冬の入口で烏帽子山の桜を復習してみようよ
2024.11.25(15:45)
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秋のシンボル、コスモスです
11月25日の今日はすでに花は散ってます。そしていよいよ赤湯にも初雪がやってこようとしています。
ということで、今日は春先までフイルムを逆回転して赤湯の桜の名所、烏帽子山の桜の満開を振り返ってみようと思います。晩秋に春を楽しむ、これって頭の健康にいいんでない❕気持ちがフレッシュになってあなたのボケ防止😲にもいいですよ。
4月15日、本日は何たる良き日ぞや、烏帽子山の桜が満開です。今我が家を出て公園の近くに来ています。
しかしですね、雲爺のスマホには長期に渡り大量の写真が保存されっぱなしになっておるんですが、そのまま構わずにしておりましたので最近は不調を起こすことが多くなりました。なので保存写真の在庫放出を兼ねてブログ化しております。
天下に名高い、赤湯ラーメンの「龍上海」の前に来てます。今は期待はずれでお客さんは玄関の所に1列だけ列を作っております。何のことはない、偶然通りかかった時などは駐車場の車列の間をぐるぐる巡って歩道まで超長蛇の列が出来るんです。ほんと仰天ものですわ。これって、大東京の名店にもひけをとらんかもです。
天下の味とてどっからか老若男女が集まって来るんでしょうね。味が天下一かどうか、そりゃ決めるのはあなたですばい。
リーグ戦でおなじみの会場、えくぼプラザから満開の烏帽子山公園を望みます
赤湯商店通り
商店通りに接して桜で名高い烏帽子山公園があり、石段がまっすぐに伸びてます。
公園はもともと戦国時代には上野山館という山城でした。この石段は堀切という戦いに備えた大きな溝でしたが明治になってから? ここに石段を設けたのかもしれません。
石段を中腹まで登りました
南の高畠町方面の眺望が望めます。
烏帽子山は置賜盆地の北の縁に位置していますから南側の眺望が効きます。これと反対に南端に吾妻連峰がありますがこちらは北向きです。北向きは良かおまへんて。
園内を進む
明治36年に建てられた石の大鳥居があります。継ぎ目がない石柱としては日本一の鳥居です
烏帽子山八幡宮
前九年の役、後三年の役で源義綱が陸奥の国を鎮定し、彼はその後陸奥守になり1093(寛治7)年に烏帽子山公園の北東に祠を建て勝軍の長久を祈ったのが起源とされています。1890(明治23)年に現在の山上に社殿を新築遷座しました。長らく平安でしたがここに来て平成15年に不審火で焼失に会い平成17年に新しく再建されました。
神社の境内にある磨崖碑 烏帽子石(えぼしいわ)
全国でも珍しい巨石の磨崖碑で高さ3メートル、重さ10トンの巨石です。長方形の碑が3面に刻まれています。磨崖碑とは古代から近世にかけて死者の追善や死後の逆修供養を目的にされたものです。
人出が出てきました
日光猿軍団のお猿のパフォーマンス
なかなか好評
花吹雪が石段に
立派な古木巨木たち。
古木とはいっても烏帽子山の桜は明治になって植えられましたからまだ百数十年の若木なんです。1000年先に希望ありと地元は期待します。期待っていうのかね1000年つうの。
烏帽子山公園は明治11年(1877)に温泉客向けに桜などの花木を植えたのが始まりです。その後町が2度の大火に遭うなどして公園の拡張活動は困難を極めましたが、地元の有志たちの努力が実り1886年(明治19)に完成しました。
公園を覆うように植えられている「千本桜」は完成時と1935(昭和15年)年に植えられたものがもとになっています。現在はエドヒガンザクラなど25種約1000本が植えられています。ここの桜の特色はエドヒガンサクラが群生していることです。在来種のエドヒガサクラは一本桜では有名なものが多いですが、群生は全国的にも珍しいのです。
広くてゆったりした広場は戦国時代の郭跡
なんか平成になって以降は往々にして従来のお花見の宴が姿を消してしまっているように思われます。各所に陣取ってワイワイやっている方は姿を消しました。
赤湯の飲み屋街も夜は閑散としています。65歳ぐらいまでですかね、夜の町に流れて行くなんてのは。若い方は飲みに出ることはめっきり少なくなってます。まあもっとも若い方は赤湯くんだりにはおりませんで、かっこよく都会に出てしまってます。昔の宴は日本酒一升瓶ですよ、今みたいにサワーなんての雲爺どこか好かんな。🍶🍢
イザベラ、バードが赤湯温泉に泊まる予定のところ周りが騒がしすぎて泊まらずに上山へ向かいました。その当時このお花見だったらどうなっていたですかね。
烏帽子山はそんなに大きい公園ではないですが、場所が高台にあるからそりゃあもう147%絶景だわね。
真っ青な空にやさしく映える花ビラたち
花の命は短くて・・・映えながらも絶えず舞い散っております。
和歌のように、静心なく花の散るらん・・・・ほんまですね
公園は3つに分かれています。というのは戦国時代の名残で3つの郭があり、このように堀切という通路によって分けられたと思われます。公園化で郭の上に桜が植えられました。
この近くに二色根館という大きな伊達時代の支城があり、上野山館は付帯城としてこの二城で赤湯エリアを防御したのかもしれません。南北朝時代の1380年に伊達氏が置賜の長井氏を侵略して伊達領にしてしまった時などには当然この二色根地区も戦場になったと推測します。そして伊達領になってからはこの二城は一層整備されたと思うと楽しくなってくるのです。二色根館を根城に高畠、川西方面に多くの家臣が配置され、今の市町村と同じようにいたるところに地方の支配館が設けられたのかもしれません。我が生家の小村でさえ地方領主様の舘がありましたからね。こうして伊達氏全体の支配体制が出来上がって行ったのでしょうね。ううーむ、なんか雲爺式勝手流見えて来るなあ😁
桜の公園造設を主導した赤湯温泉の有力者、石岡氏の顕彰碑
酷暑に向かっていたあの頃、時は巡りてここ数日はどんより空が・・・・雲爺は沈んだ気持ちで白い小悪魔の到来を待っています。
公園の裏手から見てます
上は駐車場になっていて右に急な石段があります。この前ここに駐車しようとした車が下まで転落したとか。どこに危険が待っているかわかりません。
ここの駐車場はもともと市立のプールがあったところでした。気が付けば赤湯の町もどんどん姿を変えております。当然ですが雲爺のご面相も若い頃とはえらく違っておるわけです。
記事解説は
【南陽市ホームページ、烏帽子山千本桜保存会、JTBの美しき全国観光資源台帳】を利用させていただきました。
11月25日
県南囲碁会事務局 平吹
山形県・県南囲碁リーグ戦
秋の遺跡巡り研修①多賀城、郡山
2024.11.13(15:39)
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我が家の庭石に初めて蔦なんでしょうな、いつの間にかまとわりつきました。石から栄養を吸い取るわけでなく単に吸盤でふっ付いて伸びて行くのです。ご苦労にもここまで侵食なさって来た蔦君とやら、あんたの生きざまをとくと観察してあげるでのう。
1年ぶりに巡ってきましたよ、秋の研修旅行
高畠町にある「山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館」の恒例秋の研修旅行です。
今回は10月20日(日)宮城県の多賀城跡と七ヶ浜を巡ります。25名のバス旅行です。
仙台市の郡山遺跡です。ここは訪れませんでしたが東北の一大古代城柵、国府である多賀城が置かれる前に作られた官衙(役所)跡ですからここからスタートします。場所は仙台市太白区。古代律令国家が東北地方を支配する上で大きな障害となっているのが辺境の蝦夷でした。その蝦夷攻略のために最初に軍事基地城柵・官衙が置かれました。
【画像はグーグルアースから】
仙台市南部を流れる名取川と広瀬川の合流付近でJR東北線・長町駅の東側に広がる住宅街の中に郡山遺跡はあります。敵に対する防御のため近くに川があるところに立地されています。今ではこのように住宅地になっていますが、1300年以上前のことですから土中に長らく隠れておったわけです。それが発掘で出て来た。しかし不思議ですよね、百年、千年単位で年月が経過すれば土の下にお隠れするというそのことが、その過程をぜひ見てみたいもんですな。埋もれるという自然現象も神様の仕業だと考えればおもろいことです。
時期的には大化の改新以降であり7世紀半ばから8世紀初めのほぼ飛鳥時代の事です。官衙は最初は北東の向きに、その後は北向きに作り変えられました。
【画像は東北歴史博物館ホームページ、記事はウィキペディアより参照】
陸奥の国の一郡として最初に置かれたとされる高畠町小郡山の郡衙(郡役所)の位置
雲爺は今回の研修で郡山遺跡を目にしたことで今まで点でしかなかった一つの認識が線になり大きな喜びを覚えました。
どういうことかお話します。
奈良時代が始まって間もない712年に今の山形県域も国の行政組織の中に組み入れられました。内陸部の置賜郡や最上郡(今の山形市付近)はそれ以前は陸奥国に属していましたが、間もなく庄内地方を中心とした出羽国に編入されました。それではいわゆる飛鳥時代はどうなのかというに、それは陸奥国の一郡だったのです。優嗜曇(ウキタム)郡と呼ばれていて、今の高畠町の小郡山(元は古郡山)に郡役所、いわゆる郡衙が置かれたと戦前の学者が唱えました。陸奥国の郡山と同じ名称で小さい郡山ですからうなずけます。証拠の一部として示されたお濠が現在もご覧のように残っているようですのでこの位置にあったのだろうと雲爺も考えたいです。発掘したら何か出てきそうで期待しているんですがねえ。この郡山と小郡山とが線でつながっていたのがこれで初めて分りました。ちなみに郡とは役所を意味します。宮城県の桑折も同じこおりと読みます。
【記事の一部はうきたむ風土記の丘考古資料館資料から参照】
上方に多賀城と下方に城下町が築造されました
多賀城は多賀城市にあった日本の古代城柵。国の特別史跡。神亀元年(724)大野東人(おおのあずまひと)が創建し奈良・平安時代の陸奥の国の国府となり政治・文化・軍事の中心として栄えました。
【画像はグーグルアースから】
多賀城の入口 【画像はグーグルアースから】
現在は外郭南門や正面山道などを整備しています。
多賀城碑 2024年6月に国宝指定
多賀城の入口に多賀城の成り立ちを物語る大変重要な石碑があります。
724年の大野東人による多賀城創建と、藤原朝狩(恵美朝獦)が蝦夷平定を成し遂げた自身を顕彰し、762年の多賀城改修の記念に建造されたと考えられています。
内容は都(平城京)、蝦夷国、常陸国、下野国、靺鞨国から多賀城までの行程を記す前段部分と、創建と改修をした後段部分になっています。
【記事はウィキペディアより】
多賀城政庁から南門・南北大路に至る区域で南門と築地塀の復元工事を進めています
多賀城が設置されたとされる年から数えて今年令和6年創建1300年の年を迎えました。
多賀城跡の立体復元工事は平成2年の計画着工から復元工事が始まった令和元年まで、実に30年の歳月を経て実現しました。いろいろあったんでしょう、良かったですね。多賀城は名前でしか知らない方多いでしょうから。初めて立体復元される多賀城南門と築地塀は古代の工法で復元されました。歴史的建造物に触れることにより多賀城の歴史の理解と重要性を再認識出来ます。
一般公開は来年4月です。皆さんぜひ足を運んでください。今後はどこまで復元整備されるのでしょうね。とにかくリニアモーターカーと同じで生前の雲爺が目に出来なくても構いません。とにかく全体が復元されることを願ってやみません。
【記事は多賀城創建記念パンフレットより】
南門と築地塀遠望
庄内の城輪柵を春に初めて見学しましたが、当然ながら多賀城は格段上です。古代がこんなに華やかになったのですから、仙台の青葉城の方ももっと復元してもらいたいです。伊達政宗が悔しがってますよ。
政庁の南門から多賀城の外郭南門を通り城下町に通じていた南北大路
政庁跡のようです
政庁跡のようです
最も華やかだった第Ⅱ期政庁模型
多賀城のほぼ中央には政庁が置かれました。100m四方を築地で囲み、中央北側に正殿、手前両側に脇殿が配置され、建物で囲まれた空間は広場を形成しています。ここでは重要な政務の決済や儀式が行われました。
当初の多賀城は軍事機能も擁しておりその施設が向こうのものと説明されていたんだったかなあ、忘れました。
役人の休憩室だったかなあ
上が多賀城で南に南北大路が伸びて城下町に達し東西大路と交差しています
大路を軸として碁盤目に小路が切られました。右の建物は多賀城廃寺。大路に面した立地の良いところには国司を始め高級官人の邸宅があり、小路には多賀城で仕事をする人々の住居などが配置されました。街中ではいろいろな遺物が発掘されています。
国司屋敷
東北歴史博物館
博物館食堂で昼食
平城京復元
794年に桓武天皇が平安京に都を移し奈良時代から平安時代に変わります。この頃には日本は国力が付いており、続日本記には天皇の威厳と徳が渤海の北、蝦夷まで及んでいると記しており、中国古来の中華思想が早くも日本でも生まれているとの解釈があります。渤海国は今の中国東北部、いわゆる満州、日本海沿海部あたりまでを意味します。渤海は唐、新羅に滅ぼされた高句麗の遺民によって建国されたのですが、渤海と交流を持つ日本ではすでに渤海を属国視しており日本の勢力圏とみなしていたきらいがあります。極東アジアには渤海と日本を核としその外側には突厥、契丹、室韋、黒水靺鞨などの外国夷狄民族が取り巻き、国内においては陸奥国の東には蝦夷という夷狄民族がいるという図式で当時は見ていました。まさに中華思想の日本版と言えるでしょうか。白村江の海戦のように日本は外国に攻め入る力をすでに持っていたわけですから、豊臣秀吉が朝鮮出兵したのもうなずけます。
この辺は学校では教わることはありませんよね、新発見 !
【画像はウィキペディア、記事は東北歴史博物館の資料参照】
発掘された遺物
呪いの人形、人面墨書土器、土馬、大型人形
習字練習が書かれた高杯木簡
下級の役人の仕事は文書を作成することでした。文字を書けなければならなかったので文字の習得・修練に努めました。
昭和48年に多賀城から日本で初めて漆紙文書が発掘されました。当時漆の入った壺は書き終わり不要になった紙で蓋をしていたようでした。そこで漆に触れた紙の部分は腐ることなく土の中で長年保たれていたのです。変色していますが文字は赤外線かなんかで読み取ることが出来るんだそうです。現在では木簡と並んで貴重な資料になっています。それにしても漆ってすごいものなんですね。何が幸いするかわかりません。
各種硯
製鉄炉の出土品
直刀、手刀
鬼瓦
人面土器
多賀城廃寺
廃寺とは年月が古く名称が分らなくなっているお寺の事でここは多賀城の鎮守寺でした。観世音寺らしいようです。赤湯の薬師寺の脇にも観音寺というのが昔あったようです。観音寺系?
雲爺の養父は教師になった頃は羽前中山村の西福寺なる古刹に下宿していました。2年前にその場所を探したらずいぶん前に廃寺になっていたことを知りました。思わずじ~んと来ましたね。人間の歴史というものがこのような建物を介して蘇ってきます。所詮人間って誰でもが寂しい存在なんですよ。各々が各々だけの歴史を抱えながらみんな旅立ってゆきます。そして蘇ることはないでしょう。無限の無があるのです。宇宙と対極の無、それでいいのです。葉っぱになって蘇らなくても。でも、でも、こうして雲爺は実在しているんだよな、もしかして、やっぱり何かから雲爺も蘇っていたのかなあ・・・
石段
礎石
毎度おなじみの「行きはよいよい帰りは怖い」こわい、疲れる、居眠り
パーキングエリア 少し元気を取り戻して・・・・
11月14日
県南囲碁会事務局 平吹
山形県・県南囲碁リーグ戦
リーグ戦はどうなる☆戦国時代突入か、はたまた徳川安定時代に入るのか・・・
2024.11.05(15:47)
362
11月のリーグ戦南陽大会はただでは済まなくなりそな予感してました
空身で街中歩いちゃだめよお兄さん、熊鈴持ちなはれ🐻
ほら熊男、いや、リーグ戦きっての優男三人衆の顔見世興行でございます
なんでやねん、いつも定位置にお立ちになる方がおまへんねん、なんでやろ。
ま、まずは入賞者をご紹介します。11月の南陽大会は
Aリーグ
優勝 佐藤雅喜九段 山形市 中
準優勝 滝田真人八段 福島市 右
三位 橋本浩九段 南陽市 左
Bリーグ
優勝 斯波義裕六段 山形市 左
準優勝 小松田敏郎六段 長井市
三位 加藤泰浩七段 高畠町 右
Cリーグ
優勝 仲田政弘初段 川西町 中
準優勝 結城経治五段 高畠町 左
三位 高山正宏三段 白鷹町 右
高齢社会のリーグ戦にかわいいおちびさん棋士3名が参入しました。
山形市の囲碁教室で学ぶ子供さんです。太田栞菜、帆香ちゃん姉妹と遠藤瑠以君です。
姉妹は太田尚吾九段のお子さんで瑠以君は帆香ちゃんの同級生です。碁とは別なところで子供の世界が進行中です。
仲良しなんだねえ。おじさま方にもこんな時代がありました。
11月4日、南陽大会はいつもの えくぼプラザ
今日はいい天気になりました。参加者のみなさんにはいつも好天あれと祈っています。
南陽囲碁会会長、橋本のご挨拶
11月大会は過去には南陽菊まつり県南大会として行っておりましたが、数年前から菊まつり県南囲碁リーグ戦に編入して新たなスタートを切りました。今回は太田尚吾さん親子が参加される月であり子供さんも3名参加されました。県外並びに県内遠方からも参加いただき44名の大会となりました。試合は3リーグ編成です。
開始
Aリーグ初戦で当たった 太田尚吾九段 対 佐藤雅喜九段戦
太田九段は初戦で星を落としました。佐藤氏には過去に1敗しており2連敗です。そして今回は1勝4敗と初めて大きく負け越しました。太田九段は通算では4戦で16勝4敗、勝率8割と圧倒的な成績を残しています。初戦以来どこまでポイントが伸びるものか試したいと本人は言っており、周囲も大変興味深く見守っていたものでした。でも実際本人は毎試合全敗覚悟で臨んでいたようでプレッシャーは大きかったことでしょう。6月には東北六県大会に目標を置き結果として山形県準優勝、個人大将戦優勝と大きな仕事を成し遂げました。そしてそれからは勝ち進めばおのずと増してゆくリーグ戦の厳然たる壁が待ち受けます。ここからが真の勝負師だべした。帝王の名に恥じぬよう新たな高峰を目指していただきましょう。
「リーグ戦はただでは済まなくなってきた」と冒頭に書いたのはこういう背景があるからでした。帝王太田尚吾氏に初めて揺さぶりがかかり、ナンバー2の常勝大老・狩野氏にも初の負け越しという変化が生まれました。
今後Aリーグはどのような展開になるでしょう。大きな秩序が一度揺らいだのは間違いありません。今後も帝王太田、狩野の天下が乱れて血で血を洗う下剋上戦国時代に突入するのか、はたまた二強多弱の一見安定平和に見える閉塞徳川時代に生きてゆくのか、あなたならどちらを選びますか・・・・🙈
Aリーグ 滝田八段 対 橋本九段
前回のリベンジを期す滝田氏が惜しくも試合巧者橋本氏の軍門に下りました。でも両者は4勝1敗と気分を戻し親子で傷をなめ合うことになりました。若さみなぎる滝田氏はもう前進前進あるのみで楽しい人生が待っているわあね。初乗り車で高速をルンルン気分で運転してきただろうしなあ。方やただでは起きない橋本爺さんは病身を克服したちまち入賞を果たしおりました。ついこの前まで碁石持つ気分になれんと世捨て人みたいになっておました御仁ですよ。一転して若けえ者に世の厳しさ見せたると変身しおるんだからわからんばい。座右の銘、「楽しくなければ人生でない」を地で行く方なんじゃよ。
Aリーグ 手ごたえよし、いい感じの滝田八段が優勝者佐藤九段を破る
Aリーグ 小野九段 対 梅津八段
県南で黒子に徹する?梅津氏 そんなに遠くから見てないで橋本、船山の二大弾頭に加わってくれれば県南B1爆撃群が実現するだあね。☢ そして隣の悪たれ国やっつけてほしい、今日も多弾砲らしきものびゃんびゃん日本海に飛ばしおったぞ。日本人よ、頭隠して尻隠さずに国政ばかりに逃げとったら手遅れになるの分らんか。中国はこの前は日本の妨害に会い領空侵犯した、と見え透いた嘘をつきおったわね(怒り通り越して笑いも出ない)
Aリーグ 小松田九段 対 佐藤七段
南陽の佐藤七段は狩野、小松田九段を倒したのは立派な銀星。こうなったらもう一皮むいて八段に昇段せにゃならんのに、大会参加が少なくてみすみすチャンスを逃しているわけ。遊び人、雲爺と違って彼は仕事一筋人間じゃけんのう。
Aリーグ 太田(重)九段 対 大滝八段
悩める太田九段、努力の太田九段、たまには肩の力抜いてあっけらかんで気を落ち着けるのもいいんでない。帝王は自然体で来られるのが一番おっかないって言っとるで。
Aリーグ 島津七段 対 太田(重)九段
島津さん七段に昇段してから大会に参加されていません。欲得を離れ泰然自若の暮らしをされておったんでしょうか。6月に全勝で昇段されてからはお坊さん道にでも入られてたんでしょうか。今回は運悪く前回の逆の結果となりました。こりゃ太田氏と対照的ですわね。
Aリーグ 狩野九段 対 太田(尚)九段
いや~、狩野氏、太田氏からのご勝利おめでとうございます。ナンバーワン、ツーの対決をようやく制しました。前日まで地元岩手で連戦をこなしてこられたとの由、体があったかかったんでしょうな。ようございました。大谷君の公開応援にはお顔見えなかったですね。なんたって奥州市、奥州市なんだからすごいこっちゃです。
Aリーグ 狩野九段 対 小松田九段
小松田さんへ。小松田さんは狩野さんがおられるからリーグ戦に来ていただけたんです。狩野さんは新潟の方と接触があり、小松田情報を得て、それを雲爺に振ってこられました。村上に小松田氏がおられることを教えてくれたのです。村上は以前雲爺のエリア拡張プランに入ってました。そして当時はその開拓を進め、実際坂町の方にプッシュしました。でもその後状況が良くなく村上撤退を決めました。その時坂町を通り越して村上本陣まで攻め込んでいたら早くから展望が開けていましたね。なんせ長谷川さんや庄司さんという積極的かつ協力的な方がおられましたから。今回は狩野大明神に感謝です。だのに小松田さん、勝ち星献上とは参りませなんだ。
太田、遠藤ファミリーおそろいでお昼ご飯です。ようござってくださいました。
以前福島市の宮腰さんが教室の生徒さんを一緒に連れてきてくださいました。その時はやはり小学三年生ぐらいの山上君がおり、彼はたちどころに優勝してしまいました。今は高校生ぐらいになっているのかなあ。大変な強者になっておるとのことで、今度来てもらおうかな。
こちら桃色異色の事務局ファミリー
野郎世界の囲碁界で女性スタッフが仕切るなんてどっかあります?
うちの事務局長の周りには知らんうちにガールが取り巻くんですよ。これ有弘事務局長だからなせる技なんです。色道でも幽玄の間でもない誰もがまねできない摩訶不思議な世界でございます。
一息入れましょう、赤湯のメインストリート
Bリーグ 庄司五段 対 優勝の斯波六段
庄司五段は4連勝と全勝目前も5戦目で斯波さんに敗れ斯波さんの逆転優勝となりました。
斯波さんは初優勝なんです。えっ、そんなことあるっ、と驚きました。今までの入賞は2、3位が多かったようでした。
Bリーグ 斯波六段 対 太田四段
山形駅の霞城セントラルビルの囲碁教室では斯波さんも講師をされておるようです。太田さん、師匠の顔を立てる心得も持ち合わせておるみたいな。
Bリーグ 石上七段 対 小松田六段
Bリーグ 加藤七段 対 庄司五段
拝見してました。加藤さん優勢局面で、庄司さんの深慮遠謀な仕掛けが決まったみたいでした。昨日のNHKトーナメントでは井山九段の構想が見事で一瞬にして相手の大石を取ってしまいました。井山が一力棋聖に挑戦決定しました。一力は絶好調ですが、「もう長老と言われかねなくなっております」なんて述べていた井山の方に同じ長老っぽくなってきた雲爺としては頑張ってもらいたい。
Bリーグ 松永六段 対 佐藤七段
佐藤七段から大会前日に試合後は車中泊されるとのメールが入りました。そんなら赤湯町中でいっぱい飲みましょかと返しました。でも下戸の佐藤さんは断られました。いろんな角度から車中泊を研究されておられるんだとのこと。なるほど、研究とはいろんな分野があるものと感心しました。雲爺はテレビで外国人学者が日本のスナックを人類文化の観点で研究対象にしているのを見ました。それで学者は結局奥が深くて結論が出ないと言ってました。そりゃそうじゃろ、日本人というものは論理先行の世界人ごときには到底理解できない幽玄の間があることが。自然に根差した日本の神文化はまさに幽玄の間なのだ。空と砂漠の一神教などにゃ所詮わかりゃんわい。
翌日佐藤さんは長井の古代の丘、環状列石を見て来たとのこと。そうよ、雲爺も見たいと思っていたけどいつしか忘れていた所なのでした。佐藤氏の囲碁研究も奥深いです。
Bリーグ 石上七段 対 高橋六段
Bリーグ 江川七段 対 太田四段
この試合に太田四段の充実ぶりを見たような気がしました。ベテランの江川氏に臆することなく最後まで着実に打ち貫いていたと思います。江川さんも感じておられたのではないでしょうか。太田さん、試合に出るたびに力をつけているのは間違いないです。
Bリーグ 小松四段 対 武藤七段
Bリーグ 佐藤六段 対 江川七段
Bリーグ 斎藤六段 対 太田四段
INTERMISSION
休憩
おびただしい石を置いて 地雷ごっこは楽しい
Cリーグ 本田五段 対 仲田初段
仲田さん全勝で優勝。通算7度目。
しかしこの碁は実に面白かったというか恐ろしやというか。
仲田氏の大石が詰碁を誤って頓死しました。その大石に付随した本田さんの大地がさらに広がっているのを見て、こりゃダメだとその場を去りました。でもその後戻ってみると仲田氏には中央から上辺にかけてさらに上回る大地が出来ていました。恐れずに突き進む仲田氏の戦闘意欲に脱帽です。
Cリーグ 柳澤五段 対 遠藤瑠以初段
遠藤くんは着手が早く読みと決断に優れています。着手が早いのは頭脳の回転が速いことで勝負には欠かせない要素と思います。鈍頭で長考派の雲爺とは違いますからね。状況把握力があり非勢を察知しては後の処置も的確でした。これから必要とするものはやはり実戦経験を積むことでしょう。
それにしてもリーグを減らすと五段が初段とやることになるんだよね。上から下まで反発し合いながらも混在してゆく民主主義国家の生きようみたいです。
Cリーグ 太田帆香1級 対 結城五段
帆香ちゃん泣いちゃだめよ
子供さんが鍛えねばならない心得として逃せないのが、相手のお面、お顔の怖さに負けないこと。相手はおじいさん。おじいさんはとうに人間を卒業しておりますから、そこは心で泣いてもぐっと我慢して戦闘意欲を失わないことです。雲爺だってもう例に漏れませんからこれを武器にしないよう留意します。
Cリーグ 高山三段 対 工藤三段
高山さん待ちに待った4勝、久方ぶりに勝ち得ましたね。高山氏が何よりも欲しかったのはあと1勝、この1勝がいかに遠いものであったことか。親愛なるぽかじいが久しぶりに入賞して雲爺ことのほかうれしいです。ぽか爺の打ち方はとても厳しいけど、心は優しすぎる稀有な方なんだよね。雲爺なんかあと1勝もぎ取るのに命さえ削って行く方だからね。
Cリーグ 横澤三段 対 樟山四段
Cリーグ 横山五段 対 結城五段
Cリーグ 広瀬五段 対 渋谷六段
Cリーグ 金子二段 対 平吹3級
平吹さん前回まで好成績でしたが今回は運もあったんでしょう、思うような結果にならなかったようです。
Cリーグ 横澤三段 対 片平3級
片平さん前回までの戦績を勘案して点数を通常以上にアップして臨みましたが、運もあったんでしょう、思うような結果が出ませんでした。
Aリーグ最後の取り組みに周囲が見入っています
えくぼプラザに夜が来て恒例のイルミネーションのライトアップが始まりました。
◎12月大会は12月1日(日)白鷹大会です。
11月6日
県南囲碁会事務局 平吹