少年ジャンプで浸透? 「奇特な人=変なやつ」という間違い
「奇特な人」の「奇特」ってどんな意味――。正しくは「匿名で多額の寄付をするなんて、今どき奇特な人もいるものだ」など他人の行為や心がけが「優れて他と違って感心なこと」で、「殊勝」の類義語とされます。2002年の文化庁「国語に関する世論調査」では本来の意味を理解していた人は半数に届かず、4分の1超が「奇妙で珍しいこと」と誤った解釈をしていました。調査から10年近くが経過し、こうした傾向はさらに強まっていると推測されます。明鏡国語辞典第2版(大修館書店、10年)が「近年、『こんなものを買うなんて奇特なやつだ』など、風変わりの意味でも使われるが、誤り」という注釈を追加。誤用が浸透しつつある背景を探ると、「日本一」といわれた読者投稿欄の存在が浮かび上がってきました。
若い世代ほど意味を誤解

文化庁の調査から指摘できるのは、若い世代ほど意味を誤解している割合が高い点。とりわけ10代(16~19歳)と20代で誤った解釈をした回答が多数派になっています。この世代の若年時、最も影響力を持った漫画雑誌「週刊少年ジャンプ」(集英社)との関連が一因として挙げられるのではないでしょうか。1994年末の653万部という発行部数は世界一の記録。調査時の02年に16~29歳だった世代は当時10歳前後~20歳前後ですから、まさに主力購読層に当てはまります。
そんなジャンプ黄金時代を、数々の漫画に交じって支えた読者投稿欄こそが「ジャンプ放送局」です。82年から95年まで続き、読者投稿を集めたものとしては当時最長となる24巻まで単行本も発行されました。最盛期で毎週4万通というはがきの数も桁違い。その中で草創期を除き常に人気ナンバーワンだったコーナーが「奇特人間大賞」。一口に言えば「身近にいる変なやつ大集合」というコンセプトで、このコーナーが与えたインパクトがあまりにも強かったのではないか、というわけです(表参照)。
「小さな親切大きなお世話」で始まった
文化庁の調査結果発表から程なくして、読売新聞は03年7月3日付コラムで「少年漫画雑誌に、以前、『奇特人間大賞』という投稿欄があった。身の回りの人のおかしな言動を寄せるもので、誤用に基づいた命名だった」と掲載。奇特の誤用と奇特人間大賞との関係について示唆していましたが、「誤用に基づいた命名」という点は事実誤認でした。そもそも奇特人間大賞は正しい意味に基づいて命名されたコーナーだったからです。
スタート直後、82年11月15日号のジャンプ放送局「新番組のおしらせ」ではこう書かれています。「奇特というのは、行ないが感心なこと、と辞書にかいてある。しかし行いがいいといっても世の中にはいろんな人がいる。小さな親切だと思ってしているが、されたほうにとっては大きなお世話な場合が多い。この小さな親切大きなお世話人間を募集しようというわけだ!!」

この「小さな親切大きなお世話」という文字は85年末まではコーナー名にも注記されていました。単行本1、2巻(83、85年発行)の投稿例も他人のお節介な行為についての作品が多く、コンセプトが守られていたことを物語っています。ところがこの注記が消えたあたりを境に、急速に「変なやつ大集合」へと変貌を遂げます。ジャンプ放送局を主宰していたさくまあきらさんは、単行本4巻(86年発行)で「一応『小さな親切、大きなお世話』ってことでスタートしたんだけど、いつのまにか『妙なやつ大集合』って内容になっちまった!! 評判いいと勝手に時流に流されて行ってしまういいかげんさが、なんたって『ジャンプ放送局』!!」と解説。
同じく単行本7巻(87年発行)には「今や世間でも、変な奴を"奇特"と呼ぶまでになった」とあり、この頃にはジャンプ読者の間で「奇特=変なやつ」が共通認識になっていたとみてよさそうです。こうした転換はなぜ起きたのか。「大きなお世話」と感じる他人の行為は、往々にして奇妙で、変わった行為でもあったために、奇特の意味の拡大解釈が生じたのでしょう。その方が投稿内容も面白くなります。当初は不人気コーナーだった奇特人間大賞は、これを機に看板番組へと上り詰めることになります。
「奇」の字が持つイメージに起因?
さくまさんにジャンプ放送局について振り返ってもらったところ、奇特の誤用については「14年間の連載中には問題にならなかった」そうで、「今ごろになって(話題になる)というのが面白いですね」と驚いた様子。奇特の「変なやつ」という用法については「私の早とちりだったのかも」と恐縮するコメントもあり、奇特の正しい意味を理解した上で奇特人間大賞を作ったことはすっかり忘れていたようでした。発案者をして勘違いせしめた理由は一体どこに? 奇特の「奇」の字が持つイメージは十分な論拠になりえます。

奇を含む熟語には「奇妙」「珍奇」など「珍しい、風変わり」を想起させるものが少なくなく、奇特の誤った意味と結びつきやすかったのは想像に難くありません。一方で奇には「優れている、抜きんでている」という意味もあります。奇特も本来の漢語では「並外れて優れている」という意味で、それが日本では「人の行為や心がけが並外れているほど立派で感心なさま」→「優れて他と違って感心なこと」という意味に発展したとみられます。
とはいえ今日では奇から「並外れて優れている」という意味は薄れてしまっています。例えば「奇抜」。もともとは「他に抜きんでて優れている」ことを表していましたが、現在は「思いもよらないほど変わっている」と受け止める人のほうが主流になっているはずです。奇の一字に「優れている」というプラスのイメージと、「変わっている」というどちらかといえばマイナスのイメージが同居する二律背反。奇の原義は「大いに異なる」で、そこから「(他人と異なるほど)優れている」、「(他人と異なるほど)変わっている」という意味が派生しており、両様の意味を持っていることにはちゃんとした訳がありました。
もっとも漢字を使う側からしてみれば、一つの漢字が相反する意味を持つのは混乱のもと。どちらかの意味に統一されてしまった方が分かりやすいに決まっています。奇が持つ「優れている」という意味が淘汰されていくのと軌を一にして、奇特についても「優れている」に由来する「優れて他と違って感心なこと」という意味が淘汰されていき「奇妙な、風変わりな」などの解釈が取って代わったのでしょう。例解新国語辞典第8版(三省堂、12年)の「(誤って)否定的な意味で使う人が増えている」との注釈も裏付けになります。
「奇特」な新聞になる?
さて、時の流れの中で意味が揺れ動いている言葉を新聞でどう扱うべきなのでしょうか。
奇特の意味の伝統的な解釈を守り、正しい日本語を伝えていくことが大事だと思われます。けれども遠くない将来、誤用が完全に定着したにもかかわらず、現状を無視して古い解釈にこだわり続けたら、それこそ「奇特」な新聞といわれてしまう――。頭の痛いところです。
(中川淳一)
