投手・市川氏「野球は体の一部、考え方の土台に」
「都立の星」の甲子園 国立高・元ナインに聞く(上)
2015年は高校野球の夏の全国大会が始まって100年という節目の年だ。いまや高校野球は米メジャーリーグで活躍する多くの日本人選手を輩出していることから、海外でも話題になっている。
高校野球の魅力の一つは「大番狂わせ」だ。強豪校のまさかの敗戦や弱小校による思わぬ勝利に観客は心を揺さぶられる。いまから35年前の1980年の夏。東東京代表の1年生エース、荒木大輔さんを擁する早稲田実業高校が準優勝した。
その同じ年に、私立高校が圧倒的な強さを誇る東京で、西東京の参加107校の頂点に立ったのは、都立として初めて甲子園出場を決めた都立国立高校だった。
国立は進学校であったことも話題だった。ナインのうちバッテリーを含めた3人が東京大学に進学した。文武両道といえば簡単だが、なぜ国立が「都立の星」になりえたのか――。当時の選手に振り返ってもらった。
第1回は、都大会から甲子園まで全試合を1人で投げ抜いたエース、市川武史さん(53)に聞いた。
当時、167センチ、58キロで「小さな大エース」と評された市川さんは予選8試合をすべて3失点以内に抑えた。1浪して進学した東大では1年生の秋から野球部に入り、投手として東京六大学リーグで通算7勝を挙げた。現在はキヤノンのデバイス開発本部半導体デバイス要素開発センター所長を務めている。
市川さんの話を聞くと、国立の甲子園出場は決して突然起きた奇跡ではなかったことがわかる。
■小さいころからの夢だった甲子園
――甲子園では、初日の第3試合で前年の優勝校、箕島(和歌山)に0対5で負けました。
「よりによって箕島。組み合わせ抽選会でくじを引いたキャプテンの名取(現在、朝日新聞社教育総合本部長)は、かねてくじ運が悪いといわれていた。ただ、緊張はせずマイペースで淡々としていられた。四回まで互いに無得点だった。しかし箕島はそれまで対戦したどのチームとも明らかに違っていた」
「予選では打たれなかった(打者の手元で小さく変化する)ムービング・ファスト・ボールを六回で打たれた。しかもホームラン。あれは納得のいく、申し分のない球だった。『すごいなあ』と驚いた。あと3回もピッチングが残っているから『これは大変だなあ』とも。終わった時は負けた悔しさとよりも、ほっとした」
――とはいえ、当時ムービング・ファスト・ボールを投げた高校球児は珍しかった。
「実は夏の予選の約1カ月前に強豪、日大二高との練習試合でめった打ちに遭い3対14で負けた。何かやらないと勝てない、甲子園に行けないと切羽詰まった末、まだ日本のプロ野球でもあまり投げていなかったムービング・ファスト・ボールを覚えてみようと思うに至った。予選に自信をもって臨めたわけではなかった」
――そもそも都立勢が甲子園に出場したことのない時代に、甲子園に行こうと思って国立を選び、野球部に入ったそうですね。
「私が中学生の頃、国立は夏の予選でベスト8やベスト16入りし進学校ながら野球が強かった。高校を選ぶ基準は甲子園に行けるかどうか。野球は中学で軟式をやっていたが甲子園は小さいころからの夢だった。国立と前年の夏に東京勢として戦後初めて全国優勝した桜美林に合格し、どちらに進学するか迷った。両親のすすめもあって国立での文武両道を選んだ」
「桜美林なら中学でのポジションの遊撃手を続け、野手で甲子園に行こうと思っていたが、国立なら投手になって『俺が甲子園にみんなを連れて行く』という意気込みだった」
■2年生で肩を壊し、サイドスローに
――甲子園に行きたい気持ちは続きましたか。
「現実は厳しかった。入部して3カ月くらいでうせてしまった。すぐに練習試合に出させてもらったが、私立校のレベルは高く大きな壁を感じた。夏の予選では1年時は途中から投手としてマウンドに立ち決勝点を取られて1回戦負け。2年では2回戦で13点取られて7回コールド負け。しかも都立に。甲子園が簡単ではないことを思い知らされた」
――夏の大会が終わり3年生が抜けて市川さんら2年生中心の新チームになりました。
「我々の代は1年生のときからレギュラー選手が多かった。試合での相手チームが格下に感じられ負ける気がしなかった。みんなが秋季都大会ブロック大会で優勝して春の甲子園に行くつもりでいた」
――しかし、市川さんが肩を壊しました。
「ブロック大会中に体育の授業でプールに入り肩を壊した。結果、決勝で負けてしまった。3年時のプールの授業は『肩を壊す』という理由で全部欠席した。国立はそれが許される校風だった」
――サイドスローに変えたのはその後ですね。
「肩を壊したことで球速が落ち、このままでは勝てない、何かやらないといけないと思っていた。3年生になって最初の公式試合、春季地区大会の1回戦で完投勝ちした直後に監督の指示でサイドスローに変えた。投げやすくコントロールも良くなった。2回戦で負けはしたものの、都立で最初に甲子園に行くともいわれていた東大和を相手に延長十回まで戦い0対1の惜敗だった」
■最後の予選は楽しく、負ける恐怖なし
――ムービング・ファスト・ボールを覚えて臨んだ最後の夏。初戦の都立武蔵村山には練習試合で2度負けていました。
「強いチームだった。ヤクルトにドラフト入団した西沢浩一投手が控えにいた。ここで負けるとすべてが終わりなのでプレッシャーはすごかった。甲子園の試合以上につらかった。打線も振るわず得点は押し出しとスクイズの2点だけ。一歩間違えば……」
「しかし平常心で投げることができた。1年生の夏の予選の1回戦で投げた時の緊張感のほうがつらかった。あの経験があったからこそプレッシャーをはねのけることができたのかもしれない」
――都大会で勝ち進み、格上のチームとの連戦となりました。
「4回戦でシード校の錦城に勝つのが一つの目標だった。ここに勝ってからは投げるのが楽になった。準々決勝での佼成学園との延長十八回引き分け再試合などきわどい試合もあったが、不思議なほどに何のプレッシャーもなかった。点を取られなければ負けないなと思っていたので、負ける恐怖心もあまりなかった。ほかの選手も緊張していなかったように思った」
――どうして、そのような心境になったのでしょう。
「なぞだ。今でもよくわからない。ただいえることは、それまで夏の予選で1回戦負け、コールド負けを喫してつらかった気持ちをみんなで共有していたが、勝ち進むことで解放感を覚え楽しく野球をやれていた」
――体力がよくもちましたね。
「夏の大会で連投するのを前提に練習をしていた。監督からは最終の九回でもベストなコンディションで投げられるようなスタミナとメンタルを持つようにといわれていた。直球を300球投げ込んだりもした」
■東大で7勝、阪神に指名されたら…
――練習で気をつけていた点はなんですか。
「グラウンドはほかの部活動と共用で練習時間も少ないなか、体格や練習量で勝る私立に勝つためには、違うことをやらないといけない。何か新しいことをしたいと思いナックルやフォークボールも試みたが失敗もした」
「監督は『守りの野球』に徹していた。最少失点・最少得点で勝つためには何をするか、という発想だ。フォアボールでの出塁も大事だし、2ストライクの後のスクイズもする。守りでは逆にフォアボールのような無駄な走者は厳禁。それをベースにしての練習だった」
――六大学でも活躍されました。プロ野球への夢は。
「東大では肘を壊しケガが多かったが、ドラフトで指名されたら考えたいと思っていた。特に阪神タイガース。ファンなので」
――キヤノンで技術者としての道を選びました。
「進路としては商社も考えたが、製品開発をしたくてキヤノンに入った。自分が開発に携わったセンサーが搭載された初めての商品、EOS20Dが2004年に発売されたときはとてもうれしかった」
――市川さんにとって「高校野球・甲子園」とは何ですか。
「体の一部。考え方の土台となっている。1回負けたら終わりの高校野球はやり直しができない。勝つために一生懸命やっても結果が出ないことも当然ある。やればできるという甘い世界ではない。しかし、それまでのプロセスを一生懸命やらないと勝つことも絶対できない。そういう現実を学んだ」
――いまは、野球とどのようにつきあっていますか。
「数年前から正月に野球部の同期会を開いている。夏の予選会前の部のOB会にも出席するようにしている。当時の話題がでるとスコアブックを取り出し試合を確認するが、ついつい引き込まれていろいろな試合のスコアも見てしまう。1年時から登板した全試合のスコアを書き写してくれたスコアブックはマネジャーからの卒業プレゼント。当時をリアルに思い出し、まさに宝物だ」
「いま野球部のOBと職場の2つの野球チームに所属していて、月に3、4回は試合で投手や捕手をしている。練習もあまりせず楽しい野球だ。職場の仲間とはマラソンにも挑戦した。すでに湘南、東京、横浜と3回走り4時間2分が最高タイム。東京マラソンに当選したらまた走りたい」
(この連載は編集委員・木村恭子が担当します)
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