発売から7日目で100万部 村上春樹メガヒットの仕掛け
日経エンタテインメント!
4月12日に刊行され、現在の発行部数は105万部(6月13日時点)の村上春樹最新刊『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』。ミリオン(100万部)を達成したのは発売から7日目という、異例の速さだった。この社会現象はいかにして起こったのだろうか。
文藝春秋は、発売1カ月前から予約受け付けを開始した。アマゾンの予約は10日で1万冊に。発売までに4刷が決定し、発売日は50万部を発行した。代官山蔦屋書店では、発売前日からカウントダウンイベントが行われた。その様子はテレビで生中継され、ネットニュースで報じられ、朝の情報番組で各局が取り上げた。盛り上がりは過熱し、即日売り切れる店が続出。代々木上原駅前にある幸福書房では、「30冊入荷し数時間で売り切れた」と言う。紀伊国屋書店新宿本店も土日までの3日で完売するなど、大手チェーンも品薄に。翌週月曜から水曜日は増刷分が間に合わず、店から本が消えた。
発売まで内容を伏せた戦略
背景には、発売当日まで内容の一切が隠されていたことがある。「先入観なしに読んでほしいとの著者の考えを優先した」(文藝春秋プロモーション部)とのことだが、長く謎の多いタイトルは様々な臆測を呼んだ。また、2012年に正式なプロモーション部ができた文藝春秋が、情報を効果的に出したことの影響も大きかった。部数の経過、著者からのメッセージなど新情報は即座にマスコミ各社にリリースとして流された。さらに、前作の『1Q84』が発売12日目でミリオンを突破した経験から、全国の書店が販売に力を入れたことも大きい。
「早朝に店を開け、特設コーナーを作るなど書店も準備して臨んだ。昔でいう(初版時に100万部を突破した)『ハリー・ポッター』級の大物が今は書籍にはない。売るならこれしかない、と藁(わら)をもつかむ思いがあった」(取次関係者)
村上春樹や純文学に詳しい早稲田大学文学部准教授・市川真人氏は、「こういう騒ぎになるのは『1Q84』以降の出来事。春樹への期待の増加もあるが、それ以上に、この10年で社会構造が一気に変わった」と見ている。
「ネット媒体の普及でリアルタイムの情報拡散が進み、目立つ"祭り"ほど人が集まりやすくなった。本が欲しいだけなら予約しておけば確実に手に入るし、ほかにも魅力的な本はある。なかでも深夜に代官山まで出向いて買うのは、春樹ファンであり、かつイベント的なものが好きな層。イベントも含めて、春樹を消費しようとした」
0時に行われた"生"の盛り上がりは、メディアを通じて即座に広がっていった。そんな消費のされ方に対して、「春樹がこの小説で語り、構造的にやっていることは逆」と市川氏はみる。
物語の主人公は、36歳の多崎つくる。多崎は幼少期からの駅好きで、鉄道会社に勤め、駅舎を設計している。高校時代は4人の親友がいたのだが、ある日一方的に絶交されて深い傷となっている。傷にふたをしたまま過ごしてきたが、年上の女性・沙羅から真相を確かめるべきだと諭され、友人を訪ねる"巡礼の旅"を始める。そんな話だ。
「文章は丁寧で読みやすく、春樹らしい突飛(とっぴ)な比喩も使っていない。クラシカルな文学です。作品の設定はネットが普及した2012年前後でフェイスブックも出てくるけれど、主人公はそれを用いずに自らの足で友人たちに会いに行く。そのことと、"駅"がキーワードとなっていることも無関係ではありません。ネットの自在さに対して鉄道は近代の象徴、限られた場所に正確にたどり着くための手段ですから。そういうものの大切さを感じさせる点では反ネット小説という側面も見逃せません」(市川氏)
さらには、「しばしば春樹はノンポリと批判されてきましたが、敵の内部で闘うことを選んできた人でもある。今の自分はネット時代の社会構造で受け入れられていることを分かりつつ一石を投じる、そんな本なのでは」と本書のヒットの理由を分析する。
(ライター 平山ゆりの)
[日経エンタテインメント! 2013年6月号の記事を基に再構成]
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