郷土の歴史を見て知ろう、我らもそろそろ歳だから・・・・・・
2020.07.29(23:17)
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昨日の山形県は大雨洪水注意報が出たので雲爺は緊張を覚えた。車の水しぶきが跳ね上がっている。家の前のこの道路が川になった6年前の悪夢が蘇ったのである。そこで車を近くの公園の駐車場に退避しようと思いついた。しかし行ってみると考えることは皆同じだからもうすっかり埋まっていた。なにかほっとした気持ちになりながら帰ってくると不思議なことに雨が止んで来た。ええい、こうなったら度胸を据えてやりかけのブログ作業を続けたれ。
新聞に木星の衛星ガニメデで直径に匹敵するクレーターが発見されたとある。見てほしい、円形脱毛症をはるかに凌ぐその巨大さを。40億年以上前に(地球誕生は約46億年前)直径300キロの氷の小惑星が衝突した。よくこれでガニメデは砕け散らなかったもんだよなあ。ガニメデは地球よりも大きい。こうして暗黒の宇宙に今なおうん十億年も漂い続けているのだから並みの怪談より怖い。誰が付けたのか知らんが名前もおっかないよなあ。
そんなことを新聞で読んで雲爺は今我が家の庭石を見つめている。石にはいつのころからか知らねども斜めに大きな亀裂が入っている。石は固いがもろさも同居するから何年も熱と水分にさらされて亀裂が走ったのだろう。こうしてみるとガニメデの40億年前には到底及ばないにしても、この石だって相当な寿命を持っているに違いない。そう思っただけでもう気が遠くなっている。
ところでガニメデや庭石に比べれば人の歴史はたかだか百万年程度のものだが、有機体の代表であるこの人間が唯一宇宙を見抜く目を持って存在するのだから実質宇宙の王者である。こんな人間が短期間で高度な歴史を築いて今日に至っている。
ところでコロナのおかげで現在県南囲碁リーグ戦はお休みとなっていますが、リーグ戦の会員の皆様には雲爺も含めてもうお年を召された方が多いわけですから、この機会にじっくりとご自分の歴史を振り返ってみてはいかがでしょう。人の一生というものはガニメデにははるかに及びませんが、自分だけの大切な宇宙空間です。人生は過去の積み重ねです。将来を見つめても結局は過去の蓄積に帰します。良くも悪くも過去が多ければ豊かな人生と言えるのではないでしょうか。ここに2011年に出版された「置賜の昭和」という郷土の写真集があります。先人がその時代の道を作ってくれた事を紹介しています。我々にはなにがしかの糧になり得ると思います。これから数カットをご紹介しますので懐かしさとともにご覧ください。たまには碁石の手を休ませてあげるのもよろしいかと。
◎置賜の昭和の発行者、いき出版様よりブログ転載の許可をいただきました。
米沢と越後を結んだ越後米沢街道は別名十三峠と呼ばれた。その中でも宇津峠は山形県側の難所であった。(昭和30年代)
雲爺は昭和40年に新潟県の長岡市までサイクリングに行き、このくねくね道路を登った。並行してトンネル工事も行われていた。この先の小国方面もまがりの多い国道が続いた。
昭和初期の小国大橋周辺。右の越後屋旅館は昭和42年の羽越災害で半壊状態になった。
フラワー長井線の北の終点荒砥駅は白鷹町の中心に位置し、最上川のすぐ近くにある。この荒砥駅から最上川沿いに北上し、左沢駅と結ぶ「内陸循環鉄道、左沢線」の計画があったが実現に至らなかった。(白鷹町・昭和47年)
昭和初期の鮎貝内町通り(白鷹町)。
天正15年(1587年)鮎貝宗信は伊達正宗と戦って落城。城下町は焼かれ住民は逃げ去った。伊達が岩出山に入封され、蒲生氏郷の統治となる。鮎貝城には高井権右衛門が入城し、まず、荒廃した町の整備に着手した。住民を呼び寄せるために、城と粡町の間に町を一つ造り、内町と名付けた。
昭和初期、現在の赤湯花見町の堤はアヤメ公園として、すでに観光名所になっていた。左奥の建物は「花見館」という茶屋で、堤になかばはみ出して客座敷があったという。周りに家が無かったこの頃は中奥に羽黒の丘が見通せた。(南陽市・大正10年頃)
長井駅前でマリつきをする少女。作業員や出前などが往来し町の活気が感じられる。(昭和30年代)
宮内菊まつりの会場入り口。菊まつりに合わせて商工会の大売り出しが開催された。当時の人気歌手「三波春夫ショウご招待」と書かれた看板の文字が目を引いた。会場は中央通路の上に鑑賞者の便宜を図って渡り廊下も設置されていた。写真の左右には赤ん坊を背負ったねんねこ姿が見えるが、当時のこの地方では、よく目にする初冬の服装だった。(南陽市・昭和35年)
白鷹山系は地味が肥え、杉の生育に適しており、1本の杉から電柱2本取ることが出来た。生育が良いばかりでなく、木質の中心部に赤味が多いために栗材より堅牢で、「荒砥の電柱は日本一」と賞賛された。栗や松は鉄道の枕木として出荷された。(白鷹町・昭和20年)
ところでこれは実に見事な写真じゃのう。数あるカットの中で雲爺はトップに挙げたいと思うな。もしかして白鷹囲碁愛好会のぽか爺さん家の木材コンツェルンにこのお兄さんがおったんと違うか。それにしてもカッコイイお兄さんじゃよなあ。いいお嫁さん来ただろうなあ。・・・・・・この辺ぽか爺のコメント求む。
地図を見ると古来より山奥まで多くの山道が作られてきたのが分かるわなあ。灌漑用水路にしたって同じこと。先人たちは頭と体を使って立派に日本の国を作り上げてきたのだ。雲爺なぞはもう雲の上で首を垂れるばかりじゃ。その雲爺ですら昭和36年の春先に山で切り出した樹木の降ろし作業を手伝ったもんじゃよ。
長井町から日の出町の地蔵峠手前を右折すると、氷を切り出す沼があった。厳冬期、氷が張ると、岸の氷を切り離し沼に浮かせて氷を厚くした。氷を切り出す係、橇で運ぶ係など多くの人数が必要だった。写真の金ボタンの制服制帽姿は衛生監督の警察官で、松林の10名ほどの人物は見物人だろう。(長井市・昭和元年頃)
長井市大町地内での一枚。市内の道路を整備する労働力を確保するために、国の施策である失業対策事業を取入れ、道路の側溝工事などを行った。工事用の建設機械などが不足していたため人力で工事が行われ、女性作業員が工事用道具を両手で持って運んだり、道路上でコンクリートの練り合わせなどの作業を行った。(長井市・昭和30年代)
白鷹の東高玉での水道工事の様子である。井戸または山から流れ水を家の中に引き込み「入り水」として生活用水、飲み水に使用していた。水の便が悪いところでは共同井戸のある水場からバケツに満たした水を天秤で運んだ。風呂の水汲みは10回以上も往復した。水道が普及することで主婦の労働が軽減された。(昭和35年頃)
佐田啓二と高峰秀子が出演した映画 「二人で歩いた幾春秋」 がある。佐田啓二が道路工事をするシーンで始まったように思う。重機の無いこの頃はすべて人力であるから、人間皆が主人公になり得た。良くも悪くも懐かしの時代昭和。
田植えをするには、苗を取らないと田植えが出来ない。苗取りは女性が主に行った。朝4時前から準備をして、ぬかるむ苗代に入って長時間体を動かさなければならい、きつい仕事だった。(川西町・昭和38年)
雲爺も中学校の頃代掻きのしゃせ子(牛をリードする)や苗運びをやりました。
川西町置賜農学校の農業実習風景。戦時中のこの頃は国民の食糧増産が最重要課題だった。未開拓の荒野を開拓する日々が続いた時代だった。(川西町・昭和18年)
不肖雲爺の生家は高畠の方にあって代々農家である。爺さんから兄貴まで三代共にこの農学校に通っている。爺さんや親父は寄宿舎に泊まり、兄貴は長い道を延々自転車をこぎながら通ったものでした。
川西の井目会の片倉幹事長は当校卒業のプロである。在学時代は相撲部に在籍しておった由。何やってもスポーツが下手な雲爺は相撲だけはジワーッと気持ちに来るものがあるわのう、農業は分からんが。
長井市大町通りの春先の一枚。除雪車などの除雪体制の無かった冬の道には雪が積もり、道路の雪は歩行者によって踏み固まり、氷の道路になってしまう。春先には近所の人たちがスコップやツルハシなどの道具を持って集まり、道路の雪割り作業を行う。この雪割り作業は雪国の風物詩になっていた。(長井市・昭和30年頃)
長井から荒砥までの区間に一つの橋もなく、「向い郷に嫁に行くと親の死に目に会えなくなる」と言われていた。昭和4年5月、広野と高玉を結んだ橋は、蚕桑と東根村の親睦を願い睦橋と命名された。その後の睦橋は最上川の増水との闘いであった。増水のたびに流失したり、破損したりの繰り返しであった。三八豪雪の増水で破損した箇所が仮補修された。(白鷹町・昭和40年)
このたび県内は記録的な大雨で洪水被害が出ました。このようなニュースの陰にコロナ禍は一瞬だけ隠れますが、こちらの第二波はいよいよ拡大しつつあります。嫌な世の中ですが心穏やかに美しい花が眺められる日が来ることを皆で願いましょう。
7月29日
県南囲碁会事務局 平吹
山形県・県南囲碁リーグ戦
巻かれて利口になれる法 ~ 8月南陽大会は中止
2020.07.14(18:48)
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梅雨の合間で日が差してはいるが、雲爺の心は決して晴れてはおらんな。
東京方面で恐れていたコロナの第二波が広がり、県内でも又新たな感染者が出たため、8月の南陽大会は中止とすることに致しました。6ケ月ぶりの再開ということで期待は大きかったのですが、残念ながら宣言からわずか半月で旗を降ろすことになりました。9月の上山大会も不確定要素があったりしていろいろ迷っているようです。しかしリーグ戦はもぐらたたきみたいなもんで、叩かれても叩かれても次から次と頭を出すしたたかなゲームですから、コロナごときに負けることはありません。
長紐には 巻かれてみるか 利口法
雲爺の椅子を占領して
ふて寝した つもりが爆睡 朝だった
猫川柳 辰巳出版より
日差しを受ける木の葉の裏側は暗い。目を凝らしてようく見てみるとそこにはやっと乳離れをしたような幼い柿の実が付いている。一方地面を見ると結構な数の仲間たちが落下している。運命を乗り越え自らを育くみながら健気に生きる姿に思わずジーンと来てしまう。リーグ戦も今は耐える時。
こちらはご存じ芋虫君。彼らだっていっぱしの庭の主役なのである。重い殻を背負いながら柿の木の幹を垂直に上り下り出来るのだからすごいよな。彼らはオーバーハングなんかいとも簡単に越えられるのだ。さらに蟻に至っては体の数倍もあるものを噛んで超高速で走り回っている。人間なんか装備したって岩をすいすい登れやしない。
生物はそれぞれに合った能力を神から授かっていると理解すべきだろうよ。
それでは雲爺の場合はどうかと振り返ってみりゃ・・・・
神から授かった棋力という能力とやらをいくばくでも伸ばすべく苦闘しているとして、それが一歩進んで二歩下がるものであるならばもう芋虫よりも劣る道理。
朝の来ない夜は無いとしても日本全国なんと不幸な日々が続いておることよのう。
それにしても中国の眠りムーミン、習近平様の悪行には困ったもんじゃ。雲爺にはもう手の施しようがないわ。監視なしには存在しえない大カビが生えたマルクス・レーニン主義、毛沢東主義の信奉度を益々昂うじさせておるとのことじゃが、哀れにも独裁者特有の怯えも同様に昂じることになるわのう。恐怖政治の末路はみじめぞよ。
希望に満ちた日本の到来を改めて待ち望みます。
我が家の花壇に桔梗が咲きました。女房の手によるものです。元来庭は親父の占有物みたいなものだったが、時は過ぎ子供から手が離れると自然彼女の手に渡ったというべきか。
桔梗の紫は花の色としては希少です。桔梗にはせきやたんを和らげる薬効があります。最近雲爺は龍角散を愛用するようになりましたが、こんなことからも後期高齢者の年齢が迫り来ていることを自覚させられます。
南陽大会の会場のキャンセル手続きに今行ってきました。
その足でスーパーに立ち寄りました。粒のあんこ系菓子が食いたかったので店に入ったら、山崎製パンの濡れどら焼きと月餅が並んでいました。爺は大福派ですが今日はこちらで勝負してみます。餡の兄弟である皮は麦ではなく米でなければならないのは承知の上です。結果はやはり75点といったところでした。元来今川焼やたい焼きに爺は手が伸びません。それにしてもだねえ、2月に東京に行った時は新橋駅のたい焼き屋に行列が出来ていてびっくりしたものじゃった。東京は人が多いからほんま人間劇場だわね。餡ものはミルクで一緒に味わうのが雲爺流よ。袋めんの焼きそばは炒めることが出来るからいいよな。UFO、バゴーンよりはうまいぜ。
この前我が家と娘息子グループとで近くの秋葉山にハイキングに行ってきました。都会で湘南海岸や箱根にラッシュしてコロナに罹る不幸を思えばここはまさに天国。
途中で霊峰 飯豊山を一望出来感無量
リーグ戦よ 永遠なれ
7月15日
県南囲碁会事務局 平吹