「ご乗車できません」は方言? 東京語と標準語が離れていく
「行かなかったです」「行かないといけない」といった言い回しを普段していませんか? 東京近郊出身の筆者はこれらを標準語だと思って使っていたのですが、実は標準語ではないようです。ではどんな言い方が標準語で、なぜこうした言い方ができたのでしょうか。
東京近郊で顕著
「行かない」の過去形である「行かなかった」の丁寧な言い方は、標準語では「行きませんでした」になります。「行かなかった」の方言を調べると、西日本や新潟あたりでは「行かんかった」、近畿から北陸・東海地方では「行かなんだ」と言い、「それらの地域出身の人たちが『行かなかった』を丁寧に言おうとしたときに『です』をつけて、『行かなかったです』となった」と国語学者の田中章夫さん(元学習院大教授)は指摘します。こうした傾向は都心よりも埼玉や千葉、神奈川などの住宅街で顕著だそうです。
行かなかったです | → | 行きませんでした |
行かないといけない | → | 行かなければならない |
ご乗車できません | → | ご乗車にならないでください |
芝生に入れません | → | 芝生に入らないでください |
田中さんの近著「日本語雑記帳」(岩波新書)によれば「行かないといけない」という言い方も首都圏近辺でこのごろよく聞かれる形だといいます。「行かないといけない」は、標準語では「行かなければならない」ですが、これは「行かんといかん」「行かんとあかん」などと言う西日本出身の人が標準語を言おうとして「行かん」を「行かない」、「いかん」「あかん」を「いけない」に"翻訳"した形だと考えられます。
駅のホームや電車内で「ご乗車できません」というアナウンスを聞いたことがあるかもしれません。これも東京周辺では近年使われるようになった新しい言い回しです。標準語としては「乗らないでください」といった「~しないでください」の形が一般的でした。それが「~できません」という「可能の打ち消し」の形で「禁止」を表す言い回しに変わったわけです。「可能の打ち消し」で「禁止」の意味を表すのは西日本でよく見られるそうです。
また、公園などで見られる「芝生に入れません」「自転車は置けません」といった立て札。これも東京周辺で増えた西日本風の言い回しで、標準語にすれば「入らないでください」「置かないでください」などの形になります。
戦後、地域語と交じり変化
上記の「行かなかったです」や「行かないといけない」などが、東京やその周辺で聞かれたり見られたりするようになったのは戦後になってからだといいます。全国各地から人が集まり、東京近辺の人口が急増した結果、「それまで使っていた各地のことばを標準語に近づけたために生まれたもの」と田中さんは見ています。
そもそも、標準語とはなんでしょうか。「日本語学研究事典」(明治書院)によると、各地の方言を統一するために、全国どこでも通用する国家の言語として国が制定した言語です。日本では明治時代に学校の教科書をつくるため、東京で使われている語(東京語)が基になりました。学校教育や軍隊を通じて全国に広がっていきますが、昭和の初めごろまではまだまだ標準語を話す人は少なく、日本国内でも話が通じないということがありました。
標準語の「行きませんでした」は、幕末ごろの江戸ではすでに使われていたようです。一方で、幕末から明治時代にかけては「行きませなんだ」「行きましなんだ」なども江戸・東京では使われていましたが、教科書などには採用されず、明治以降はあまり使われなくなります。明治時代には「行かないでした」という言い方も東京で一時、行われていました。
日本語教育の現場でも
「行かなかったです」は現在では首都圏だけでなく、日本語を話す外国人にも使われている可能性があります。「行かなかった」に「です」をつけるだけなので、初心者には容易で説明もしやすく、日本語教育の現場では積極的に取り入れている所もあります。英オックスフォード大で出版された日本語入門書の中にも「行きませんでした」と併記されています。
東京語を基につくられた現在の標準語ですが、「行かなかったです」などは地域語を話す人が無意識のうちに言いやすいことばに変化させた結果の表れといえるでしょう。こうした一連の動きを田中さんは「標準語の東京語離れ」と呼んでいます。
戦後、東京以外の地域からやってきた人が増えた影響で、昔ながらの東京語を話す人は少数派になりつつあります。ことばは使う人が増えるほど、使いやすい形に変化しがちです。「寝られる・来られる」に対して「寝れる・来れる」が広がってきたのも、その例です。「標準語」が変わる動きは今後も広がっていくことでしょう。
(岩崎雅子)