fc2ブログ

タイトル画像

戦国伊達氏の重要山城砦、赤湯の二色根館跡を探索する 長編

2023.09.05(19:10) 293

IMG_20230812_184800 600
赤湯花見町の夏祭りのひと時

雲爺が住んでいるところは南陽市赤湯の町中で花見町というところです。近くには聞きようは良くないですが暴れ川とされてきた吉野川があります。花見町ではお盆には4年ぶりに夏祭りが行われました。



IMG_20230812_185002 600
毎年お祭りは社寺の祭礼の後に昔の名残の堤に灯篭を浮かばせて、恒例のビアパーティが行われてきました。しかし今年はコロナの関係で小規模でささやかなものになりました。

ところで時代はさかのぼり戦国の時代にもこんながやがやした酒盛りが行われていたことでしょう。



IMG_20230905_174144 500
この絵図は明治8年のものですが、山城だった二色根館の麓の地名に根小屋があります。根小屋は平時は軍民が過ごしているところです。根小屋に隣接して根小屋浦、根小屋前、鍛冶屋敷、壁の内など中世の館の構えがうかがえます。中世の頃、いざ戦ともなれば根小屋から目の前にそびえる山城、二色根館に駆け登るわけですが、平時ではこうして二色根館主以下者ども一同もたまには酒盛りもしたことでしょう。   (南陽市史 より)

以下の写真はスマホにずいぶんたまったものです。4月のものですからもう在庫処分しないといかんのです。


IMG_20230408_140716 600
花見町の隣は赤湯の歴史の本元、二色根地区です。ご存じ吉野川が流れ、向こう正面に二色根館が築かれた館の山があります。位置関係からするとこの辺は根小屋からは近かったはずです。


IMG_20230905_172836 500
二色根館の縄張り図   (山形おきたま観光協議会発行の 置賜 城館名鑑 より)

県下の山城や平城を調査した専門ブロガーによれば、探索調査件数273件の中で最高の5つ星の評価をつけているのはわずか6件です。その中にこの二色根館が入っています。評価基準は規模や構造、痕跡状態などにあるようです。6件は山形の山形城、南陽市の二色根館と岩部山楯、米沢の鷺城、川西町の館山楯、新庄の落楯です。この中になんと南陽市は2件入っています。
国道13号線を南陽市から山形に向かうと、その通りに沿って高評価の山城が並んでいます。南陽市は岩部山楯と4つ星の虚空蔵山楯、上山市の中山地区に4つ星の中山城と綺羅星のようにつながっています。ここは山城マニアには堪えられん街道なのです。

縄張り図に目を転じます。
大手道が根小屋から頂上の天守まで九十九折で伸びてます。茶色の所が城主など指令者などが詰める場所です。天守にはなにがしかの建物があったでしょうが痕跡はありません。天守はⅠ・Ⅱに分けられ、右端に第2の天守があり連郭式山城になっています。天守の周りにはこげ茶色の二重の空掘がめぐらされた厳重な防御陣地としての帯曲輪が巡ります。水色は大空掘です。緑色は大きな曲輪です。曲輪は兵士が戦闘のために詰める平場です。



IMG_20230905_174251 500
これは昭和23年に撮影された二色根館があった館の山の航空写真です。(南陽市史より)

左の山が館の山です。縄張り図と見比べてください。頂上に天守があるのですが、その周りを掘り込まれた空堀が巡っています。縄張り図で見た水色の空堀、大空堀も確認できます。緑色の大曲輪もなんとなくわかります。山の麓を奥羽本線が走っています。その手前の道路沿いに根小屋の集落があります。二色根館の姿は縄張り図と航空写真のおかげでおおよそ確かめることが出来ます。


IMG_20230405_160607 600
そんなことでこれから二色根館跡の現場を探索調査に行きます。

時は4月4日、単独で下見。翌5日は従兄の長谷川啓二氏と本調査です。
近くには奥羽本線が走ります。ここを新幹線も走るんです。ビュー、ビャーっと来るんですよ、「おっ、モーレツゥ!新幹線」



IMG_20230405_160502 600
4日単独登行
向こうの張り出した尾根の上部に第2の天守がありました。



IMG_20230405_160515 600
これから向かう主天守のある館の山、標高341m

手前にはブドウ畑が。以前、赤湯はブドウの一大産地でしたが現在は高畠にその位置が変わりどんどん撤退しています。赤湯は山の斜面が広く栽培には好条件だったのですが、今では平地栽培が主流で農家は高齢化が進みかなり廃業しています。アメリカ軍のイラク撤退みたいで赤湯の時代は過ぎようとしています。


IMG_20230405_160536 600
登り口に車を置いて

標識が建っています。尾根を登るとまもなく横穴古墳が3基ありそれの説明板です。以前に紹介している西村真次博士が戦前ここを発掘調査しましたが、かなり盗掘されていたということで、目立ったものは無かったようです。違う場所にもさらに3つ古墳はありますが、形跡は残っていません。古墳は古代のこの地方の豪族のものとされています。大体において記録が残るのは奈良時代以降みたいですよね。それ以前となると中国の紙とか文字が入ってないから残しようがないんでしょうね。良くて木簡に書いているようなもんで、豪族の墓ぐらいまで止まりで誰様が出てきません。古代つうのは本当に暗闇の世界ですから、何かあるともうすぐ神頼みだったんでしょう。


IMG_20230405_152904 600
途中見晴らしの効くところに来ました

古墳までは何度か足を運んでいますが、そこから上は未踏で初めての領域です。
一応道はありますが、それを見つけるのが一苦労でした。何しろ普通の登山道と違って獣道ですから、木の枝が邪魔するは、バランスは崩すは、頭はふらつくは、いやー、イノシシと違って人間はこりゃ合わん世界ですばい。それよりものう、熊さんと出会わないか、その心配はいつも付きまといました 🦏👽
昨年はカモシカに目の前で出会いました。ジーとしていてかわいかったですが、そしたら次の日に角で突れたニュースがありました。獣は油断禁物です。


IMG_20230405_135832 600
縄張り図にある二重掘の一方の曲輪

写真では分りにくいですが、山の斜面を掘り下げて掘った土を積み上げると塹壕になるから身を隠すことが出来ます。下から登ってくる敵は上から攻撃がしやすくなります。このような空堀を帯のように山の斜面にめぐらしたのが帯曲輪です。今はこんな程度に浅くなっていますが戦国時代などの当時はもっと深かったはずです。戦国時代とみても450年前ですから、その間もこうして姿をとどめているのはすごいことなのです。これから450年もたったら痕跡は消えているかもしれません。曲輪、土塁はまさに歴史の生き証人なのです。


IMG_20230405_135152 600
もう一つの空堀

こちらを合わせて二重堀になっており強固な防御陣衛です。


IMG_20230405_151552 600
天守の平場

枝を分け分け天守を目指しました。途中人の手が加わったと思われるところには興味が行くので、ふらふらして無駄な時間を費やしました。でもこれもまた楽しいものです。

あそこが天守と思いながらも、ブッシュや複雑な地形が邪魔してなかなかたどり着けません。でもなんとか天守に着きました。山の頂上の少ない平地を利用して城主や重臣などが逗留したであろう天守。当時は樹木は切られて広かったでしょうが、今は原生木がところどころに立ち群がっています。雪で倒れた大木や枝も横たわっています。土中にはこれらもいろいろ埋まっているでしょう。発掘調査をすればどんなものが出てくるものでしょうか。


IMG_20230406_113352 600
翌日、従兄の長谷川啓二氏に同行してもらい天守まで来ました。どでかい大木が横たわっています。長谷川氏は高畠の観光ガイド協会の会長をしています。でもこういうワイルドワールドは初めてとのこと。安久津の八幡神社や亀岡文珠堂などをメインにしているとのことですから、こういうところは初体験だそうです。ワイルド伊達氏の空気を吸ってもらっただけでも良い経験だったのでないですか。



IMG_20230405_144014 600
かなり広い曲輪

幅は20メートル程もあり鉄砲戦を想定して築かれていることが明確にわかります。戦時には援兵の駐屯地や住民の避難場所になりました。両側は切岸で高い壁になっています。冬は体力を失った大木はこのようにボッキリと倒れます。戦国の世も、今も軍民だけではありません、動物も植物も生きている限り戦いは永遠に続くのです。

伊達氏三代当主義広は伊達郡桑折粟野大館に移住し、後に出家して粟野氏を名乗りました。二色根館は義広が1200年代?頃に築城したともいわれ、以降粟野氏の居城となってます。

二色根館は戦国時代の天正年間(1573~1592年)の頃は、伊達氏の家臣、粟野喜左衛門の居城と伝えられています。置賜地方から上山に通じる街道を抑え、置賜盆地の入口を押さえる要地にあり、城の規模も大きいことから、重要な拠点城郭を任されるような高位の重臣が配置されたと考えられています。 (ブログ 古城めぐり・春の世の夢 から)

記録によれば
〇文明3年(1471年)二色根城主阿波野信貞、伊達氏の謀計により自刃し果て、一族郎党離散する。(南陽市史より)
〇天正18年(1590年)城主、粟野十郎左衛門宗次の子、藤八郎は伊達政宗毒殺未遂事件に絡み行方をくらまし、後に豊臣秀吉に仕え大出世したが、関白秀次事件に関係し処刑された。・・・・みんな悪いことばかりじゃのう 😖  (南陽市報より)


IMG_20230405_145042 600
大曲輪を守る巨大な壁の切岸

ここは自然の地形も利用したものか、すごく高い斜面でした。周囲は物音は一切なし、日は陰り、一人でいると強烈な恐怖感、寂寥感が迫ってきます。さらにはここに熊さんが登場しないことを祈るばかりでした。これが自然の姿そのものなんだと教えられた気がします。


IMG_20230405_144619 600
大曲輪に続く枡形虎口?

虎口とは曲輪などにつながる玄関のこと。枡形とは升のように直角に曲げられて容易に敵が侵入できないように考えられたものです。


IMG_20230405_150714 600
前方に立派な枡形虎口

バンバン木が倒れています。雪が解けて杉の落ち葉もびっしりです。


IMG_20230405_151210 600
大曲輪で見つけた横に並べられた石組み

人工物であることは間違いない。土止めのものだったのか ?


雲爺の2日を要した二色根館の探索調査は全貌を見ぬままに終わりました。単なる興味から始めたものですが、この二色根館は雲爺の地元の山城であり、機会を見て晩秋にもう一度探索をしたいと思っています。最近思うのですが、地元の宝、二色根館をこのまま眠らせておいてよいのかと。かつての南陽市の一大観光拠点であった白竜湖の存在感が薄れている中で、二色根館の登場などはおもろいのではと。

山形県では文化財の確保や遺構研究のために平成の初期以来大掛かりな郷土の歴史調査や発掘が行われてきました。古代や武家時代の歴史発掘により山城などの縄張り図や土地区画の字限図などが完成しています。でも雲爺はこんなものがあるなんて最近知ったのでした。すると新たな切り口から新たな知識願望が生まれてきます。おのずと現地に赴いたりする時間も増えました。でも現地に行ったからと言ってそれで済むものではありません。やはり知識というものは欠かせません。そこで行ったこともない図書館に行って頭がパンクしたりしております。そうこうしているうちに近くに地方の歴史専門家がおられますので門をたたいてみようかなと思っています。齢〇〇の最後の手習いは歴史です、過去があってこその未来ですから。



9月6日
県南囲碁会事務局 平吹


山形県・県南囲碁リーグ戦


未分類 トラックバック(-) | コメント(0) | [EDIT]
<<秋の便りと県南囲碁リーグ戦の今後の日程 | ホームへ | 碁敵あり遠方より来たる、ああうれしからずや ☆ 9月白鷹大会>>
コメント
コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する