語るも涙の開発課時代 装置は自作、部材は再利用
中村修二の青色LED開発物語(上)
徳島県阿南市に本社を置く化学メーカー・日亜化学工業は、地元ではちょっと名の知れた会社だった(図1)[注1]。3週間もの長い夏休みを実施していたためである。従業員は、この長期休暇を阿波踊りの練習にあてる。そして本番の阿波踊りには、「日亜連」なる踊り手集団を送り出す。
そんな日亜化学工業が一挙、世界に名を売ることになったのは、1993年の暮れである(表1)。
輝度が1cd(カンデラ)という実用レベルの青色発光ダイオードを開発、量産に乗り出したのだ。「実現は21世紀」とも言われていた高輝度青色発光ダイオードが、あっけなく実用期を迎えてしまった。
この分野の技術者や研究者は、一様に驚き、ショックを受けた。この快挙をものにしたのが、同分野で長年研究を進めてきた国内外の大学でも、大手エレクトロニクス・メーカーでもなく、地方の中堅化学メーカーだったことに2度驚いた。そして「夏休みの日亜」は、「青色発光ダイオードの日亜」になった。
子供のために田舎を選ぶ
この高輝度青色発光ダイオードの開発をほぼ独力でやり遂げたのは、当時40歳(1995年時点)の研究者、中村修二氏である(図2)。同氏は、1979年に徳島大学大学院の修士課程を卒業したのち、同社に入社した。専攻は電子工学である。
学生のころは、就職するなら東京か大阪か、都会に出て頑張ろうと思っていたという。しかし就職時、中村氏にはすでに子供がいた。学生結婚だった。
「独身なら、都会暮らしでもいい。でも、子供ができたら田舎で暮らしたい。仕事の事情で家庭を犠牲にすることだけは避けたい」との思いが結局、中村氏と日亜化学工業を結びつけることになる。
迷いがなかったわけではない。実際、京都市に本社がある京セラの入社試験も受けてみた。過酷な試験をくぐりぬけ、見事合格したものの、結局は断念することになる。最後に選んだのは地元、妻の実家がある徳島だった。
日亜化学工業は大学の指導教授から紹介された。専攻は電子工学だが、できれば材料の開発がしたいという中村氏の希望から推薦された会社だった。しかし、行ってみて驚いた。従業員が200人程度(当時)の小さな化学会社で、しかも、硫化水素特有の腐卵臭がプンプンする。「なんと汚い会社か」というのが第一印象だった。
"瀕死"の開発課
日亜化学工業に入社し、配属されたのは開発課である。入社してみると、社員はすべて阿南近辺の人たちで、中村氏は徳島市から来たというだけで珍しい存在だった。しかも、同社では初めての電気系学部出身者である。それでは新しいことをやる部署へ、という配慮だったのだろう。
最初に担当した開発テーマは、化合物半導体のGaP(リン化ガリウム、ガリウム・リン)の材料となる金属Gaの精製である[注2]。開発課といっても、開発課長に開発員2人、助手が若干名という小さな所帯。建物も、屋根付きの駐車場を改造して、壁をめぐらせただけの粗末なものだった(図3)。
金属Gaの精製を始めて何カ月かがたったころ、金属Gaだけでなく、GaPも作れば売れそうだ、という話が営業部隊から舞い込んだ。当時開発課は瀕死の状態にあった。「もうすぐつぶされるらしい」といった噂すら立ち始めていた。このような状況で商売になりそうなテーマが持ち上がれば、飛びつく一手しかない。
早速、開発担当者に中村氏が指名された。当時の開発員は2人。一人が金属Gaを引き続き担当し、もう一人の中村氏がGaPの開発に着手することになった。
「新事業の開拓を目指して開発テーマに取り組む」と言えば聞こえはいいが、実際は厳しさの連続である。予算がない。だから、装置が買えない。高価な部材も買えない。結局、製造装置類はすべて自分で作るしかなかった(図4)。
夕暮れの爆破常習犯
GaPの結晶成長には、高価な石英管を使う。石英管の片方を封止して、金属GaとPを管の両側に置く。さらに管内を真空にして、もう片方を封止する。この石英管を加熱すると中の材料が気化し、それらが反応してGaPができる。あとは石英管を切り、中身を取り出せばよい。
問題は、一度使った石英管をどうするか、ということだった。石英管は高価なため、使い捨てにはできない。少なくとも、日亜ではできなかった。それでは、ということで、一度切断した石英管を溶接し、再生利用することにした。
それからは溶接に明け暮れる。「溶接屋になるために会社に入ったのか」と思い悩む日々だった。そしていちばんの悩みは、爆発事故の頻発である。GaとPを封入した石英管を高温に加熱すると、管内の圧力が20~30気圧に上昇する。このとき、溶接部に小さなキズや強度が足りない部分ができると、石英管が破裂する。
朝、石英管に材料を詰めて封止する。午後から加熱を始めると、最高温度に達するのは、ちょうど夕暮れどきになる。爆発が起こるのは、きまって終業時刻になるころ。ドカーンという大音響が会社に響きわたる。「また中村がやったんか」。口々に噂しながら従業員は家路を急ぐ。
上はわかってくれない
同じとき中村氏の実験室では、大立ち回りが演じられていた。
頻発する事故に慣れてきた中村氏は、自分の机と、そのすぐ横に設置しているGaP製造装置の間に金属板を吊るすという自衛策を編み出していた。爆発して飛び散る石英片が直撃してくる心配はもうない。
しかし石英管が爆発すると、割れた石英管の破片といっしょに高熱に熱せられたPが飛び出す。Pは、マッチの材料にもなる可燃物である。もちろん燃える。火の固まりが八方に飛び散るようなものだ。その一つひとつを追いかけては消火する。「よく無事でいられたものだ」と懐述するほど、事故は頻繁に起きた。
このままでは身がもたない。そう思って当時の上司に何度も相談した。石英管の内部を高圧にする方法を続ける限り、爆発事故は絶えない。低圧でもGaPが作れる方法に変えたい。しかし、会社の壁は厚かった。「爆発が起きるのは溶接のやり方が悪いせいで、方式のせいではない」と、中村氏の提案を受け入れようとはしなかった。
それでも開発は軌道に乗った。1981年ころから、中村氏が作ったGaPが売れ始めた。苦労の連続だっただけに、自分の作ったものが売れたという感動はひとしおだったに違いない。開発は成功した。しかし、GaPの売り上げは、月に数百万円程度にとどまっていた。事業としては大きな成功とはいえない。そして1982年には、中村氏はこの開発テーマを完了させる。製造は後任に任せ、GaPから完全に手を引いた。
中村氏がこの開発テーマから学んだものは、石英の溶接技術と爆発にもひるまない勇気、そして「会社の言うことを素直に聞いてはいけない」という教訓だった。
次はGaAsの結晶成長
1982年から中村氏が着手した開発テーマは、GaAs(ヒ化ガリウム)結晶の成長である[注3]。やはり営業部隊からの情報だった。「これからはGaPよりもGaAsが伸びる」。新しい材料を手がけるのだからと、新しい開発要員も中途入社で入ってきた。心機一転、まずはGaAs多結晶材料の開発から始めた(図5)。
しかし、材料は変わっても内情はまったく変わらない。まずは装置の製作、次に石英管の溶接である。当時すでに「神業」とまで評されていた中村氏の溶接技術が、遺憾なく発揮される日々が続く(図6)。それでも爆発事故が頻発したことはいうまでもない。
それでも1983年ごろには、製品として売れるGaAsの多結晶ができるようになっていた。GaAs単結晶の開発も完了した。そして1985年には、発光ダイオード用のGaAlAs(ヒ化ガリウムアルミニウム)膜の結晶成長の開発に着手する[注4]。単結晶の成長法には、「液相成長」を選んだ。当然ながら、液相成長装置は自作である(図7)。
このころ中村氏は、研究から製造、品質管理、営業までを、すべて一人でこなしていた。作った単結晶をユーザーである発光ダイオード・メーカーに持っていく。しかし、競合他社は、もっと品質の高い単結晶を作って持っていく。それではと研究を重ね、負けない品質にして持っていく。しかしそのころには、他社はもっと先を進んでいる。どうしても追いつけない。その原因は評価の速度だった。
日亜化学工業は材料を売るだけで、自社で発光ダイオードを作っていない。このため、単結晶を発光ダイオードにしたときの評価は、すべてユーザー任せになっていた。しかし、これに頼っていては、評価が出るのに1カ月はかかってしまう。その評価が出てから改良にかかっても、他社の開発スピードに追いつけない。
発光ダイオードに夢を賭ける
「自分で発光ダイオードまで作れないと、ユーザーにダメと言われても対応できない」。社長に直談判し、発光ダイオードの製造装置と評価装置を導入することに成功した。単結晶の製造要員も新たに加わり、GaAlAs単結晶の開発は、事業として軌道に乗った。そして開発は終わった。
この研究テーマに関しても、自分としては100%の成功だったと中村氏は言う。装置作りから、すべて自分でやった。他社から技術を導入することなく、独力でGaAlAs単結晶を製造する技術を確立した。事業化にも成功した。
それなのに、と思う。中途入社で自分の仕事を引き継いだ人たちは、順調に出世する。自分はどんどん抜かれていく、との思いが募る。面白くない。こんなに成功してるのに、自分は評価されてない…。
そんな思いのなか、たどりついた結論はこうだ。開発に成功しても、売れなければダメ。売れなければ評価されない。それなら、開発に成功すれば必ず大きな事業になるテーマを選ぼう。こうして中村氏が選んだのが高輝度青色発光ダイオードの研究だった。これなら、作れれば間違いなく売れるだろう。
青色発光ダイオードを研究するためには、GaAlAsとは違った結晶成長技術が必要になる。その習得から始めようと中村氏は考えた。
そんな思案をめぐらせていた折りも折り、願ってもない話が持ち上がった。結晶成長技術の習得のため、米国に行かないかというのである。期待は膨らむ。
実はこの魅力的な話には、大きな落とし穴があった。しかし、そんなことを当時の中村氏が知るよしもない。(続く)
(日経BP未来研究所 仲森智博)
[日経テクノロジーオンライン2009年6月5日付の記事を基に再構成]
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