不思議、感動やで☆閲覧ランキング100番台連続更新中
2024.08.31(10:08)
349
奥の三角山は上山市の虚空蔵山です。
いいでしょう。国道13号線で通ると山の形ですぐわかります。この山には昔の上山城の前身、高楯城の山城がありました。今は頂上に赤いお堂があり、遠くから見えます。そのうち雲爺は登ってきます。上山の眺望最高だそうですよ。
ここでお知らせです。
このブログの最新記事、上山城、金山越え編を2週間前ぐらいに作りましたが、当ブログFC2の閲覧ランキングが8月25日分から1週間連続で100番台を更新しています。これは初めての記録です。ピンからキリまで数あるブログ約20000件の中で100番台を安定して記録しています。記録は更新中ですから明日以降もさらに続くかもしれません。このところ高い順位でランキングが安定するようになりました。これは多数の方に当ブログをクリックしていただいている結果なのかと解釈しております。最近ネット碁で相手の方にメールでリーグ戦をPRしている効果も出ているのかもしれません。うれしい結果が出ていることは大きな励みになります。ありがとうございます。
山形県・県南囲碁リーグ戦
上山城から眺めた上山の歴史・②羽州街道金山峠越え
2024.08.20(22:04)
348
北の大地みちのくの歴史を紐解けば出羽の国山形を避けては語れませんね。
なんせ伊達、上杉、最上と一大勢力がどんと居座っておったわけですから。
その中で小藩上山は勢力の最前線にあったこともあり常に周りに翻弄され続けてきました。そして江戸期には名城とうたわれた上山城は悲運にも取り壊されてしまいました。しかし持ち前の克服力を証明する如く、昭和期に見事その姿を取り戻します。上山城が見続けてきた長年の歴史、今回は羽州街道金山峠編です。
羽州街道全図
羽州街道は陸奥の国青森県から秋田県、山形県と南下し、上山藩において宮城県の七ヶ宿街道につながります。その先は福島県に向かい伊達市の桑折で奥州街道に合流して終点となるのです。
羽州街道は長さ約497km,宿駅数は約60宿。これは東海道約492km,53宿を上回るんですよ、遅れているはずの奥州街道が上回る、うれしいことじゃよね。
【以下の絵巻は上山郷土資料館の使用許可を得ております】
お国替え絵巻
これは弘化2年(1845)に山形藩秋元家が館林藩(現・群馬県)に転封する時に家老山田喜太夫の妻・音羽が描いた道中記です。館林藩の屋敷に到着するまでの様子を挿絵を織り交ぜながら女性ならではの視点で描いています。
藩民の見送りの中を七日町通りから八日町、上町と通過して行ったのでしょうか
参勤交代並にお駕籠や大行列で群馬県まで歩いてゆくとは雲爺には到底想像がつきません。山道、峠などどっさり難儀が待っておるわけですからのう。
山形から上山に向かいます
JR蔵王駅前の松原地区を通りしばらく行くと黒沢温泉があります。その先には花立峠という丘陵があり一応小さな峠になっています。
ここは昔雲爺が山形に通勤で通りました。冬になると小癪にも道路が凍結してタイヤが横滑りして肝を冷やすことがありました。ここを過ぎると道路の脇に上山競馬場があったのですが、今は製薬工場に姿を変えています。ずいぶん前から山形からの西回りバイパスが通じておりこの辺はすっかり景色が変わってしまいました。この前思い出したように車で通ってみましたよ。いや~時代に取り残されたところですから、まだ羽州街道のにおいが残ってましたね。若かりし頃の思い出にジーンと来ました。
上山に入ってきました。鉤型道路を過ぎれば上山城が待っています
現在も武家屋敷や沢庵和尚の春雨庵が残っています。上山は湯町、新湯、河崎、葉山、高松と温泉が5箇所あり往時はにぎわった町です。
亀屋旅館の座敷でくつろぐ様子や俯瞰した風呂場が見えており、日本ならではのゆったり感が出ておりいい感じです。
町中をギザギザに通過して町を抜ければ結構長い街道が続きます。奥羽山脈がまじかに迫るほどに山沿いの宿場、楢下宿が見えてきます。この楢下宿は宿駅として整備され、来訪者には休泊所を提供する宿場の機能に加え、荷物の運搬に必要な人馬を継ぎたてる機能を備え参勤交代で羽州街道を往来する奥州13藩の諸大名や武士や商人、出羽三山での行者などでにぎわいました。
【案内看板より】
一里塚
一里塚は安土桃山時代に始まり江戸幕府が旅人の里程の目安とした制度で一里(約4km)ごとに街道に石碑を置き塚を築き榎や松を植えました。楢下では故事に習い鬼門に槐を植えています。
楢下宿から一里先に金山間宿があり、そこからいよいよ金山峠へ向かいます。絵巻には金山宿と金山峠路、峠の金山不動尊が描かれています。
明暦2年(1656)に金山峠の大改修が行われ、これ以降江戸時代を通じて奥羽地方13藩の諸大名が参勤交代でこの街道を通りました。金山峠路は高度差は300m、幅員一間(約1.8m)ほどの谷沿いの道で峠直下七曲がりの急坂は峠越えの難所と言われました。当初参勤交代は笹谷街道を利用しましたが、標高の高さや積雪の多さなどのため、この金山越えに移りました。こちらは標高が低く積雪が少なく夏は涼しく平坦さがあるため通りやすかったのです。
金山宿から峠までの金山越えは江戸時代の面影を良く残しており「羽州街道楢下宿金山越」として平成9年に国史跡に指定されました。平成26年7月の大雨で道路が寸断されたのですが翌年に復旧工事が完了し、市民の協力により道路が往時のように維持されています。
右の黄色い道路は参勤交代の廃止により明治になってから別に作られた県道です。交通の便が良くなり古い金山越えはすたれました。現在は県道になっており曲がりくねった山岳道路ですが、十分気を付けて運転すれば快適な穴場のドライブコースとなっています。あなたも一度お試しください。
この前金山宿に下見を兼ねて行ってきました。誠に暑い日で周りは物音ひとつしません。ただ大自然がドドンと迫ってくる恐ろしさのようなものがあります。これこそが日本の夏の醍醐味なんだよね。周りの草木がこの老身に向かって「ここは緑だけの世界なのだ、俺たちと同化せよ」と無言で迫ってきます。雲爺は草木への生まれ変わり願望を持ってますから変身出来れば本望ですばい、次は平吹草夫くんで葉っぱになってみたいです。
この小さな山村は10件ほどの家があったようです。でも今は廃村になり人は住んでいません。遡れば江戸期は宿場であったわけですが、明治以降はどんな暮らしをされていたのでしょうね。山の仕事をされたのか、はたまたこの辺一帯は鉱山が多くそれに従事されていたものか。向こうの家は最近まで暮らされていたような形跡がありましたが、鍵がかかっていました。たまに戻っているのかもしれません。まさに日本の過疎の原点を見たようでした。
そしていたら建設事務所らしき車が来ました。何しにと思っていたら道端に転がっている大石を片付けていきました。さすが、環境を気遣う仕事をしっかりしているんだなあと思い、気持ちが和らぎました。
ここは金山峠までの登り口です。右の家は立派な屋根の家でしたがじっくり見ればここもやはり廃屋でした。もったいないような感じです。
雲爺は昭和54年に一人で金山越えトレッキングをしました。その時はこの山道を行ったものか思い出せません。あの時は登り口で農家が豆柄を叩いて収穫の仕事をしていたのを思い出します。でもそれがここだったのか、はたまた近くの車道だったのか。はるか昔の思い出、雲爺はまもなく80歳の大台が近づいています。いつの日かこんな思い出をいっぱい背負いながら旅立つ日が来るでしょう。人それぞれの人生、長いようでやっぱり長いのか・・・南無
今日は下見です。そのうちこの興味満載の金山越を行ってみたいです。秋元のお殿様が通ったこの道を。
元会社のポン友に連絡が取れ、近いうちに4人で歩いてみることになりました。弥次喜多メンバーの彼らとは昔いろいろ山に登ったものです。おもろい報告記をご期待ください。
宿場の出入り口ですから両脇に石組みをしていたのでしょう。この広さがあれば行列も何とか通れますかね。
車道を通り金山越えの終着点に来てみました。ここは峠の直下で最後の七曲りの急斜面です。よくもこんな所大勢で登ったもんだよね。
ここでいわゆる逸話が登場します。
元禄2年(1689)秋田藩の藩主、佐竹義格公が参勤交代の任務途上、七曲りに差し掛かるところで濃い霧のため道を見失いました。殿様は籠を降り全員思案しているところに、どこからか白髪の老人が現れて進路を誘導してくれました。そうして無事峠にたどり着きました。そして同時に老人の姿は消えてしまいました。殿はこれは神仏のお導きと深く感謝し、元禄4年(1691)に敬神の念から莫大な資金を投じてすぐ近くに金山不動尊堂を建立しました。又佐竹公は羽州街道の整備に力を注いだことから別名佐竹街道との言い伝えがあります。
峠の金山不動尊
前の絵巻を見てください。七曲がりの登りと不動尊参拝の光景が描かれています。
峠を下ってすぐに出合う鏡清水
秋元氏一行はここでのどを潤しました。ここは白石川の源流になっており後に阿武隈川に合流します。
峠を降りて伊達仙台藩の七ヶ宿に向かえば最初に出合う準公認宿場 元干蒲宿
左は金山峠から七ヶ宿に向かう羽州街道、右は現県道
以前に来た時は追分の標石があったのですが見当たりませんでした。
☆9月のリーグ戦は9月1日・日 南陽大会 えくぼプラザ
大会には太田尚吾氏と娘さんが参加されます。ご期待ください。
10月は10月6日・日 長井大会です。
8月22日
県南囲碁会事務局 平吹
山形県・県南囲碁リーグ戦
岩手県の鳴海九段がぶっちぎりの優勝☆8月南陽大会
2024.08.07(19:08)
347
梅雨が明け真夏到来、リーグ戦当日はご覧のように真っ青な空に入道雲がムクムクでした。
アチーッ 🌞
第102回リーグ戦南陽大会は8月4日に南陽市冲郷公民館(防災センター)で開催されました。
Aリーグ
優勝 鳴海晴康九段 岩手県遠野市 中
準優勝 大滝俊彦八段 白鷹町 左
三位 滝田真大八段 福島市 右
岩手県の強豪、鳴海九段をお迎えして行われた8月南陽大会はAリーグで定評通り鳴海さんが全勝優勝を飾りました。鳴海さんは県内で3強に数えられる強豪です。6月に行われた東北大会では団体戦優勝の岩手県の先鋒を務められ、個人戦で全勝優勝を成し遂げられました。まさに自他ともに認める東北地区の最高峰メンバーのおひとりです。このような方がリーグ戦に参加されるのですから、ホスト側の県南地区メンバーは心して挑戦させていただきました。しかし1勝への道のりは遠くただ王者の後塵を拝することとなりました。
鳴海さんは29歳、ご出身は青森県で現在は岩手県遠野市にお住まいです。今回は白石市にお住いの弟さんとご一緒に民話の里で有名な遠野市より遠路はるばるお出でくださいました。
Bリーグ
優勝 高橋利秋六段 米沢市 右
準優勝 石井隆一六段 高畠町 左
三位 斎藤隆六段 福島市 帰られました
高橋さんは9回目の優勝です。
Cリーグ
優勝 森岡幸廣四段 南陽市 右
準優勝 樟山正之四段 喜多方市 左
三位 島津恵次四段 高畠町 帰られました
森岡さんは5回目の優勝です。
Dリーグ
優勝 片平正幸4級 米沢市 左
準優勝 村上辰雄三段 白鷹町 席を外されました
三位 金子勤二段 川西町 右
片平さんは3回目の優勝です。全勝につき次回は3級に昇級します。
参加者は38名、4リーグで行います
今回は県外からは岩手県遠野市、宮城県白石市、新潟県村上市、胎内市、福島県福島市、喜多方市、伊達市からと広範囲の地域から参加者が見えられました。どうでしょう、一地方の棋戦に県外から広く参加される大会って全国広しとは言え他にあるものでしょうか。県南地区へのご参加はその後喜多方市をはじめ相互交流へと発展しました。こうしたウィンウィンの関係は自ずと囲碁の活性化につながります。限られた人口しかいない囲碁の世界なのですから、単独主義から離れ地域間で協力し合うことが必要です。
喜多方市や河北町ではポイント制を導入して試合システムを合理的なものに変えました。これも既存の観念を打ち破る素晴らしいご決断で大きな活性化策でした。古い殻に支配されるマンネリ化こそが一番危険です。
南陽囲碁会会長 槁本がご挨拶
会長は現在加療中のところ参加してくれました。我ら7、80歳台は囲碁の修行とともに体のケアも必須です。でも会長は雲爺と違って早めに最高位に上り詰めたのだからすごいよな。それに比べ雲爺なんか長年同じ階段を上り下りしておりますじゃ、恥ずかしい限りでごんす 🤪
事務局
今日の事務局は佐藤事務局長と女性2名、それに参加者調整役として雲爺平吹が努めます。
Aリーグ
滝田八段 対 鳴海九段
若手同士の対戦はパワーがはちきれていいよなあ。
滝田さんは4月に福島市役所に就職されると早速4、5月大会に遠路参加していただきました。でも6、7月は仕事の関係で来れませんでした。乗りに乗っている彼にはこの2か月のブランクは何よりもつらかったはずです。そして今回の8月大会でした。
Aリーグ
小松田九段 対 鳴海九段
小松田さんは新潟県の村上市からはるばる来られました。6月大会に続いて2回目の参加です。
Cリーグ決勝戦
優勝の森岡四段 対 準優勝の樟山四段
3勝の森岡さんは4連勝の樟山さんに逆転勝利しました。南陽の入賞決定方式だとこういうサプライズが起こりますから勝負は最後まであきらめないことが肝心です。
Cリ-グ
仲田初段 対 片平4級
3勝の仲田さんも4連勝の片平さんから逆転勝利の芽があったのですが、片平さんが押し切りました。片平さんはここのところ成績が良いためポイントを通常以上に高めて対戦していただきました。結果はポイントはやはり関係なかったみたいです。それよりも置き石が少ない方が打ちやすいとのことでしたからまさに有言実行でした。級クラスの場合はポイントが極端に低くともそれが決して成績に結び付くものではなさそうです。いっそ、星目など避けた方が力を出せるようにも思えます。厳しい条件で打つことが上達につながるのであれば、極端に低い点数はケースバイケースで対応すべきと事務局は考えています。
Aリーグ
長谷川九段 対 工藤八段
工藤八段は山形大学の囲碁部では滝田八段の先輩にあたりますが、後輩に先を越されておりいろいろと挽回策を練っているようです。努力が実を結ぶことを願っています。
Aリーグ
小松田九段 対 渡邊九段
渡邊さんは今回参加の鳴海さんとは福島大学囲碁部で後輩にあたります。そして山形大学囲碁部の滝田さんとは福島囲碁会館の子供教室で一緒でした。又滝田さんは山形大学の囲碁部では工藤さんの後輩にあたります。さらにこの二人は今回鳴海さんの弟にあたる鳴海響さんと同じ囲碁部で一緒でした。なんとも複雑に絡み合った5名が今回一堂に会することになりました。みんな20歳台ですが早速めいめいに早い同窓会をやっておりました。
Aリーグ
橋本九段 対 佐藤七段
佐藤七段は白石市にお住まいで6月大会から毎回参加いただいております。上山大会では高畠町の二井宿から上山街道を駆け抜けて来られました。毎回参加に大変感謝いたしております。
Aリーグ
大滝八段 対 庄司七段
庄司さんは新潟県の村上市から長谷川さん、小松田さんと6月大会に引き続きご一緒に参加いただきました。南陽までは2時間かかります。今度はこちらからも再度お邪魔させていただく予定です。エリアを超えた交流が囲碁発展の一番の力だと考えています。気持ちの内向きこそが逆に発展を阻害します。途中立ち寄って特産物を食する楽しみもあるでないですか。ええですよドライブ🚗 お金は有効に使いませう。
Bリーグ
斎藤六段 対 江川七段
両名とも福島市、喜多方市からおいでいただいております。江川さんはご常連でいつもお世話になっております。県南勢は喜多方大会では逆にお世話になります。
Bリーグ
石上七段 対 加藤七段
新潟県胎内市の石上さんはこの度七段に昇段されました。このほかにも南陽囲碁会の島津さんが七段に昇段されました。
Bリーグ
本田五段 対 長岡六段
朝日町から来られる長岡さんは雲爺とはネット碁でたまに顔を合わせます。ポイントは段位通り長岡さんの方が上でお強いです。
長岡さん、豪快な方なんですね。先月準優勝されてポイントを上げたんですが今回は気前よく大きく吐き出されました。「あのですね長岡さん、リーグ戦はネット碁と同じでポイント変動制なんですが、ただこちらは1勝で2点が加わる大変動制になっています。逆に1敗すれば-2点です。固定相場みたいに単純に貯蓄出来ないシステムになっています。今回の株大暴落みたいに大損すりゃ大儲けも出来るんですな。おもろいですからズンズン稼いでください。ただ惜しげもなく放出するのはもったいない限りです」でも碁は甘いもんじゃござんせんよね。お相手の本田五段も現ナマが欲しいばかりに打倒長岡で燃えていたわけで寝首を掻かれたようですね。勝負の世界に明日の保証はありません。
7月末に恒例の最上川で開催されるカヤックに乗って楽しむ企画は長岡さんが主宰されています。でも今年はこの前の大雨で中止になったんだそうです。何年に一回は中止になるとのことで川の企画も大変なんですね。
Bリーグ
遠藤五段・喜多方市 対 斎藤六段・福島市
遠藤さんは雲爺と歳は同じです。でもポイントではいつしか差をつけられてしまいました。それで遠藤さんはこのところ戦績が安定しておりますからそろそろ昇段が近くなっています。頑張っていただきたいです。喜多方の方がリーグ戦に来られてから早いものでもう9年になります。遠距離にもかかわらず欠かさず参加いただいておりいつも頭は下がりっぱなしです。喜多方さんがいなければリーグ戦は早々に沈没しております・・・・・南無
対局も一休みだべい・・・・外の緑を眺めましょう。外は36度あるかのう?
Cリーグ
横山五段 対 荒五段
横山さんは昔から尊敬する打ち手でした。現在リーグ戦では90歳で最高齢ですがお元気です。私どものお手本ですから今後もどんどん打って若手をいじめてほしいです。
荒さんは福島県の伊達市にお住まいです。荒さんとは長いお付き合いになります。最近お休みでしたがしばらくぶりに復帰されました。リーグ戦は現在白石市からも来られる方がいらっしゃいますが、荒さんの場合は昔の奥州街道から分かれて羽州街道に入る桑折町を経由します。三国町から参勤交代の小坂街道のまがり道を登って来られるんです。江戸時代のにおいがプンプンして雲爺は好きですね、小坂街道。又伊達市には源頼朝さんご推奨のどてらい厚賀志山防塁があるからこれまたすごいです。なんせ1185年以来の超お宝ものですからね。日本中世史のエキスが凝縮されている伊達市、一度訪ねることをお勧めします。又、荒さんは天文学にも通じる方でいつもスゲー、スゲーと感心します。雲爺もブログで天文を取り上げましたが、いろいろコメントいただきました。
戦いは後半戦
防災センターは10年前に南陽市の赤湯地区を襲った水害を機に防災避難施設として作られました。防災センターは地区公民館の冲郷公民館と併設されています。ここは赤湯駅の西口に位置し南陽市の中心部です。
水害は赤湯の町の中を流れる吉野川が氾濫しました。あの時は雲爺の家は幸い直接の害を受けませんでしたが、夜中に起きてみたら家の前の道路が川と化していました。昔からの暴れ川、吉野川の正体を目にして恐ろしさをたっぷり経験しました。
防災センターのそばには消防署が
昔、南陽囲碁会は元の古い冲郷公民館を月例大会で利用していたようです。そしてそばに町区の桜木町公民館があり板敷の広間に碁盤を置いて打ったものでした。今や昔、あの頃の会員はほとんどが他界され、寂しいかな南陽囲碁会は現在7名の小世帯になってしまいました。我らも同様にピテカントロプス🐵になってしまうのかのう、この際ひと踏ん張りして優勝せんとあかんぞ、こりゃ。
Ⅽリーグ
鳴海三段・白石市 対 小松四段
鳴海さんは山形大学囲碁部出身で岩手県の鳴海さんの弟さんです。リーグ戦はいろいろお世話になりました。
Cリーグ
森岡四段 対 島津四段
島津四段は自ら巻き起こした高下する荒波を乗り越えて来た方で、数多いリーグ戦メンバーの中にあって誠に奇異な存在であられます。それでいて現在はしっかりと五段の地位に納まっておるんだからまさに名人芸レベルです。得意の「島恵節」が流れてきたら気い付けらっしゃいよ、みんな。
Cリーグ
加藤四段 対 工藤三段
工藤さん少し間が空きましたがじわじわ力を発揮されております。昇段を見据えいっそうのご健闘を期待します。
Cリーグ
結城五段 対 小松四段
高畠の結城さんは数ある中の必殺代表格です。鋭い切込みでいつしか切られるんだから、皆さん用心せんとあかんです。
Dリーグ
村上三段 対 平吹4級
平吹さんは長井の由緒ある平吹家のご出身。平吹姓は長井市に多いのだとか。我が雲爺平吹家もさかのぼれば長井に行きつくものなのかのう。平吹さんは天文にお詳しいです。
Dリーグ
片平4級 対 金子二段
Dリーグ
菅野三段 対 平吹4級
Dリーグ
横澤三段 対 高山三段
お忙しの高山さんがお久しぶりにご登場
☆9月リーグ戦は 9月1日・日 南陽大会 えくぼボプラザ
太田尚吾九段が娘さんと参加されるご予定です。
☆10月リーグ戦は 10月6日・日 長井大会
8月8日
県南囲碁会事務局 平吹
山形県・県南囲碁リーグ戦
上山城から眺めた上山の歴史・①城と城下町編
2024.08.01(12:54)
346
昨年、雲爺のポン友、高見禎宏氏が伊達氏と最上氏の歴史探訪に来られた時、一緒に上山城を訪ねた時の写真です。
高見氏は雲爺と同じ歳でいつしか爺さんになりましたから高見翁と呼んでおります。出身は阿波の国徳島で藍と桑で財を成した豪商の末裔とのこと。歴史に詳しく県南囲碁リーグ戦のブログの歴史編ではいつもコメントを頂戴しております。
美と格調が抜きんでる上山城
上山城は羽州探題で最上氏の祖、斯波兼頼の流れを汲んでおり最上の支城として立ち上がりました。天文4年(1535)武衞義忠が山城だった高楯城を廃し天神森に新たな平山城、上山城を築きました。月岡城とも称しました。
その後の城主は武衞氏三代、里見氏、元和八年(1622)最上氏改易後は能見松平氏、蒲生氏、などを経て土岐氏二代が領した十七世紀後期には城郭としては最も整備され、白壁の城壁を巡らして後景には四季折々の緑や紅葉に映えた上山城は小藩(2万500石)ながら奥羽の名城と称されたと伝えられています。
【解説は資料館の看板より】
しかし元禄五年(1692)土岐氏が転封直後幕府の命により跡形もなく破壊されました。以来上山藩は金森氏、藤井松平氏(3万石)十代の治領下で170余年間、代々城の再建が宿願でありましたが、明治維新まで一部を修復するにとどまり、再築されることはありませんでした。周囲の堀も明治5年に埋め立てられ城の西側にわずかに内堀の名残をとどめています。
【画像は資料館より】
昭和57年に旧二の丸跡に城郭風の郷土資料館として建設されました。
本丸跡には月岡神社が建つ
藤井松平氏始祖の利長と二代目信一が祀られています。当初は徳川家康を祀る東照宮が建立され合祀されていたとのこと。
三の丸跡は月岡公園になっています。
館内に入れば立派な武具レプリカがお出迎え
【画像は資料館より】
中央の三角の山は虚空蔵山で上山城の前身である高楯城がありました
後景の高い山は白鷹山、手前の建物は廃業した元高級ホテル「村尾ホテル」
この辺に雲爺が好きな三角山が三つあります。この虚空蔵山と山形市の千歳山と富神山です。とにかく目立つから誰でもわかります。
高楯城跡
南北朝時代、往永13年(1406)に天童(里見)満長が築城した山城です。高楯城は歴史的に伊達、上杉両軍の領地との境目に位置し、攻防が繰り返されました。
永正11(1514)伊達稙宗の軍勢により高楯城が奪われました。その後和睦し城は里見義房に返されました。しかし永正17年(1520)再度稙宗の軍勢に城が奪われました。天文4年(1535)里見義房の子武衞義忠が伊達家から再度奪い取りました。この機会に廃城して新たに上山城を築城しました。
【解説は資料館より】
高楯城
上山市の西南、出羽丘陵の東麓に突出した角状の山、海抜356mの虚空蔵山に構築されました。山頂からは市内を一望できる要害の地に主郭を築いています。北西に白度平二の曲輪、北に山の平三の曲輪があります。大空堀が東側に二重に構築され、東南面は急斜面で自然な要害になっています。
【絵図、解説は山形県の城館調査より】
数日前に雲爺は虚空蔵山の登り口まで行ってみました。国道から入ったのですが、急斜面が広がり山道は車の運転が難しかったです。登り口は道が三方に分かれており、うっそうとした林には暗闇が広がり、昔ここで戦があった不気味さを覚えました。子供の頃チャンバラごっこしましたが、こんな雰囲気があり大人も大変興味深いところでした。ここのコースは上山市のクアオルトのコースになっています。健康スポーツと文化遺産がミックスしたなんとも面白い企画です。皆さんもぜひ参加されることをお勧めします。
天守閣から眺める
山形市方面。天童の舞鶴山から見る天童の景観も抜群ですよね。
城下町、上山市街地の商店通りは目の前。天空から眺めるのは気持ちが広がりとっても健康的です。
上山のシンボル、三吉山とご対面
雲爺は三吉山を北から眺めるとハワイのダイアモンドヘッドとそっくりで楽しくなったものでした。
天空から地上に降り立ちました。中心商店通りです。スズラン灯が立ち並び昔の雰囲気があります。しかし現在は上山商店街も例にもれずシャッターで閉じている店が多いようでした。寂しい限りです。雲爺の若き頃、昭和40、50年代の上山は温泉と競馬の街でした。公営競馬でしたから上山市も勢いがあったのでしょうね。この頃はデジタル以前の頃で古さと未知の新しさが混在してなりふり構わず世の中が進んでいるようでした。商店通りにはパナマ小路なる飲み屋区画が有名でした。夜の飲食街は赤湯の方が賑わっており上山の方が流れて来たなど話はよく聞いたものでした。でも今なんか赤湯の夜も真っ暗です。いかんですなあ、こりゃ。🍸🍶🍢
上山にも大きな古の鍵型曲がり道があります。交通の便が悪くとも残してゆくべき文化は必ず存在します。
上山温泉
上山温泉は「鶴の湯」「鶴脛の湯」などと呼ばれています。
長禄2年(1458)肥前国からの旅の僧、月秀が傷ついた一羽の鶴が沼地に足を浸し飛び去る姿を見かけてそこに温泉が湧き出ていることを発見したと言われています。現在の湯町、薬師堂付近が源泉地とされています。室町時代から戦国時代にかけて湯殿山参詣の行者が増え、湯町もたいそう賑わいました。しかし江戸時代に城下町の整備に伴い湯町は一般の旅客や湯治客の出入りが出来なくなってしまいました。
【画像、解説は資料館より】
その後一般の入浴する温泉として観音の前に開設されたのが現在の「下の大湯」の始まりです。
江戸時代上山は城下町、温泉町、宿場町として知られ、大名行列をはじめとして、巡見使、商人や出羽三山の参詣人など多くの人々が訪れて賑わいを見せました。明治時代以降は湯町、新湯、高松、葉山、河崎など各地区で多くの人々が苦労を重ねて源泉発掘を試みてきました。こうした先人たちの努力により今の上山温泉郷の繁栄があるのです。
南の置賜方面を眺む
東北一と言われた高層マンション、スカイタワーが見えます。
8月2日
県南囲碁会事務局 平吹