伊達政宗に仕えた置賜の名臣 ② 浜田景隆と一本柳浜田館
2022.09.23(19:25)
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伊達政宗 (ウィキペディアより)
置賜生まれの伊達政宗は同じ置賜の優れた家臣に支えられた。
岩より堅い主従の結びつき
前回に続いてご紹介するのは雲爺が生まれた高畠の地の名臣、浜田景隆です。
景隆は米沢本城の重要な出城として置賜郡の中心部に置かれた一本柳浜田館十五代当主。武将としてはもちろん、知恵伊豆とも言われた知将で後に宿老となります。景隆は大橋城の景康同様に政宗の信頼が厚く、強い主従関係のもと摺上原の戦い、人取り橋の戦いや中新田合戦、二本松合戦などで戦功をあげるも、後に陸奥国の葛西大崎一揆において戦死しました。38歳の若さでした。
高畠町の一本柳という田園集落に点線上の土塁を巡らし浜田館を築いた。この地は館ノ内と称された。
浜田氏は伊達氏が鎌倉初期に伊達郡に下向した際、これに同道した伊達氏の譜代と伝えられる。至徳2年(1385)伊達弾正少弼宗遠・大膳大夫政宗父子が置賜を制圧した後、一本柳に所領を宛がわれ一本柳館に居住する。
本丸館の長屋門(グーグルマップより)
後に建て替えた門だろうが今では取り壊されている。
取り壊された長屋門の奥には茅葺屋根の本丸館の家が佇む。
広い堂々とした茅葺屋根が当時の威厳を示しているようだ。館の門前は鍵形に曲がる道路になっている。景隆の後継者である景国が政宗の岩出山転封に同道した後は、館には浜田家の家臣、樋口四郎衛門が帰農して居住したとされる。この樋口家に雲爺と小学校で同級だった女の子がおったように今になって思っています。
明治期の学制の始まりはまだ寺子屋方式の教育だったようです。我が屋代村も3つか4つの学区が作られて、この一本柳界わいではこの浜田館がその学校になったらしい。雲爺の親族にとても優秀な女教師がおりここで教鞭をとったという。そしてその方の妹が雲爺のおばあさんだったのだが、この姉の教師に教わったとのことである。戦国時代から新生大和の国までえらい歴史がずしりと詰まっているのでした。
館の前の大手道
大手道の鍵形道
大手道脇の堀跡
本丸館にも劣らない近くの茅葺民家
囲炉裏の煙を抜く屋根の破風が見事。雲爺の実家も以前はこのような広い茅葺屋根でした。でも昭和40年代の日本の成長期の頃に建て替えられ、今や脳裏に面影を残すばかりになってます。村中でこのように茅葺が残っているのは希少です。
北口稲荷神社
中央から北に延びる道があり土塁の内側に土手跡が現存する。北御門のこの辺りは館屋敷の鬼門にあたり浜田氏の氏神として樋口稲荷が置かれた。
北側には同祖神川が流れている
村の外れに的場と言われていた屋敷がある。弓射的の訓練場だったのだろう。
的場と言われているこの家は雲爺が小学校に通う道筋にあって毎日この前を行き来していた。まとば、まとばと耳にしていたが意味など解らないし気になるわけがなかった。こんなもんなのだよなあ、人生って。口伝だの唱歌だの自然に覚えるものは心の財産となって知識よりも強くなるのです。補強された土蔵の窓、門の石柱が古を物語る。門柱はこの辺高畠独特の造りで石は特産の高畠石。
昭和45年6月に仙台藩の浜田家の子孫、善雄氏が一本柳を訪ねた時の写真。(置賜城館名鑑より)
善雄氏は前列左から2番目。その右に館ノ内出身の著名な童話作家、浜田広介氏、その右に同村出身の宍戸一郎氏。後列右寄りに白髪の方は雲爺が高校の時の教師、大井魁氏であろう。
県議会議長だった宍戸氏は雲爺の親族にあたり、我が家に来られると祖父といっしょに拙い碁を打っていたものでした。大井氏は高校時代は威厳を感じる方で伝統を重んじる立派な歴史研究家でした。昭和45年なんて雲爺が社会に出て間もない頃で、あのころは右も左もわからず何をしていたものか・・・ここにこんな生きた歴史の1ページが流れていたとはつゆ知らず・・・・・
浜田館の近くに浜田広介記念館と移設した生家がある
前述の浜田広介氏はここ館ノ内に生まれ日本を代表する童話作家となりました。代表作は「泣いた赤鬼」「椋鳥の夢」「竜の目の涙」などがあります。実家は広介が若い頃に破産し苦学しながら童話づくりに取り組みました。
館の近くの一本柳集落に稲荷神社がある
ここは雲爺が小学校に通った道筋にあります。お祭りが来るとこの境内には流行歌の楽団が来たものでした。もう押すな押すなの満員で岡晴夫、青木光一の歌など流れましたな。屋台では祖母から50円もらってそれなりにいっぱい買えたように覚えています。
ここは小、中、高校と足かけ12年通った道です。浜田館から近い粡町という所です。
たたずまいは変わっても一目見ればイメージは甦ります。何年たっても過去と言うものは今に続いているものだと改めてわかるのです。戦国時代の浜田館、浜田景隆もこのように雲爺式断片図となって甦って来ます。
出典はウィキペディア、グーグルマップ、ホームページ・置賜の城館名鑑 、ブログ・一本柳館ー置賜の城ー秋田の中世を歩く に基づきます
9月24日
県南囲碁会事務局 平吹
山形県・県南囲碁リーグ戦
伊達政宗に仕えた置賜の名臣① 湯目景康と大橋城
2022.09.21(15:56)
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伊達政宗(ウィキペディアより)
伊達氏17代最後の当主、伊達政宗は郷土置賜に生を受けた一大戦国武将、大名です。
雲爺は正直政宗のことはまるで知らなかったので調べてみました。
政宗は出羽国の治世において南東北一円を統治するまでの大大名に駆け上がりました。
これほどまでに活躍出来た裏には名家臣の存在があったのです。
その中の一人、湯目景康についてです。
湯目景康
湯目氏は陸奥国長井郡の国人。南北朝時代に伊達氏が長井郡を攻略するとその家臣になった。長井郡築茂城主・湯目重康の子として生まれる。天正5年(1577年)政宗が元服すると側近となり、人取橋の戦い、摺上原の戦い、葛西大崎一揆鎮圧戦などに従軍。政宗が岩出山転封されると栗原郡佐沼城主となる。
大橋城址・南陽市 の縄張り図 (置賜城館名鑑より)
南陽市赤湯の南端の地にある平城。至徳2年(1384年)長井大江氏を滅ぼして置賜郡を制圧した九代政宗(儀山)が置賜の軍事拠点として築き、赤湯の在地領主、湯野目氏を配した。北側には吉野川と屋代川が合流しており、大橋城は両川の氾濫原を巧みに利用した要害に取り立てて築かれたものと思われる。湯目景康が政宗の岩出山転封に同行した際に大橋城は破却されたようである。
南陽市大橋地区の畿内神社
天保年間の鳥居、石塔がどしりと並ぶ
大橋の畿内神社
太閤秀吉が甥の秀次を切腹に追いやった時、政宗にも反逆謀反の連座の罪が掛けられまさに存亡の危機に立たされた。この時片倉小十郎始め家臣ら十九名は謀反の冕を訴えんと決した。この中に湯目景康も連署した。景康と中島宗求は京都の北野天満宮に心願かけた後、一身を捨てる覚悟で伏見の津田の原で太閤を迎え奉り起請文を奉呈した。政宗が太閤への忠誠二心無きを誓い謀反の冕を訴えた。命を擲っての忠節の直訴に太閤は政宗を赦した。この功績に対し景康は政宗から津田姓に移ることを命ぜられるとともに多大な恩賞が与えられた。この時景康は年28才であった。この一世の壮挙も不朽の栄誉も唯に北野天満宮の神恩によるならんと深く感じ帰依信仰を厚くした。大橋の祖先たちは敬慕してやまない旧主、湯目氏の事跡を称揚し、大橋のむらやしろ鎮守神として天満宮を勧請されたものと言われている。
大橋城の本丸跡 縄張り図のA
国道13号線のすぐそばに位置しているが破却されて野原が広がる。
大手道 縄張り図⑥から伸びている
家のそばにおかみさんがいたので話をしたら、ここがお城だったとは全然知らなかったという。かみさん夫婦は定年を機に所沢市からここに移って来たそうだ。山形県は空気が良くて持病が治ったと喜んでいましたな。やっぱり山形はええとこなんだぞお。
縄張り図④、⑤
ここは国道からの側道だが当時は旧屋代川の河道だった。南側の大手虎口に面して天然の守りとなっていた。
縄張り図④、⑤
河道を境に左側が本丸、右側に御殿祉がある。御殿祉は接待、饗応に用いられた「御鷹の御殿」が置かれていたと思われる。
縄張り図⑦ 出丸があった場所
出丸とは城から離れた場所に作って、①周りの地形が邪魔になって見えにくい方向がある ②敵の不意打ちを防ぐ ③城から離れた場所で敵を疲れさせたい などの役割を持つ。
縄張り図では西側の堀跡は大橋村の旧道の脇を延びているが、現在は国道13号線の下に埋もれているのが解る。
縄張り図④、⑤の旧屋代川河道が国道を跨ぎ瑞光寺の南に延びていた。田圃と畑の段差が名残かもしれない。
東側の堀
道路も堀になっていた
縄張り図① 北西角の堀
国道下を延びて西側の堀が伸びていたが今は水路に整備されている。
出典はウィキペディア、ホムページ・置賜城館名鑑、ブログ・大橋城ー置賜の城 からになっています
9月21日
県南囲碁会事務局 平吹
山形県・県南囲碁リーグ戦
我慢、我慢の9月場所、中身の濃さが際立った
2022.09.06(23:40)
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セプテンバー ・・・・ なんやかやあった今年の夏も気が付けばもう秋の入り口に来ております。夏と秋の縫い目のない9月4日という日も今跨いで通り過ぎました。暑い秋の日の中で夏の槿は咲き続けています。
初めてのような気がするぞ、横綱クラスの勢ぞろい
そんでセプテンバーの南陽大会、やったぞバンザイだ。6、7、8、9月と4回開催連覇してやったわい、ざまあ見ろコロナ、豪雨ども。今回はほんと涙の大会でした。事務局の一番の願いは休場の無い開催連覇だったのです。こりゃ大谷君にも引けとらんわね。🏆🏆
Aリーグ
優勝 太田重人 八段 山形市 (中)
準優勝 橋本浩 九段 南陽市 (左)
三位 船山嘉実 九段 白鷹町 (右)
今回は戦国乱世の勢力が平定されてリーグ戦に安定感が戻って来ました。
力がものを言う碁の世界は九段が君臨し八段が睥睨する絶対的な権力構図であらねばなりません。今流行の権威主義は悪ですが、勝負の世界ではこの絶対性こそが宝なのです。そしてポイントに裏打ちされた段級位の権威はさらに高まってゆきます。
今回は最高実力者層から三賞が出て合格場所でした。さらに欲を言えば九段同士の優勝戦が見たいです。
Bリーグ
優勝 島津恵次 二段 高畠町 全勝 (左)
準優勝 石井隆一 六段 高畠町 (右)
三位 半田仁 一 三段 南陽市 (帰られた)
島津氏 昨年からのリーグ戦参加ですが、大会はコロナの関係で断続しました。そんな中にあって着実に成績を伸ばして見事三段位昇段を果たしました。六段2名、五段1名を撃破しての全勝は着実に力を付けられた証です。さらに上を目指されることでしょう。多趣味の島津氏、もはや将棋、カラオケを加えて三刀流の高段者であられます、こりゃあえらいこっちゃ。🏄 🎐
Cリーグ
優勝 工藤昌博 三段 上山市 全勝(中)
準優勝 塩川隆夫 初段 小国町 (左)
三位 仲田政弘 初段 川西町 (右)
工藤氏 先月に続いて二度目の参加で早くも優勝を獲得。上山囲碁クラブで腕を磨いておられる。
79回目の開催。
えくぼプラザは広く明るくてよそに自慢出来る会場です。
今回は参加者は28名。先月に続いて30名を割ってしまいましたが、おかげさまで3密対策はしっかりと出来ました。
事務のスタッフ
いつもお世話になっている浜田スタッフはお休みのため、佐藤事務局長がチーフです。
結果的に橋本九段対太田八段の決勝戦が一回戦で激突。名実ともにヘビー級の対決だから、一手一手がドスンドスンと見ている雲爺の脇腹にめり込んできましたな。
五十峯六段 対 島津二段
初対戦で島津氏は五十峯六段から勝利しました。3連勝での対戦でゆとりを持って臨めたのか打ち方は堅実で堂々五十峯巨匠を下しました。石井六段、本田五段も初対戦で撃破したのはお見事。三段昇段を決めた今大会は好調の波に乗ってます。
村上三段 対 工藤三段
工藤氏 島津二段と同様に全勝で勝ち切ったのは実力者の証。参加は二度目で今後の対戦にご注目。
リーグ戦史上今回が一番厳しい環境のもとに置かれた大会でした。参加者は28名で苦戦を強いられました。新型コロナ禍は第7次感染のピーク付近にあり、さらに8月初旬の豪雨災害で国道121号線が不通になりました。コロナはまだしも、喜多方市からの121号線がストップしたのは痛かったです。雲爺は早速代替え策としてスカイバレー経由を江川公一郎氏にお勧めしました。ありがたいことに江川氏は来県されました。
神は見てくださっているものです、今回は新潟県の胎内市から石上氏が見えられました。石上氏はコロナ禍のために3年ぶりの来県でした。お若いし力はあるし待望していた方です。🍇 💋
船山九段 江川七段
雲爺は今日は調整役なのでじっくり一戦を拝見させていただきました。
半ばまでは江川氏が巧みな読みを先行させ優勢でしたが、後半に入って出入りが発生し船山氏は接戦に持ち込みました。終盤で時間に迫られた江川氏に失着があり船山氏の勝利となりました。雲爺の頭には無い発想をシカと見せていただきました。しかし悲しいかな凡庸な雲爺の頭に高度な技を練り込むのはまさに至難ですばいちゃ。でももしかしてこんなことが可能であるならばおまんまなんか無くて構いません。
太田六段 対 石井六段
島津六段 対 石上五段
石上氏は遠く新潟県の胎内市からはるばる見えられました。途中豪雨災害を受けた国道113号線が片側通行が出来たのは不幸中の幸い。121号線といい113号線といい他県同士がつながる重要な交通路ですが、ここのところ毎年のようにやられるのには本当に泣けてきます。米坂線も不通だし3年前には113号線の白石峠もやられました。県南囲碁リーグ戦にとっては両国道は命の道路なのです。
森岡四段 対 半田三段
昼食
今回のメニューは前回に引き続き事情により「オデンおにぎり」一品のみ。
加藤七段 対 高橋六段
高山三段 対 本田五段
江川七段 対 北野五段
斯波六段 対 高橋六段
この一戦も拝見させてもらいました。大振り変わりがあった後、斯波氏の大石は生還かと思いきや、後で来てみたらあれれ、お亡くなりになっておりました。いや~高橋氏が攻めがお好きなのは改めて分かりましたな。こうしてみると残念ですがこの世は平和路線こそ最善なんて勝手に決め込むべきではありませんぞ。ウクライナも碁もです。
金子二段 と村上三段の両巨匠対決
早見えの村上氏、ハイマース並のミサイル戦法は如何に。
結城五段 対 荒五段
県南と伊達氏の荒法師同士の対決
どてらいコロナと豪雨をもたらして今年も夏は知らぬふりして去ろうとしています。
いつのまにか柿もひっそりと青い実を付けていました。
後は秋のリーグ戦!血戦!が手ぐすねを引いて待っております。
次回は10月2日 南陽市沖郷公民館(防災センター)です。
9月6日
県南囲碁会事務局 平吹