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群馬県北部研修旅行③  火山の威力と武具をつけた古代人の遺骨発掘編

2024.06.28(18:00) 339

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渋川市の黒井峯遺跡

正面の山は榛名山
天下の活火山、榛名山は沈黙を保って静かにたたずんでいますが、それにしても何と異様な姿をしているじゃありませんか。榛名山の噴火は50万年前から始まり約5万年前の火砕流で少なくとも5つの溶岩ドームを形成したが、いくつかが山体崩壊し東側山麓に扇状地形を形成しました。


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発掘されたところ

【記事はうきたむ風土記の丘考古資料館によります】
6世紀半ばに榛名山二ツ岳の爆発で噴出した大量の軽石によって、短時間のうちに埋没した古墳時代後期の集落跡です。軽石は薄いところで50~60cm,厚いところで2m,遺跡周辺は最も厚いところです。

昭和57年、軽石採集中、層の下より古墳・竪穴住居が埋没されていることが確認され注目を集めました。昭和58年から62年までに大規模な発掘調査が行われました。

火山災害によって壊滅したイタリア古代都市ポンペイに習い「日本のポンペイ」と言われ、国内では唯一無二の遺跡です。


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【画像は渋川市教育委員会のパンフレットより】

竪穴住居・平地住居・平地建物・庭状遺構・畑・道・柵列・祭祀跡などからなる古墳時代の集落が極めて良好な状態で検出されました。

本遺構の特徴は短時間に降り積もった厚い軽石に覆われたため、軽石層中に建物の壁・崩れかけた屋根・柴垣・網代などが建ったままの状態で保存され、建物の上部が復元できること、古墳時代後期の地表面が後世の攪乱を受けることなく残されたため、集落を構成する様々な遺構が具体的に、しかも同時性をもって検出されたことです。

集落は人為的に踏み固められた硬化面の広がり、柴垣に囲まれた範囲などによって、竪穴住居を中心にいくつかの単位に分けることが出来ます。この単位を構成する共通の遺構として、柴垣に囲まれた平地住居・平地建物・掘立柱建物・小区画に分けられた畠・祭祀跡などが存在していました。又碁盤目状に仕切られた畠が垣の内外に接して設けられていました。幅約80cmの幹線道と30cm前後の枝道によって有機的に結ばれ、集落全体が構成されていました。その他の遺構として斜面の湧水を利用した水場、そこから流れ出る水を利用した水田、集落内には樹木痕跡などが認められます。

以上のように黒井峯遺跡では古墳時代後期の集落の実態が従来考えられてきた以上に複雑化した様相を持っていたことが明らかとなり、これからの集落論や古墳時代社会構造の認識に新たな視点を与えた遺跡として貴重です。


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今日の泊りは伊香保温泉の伊香保グランドホテル 【画像はグーグルアースより】

ようやく1日目が終わりました。伊香保温泉は30年ほど前に古峯神社参拝旅行で来ています。なんやその時もここと似たホテルのような気がしましたね。
夕食はバイキング、明日の朝もバイキングとのこと。雲爺好きだからいいけど、こんなことしているといつ倒産するか知れないなどの話が食事で出ました。人手不足が深刻みたいですね。


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伊香保温泉の中心を通る有名な石段街   【画像はグーグルアースより】

古い映画ではロケの場所としてよく使われましたね。高峰秀子出演の名画「浮雲」は印象に残ります。昔はこんなに石段の幅は広くなかったように思うし新しくしましたね。当時の雰囲気無いですね。


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一夜明けて2日目は榛東村の耳飾り館です  

朝は心配していた雨模様です。ここは榛名山の麓で赤城山が眺められます。

縄文時代後晩期の集落(約3000年前)である茅野遺跡から多数の土性耳飾りが出土したことから展示しています。茅野遺跡から発見された縄文の耳飾りは時を超えて人々に大きな驚きと感動を与えました。


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人骨にサメの骨の耳飾りや腕輪が残っています



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ここは渋川市の群馬県埋蔵文化材調査センター、発掘情報館

【記事は日経新聞のウェブから】
2012年に渋川市の金井東遺跡で6世紀初めの火山灰の地層から鉄製の鎧をつけた成人男性の人骨1体が見つかりました。鎧は古墳の副葬品として出土することが多いが、実際に装着した状態で見つかるのは初めてです。鎧は胴体部分のみだったことから戦いの最中ではなく、同じ時期に噴火した榛名山の火砕流に巻き込まれたと思われる。古墳時代に被災した人骨が発見された例もなく当時の災害の様子を知るうえで一級史料と言える。

人骨は暑さ30センチの火山灰に覆われた溝で確認、ほぼ全身が残っていた。榛名山に向かい、両膝を付き、うつ伏せに崩れ落ちた格好だった。年齢はおおよそ40代前半の男性。そばには鉄製のやじり十数本や別の鎧もあり乳児の頭の骨も見つかった。溝の中で火山灰に密閉されていたため保存状態が良かったとみられる。



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見つかった地層の箇所



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中国・朝鮮半島からの渡来人とみられます。

6世紀になると首長クラスは実用的な鎧は付けなくなる。男性は首長の居館を警備する武人だったのではとの見方も。武具一式をつけていないことから任務としてではなく自分の家族が心配で見に行ったのかもしれない。同様に噴火で埋もれた古代都市ポンペイの遺跡では家族の方を向いて倒れた父親の様子がわかっている。男性も我が子を抱いて逃げる途中転んでしまったのかもしれないとの見方も。


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前橋市総社古墳群の蛇穴山古墳


皆様二日間の研修無事に終わりました。途中雨にも会いましたが和気あいあいの楽しい旅行になりました。主催の渋谷館長さんありがとうございました。


6月28日
県南囲碁会事務局 平吹


山形県・県南囲碁リーグ戦


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群馬県北部研修旅行② 三つの古墳群編

2024.06.28(10:41) 338

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昼食

最初から衝撃の岩宿遺跡で結構時間を費やしましたらもうお昼になりました。
メニューは海鮮丼と名物のソースカツ、冷たい上州うどんのセット。なかなかいける口でした。空っ風上州とはいえ首都圏ですから、東北と違ってどこかハイカラですのよね。この都会の空気を味わうのも楽しみの一つです。旅行気分になります 🚎

午後からは東日本ぴか一の古墳王国、群馬県の主たる古墳をめぐります。

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最初は伊勢崎市の赤堀歴史民俗資料館を訪ねます


一階展示室には旧石器時代から平安時代までの考古資料を展示しています。
これは赤堀茶臼山古墳から出土した各種の形象埴輪です。

【以下の記事は資料館によります】
古墳時代の群馬県域は「上毛野国・カミツケノクニ」と言われ東日本最大の古墳王国でした。県の調査では古墳が13000基以上あったとされ、有力な豪族が多く大きな勢力であったことを示しています。


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華やかな土器たち

群馬県では4世紀から太田地域と前橋・高崎地区の二大拠点に大きな前方後方墳や前方後円墳が造られ五世紀前半にはヤマト王権との関係の基、東日本の最大の前方後円墳である太田天神山古墳(太田市)を頂点に上毛野国の勢力は統合されます。


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円筒埴輪を主とする埴輪群

五世紀後半には各地域に複数の首長が出現し、保渡田古墳群に代表される前方後円墳の他、七世紀にはそれまでの巨大古墳は築造されなくなります。その後円墳を経て古墳は終わりを迎えました。


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馬形埴輪



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五世紀の中ごろから制作が始まった馬形埴輪は動物埴輪の中でも出土量が多く、他の地域に比べ関東地方が卓越しています。馬形埴輪は死者の霊を迎える乗り物の役割があったと考えられています。


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次は前橋市の大室古墳群に来ました

日本キャンパック大室公園内にある大室古墳群は緑の森に囲まれて左側下から順に、前二子古墳、中二子古墳、後二子古墳、小二子古墳で構成されます。



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前二子古墳の埋葬玄室

狭くて長い石室はまるで黄泉の国への入口のようです。築造時でしょうか、調査記録によれば全国から6000人の見学者があったとされています。



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中二子古墳(右)濠に沿って並ぶ埴輪列

壮観です、支配者の統治力と威厳がひしひしと感じられます。大室古墳群で最も大きく立派な古墳です。石室は見つかっていません。この古墳は墳丘に立ち入らず外から見学するようにしています。
ここは前二子古墳とともに2020年にJR東日本「大人の休日倶楽部」のテレビCMの撮影地として使われました。吉永小百合さんが歩いています。


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通じる道に柵があり立ち入ることが出来ません・・・・でもでも、どこからも入れそうじゃないかい・・・不思議な所だね ♌🌀


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後二子古墳   石室の入口があります


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高崎市にやってきました

赤城の連山が遠くに見えます。なんだこれ一体!この怪奇な山の姿。昔ものすごい噴火で山の上部がすっかり吹き飛んだとのこと。こりゃ磐梯山なんてものじゃないわね。もっと驚くことに飛ぶ前は5000メートル以上あったというからほんまかね、信じられんね。群馬県には榛名山、浅間山、赤城山、草津白根山、日光白根山と5つの活火山があるそうです。これらの一級火山は距離的に近いですから素晴らしいというか、恐ろしいというか。上州は空っ風だけでないわね、昔から。


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またまた向こうに絶壁みたいな山。これ昔から名だたる岩山の妙義山じゃないの。
昔雲爺の叔父きが山形県の高いところから見ると天気の良い時は妙義山が見えたと言ってたけど、ほんまかいのう。


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高崎市の保渡田古墳群の八幡塚古墳、向こうが二子山古墳

田園地帯に点在する3つの丘が保渡田古墳群で八幡塚古墳、二子山古墳、薬師塚古墳からなっています。いずれも五世紀末から6世紀前半台に築造され豪族が葬られました。墳丘長は約100メートルの前方後円墳です。広大な二重の濠を巡らし多量の埴輪を立て並べていました。



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八幡塚古墳

墳丘は玉石状の葺石が敷かれており初めて目にする異様というか衝撃的な古墳でした。葺石は崩壊を防ぐものでしょう。墳丘や敷地にはおびただしいほどの円筒埴輪が配置されています。敷地の四か所には祭祀を行う中島が置かれています。



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後円部の墳丘頂から前方部を見渡します。頂部から階段で中に降りると石室が見学できます。


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  古墳時代の田んぼの区画

古墳の近くにかみつけの里博物館があります。そこでは古墳時代の様子状況がわかります。

【以下の記事はかみつけの里博物館によります】
古墳時代には榛名山東南麓の低地という低地はほとんど水田化されていました。古代は深い森林が広がっていたと考えられる常識を発掘調査が覆したのです。五世紀の水田は畳二枚ほどの大きさに小区画されたミニ水田でした。この水田の実りがこの土地の王の経済を支えました。榛名山東南麓一帯は火山災害の状態が一瞬の出来事のように火山灰でパックされています。その堆積した火山灰をはがすと低地から五世紀の広大な水田跡が発見されました。




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水田の土から稲の種子が見つかりました。又稲の他にも作付けされていることもわかりました。溝の確認は田に水を引く水路と思われます。


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飾履と称する装飾を施した金属の靴  日本最古のもの

飾履は王などの貴人の遺体に履かせたり儀式で使用しました。青銅の薄板に金メッキをした金銅(こんどう)で作られ表面には亀甲形を連ねた文様を施し小さなたれ飾りやガラス玉を数多く取り付けます。飾履の源流は朝鮮半島で日本では19個しか出土していません。全形を留めるのは5、6個です。


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日本で初めて発見された豪族の館、三ッ寺Ⅰ遺跡 の木材遺跡




6月28日
県南囲碁会事務局  平吹


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日本史の1ページを塗り替えた男・相澤忠洋 / 群馬県北部研修旅行①岩宿遺跡編 

2024.06.27(20:18) 337

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戦前頃までは無いと言われていた旧石器時代の存在を初めて明かしたアマチュア考古研究者
相澤忠洋氏  画像は岩宿博物館より】


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その形はすすきの葉を切ったように鋭かった
画像は発見した旧石器時代の石器・岩宿博物館より】

昭和21年秋、(雲爺が生まれる1か月前)行商の納豆売りの帰り、丘陵地の切通しに差し掛かった。赤土の崖から小さな石片が顔を出していた。石片を拾い上げてみると手のひらの上でガラスのような透明な肌を見せて黒光りしていた。その形はすすきの葉を切ったように両側がカミソリの刀のように鋭かった。【相澤氏の手記】

場所は群馬県笠懸町岩宿、これはまさに日本の新たな黎明としての旧石器時代が生まれる瞬間だったのです。

彼には小さい頃に親が離婚し夜間の小学校しか出ていない不幸な生い立ちがありました。しかし縄文時代の始まりに対する強い思いは彼を生涯を貫く考古学研究への道に導きます。


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【画像は岩宿博物館より】


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アマチュアの彼は3年間の研究成果を携え明治大学の研究者の下を訪ねます。群馬県から東京までこの自転車で通い続けたそうですがすごいことですね、南陽市から新庄市ぐらいまでありますよ。昔の事とは言え信念岩をも貫くというやつでんな。
それにしてもこの自転車、昔雲爺の家にあった戦前の自転車に比べるとハイカラに見えるんだけど、やっぱり都会人が乗るから違うんだべずなえ(でしょうね)。


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事の重大さを直感した明治大学側では昭和24年7月に岩宿遺跡の学術調査をしました。
現群馬県みどり市の現場。森と森の間の向こう側で早速発掘調査が行われました。当時の写真には勿論相澤氏も写っています。
【画像は岩宿博物館より】



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下の層(古い)から出土した石器・上と、上の層(新しい)から出土した石器・下
【画像は岩宿博物館より】

太平洋戦争が終わる頃日本列島には一万年以上前の関東ローム層中の石器文化、すなわち旧石器時代に相当する縄文時代以前の文化は無いと考えられていました。しかし調査により関東ローム層の中から石器が出土し、日本列島にも旧石器時代が存在することがわかりました。石器の初めての発見は当初大学側とされたりしましたが結局相澤氏の功績になりました。
昔はアマチュア考古研究者の出る幕はないという保守的な風潮が強かったのでした。今時文化勲章ものですわね。
【記事はおおむね、うきたむ風土記の丘考古資料館より】


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6月22日・23日は県立うきたむ風土記の丘考古資料館の研修旅行です。
「群馬県北部をめぐる旅」に参加しました。総勢15名。




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安達太良パーキングエリア



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岩宿遺跡は群馬県みどり市にあります。
相澤氏が最初に石片を発見したところはドームになって守られています。


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岩宿博物館


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氷河期のマンモスのレプリカが待っていました



6月27日
県南囲碁会事務局  平吹



山形県・県南囲碁リーグ戦


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酒田の遺跡研修旅行・春編

2024.06.18(11:21) 336

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逆さ鳥海山

いいねえ、いいねえ
山中湖に映る逆さ富士に勝るとも劣らない逆さ鳥海

もう1か月も前になりますが田植えが始まる頃に酒田に行った時の写真です。
5月19日、山形県立「うきたむ風土記の丘考古資料館」研修事業で酒田地区の遺跡を見学しました。マイクロバスに乗って25名が参加しました。


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最初に着いたのが飽海郡松山にあった松山城の本丸跡

ここに江戸時代、庄内藩の支藩松山藩の藩庁が置かれました。最初は飽海郡中山村に松山陣屋を構えていましたが、天明元年(1781年)に新たな築城が始まり7年後に松山城が完成しました。戊辰戦争では宗家の鶴岡藩と行動を共にして奥羽列藩同盟に加わり敗れました。建物は取り壊され、現在は松山歴史公園となっています。
【以下記事は研修資料やウィキペディアを参照しています】


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大手門

松山城大手門は東北に残る最古の城郭建造物です。大手門と言われていますが三の丸の櫓門です。築後八年後に落雷で焼けます。でも酒田の本間家三代目、本間光丘の援助ですぐに再建されました。



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松山文化伝承館で保管、生石2遺跡の土器

生石2遺跡は弥生時代と平安時代の遺跡です。
県指定の土器は弥生時代前期のものとされ、3つの系統が混在しています。1つ目は東北北部の砂沢形土器で縄文文化の名残を色濃く残す。2つ目は西日本の影響を強く受けた遠賀川系土器。3つ目は両方の特徴が混じり合った折衷系土器。これら3つの系統は同一の時期に共存し縄文文化と弥生文化が巡り合い、戸惑いながらも一つになろうとしたことがうかがえます。これらの資料は東北の弥生時代の開始期に北九州の弥生文化の遠賀川形土器が日本海を北上して伝播するための基点となった形跡を示す第一級の資料と言われています。



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史跡 城輪柵(キノワサク)と鳥海山


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城輪柵の東門


今回の研修でここが一番見たかったところ、城輪柵です。

酒田の市街地から北東方向に八幡町城輪地区があります。今は広大な田園地帯ですがその一角に平安時代に作られたであろう出羽国府の復元施設が朱色の門構えで雲爺に迫ってきました。一辺が720メートル方形の総面積約52万平方メートルあります。昭和6年(1931年)に国の史跡に指定されました。


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ロ形の区画の内郭に政庁が置かれています。
下側の外郭から内郭の南正門へ向かい南大路が通じています。右手も東門に通じています。


【画像はグーグルマップより】

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発掘風景


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政庁の建物配置

中央に正殿、東西脇に両脇殿、後ろに後殿、後殿の両脇に脇殿が発見され、この周囲を一辺115メートルの築地塀が巡る政庁であることがわかりました。


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政庁の基礎柱址

城輪柵に来てみて中の感動と大の落胆を覚えました。落胆は築地塀と称される塀が外郭内郭共にめぐらされていなかったことと、朱色の門が四門あるのに二門しかなかったことです。建物が無いのは致し方ないとしても、せめて塀と門は当時を再現してほしいですね。往時の鮮やかな政庁としてのイメージが持てません。羅生門、地獄門みたいでは情けない、もったいないです。こんなところあったの、知らなかった、ぜひ行ってみたいという方いっぱいおられますよ。平安ブーム、インバウンドブームの中、山形県の新たな地方観光の目玉になり得ましょう。 国指定じゃろが、国は金出してやれよ、酒田も新たに目覚めんとな。😂 


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外郭東門の柱根

昭和30年に大量の建築材などが発見され遺跡であることが判明しました。



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建築部材、資材


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出土土器

文字が書かれた墨書土器もあります

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奈良時代に入り712年(和銅5年)山形県域も国の行政組織の中に組み入れられました。内陸部の置賜郡や最上郡(今の山形市付近)はそれ以前は陸奥の国に属していましたが、間もなく庄内地方を中心とした出羽の国に編入されました。そして8世紀中頃から今の山形・秋田両県を含む領域が出羽の国と言われました。それでは平安期からの出羽の国の国府と言われる城輪柵の以前にはどこに国府が置かれたのでしょうか。日本書紀に現れる「出羽柵」と同じ場所で庄内地方のどこかにあったらしいのですがわかっていません。鶴岡市南部や最上側河口付近などの説はあります。



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その後国府は天平5年(733)頃一挙に北進して秋田市高清水(秋田城)に移り、しばらく機能していましたが、北辺にえみしの動きが活発化したことなどにより、奈良時代の宝亀の頃に南に移すことが検討されました。その間「河辺府」をへて、815~819年の間に建置された「出羽郡井口」の地にある国府が城輪柵であろうと考えられています。

その後城輪柵は変転しますが、律令制が衰退する11~12世紀にはこの地も荒れて、国府政庁は近くの元楯の新田目城又は以前から懸案である内陸部の山形市近くに移ったらしいとされています。城輪柵は墓地に変わったようでした。


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堂ノ前遺跡        【画像はグーグルマップより】


城輪柵の近くの田んぼの中に堂の前遺跡があります。
昭和30年に大量の建築材が発見されて遺跡であることが判明しました。
2010年に堂ノ前遺跡の伽藍配置が「鎮護国家の伽藍配置」である説があり9世紀前半に国府機能が秋田城から城輪柵に移った後の付属寺院であるとされました。

私が乗ったマイクロバスは今度はどこ行くのかなあと思ったら、細い農道を脱輪せんばかりに巧みな運転で前進するのでした。国分寺跡と推定されるすごいところに着きました。



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現地の看板


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次に訪ねた八森遺跡         【画像はグーグルマップより】

八幡町地区の高台に旧石器時代、縄文時代、平安時代の複合遺跡があります。上方に見えますね。

昭和52年から継続して発掘調査が行われ、その結果、1辺約90メ年のートルの方形に板塀で囲まれた中に古代官衙の建物配置を持つ6棟の礎石あるいは掘立柱による建物跡が発見されました。850年の庄内大地震で城輪柵の近くまで津波が来たため、一時的にここに八森に移したという説があります。



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向こうに跡が残っています。



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出土石器

旧石器時代では後半期の東山型ナイフ形石器を持つ石器群と、西日本に中心を持つ国府型石器が単独で出土しています。


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旧石器時代終末期から縄文時代草創期の石器群は両面加工尖頭器、掻く・削器、石斧からなります。



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酒田の歴史 【画像は酒田市文化資料館の資料から】

庄内藩を揺るがした天保の「三方領地替」が取り消され藩を上げて喜び祝う様子を描いた「大壽和里大催事」絵幕

酒田の町は古くは向酒田といい袖ケ浦(宮の浦)のあたりにあったようです。酒田は平泉より落ち延びて来たと言われる藤原秀衡の妹の徳尼公とその家来36人がこの地に来たことが発祥の由来と伝えられています。徳尼公亡き後36人の遺臣は向酒田の地侍となり船問屋を家業とし、町政を担当したと言われます。室町時代頃にはすでに泉州堺や播州などと廻船による物資の交流はありましたが、最上側の流路の変化とともに袖ケ浦は船着き場としての条件が悪くなりました。そのため船着き場として便利の良い最上川北岸への移転が三十六人衆によって計画されました。江戸時代の寛文12年(1672)出羽の国の御城米を運ぶため、川村瑞賢によって西回り航路が整備されました。最上川の河口に位置し、航路の基点になった酒田は日本海交易の拠点として発展を遂げ、日本有数の湊町として知られるようになりました。


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山居倉庫

2021年3月に国指定史跡となった山居倉庫は明治26年旧藩主酒井家によって建てられたコメ保管倉庫です。白壁、土蔵造り12棟からなる倉庫群の内9棟は2022年まで農業倉庫として使用されていました。コメの収容能力は10,800トン(18万俵)。夏の高温防止のため背後にケヤキ並木を配し、内部の湿気防止には二重屋根にするなど、自然を利用した先人の知恵が生かされた低温倉庫です。






6月18日
県南囲碁会事務局  平吹


山形県・県南囲碁リーグ戦


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県南囲碁リーグ戦100回記念祝賀会

2024.06.05(19:50) 335

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大会後に県南囲碁リーグ戦の100回記念祝賀会が挙行されました

参加者は15名、会場はホテル御殿守


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式に入ります
川西の片倉さんが進行を務めます。




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金子会長のご挨拶です
祝賀会の実行委員長としてお骨折りをいただきました。



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長老よりご祝辞をいただきました。
白鷹囲碁愛好会の元会長の村上さん
リーグ戦では最長老の部類にあられますが、元気印で囲碁の方はますます活発な行動をされております。



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会計の方を受け持っていただいた白鷹の大滝さんのスピーチです。
リーグ戦では正大関として重要な位置を占めています。



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唯一の若手、天童の工藤君のスピーチ

工藤君には山形大学の頃からいろいろ協力をいただきました。平成28年8月の真夏の米沢大会で彼は優勝しました。この時力をつけ始めた片倉さんが工藤君を意識し始めたことを語っていました。この大会に喜多方支部が初めて参加され50名の大大会になりました。ホールがあふれ和室も使いました。この時は雲爺が一人で事務局を務めました。記憶に残る大会でした。


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平成25年6月に置賜囲碁リーグ戦がスタートしました

産声を上げた初年度、リーグ戦開催は南陽大会のみでしたが当初から参加者の少なさで苦労しました。試合も総当たりのリーグ形式を採用したり、上達教室なども試みました。翌年以降から各地が参加し上山が加わり6地区体制となり名称も県南囲碁リーグ戦となりました。それでも構造的な参加者の少なさは解消されず、28年に福島県の会津若松地区や福島市に進出しました。ここで喜多方支部さんとの提携が成立し、ようやく採算ベースに乗るようになりました。


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平成30年に5周年記念祝賀会を同じホテル御殿守で行いました

この年より参加者が安定するようになり各地の巡回も順調でした。
しかし数年後にコロナの厄災に悩まされることになります。

令和4年度に奥州市の狩野さんの参加があり、リーグ戦は従来のマンネリ化を脱皮するきっかけが生まれました。加えて今年2月に太田尚吾氏のリーグ戦参加があり、リーグ戦は一段と強化されました。

福島県の他に宮城県、新潟県の参加者エリアが加わり、県南以北と合わせた出来得る限りのエリア拡大策はこうしてようやく実を結びました。


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我が家の柿の木は長い年月のうちにどてらい大木に成長しました。風雪に耐えよくぞここまで大きくなったと幹を叩いてやります。下部は頑丈で柿の実は天高くつけるので上部の幹を切り落としたほどです。

蟻の思いも天に届く・・・・この言葉をかみしめながらこれからも体の続く限りリーグ戦を見つめてまいりたいと思います。



6月5日
県南囲碁会事務局  平吹


山形県・県南囲碁リーグ戦


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第100回県南囲碁リーグ戦南陽大会・後編

2024.06.05(12:27) 334

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今年は我が南陽では山火事でお騒がせ致しました。
5月の連休中近くの秋葉山連峰では広範囲にわたって燃え渡り全国ニュースに取り上げられました。今日車から見たら焼け跡はところどころ赤茶けているのでわかりました。光の関係で分かりにくいですが、相当広範囲に渡っているのがわかりました。高畠もひどかったし、おまけに大江町の一家の焼死事故まで加わり、火事の恐ろしさが身に沁みました。


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さあ、後半はBリーグから
石上六段・胎内市  対  島津六段・南陽市

この両者は六段陣の中で七段昇段候補の最右翼。優勝の島津さんは先、先々月と大きく負け越したのですが、さすが地力の高さに物言わせ、今回ついに全勝で念願の七段昇段を果たしました。一方惜しいかな、石上さんは島津さんの後塵を拝すことになりました。でも高い実績がありますから近いうちに昇段されるでしょう。手薄の七段クラスはこれで立派な姿になります。


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Bリーグ

準優勝 松永六段・長井市  対  武藤七段・米沢市

囲碁という趣味の会を通して会員間には一期一会の関係が生まれます。でも集まりの中では一部の方と意思疎通を図るだけで、より多くの方と仲を深めることはないはずです。碁打ちをする者は月に一回試合の結果を求めお互いに近づき、そして終われば家路につく繰り返し。こうしていつの間に何十年の齢を重ね、そして自分の一生をフェードアウトしてゆくのじゃないですかね。昔お会いした先輩諸氏は今いずこ、みんな同じスタイルを踏襲し鬼籍に入っています。趣味を通して人に近づく、これが趣味の会の原理ですからね。

ところがその原理を離れることで松永さんの別の人となりのお姿を拝見することが出来ました。人間の心の一面に触れることは楽しいし、これが生きるということの価値のような気がします。大会の後に祝賀会が行われましたが、二次会のライブハウスで声楽家たる方のお声というのはいかなるものかをご披露していただきましたね。松永さんがコーラスをやられるのは知っていましたが、お声、口の使い、笑みを浮かべながらの歌いなど、さすが新たな松永像がそこにありましたな。こりゃ、碁は置いといて、お歌の方は七段昇段を認定させていただきますよ🎵


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Bリーグ

江川七段・喜多方市  対  島津六段・南陽市

ダントツの優勝歴を誇る江川さん、先場所あたりから不調とのこと。長らく頑張られてますからここらで一服も良いんでないですか。なんか大きいミスが目立つんだそうですよ。最近不調の雲爺もそういえば心当たりがあります。大ミスを防ぐのが当面の対策なんじゃろな。


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Bリーグ

佐藤六段・長井市  対  佐藤七段・白石市

白石囲碁同好会の佐藤会長(右)に、うちの大会は1勝2点の高ポイント制ですからポイントを上げるのには適したシステムですと申し上げました。会長は高いラインにあられますからチャンスをものにしていただきたいです。白石の仙南地区は1勝1ポイント制です。


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Bリーグ

佐藤七段・南陽市  対  島津六段・南陽市


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Bリーグ

小松田六段・長井市  対  片倉六段・川西町

片倉氏は雲爺若い頃からのドングリの何とかちゃん同士でした。ところが数年前から雲爺を引き離しにかかり雲の上に行ってしまったのでした。でもその後体調を崩されてから調子を落としているようです。カンバック目指してもうひと頑張りせにゃあ、切り込み隊長よ 🤩


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Bリーグ

片倉六段 対  加藤七段・高畠町


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熱戦も中盤


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Cリーグ

期待の太田栞菜ちゃん登場

お相手は本田五段・南陽市



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大勢のじいちゃんをバックに力が入るよね。
今日はお見受けすると目をこすったりしてたけど、もしかして花粉症だった??
例え体調が万全でなくとも全力投球に邁進する栞菜ちゃんでした。



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Cリーグ

結城五段・高畠町  対   遠藤五段・喜多方市




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Cリーグ

近藤六段・天童市  対  庄司四段・喜多方市

喜多方の名刀、庄司惣一郎氏は切れ味抜群といったところじゃのう。皆さんは庄司さんなる方がいかなる方かだんだんお分かりになりましたでしょう。これからは栞菜ちゃんとともに話題をさらう存在になるでしょうね。対局ではおつむをふりふり素早く目数を数えてるみたいでした。おつむフリフリは石上六段も一緒です。読みと勘定の同時進行だから隙無いわね。


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Cリーグ

高橋六段・米沢市  対  石井六段・高畠町


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Cリーグ

樟山四段・福島県北塩原村  対  斎藤五段・喜多方市



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神宿る小庭か

我が家の庭の住人は種々の植物たちなわけで、みんな亡くなった親父が手塩にかけてきたものです。でもぐうたら雲爺息子はブログに時間を費やし忙しい忙しいと手入れは古女房任せ。今回の100回記念祝賀会まで時間を惜しんではパソコンに向かったりマイタイムに没頭する日々が重なりました。今も忙しいのは同じですが精神的な重しが取れるようになりました。



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Dリーグ

大塚五段・米沢市  対  島津四段・高畠町

雲爺はシマケイさんとの初対戦で独特のシマケイ流に動揺して自滅した記憶があります。戦場はどこで誰が何をいつ仕掛けてくるかわからんですから、えげつないというかおもろいというかですよね。所詮戦いは戦いですから泣いたら負け、非情なものです。


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Dリーグ

小松四段・白鷹町  対  佐々木三段・喜多方市


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Dリーグ

芳賀三段・米沢市  対  森岡四段・南陽市

芳賀さんは四段に昇段しました。出場機会が増えると結果も好転し二段階上昇しました。五段位からはますます昇段規定がきつくなりますが、そこは力の見せどころです。


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Dリーグ

半田四段・南陽市  対   太田六段・山形市

太田さんリーグ戦復帰おめでとうございます。約半年ぶりのカンバックです。
お体を悪くされ心配していましたが、お元気なお顔を拝見し大変うれしく思っております。お会いした時は御表情やご様子は以前と変わらず安心しました。試合も最後まで打たれましたし重人さんも心強かったことと思います。


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Dリーグ

山内三段・会津坂下町  対  鈴木三段・長井市

山内さんは初めてのリーグ戦ご登場です。今後ともよろしくお願い致します。
鈴木さんもお忙しのようで久方ぶりのご登場です。



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Dリーグ

村上三段・白鷹町  対  早坂五段・白石市


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対局は終盤に

各リーグの入賞の行方が見えてきます



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Eリーグ

片平4級・米沢市   対  平吹4級・長井市

今回は片平さんはポイントがずいぶん低くなっていましたが、これを結構高くしてみました。そしたら成績は逆に良くなって行く傾向が見られました。低級クラスでは置き石を増やしたからといってよい成績に変わるものでもないようです。本人は置き石が少ない方がかえってやりやすいと言ってますから、今後も点数を上げるようにしてみます。条件を厳しくすることが上達の早道かもしれません。



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Eクラス

小野寺初段・宮城県柴田町   対   横澤三段・長井市

小野寺さんは遠路柴田町からおいでくださいました。車で1時間45分かかります。正月の頃に小野寺さんから大会の招待をいただきました。県外からの招待ですが躊躇することなく参加をお伝えしました。柴田町にはコロナの前に訪れていますが、その後の長い中断を経てお互い再開をしました。小野寺さんは柴田の会を統括しておられ囲碁の活性化を思う気持ちは雲爺と同じで強いと思われます。前向きに進む小野寺さんに賛同しないはずはありません。


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Eリーグ

金子二段・川西町  対  仲田初段・川西町


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Eリーグ

横澤三段  対  井上初段・川西町


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Eリーグ

片平4級   対  菅野三段・米沢市





6月5日
県南囲碁会事務局  平吹



山形県・県南囲碁リーグ戦


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タイトル画像

第100回県南囲碁リーグ戦南陽大会・前編

2024.06.04(19:26) 333

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「蟻の思いも天に届く」なんて言葉見つけました、雲爺

庭先に蟻の穴があって働き蟻が一心不乱に動き回っています。蟻のように小さく取るに足りないものでも一心に願えば必ず思いは届くと



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蟻の思いも12年目にして県南囲碁リーグ戦はようやく開催100回を迎えました。
6月2日、えくぼプラザを会場に南陽大会が行われました。


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Aリーグ

優勝    太田尚吾九段  全勝 山形市  中
準優勝   太田重人九段     山形市  左
三位    橋本浩九段      南陽市  右

リーグ戦の帝王、太田尚吾九段は3度目の参加で初優勝を飾りました。この間の勢いは留まるを知らず、次回大会の勝ち点ポイントはるか高嶺の453点となります。その後もどこまでポイントを伸ばすのか、われらギャラリーの興味は尽きません。今月末の東北六県大会では山形県民の期待を背負い大将戦に挑みます。ガンバレ帝王、必勝東北一🤩 


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Bリーグ

優勝    島津紘恵六段  全勝  南陽市  中
準優勝   松永孝六段       長井市  左
三位    佐藤弘一七段      白石市  右

島津さんは8回目の優勝。次回は七段に昇段です。おめでとうございます🎯
数少ない七段陣に鋭く参入しますから先輩方は厳しく優しくお迎えください。佐藤さんは白石からおいでくださって早くも入賞です。



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Cリーグ

優勝   遠藤英雄五段   喜多方市  中
準優勝  庄司惣一郎四段  喜多方市  左
三位   石井隆一六段   高畠町   右

この中クラスは喜多方勢の縄張りだからやはりワン、ツウーとそろい踏みですね。遠藤さん3回目の優勝。そろそろ六段狙いも視野に入りました。そして大注目の庄司さんはスタートから5、4、4、4勝恐ろしい勢いでばく進中ですからね、皆さんよけてお通ししないとケガしますよ🚷 そのうちきっとAリーグに仲間入りする方です。



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Dリーグ

優勝   島津恵次四段    高畠町   左
準優勝  大塚勝衛五段    米沢市   帰られました。
三位   佐々木定善三段   喜多方市  右

シマケイこと島津さん5回目の優勝。ほんまやばい方又来ましたなあ、2、3、6月と3連続優勝やで、もう。まるでお騒がせと言おうかすごい秘密兵器持ってるんと違ゃう?    昨年は連続全敗を記録したけど、一昨年は立て続けの優勝で350点まで行った方なんだよなあ。今年は真価が問われます。

佐々木さん5年ぶりにカンバックされました。うれしいですね。喜多方のこれまた実力者ですから迎える方は新たなプレッシャーがかかります。  



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Eリーグ

優勝   平吹登4級   長井市  初優勝おめでとうございます。
準優勝  横澤弘一三段  長井市  帰られました。
三位   片平正幸3級  米沢市  帰られました。


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今日は6月の初め。えくぼプラザから見た表通りと烏帽子山はつややかな緑で覆われています。気持ちの良い季節に100回を迎えられて幸せです。


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ホールではさつきの盆栽展が開かれています。もうずいぶん昔のことですが5月の桜まつり大会が行われると決まって盆栽展が開かれていました。そこに亡くなった高校の同級生がいて出展してました。あの頃は若かったから、お互いじいさん趣味じゃったんかのう🥴


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皆さん集合。参加者は54名と大盛況となりました。54名は最多タイ記録です。皆さんは広く遠くから朝早く出かけられました。本当にご苦労様です。

今回は新しく新潟県の村上市から3名、宮城県の柴田町から1名おいでいただいております。白石市からも3名来られました。加えていつもお世話になっている喜多方市からは8名、新潟県胎内市から1名、そして天童、山形市からは7名です。それに不定期ですが岩手県の奥州市からも来られます。

県外の参加される方の地区を俯瞰して見てみると東西南北にきれいに分かれます。
これが県南囲碁会が構想した県域を越えて交流する全方位超広域棋戦、県南囲碁リーグ戦の新しい姿です。今日100回の記念日にようやく念願が叶いました。まさに蟻の思いも天に届くと言うやつです。全国を見ても県境を越えてはるかに交流する例はないのでしょうか。囲碁に携わる方はまず手をつないで協力して動くことです。そうでなければ囲碁団体は硬直化するばかりで囲碁人口は減少する一途です。


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県南囲碁会会長、金子がご挨拶いたします。


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初めて参加された日本棋院村上支部のご3名、長谷川幹事長さんよりご挨拶をいただきました。村上市からは車で2時間かかります。


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対戦表の書き込みです。

南陽囲碁会独自方式、初の5リーグ制を採用します。5人の帝王、女王が生まれますよ。出血サービス
じゃが、めでたい大会じゃけんのう。


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いつもの爺お姉三人組事務局スタッフで~す
美女に囲まれオーナー事務局長のしたり顔 😍


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試合開始


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Aリーグ
太田九段・山形市  対  長谷川さん・村上市


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Aリーグ
大滝八段・白鷹町  対  庄司さん・村上市



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Aリーグ
小松田さん・村上市  対  小野九段・喜多方市


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Aリーグ
佐藤九段・山形市  対  船山九段・白鷹町



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Aリーグ
太田尚吾九段・山形市  対  太田重人九段・山形市

対戦を拝見しました。中盤まではがっぷり四つですが、後半の勝負どころでは次第に尚吾氏のペースに変わってゆくのでした。どのように持って行くのか、な~るほどわかったつもりでなんとなく楽しいのですがその奥の深さに驚きます。東北の強者に詳しい狩野氏の解説では東北では尚吾氏に対等に争える方は10名とのこと。ポイント450台は通過点なんでしょうか。



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Aリーグ
工藤八段・天童市  対  長谷川さん・村上市
県南の若手、工藤氏頑張る。


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Aリーグ
梅津八段・長井市  対  太田重人九段・山形市
梅津氏は出場機会が少ないのでなかなか見られない組み合わせ。全国大会出場実績を持つ太田氏が面目の勝利。


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昼食

雲爺ここで長年持ち続けている疑問を2つ紹介します。
一つは昼食を食べながら、乃至は食べた後で片方が早く席に戻り、随時試合内容を検討することが通例になっています。これでは時計の役割は無いに等しいでないですか
二つは時計を押す時に揚石を持ちながら押す、これも多いですよ。
どちらもルール違反だわね。厳密な試合ならアウトですが、でもわれらの試合ではこれ改正するのなかなか難しいんだよね。





6月4日
県南囲碁会事務局  平吹









山形県・県南囲碁リーグ戦


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2024年06月
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