.2メートル。焼成前底部穿孔のある壺形土器出土。4世紀前半の築造。 第1支群2号墳(狸塚2号墳)1号墳のすぐ南西に位置する前方後方墳。墳長30.1メートル、後方部辺長20.1メートル、前方部幅11.4メートル。墳丘と周溝から有段口縁壺、鉢出土。 第7支群18号墳(塩西原18号墳)径22メートル・高さ2.4メートルの古墳時代後期(6世紀)の円墳で、幅2.1メートルの周溝が巡る。主体部は、砂岩の切石を積み上げた複室構造の横穴式石室で、全長5.7メートル・幅1メートルである。副葬品は、玄室から耳環1、銅釧3、管玉2、琥珀玉5、土製丸玉2、大刀2、銀装大刀1、銀装圭頭大刀1、銅製鵐目1、刀子2、弓金具1、鉄鏃30以上、鉄地金金銅張雲珠1、鉄地金金銅張辻金具2、鉄地金金銅張帯金具2、鉄製鞖金具2が出土している。また前庭部から須恵器・土師器群が発掘されている。これらの遺物は1998年(平成10年)2月10日付けで市指定有形文化財に指定された。
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主な古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/24 00:33 UTC 版)
岩屋古墳(いわやこふん)向山1号墳。全長52メートル、高さ6メートルを測る前方後円墳で、更に後円部に15メートル四方の張り出しが付く。6世紀後葉の築造と考えられる。墳丘は2段で、葺石を有する。明和元年(1764年)に記された『伯路紀草稿』に「岩屋」の記載があり、すでに江戸時代中頃には石室が開口していたことがわかる。石室は全長9メートルを測る複室構造の横穴式石室で、精美な石棺式石室である。前方部が削られた際に、箱式石棺が出土し、礫敷の上に2体を埋葬、鉄刀1点が副葬されていたと伝えられる。周溝からは、土器や円筒埴輪の他に、人物、馬、水鳥など多くの形象埴輪も出土している。 長者ヶ平古墳(ちょうじゃがなるこふん)向山5号墳。全長48mを測る帆立貝式の前方後円墳である。6世紀中頃の築造と考えられる。中央には、明治2年に出土したという大規模な畿内型の横穴式石室が開口している。内部はベンガラで塗られ、鉄刀や鉄鉾が壁に立てかけられ、奥には石棺が置かれていたという記録が残る。また、現在は消滅しているが、明治34年には、その東側で小規模な石槨が検出され、希少な金銅製冠や三累環頭大刀などが出土した。現在、これらの出土品は東京大学の資料館に保管されている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/24 15:27 UTC 版)
1号墳 全長136メートル、高さ17メートルの前方後円墳。一説に当古墳群最古といわれる。畿内の箸墓古墳の2分の1の大きさの相似形と言われ、その関係に注目されているが調査は遅れており、見学は困難である。 3号墳 全長143メートル、高さ12.7メートルの前方後円墳。当古墳群最大であり、九州でも西都原古墳群の女狭穂塚古墳、男狭穂塚古墳に次いで3番目の大きさである。前方部から頂上まで歩いて登ることができる。 5号墳 全長57メートル、高さ4.4メートルの前方後円墳。葺石があり、特異な形をした円筒埴輪を出土する。公園整備にあたり、葺石を復元した形で公開されている。これは本来あった葺石の上に表土をかぶせ、その上に敷き詰めたものである。葺石の配置に当たっては実験が何度も行われた。 7号墳 長さ46メートル、高さ3.9メートルの前方後円墳。5世紀後半のもので、造り出しを持ち、多くの土器を出土する。特殊な形式の須恵器は祭祀専用に作られたものと考えられている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 21:47 UTC 版)
高柳銚子塚古墳 - 墳丘長130-150メートル、5世紀第二四半期に築造されたと推定される前方後円墳。 祇園大塚山古墳 - 推定墳丘長100メートルの前方後円墳。築造推定時期は5世紀の第三四半期。 酒盛塚古墳 - 推定墳丘長90-100メートルの前方後円墳。6世紀半ば頃築造と推定される。 稲荷森古墳 - 推定墳丘長80メートルの前方後円墳。6世紀後半~末の築造と推定される。 鶴巻塚古墳 - 円墳とされているが、前方後円墳説や方墳説も浮上している。稲荷森古墳と同じ時期の造営と見る説と、松面古墳と同時期の7世紀前半になるとの説がある。 金鈴塚古墳 - 推定墳丘長100メートルの前方後円墳。6世紀末~7世紀初頭の造営。残存している墳丘は千葉県の史跡、出土品と石棺は重要文化財に指定されている。 丸山古墳 - 墳丘長推定70メートルの前方後円墳。金鈴塚古墳と同時期の造営と考えられている。 松面古墳 - 一辺約44メートル。周濠部を入れると一辺80メートルを越える大型の方墳。7世紀初頭~前半の造営。 塚の越古墳 - 円墳説が有力であるが、正確な墳形不明。出土遺物から見て当古墳群内の有力古墳であった可能性が高い。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 14:02 UTC 版)
大王陵 段ノ塚古墳(現・舒明天皇陵) - 奈良県桜井市 御廟野古墳(現・天智天皇陵) - 京都市 野口王墓古墳(現・天武・持統合葬陵) - 奈良県高市郡明日香村・7世紀後半(上八角下方墳) 中尾山古墳(文武天皇陵の可能性高い) - 奈良県明日香村・8世紀初頭 束明神古墳(草壁皇子の真弓山稜の蓋然性が高く、八角墳の可能性がある。奈良県高市郡高取町) 岩屋山古墳(斉明陵の可能性。方形墳の上に八角形の墳丘を営んでいた可能性が強い。 牽牛子塚古墳(斉明陵の可能性)奈良県明日香村越、2010年9月斉明陵の可能性強まるとの報道 首長墓 稲荷塚古墳:東京都多摩市百草・7世紀前半 三津屋古墳:群馬県北群馬郡吉岡町・7世紀前半 経塚古墳:山梨県笛吹市(旧一宮町)・1994年発見・7世紀前半 伊勢塚古墳:群馬県藤岡市・6世紀前半 中山荘園古墳:兵庫県宝塚市 八角墳である可能性が指摘されている古墳 尾市1号墳 - 広島県福山市新市町 神保一本杉古墳 - 群馬県高崎市吉井町 八角墳である可能性が指摘されている遺構 武井廃寺塔跡古墳 - 群馬県
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/11/07 23:45 UTC 版)
目沼2号墳推定全長43メートルの前方後円墳。1807年(文化4年)に地主の助右衛門によって石棺が掘り出された。この石棺は代官の命により再び埋め戻され、そのことを記した石碑が建立されている。昭和元年に石室が取り壊された際に大刀片が出土している。 目沼9号墳径24.6メートル・高さ3.5メートルの円墳。主体部は木炭槨で、長さ4.65メートル・幅1.1メートル。副葬品は大刀1、鉄鏃23、刀子1、ちょう子1、三鈴杏葉3、素環雲珠1、土師器出土。6世紀前半の築造。出土品は昭和63年2月26日付けで県指定有形文化財に指定された。 浅間塚古墳(目沼10号墳)現存する墳丘は直径28メートル・高さ2メートルで円墳のような形をしているが、1991年(平成3年)の発掘調査で、全長46メートル以上・後円部径30.4メートル・高さ5メートルの前方後円墳であることが判明した。周溝から出土した円筒埴輪・形象埴輪(人物・馬・家)から、6世紀前半の築造とみられる。また、東側くびれ部から6世紀前半の円筒埴輪棺が発掘された。1991年(平成3年)12月27日付けで杉戸町の史跡に指定された。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 00:21 UTC 版)
お伊勢山古墳(23号墳):前方後円墳。全長96メートル。4世紀。 夫婦塚古墳(73号墳):前方後円墳。全長107.5メートル。6世紀中頃-後半頃。 大塚古墳(114号墳):帆立貝式古墳。全長92メートル。7世紀前半。別名・勅使塚古墳、宮中野大塚古墳。 大塚古墳出土品鹿嶋市どきどきセンター展示。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 23:50 UTC 版)
「白山古墳群 (深谷市)」の記事における「主な古墳」の解説
蛇喰古墳 径約25メートル・高さ2メートルの円墳であるが、墓地によって一部破壊されている。墳丘上から埴輪片が採取されている。 白山2号墳 径17メートルの円墳。人物埴輪4体(壺を頭に乗せる女子・椀を掲げる女子・正座し手を組んで前に出す太帯の女子・はそうを差し出す女子)と鶏形埴輪が出土している。 白山12号墳 径22.5メートルの円墳。人物埴輪(椀を差し出す女子)、鶏形埴輪が出土している。 白山17号墳 墳長28メートルの帆立貝形古墳。人物埴輪(琴を弾く男子)出土。
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主な古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 05:50 UTC 版)
会津大塚山古墳 堂ヶ作山古墳 飯盛山古墳 この他、多数の円墳群と横穴墓群が確認されている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 21:58 UTC 版)
山畑22号墳 郷土博物館敷地内にある。東西に円丘をもつ双円墳だったが現在は東丘は消失しており、直径15m、墳丘高約4.5mの西丘と横穴石室が保存されている。発掘調査で石室から土器・装身具・馬具等が出土し、博物館にて保管・展示されている。 北緯34度39分38秒 東経135度39分04秒 / 北緯34.66056度 東経135.65111度 / 34.66056; 135.65111 なお、郷土博物館敷地内には22号墳の他に38,39,40,41号墳があるが、すでに墳丘は無く、石室内部が露出(あるいは全損)している。 山畑51号墳 通称「成山古墳」。直径約15m、墳丘高約3mの円墳で、石室の開口はない。 北緯34度39分40秒 東経135度38分38.5秒 / 北緯34.66111度 東経135.644028度 / 34.66111; 135.644028 山畑52号墳 山畑古墳群の中でいちばん標高の低い位置にある。6世紀後半頃の南北の墳丘長が約50mの双円墳と推定され、その形状から通称「瓢箪山」と呼ばれる。北側は「大塚」、南側は「鬼塚」と呼ばれる。 西側に瓢箪山稲荷神社がある。かつて北丘(大塚)の石室内で狐が飼われていた。 北緯34度39分39秒 東経135度38分32秒 / 北緯34.66083度 東経135.64222度 / 34.66083; 135.64222
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 15:04 UTC 版)
稲荷山古墳 - 金錯銘鉄剣が出土。推定全長120mの前方後円墳。後円部径62.6m。 丸墓山古墳 - 日本最大級の円墳。直径105.0m。 二子山古墳 - 武蔵国最大の前方後円墳。全長132.2m。後円部径67.0m。 将軍山古墳 -全長90.0mの前方後円墳。後円部に横穴式石室の内部が見学できる展示館が設置されている。 愛宕山古墳 瓦塚古墳 - 形象埴輪が多数出土。 奥の山古墳 鉄砲山古墳 - 数少ない三重の周濠を持つ前方後円墳。全長107.6mの前方後円墳。 中の山古墳 鉄砲山古墳のすぐ東には浅間塚古墳があり、埼玉古墳群に含まれる場合がある。 埼玉古墳群の前方後円墳は、方形の多重周濠を持つことが明らかになっている。前方後円墳の周濠の多くは盾形をしており、方形の周濠は他に例が少なく、埼玉古墳群の特徴の一つとなっている。また稲荷山古墳・二子山古墳・鉄砲山古墳・将軍山古墳の中堤に造り出しが付く点、丸墓山古墳を除くと葺石が認められない点、古墳の主軸がほぼ一定の方向を指しているなどの特徴が認められる。
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主な古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/11/07 23:49 UTC 版)
前山1号墳以前は円墳と考えられていたが、平成16~18年に本庄市教育委員会が行った調査により前方後円墳であることが確認された。全長70メートル以上、後円部径48メートル、高さ7メートル。墳丘には葺石が施され、後円部と前方部の一部には堀が存在する。堀から出土した土器より4世紀後半の築造と推定されている。古墳時代前期の前方後円墳としては県内最大規模であることから、本庄地域のみならず周辺地域にも影響を及ぼした権力者の墓であるとみられている。 東谷古墳直径約27メートル、高さ約3メートルの円墳で、墳丘上にはかつて琴平社が祀られていた。主体部は角閃石安山岩を積み上げた胴張のある横穴式石室で、現在側壁・奥壁と天井の一部が残っている。この石室は明治29年(1896)9月に、琴平社の氏子らによって発掘され、鉄製大刀1、鍔1、金環2、水晶製切子玉1、管玉1、土師器片9、須恵器片3、人骨片1が出土した。発掘の様子は本庄警察署へ提出された「埋蔵物品及石室実況御届」によって知ることができる。石室構造の特徴や埴輪をもたないと考えられることから、7世紀代の築造とと推定されている。
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主な古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/11/07 23:18 UTC 版)
四十塚古墳 大型の円墳と推定される古墳で、昭和7年に発掘されている。主体部は自然石で構成された舟形礫槨で、長さ3.6メートル・幅1.8メートルほどが残存していた。副葬品は、横矧板鋲留短甲1、銅製五鈴鏡板付轡1、鉄製楕円形鏡板付轡1、鉄斧1である。銅製五鈴鏡板付轡は全国的に見ても出土数が少なく、東日本では初めてである。5世紀後半の築造。出土品は平成15年3月18日付けで県指定有形文化財に指定された。 浅間山古墳 径35メートル・高さ4メートルの円墳。昭和54年市指定史跡。 寅稲荷古墳 全長51メートルの前方後円墳。昭和54年市指定有形文化財。
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主な古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/11/07 23:49 UTC 版)
鎧塚古墳墳丘は破壊され現存しない。昭和54年に、農村基盤整備総合パイロット事業に伴って発掘調査が行われた。全長43.8メートル・後円部径31.8メートル・前方部幅12.5メートルの帆立貝形古墳で、円形に近い盾型の周溝(幅12.5~14メートル)が巡る。周溝の直上からは6世紀前半に降下した、榛名山二ッ岳火山灰が検出されている。出土した土器は昭和63年2月26日付けで県の有形文化財(考古資料)に指定された。築造時期は5世紀末~6世紀初頭とみられる。 大塚古墳昭和34年11月3日付けで熊谷市指定史跡に指定された。熊谷市指定史跡整備事業として、昭和57年と59年の2次にわたって調査が行われた。径59メートルの低い基壇上に径35メートルの円丘が乗っている。現在東と南側を寺と神社によって破壊され、径24メートル・高さ3.5メートルほどの墳丘が残っている。主体部は緑泥片岩と角閃石安山岩を用いた複室構造の胴張りのある横穴式石室で、規模は全長9.6メートル・奥壁幅2.3メートル・奥壁高2.75メートルである。副葬品は挂甲小札、鉄鏃、金銅鞘尻金具、塗漆木片、勾玉が出土している。また墳丘基壇から須恵器大甕が出土した。築造年代は7世紀中頃から後半と思われる。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/13 17:10 UTC 版)
大和古墳群中最大の規模を有し、「大王墓クラス」とみられているのが上述の西殿塚古墳である。現在、手白香皇女陵に治定されており、宮内庁が管理しているために、一般国民はもちろん研究者も許可なく自由に立ち入ることはできない。なお、治定が決定したのは1876年(明治9年)のことであり、手白香皇女(継体天皇皇后)は6世紀前半から中ごろにかけての女性である。しかし、古墳の推定年代は3世紀後半から4世紀前半にかけての時期であり、初期のヤマト王権の王墓と考えられている。 西殿塚古墳の近傍には全長175メートルに達する東殿塚古墳がある。西殿塚古墳とともに萱生古墳支群に属し、4世紀初頭の造営と考えられる。 それ以外には、100メートルから140メートル級の7基の前方後円墳、および3基の前方後方墳がある。 1986年に吉備政権の要素の濃い特殊器台の破片が発見されたことによって、古墳発生期までさかのぼる可能性の指摘された中山大塚古墳(120メートル)があり、1993年には後円部に竪穴式石室が造営されていたことが分かった。この石室には、主として輝石安山岩(サヌカイト)と推定される板石が用いられている。 上述の手白香皇女の真墓でないかとみなされているのが、本古墳群に属する西山塚古墳である。古墳時代前期の古墳が多い本古墳群のなかで、西山塚古墳のみが6世紀前半ころの造営によるものである。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/29 15:07 UTC 版)
北西端(山陵町) 五社神古墳(ごさしこふん、神功皇后治定陵、276メートル、前期後半)2008年に墳丘1段目に限り研究者の立入り調査が認められた。 西(山陵町・佐紀町) 佐紀石塚山古墳(成務天皇治定陵、220メートル、前期後半) 佐紀陵山古墳(垂仁天皇妃・日葉酢媛(ひはすひめ)治定陵、210メートル、前期後半、後円部の頂には平たく割った石を小口積みにし、高さ約70センチの石垣を矩形に巡らして内側に土を詰めた壇を造っている。2009年2月に行われた調査によれば、前方部や渡り堤の斜面に葺石が確認されている。その広さは、東西15.7メートル、南北16.51メートルと想定されている) マエ塚古墳 佐紀高塚古墳(伝称徳天皇陵、前方部が西向き) 佐紀瓢箪山古墳(全長96メートル、後円部径60メートル、前方部幅45メートル、後円部高さ10メートル、前方高さ7メートルの前方後円墳、周濠・葺石をもつ。1913年(大正2年)前方部西側から碧玉製琴柱形石製品3点出土。円筒埴輪・壺形埴輪。埋葬施設は未調査。前期末から中期はじめの中規模古墳。1971年(昭和46年)国の史跡に指定。) 猫塚古墳 市庭古墳(平城天皇治定陵、中期、250メートル、前方部削平されている) 神明野古墳(削平されている) 東(佐紀町・法華寺町) ヒシアゲ古墳(磐之媛治定陵、218メートル、中期) コナベ古墳(204メートル、中期) ウワナベ古墳(中期265メートル) 北(歌姫町) 塩塚古墳(全長109メートル、後円部径70メートル、前方部幅55メートル、後円部高さ9メートル、前方部高さ1.5~2メートルの前方後円墳、葺石・埴輪は出土していない。中期前半の中規模古墳。1975年(昭和50年)国の史跡に指定される。 オセ山古墳(ゲンオ塚古墳/マラ塚古墳) 関連古墳 宝来山古墳(垂仁天皇治定陵、227メートル) 宝来山古墳がある現・尼ヶ辻町は古代の佐紀の地に含まれないが、垂仁天皇の「菅原伏見東陵」として宮内庁書陵部畝傍監区事務所佐紀部事務所が管理しており、奈良市街周辺の古墳を一括して総称する場合、便宜的に佐紀盾列古墳群に含まれる場合がある。
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主な古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 06:06 UTC 版)
西山古墳 - 古墳時代前期の築造。墳丘長183メートルの日本最大の前方後方墳。 小半坊塚古墳 - 西山古墳の北約200メートルのところにあった前方後円墳。全長92メートル、後円部直径52メートル、前方部を西に向けていた。西山古墳と同じく古墳時代前期の築造だが、第2次世界大戦中に消滅した。 小墓古墳 - 前方部を南西に向けた前方後円墳で、古墳時代中期の築造。全長約80メートル、現状は高さは6メートルだが上部が削平されているため本来の高さは不明である。1978年(昭和53年)の発掘調査では周濠から埴輪状木製品が出土している。 笠神山古墳 - 全長45メートルの前方後円墳で前方部を北西に向ける。古墳時代中期に属する。 西乗鞍古墳 - 古墳時代後期(6世紀前半)の築造とみられる前方後円墳。全長120メートル、高さ18メートルで前方部を南に向ける。古墳の周囲には空濠がめぐるが、発掘調査の結果、前方部の南側に幅約20メートル深さの溝が確認されており、外濠とみられている。 東乗鞍古墳 - 古墳時代後期(6世紀中葉)の築造とみられる前方後円墳。全長約75メートル、高さ10メートルで前方部を西に向ける。長さ14.6メートルの南に開口した横穴式石室を有する。 塚穴山古墳 - 西山古墳のすぐ北に隣接する径64メートルの円墳で、古墳時代終末期の築造とみられている。天井石は失っているものの全長17メートルの石室を有する。羨道部分に同じ大きさの巨石をならべる方法は明日香村の石舞台古墳と共通している。 峯塚古墳 - 西山古墳から東に約500メートルほどのところにある径35メートル、高さ6メートルの2段構築の円墳で、墓地の下に位置するため墓山とも呼ばれる。古墳時代終末期(6世紀末から7世紀前半)の築造で、「岩屋山式」といわれる整美な巨石を用いた横穴式石室で知られる。墳丘には切石を用いた葺石がなされている。 保昌塚古墳 - 現状は直径約17メートル。著しく削平されており本来の形や大きさは不明な点が多いが、直径25メートルから35メートル程度の円墳であるとの調査結果がある。 塚穴山古墳 石室
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