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「凸」の書き始めは縦か横か 辞書で違う筆順のナゾ

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漢和辞典をいくつかめくっていて驚きました。辞典によって、筆順(書き順)が違う漢字があったのです。たとえば凹凸レンズの「凸」の字。この筆順、ある辞典は縦棒から、別の辞典では横棒から始まっているのです。タテとヨコ、いったいどちらから書くのが正しい書き方なのでしょうか。探ってみると、漢字の筆順にまつわる意外な事実がわかってきました。

公的な基準は存在せず

記号や絵文字のように見えますが、凸は中学校レベルで学ぶ立派な常用漢字です。この凸の筆順を、左上の縦棒から始める「タテ派」の漢和辞典は、新明解現代漢和辞典(三省堂)、新漢語林(大修館書店)など。一方、左上の横棒から始める「ヨコ派」は新選漢和辞典(小学館)、小学漢字新辞典(旺文社)などでした。

どちらが正しい筆順なのでしょうか。実は「どちらもあり」なのです。

漢字の筆順については、内閣告示によって定められている常用漢字や現代仮名遣いとは違い、公的な基準は存在しません。唯一、公的な関与があるものとして挙げられるのが、50年以上前に出版された「筆順指導の手びき」と題する100ページ強の小型本です。

これは、1958年(昭和33年)に当時の文部省(現文部科学省)が小学校教師向けに作成した筆順指導の「マニュアル」です。筆順の大原則と、小学生に学ばせるよう指定した当時の教育漢字881字について、筆順を列記しています。

凸は教育漢字には含まれなかったので、筆順はこの手びきには載っていません。何かよりどころがあるとすれば、手びきに書いてある筆順の大原則だけ。その大原則とは2つあり、「上から下へ」そして「左から右へ」です。各漢和辞典では、881字以外の漢字にもこの大原則を当てはめて類推しながら筆順を記しています。

凸の字は、原則の「上→下」「左→右」のどちらをとったらよいのか微妙です。どちらをとっても原則通りともいえ、辞典によって筆順が違っても、それはそれで「あり」というわけです。

ところで、漢和辞典のなかには、この881字に含まれる漢字であっても、複数の筆順を載せているものもあります。旺文社の「漢和辞典」では、「上」は2通り、「必」や「発」はなんと3通りも筆順があります。でも小学生のときに習った筆順は、たしか1つの漢字には1つだけだったはず。いったいどういうことなのでしょう。

坂田三吉は横線7本

漢字は紀元前14世紀ごろの甲骨文字と呼ばれる根源までさかのぼると、筆順などなかったとみられています。人々の字の表現手法が毛筆だった時代から、自然な筆の運びを求めて、さまざまな筆順が存在してきました。長い歴史のなかで自然にできあがってきたもので、1つの字に対して形が美しく書きやすいと考えられる筆順が複数存在し、書家によって、また市井の人々それぞれに自己流の筆順がありました。

天才棋士の坂田三吉の半生を阪東妻三郎が演じた映画「王将」(48年)。明治から大正時代にかけて活躍した三吉が、自分の名前をどんな筆順で書いていたかがわかるエピソードが紹介されています。将棋大会の受付で「三吉」と名前を書く際、上から同じ長さの横棒を7列書き、次に4本目と5本目の横棒の真ん中に縦棒を入れ、残りの2本の横棒の右と左を縦棒でつなぎ口の形にして完成させるというユニークな筆順です。

しかし戦後になり、漢字がいわゆる旧字体から新字体に移行し、現在の常用漢字の基になる当用漢字が決まるなど、漢字の新政策がスタートした「漢字革命」ともいうべき時期を迎えます。その際、「なんでもあり」の筆順指導では、教育現場が混乱するとの問題提起が官僚たちの間で起こったようです。

教育現場が統一を要請

「筆順指導の手びき」が世にでる5年前の53年(昭和28年)に、文部省の事務官、三宅武郎氏が出した筆順指南書「新字体の筆順」では、筆順がさまざまに存在し混乱している例として、映画「王将」の三吉の筆順シーンをひき、筆順指導の必要性を訴えています。前述の手びきでも、冒頭で「本書のねらい」として、「児童生徒が混乱なく漢字を習得するために、教育漢字の筆順をできるだけ統一する目的で本書を作成した」と記しています。つまり、学校教育の現場では、教わる子どもにとっても、そして教える教師にとっても筆順がいくつもあると混乱するし、覚える効率が悪いという理由から、筆順を統一しよう、という流れになったとみられます。

でも、手びきにはこんな注釈がついているのです。「ここに取り上げなかった筆順についても、これを誤りとするものでもなく、また否定しようとするものでもない」

事実、手びきの中でも「特に注意すべき筆順」との項目を設け、「上」や「必」「発」について、複数の筆順を表示しています。

この手びきを作る際、筆順についての様々な意見が噴出したことが、この配慮ともいえる文章から読み取れます。「日本語の現場・第1集」(読売新聞社刊)によると、文部省は手びきを作るために、大学教授や学識経験者、現場の教師らを集めて会議を重ねたが、この会議は荒れに荒れ、ある書道の大家が「私の流派の書き順を認めないなら切腹する」と大臣室の前に座り込むという騒ぎに発展したとのこと。会議は80回以上に及び、手びきが完成するまで2年もかかった、と同書では記しています。

約20年後に検定基準見直し

筆順マニュアル作成に至るまでのこんな難渋ぶりを思えば、この手びきで口酸っぱく、「この本に載っている筆順以外も誤りではない」と訴えていたのも無理はないでしょう。しかし、実際の教育現場や家庭では、この部分がさほど重要視されず、正しい書き順は1つだけ、と固定的に考えてしまった人も多かったようです。

手びき発行からしばらくは、教科書検定の基準でこの手びきを目安にすることとしていましたが、「1漢字=1つの筆順のみ」との行き過ぎた考え方を見直すためか、約20年後の77年度(昭和52年度)には、検定基準が「一般に通用している常識的なものによっていることと改められた」(「漢字指導の手引き・教育出版刊」)そうで、そのまま現在に至っています。つまり、手びきはあくまで参考資料であり、今では公的な位置づけもないというわけです。学校の現場では筆順は1つと教えられることが今でも主流ですが、1つしかないと思い込むのと、複数ある字も存在すると知っておくのでは、だいぶ違いがありそうです。

一定ルールはあった方が便利、でも絶対的なものではなく、複数存在するのは自然なこと――。筆順のあるべき姿を一言でいえばそんなところでしょうか。しかし、手書きの機会が激減した現代では、想定外の筆順も生まれているようです。

10代~20代、一筆書きや10通り超える筆順も

早稲田大学の笹原宏之教授(日本語学)によると、最近は凸の字をぐるりと一筆書きする人がいるとのこと。全世代でみられるが、特に10代、20代で増えているそうです。試しに、一筆で書いてみたところ、左回りでも右回りでも、モコモコした絵文字のような字が出来上がりました。また、辞典で3通りの筆順が紹介されていた「必」について、笹原教授は10通りを優に超える筆順を見たと言います。

文化庁が9月に公表した世論調査では「漢字を正確に書く力が衰えた」と回答した人が66.5%にのぼり、10年前より25ポイント以上増えました。パソコンや携帯メールの普及により、文字を手書きする習慣がかなり減ったことが原因です。筆順に至っては、小学校を卒業したあとは忘れてしまう人も多そうです。若い世代を中心とした多種多様な筆順も、こんな時代の流れが生み出した必然なのかもしれません。

「手書きの機会が減るということは、他の人が漢字を手書きする過程をみる機会も減ることになる。一点一画が丁寧に書かれていく順序を意識する機会が、なかなかないようだ」と笹原教授。スマートフォンやタブレットを持つ人が急速に増え、指先でタッチするだけで漢字を書ける時代。未来に継承していく筆順は、はたしてどんなものになっていくのでしょうか。

(武類祥子)

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