川西町の常念寺の境内にお地蔵様のやさしいお顔が、いいでしょう
神亀五年(728)創建の古刹、常念寺。伊達政宗が仙台に移り、その後徳川家康から越後高田城の普請を命ぜられ、その帰途にここ川西町の常念寺を宿所としました。ふるさと置賜を懐かしく思い歌を残しました。
故郷は夢にたにさへ疎からす現になとかめくり来にけり
10月の長井大会において
喜多方市の庄司惣一郎四段が五段に昇段されました。
実力者庄司さんは現在はすでに六段のレベルで活躍中です。
又、長井市の平吹登4級も3級に昇級しました。同じ3級の米沢市の片平正幸さんも平吹さんと同様、ポイントを大幅に伸ばしており先輩方に肉薄しております。
11月南陽大会では最下リーグに新しく子供さん2名が参加されます。若さとベテランの両パワーが新たな変化を生み出すことでしょう。おじさま方心しましょう。
【解説はたかはた伊達の会、伊達な旅2024の資料よりお借りしました】
山形県・県南囲碁リーグ戦
上山城から見た上山の歴史・④古道金山越探索
2024.10.22(17:51)
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上山城から見た上山の歴史・④古道金山越探索
上山市の東側には奥羽山脈が走っています。そこには金山峠がありその峠に向かって「金山越」と言われる古道が伸びています。このたび上山市教育委員会では史跡保全活動を実施され雲爺はそれに参加してきました。金山越は江戸時代以前から存在する古い山道で上山市では定期的に作業に当たられています。パンフレットではおおよその道を示します。
【画像は上山市教育委員会のパンフレットです】
雲爺は昔上山市の金山峠に向かう車道を歩いたことがあります。その時はこれが昔の羽州街道であると思っていましたが、最近ここではなくそのそばを本物の羽州街道金山越が伸びていることを知りました。これではどうしてもそこを歩かねばならぬと思い至りました。
右側の山道車道は明治期に作られ戦後に車が通れるように改修されています。
【画像は上山市教育委員会より】
10月19日 上山市役所に集まりました
参加者は地元上山の方が多いんでしょうね。もちろん爺さんが多いですが若い方もそれなりに多いです。向こうの山は上山のシンボル、虚空蔵山です。天気は良好、でも午後からは崩そう。
楢下宿の脇本陣、大黒屋に立ち寄る
ここで昼食をいただきます。地元のお母さんが自慢の料理を提供してくださるとのこと。
金山峠に着きました
ここから金山越の山道に降りて下山しながらゴミや木の障害物などを取り除くことになります。
雲爺は訳があって一行とは別に逆行動になりました。出発点に降りてきてここから一人で歩いて登ります。ここは金山宿といって昔は簡易な宿場でした。入口に廃屋となった人家が残っているのですが、この家も江戸期にはお宿だったものでしょうか。このような家が数件ありますがここもすでに廃屋同然です。離村という限界集落の次の姿がここにありました。ここに立っていれば誰でもが心がかきむしられ、悲しさとともに今後の日本の縮図に引き込まれてゆくような感覚になります。こういう体験は貴重です、一度行ってみてください。これからこの道をまっすぐ歩いてゆきます。
斜面を伸びる山道
この辺は道は少し狭くなっていますが、おおむね金山越は道幅は広くなっています。この金山越はいやしくも江戸期に参勤交代や湯殿山参詣を始め多くの方が行き来した羽州街道です。宮城県側の奥州街道にアクセスする重要な街道でもありました。
山道に沿って小さな川が流れています。ここを渡るのですが今は丸太を渡して橋代わり。
平成26年に山形県南部が大雨で洪水が起きました。その時この金山地区も被災し街道も壊れたようでした。それ以来上山市では毎年復旧保全活動を行っています。この金山越は「史跡 羽州街道楢下宿・金山越」として平成9年に国の史跡に指定されました。
江戸時代に参勤交代が始まるとこの金山越の整備が行われました。地元の上山藩はもとよりでしょうが、一番改修に力を入れたのが秋田の久保田藩だったと言われています。遠い久保田藩がなぜと思いますね。工事は道幅の拡張が行われたのでしょうし、路肩の弱いところは玉石で補強されています。それにしても大行列がこんな奥深い山道を行くなんて今ではなかなか考えられないです。
そうそう、大事なこと忘れていました。金山峠は標高が低くこの個所に道路を通したものと思われます。したがって金山越の道も傾斜が緩やかですから上り下りはおおむね楽だったはずです。参勤交代も上手に動けたと思われます、道幅も広いしね。ただ最後の七曲がりという所だけは急ですが。そして位置的には沢沿いに道を通しています。これは水の便宜を考えての事だったと思います、頭いいですね。でも一番大変なことは雪があるうちはほとんどが不通になるということです。これだけはどうしようもありません。それにしても人間という者は動物と同様に偉いですね。時代や状況に沿ってたくましく生きてきたのですから。
人の往来に加えて物の運搬も人力や動物を使って凌いできました。一方海の向こうの西洋では産業革命が起き蒸気機関が発明されて新たな動力の恩恵に浴すようになりました。これ絶対に大きいですよね、我々は現在自動車抜きでは何も出来なくなっています。動力様様です。
ここに昔茶屋があったようです
山形県の女性の方でこの金山越をユーチューブに挙げていました。同じような方がいるものだなあ。その動画では道に草がけっこう生えていましたが今回はきれいでした。ボランティアの方が除草をしてくれているのでしょうか、ありがたいことです。
お殿様はこんな所でも駕籠にお乗りなんでしょうかね。駕籠というものは楽なようでも実際は不自由で気分も悪くなるだろうし牢屋同然なんじゃないかなあ。殿様が牢屋・・・実際は江戸まで獄門の日々だったりして。
強烈な縛りの刑
峠に近づき水量は少なくなってきています
強烈な爪痕
勿論、熊さんの仕業です。今時熊さんは町中だけが棲み家なのではありません。杉の木の皮をはがし何を食べたものなのか。でっかいずうたいで何ほども食べないでおれんでしょうに。二井宿の峠でも同じところを見ています。熊鈴は丸必かも。
杉の美林
まっすぐ伸びる見事な姿に枝一つありません。枝降ろしがなされ日光が入り生育が良くなります。市役所の方に聞いたら雪で枝折れするのではなく枝落としによるものらしいです。いったいどなたが作業されているのでしょう。地元の方なら金山宿は離村しているし、他から来られているのでしょうね。こんなに立派な杉林、日本の林業に幸あれと願うばかりです。
ここからは金山越の難所「七曲がり」に差し掛かりました。
右に曲がり
左に曲がり
ようやく向こうに車道のガードレールが見えてきました、終点です。
苦労してようやくたどり着いた旅人は道中の無事に感謝して金山不動尊にお参りをしました
10月23日
県南囲碁会事務局 平吹
山形県・県南囲碁リーグ戦
上山城から眺めた上山の歴史・③春雨庵、武家屋敷、明新館、楢下宿
2024.10.21(17:21)
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八月からスタートした上山城シリーズは3回目を迎えました。昨年雲爺の旧友である茨城県の高見の翁さんと上山城へ行きましたが、早いものであれから1年以上月日が経過しています。今回も自分なりに上山藩の歴史をピックアップしてみました。
江戸期に取り壊された城の旧本丸跡に建てられた月岡神社
上山藩藤井松平家七代の信通公が上山城主に転封となり、城内本丸内に東照宮を建立し併せて祖先の利長公、信一公の神霊を合祀し、徳川の恩義を追慕し、祖先の遺徳を仰ぎ藩士一同厚く崇敬しました。明治期になり廃藩の際東照宮は旧藩主の上京とともに東京の松平氏邸に奉還され、藩祖の神霊は上山市湯町の日枝神社に奉還されます。その後産土の守護神として祈願すべきとの議が起こり、新たに神社の建設が行われ月岡神社が誕生しました。
【解説はMY神社のホームページをお借りしました】
寛永六年(1629)京都大徳寺の僧、沢庵が紫衣事件で上山藩に流されました。上山城主、土岐頼行は沢庵に帰依して教導を仰ぎ、上山藩政史上顕著な治蹟を挙げ領民より名君と慕われました。沢庵は頼行に「上中下三字説」を説きました。
「上は君であり、下は民であり、中はその間を取り持つ臣の意である。上の地を逆さにすれば下の字になる。下の字を逆さにすれば上の字になる。口の字を貫通すると中の字になる。口は言葉であり言論であるから、国を治めるものと治められる者とは言論が自由に行き来しないといけない」と為政者としての心構えを上中下の三字を巧みに使って説いたのです。これは現代の国家は言うに及ばずあらゆる組織にも通じることです。この時代には珍しい先進的な思想家でもありました。
【画像、解説は上山城資料館に基づいています】
春雨庵より上山城の旧城山、虚空山が望める
沢庵和尚の庵、春雨庵
訪ねた時は残念ながら屋根の葺き替え中でした。ここはずいぶん前に一度見学しているように思います。
伝統的な習わしとして紫色の法衣や袈裟は朝廷が下賜することが通例でしたが、慶長20年に江戸幕府が「禁中並公家諸法度」を発布しこれを禁じました。これに対し沢庵は反対運動を起こしたことで幕府が処罰を与え上山藩に流罪としました。藩主の頼行は沢庵に厚く帰依し厚遇しました。春雨庵に3年間起居した後、3代将軍家光が沢庵に帰依するに及び江戸に召喚されます。
武家屋敷のある仲丁通り
上山城が天文四年(1535)に築かれるとその西、北部一帯は武家屋敷となり、この仲丁通りには藩の要職にあった家臣が居住しました。現在は四屋敷が残っています。
森本家
森本家は代々藩主随伴役が主な役職で藩主の移動に伴って江戸、上山、大阪と転勤し、上山には宝永三年(1706)に定住しているが、現屋敷には文久年間(1861~3)に引っ越している。九代は長柄奉行で御側目も兼ね、十一代は藩校明新館の助読や藩主の訓育掛を務めるなど、漢学の造詣も深く文筆にも長じていた。現当主は十五代目。
三輪家
三輪家は豊前国中津藩奥平氏に仕えていた。寛政八年(1796)に藤井松平氏の家臣となり江戸藩邸上屋敷に勤務、後に側用人準参政となった。上山三代藩主に仕え側用人と勝手方を兼ね、後に参政となり藩政に直接参画した重鎮である。藩校明新館の教師としても勤務している。現在の当主は十五代目。
山田家
先祖は常陸の国茨城群笠間の出身で元禄十年(1697)ごろには藤井松平家の家臣として現屋敷に居住している。代々惣領席馬廻席のほか、寺社、町郡、勘定などの各奉行、者頭、大目付を務め、特に藩主の御側務めや随伴役が多く、江戸、大阪あるいは上山と勤務し国元との間を頻繁に行き来している。五代目は弓道の師範となり教導方、藩校明新館の都講にも昇進している。戊辰戦争にも出役し藩政改革の時には官制上山藩民務局勧農司事を務めた。現在当主は五代目。
曽我部家
初代は宝永五年(1708)藤井松平氏七代信通の家臣となり宗旨奉行や馬廻役を務める。二代目は役頭を務め、三代目は大目付となり昇進し代々要職についている。曽我部家は初代からこの地に居住した。
【解説は関連資料よりお借りしています】
藩校明新館跡
武家屋敷の近くに藩校明新館がありました。
文化六年(1809)上山藩七代藩主、松平信行によって開かれ、当初は広福寺の境内に学問所を設け天輔館と称しました。公私には当時の高畑藩の藩主織田家の家臣武田孫兵衛(鳥海山人)を召喚し、伊藤仁斎、荻生徂徠なども藩主の教育に当たり、その後米沢藩の藩士が引き継ぎ、さらに上山藩士などが教鞭をとっています。天保11年(1840)にさらなる学問所の充実を図り現在の地に移りました。
【解説はホームページ dewatabiよりお借りしました】
立地図、現地看板より
楢下宿駅・現地看板より
上山の町中南東に進むと宮城県の県境を迎えます。その途中に羽州街道の楢下宿なる宿駅がありました。楢下は藩政時代、青森、久保田、山形の諸大名十三藩の参勤交代の宿駅として本陣・脇本陣・番所・問屋・旅籠屋・茶屋などを備えて賑わう羽州街道の要衝でした。楢下の先には県境の金山峠が控えており、楢下宿はあらゆる意味で重要な宿駅でした。
街道沿いに面影を残す宿が佇む
左手に旅籠屋の武田家
楢下宿にはかつて塩屋斎藤家などの本陣の他秋田屋粟野家、庄内屋粟野家、滝沢屋丹野家、宮地屋佐藤家、鈴木嘉内家の脇本陣、問屋、旅籠屋、番所などがありましたが多くは失われ、本陣庄屋家など十棟ほどが古い町並みの面影をとどめています。
【楢下宿の解説は上山市教育委員会のパンフレットに基づいています】
武田家の内部
囲炉裏の残る勝手。いつの頃まで生活が行われていたでしょう、雲爺の生家も農家でしたが家の構成は大体同じでした。むしろ敷きはどうでしょう、大げさだわね。土間もありました。
楢下宿の中心部、下町
昔はここに本陣、脇本陣が並んで建っていました。一部が残って見えています。
観光用に整備された脇本陣、滝沢屋
現在は元の位置から移されたところにあり、当時の遺品等が数多く展示されており本陣などの姿がより分かる建物です。専属ガイドさんがおり詳しい話をしていただけます。
滝沢屋の内部、専属ガイドさんと雲爺の愚息
貴重な遺品の説明がありましたが、湯沸かし鉄瓶については仰天するほど何と高価な代物であることか、それにまつわるお話は面白いものでした。
本陣から見つかった各大名の関札が両脇に並べられています
あれもこれも宝物と言えそうなものが数多くありますからぜひ一度見学してみてはいかがでしょう。遺品の多さや建築物の保存状態の良さなどでは全国的にも少なく貴重で楢下宿は国の史跡に指定されています。
納戸、中間、上段などの座敷は雲爺の生家も同じです
茅葺屋根は窓を開ければ風通しが良く夏は涼しいです。そのかわり冬は涼しいを通り越していたでしたかね。
脇本陣、大黒屋
ここでは地元上山市のイベントなどではよく利用されているところのようです。今日は楢下の先にある古道の清掃イベントに参加したのですがここは昼食の場になります。地元のお母さま方の手作り料理をいただくことになっています。
大黒屋の内部
本陣、旅籠などには馬小屋があります。江戸時代では問屋の役目として馬は各種運搬に利用されていたわけでしょう。
明治期に石で作られた新橋
10月22日
県南囲碁会事務局 平吹
山形県・県南囲碁リーグ戦
喜多方秋季大会で県南代表の太田重人九段がAリーグ歴代初制覇
2024.10.21(13:40)
357
秋の会津磐梯山
10月20日に喜多方秋季大会が開催されました。
Aクラスで山形県県南地区代表、山形市の太田重人九段が初優勝を果たしました。
これは県南側としましては待ちに待った快挙です。何を隠そう県南勢はAクラスは平成28年の初参加以来一度も優勝を記録していません。まして秋季以外のすべての大会においてもAクラス優勝はないのです。我が県南精鋭勢は過去に幾多の挑戦を重ねてきましたがその都度喜多方、会津地区の厚い壁に跳ね返されてきました。それがようやく太田九段が打ち破ってくれました。大きな穴を開けてくれたことに感謝します。
今大会の参加者はAクラス10名,Bクラス10名、Cクラス12名、Dクラス10名、計42名。
県南勢は今回はメンバーが集まらず太田重人九段のみの参加となりました。孤軍奮闘での優勝ですからまさに快挙です。
本人曰く、2局は相手の時間切れで命拾いをしたので自慢出来ないとのことですが、実力のなせる結果ですから堂々の優勝です。次大会は我々は一丸となって挑戦せねばなりません。
◎併せてご報告
10月14日、二回目となる新潟県村上支部での県南との親善試合では団体、個人ともで村上支部が勝利しました。県南では船山九段、石上七段、加藤、小松、平吹四段が参加しました。個人優勝は村上支部の方でした。
10月21日
県南囲碁会事務局 平吹
山形県・県南囲碁リーグ戦
11月のリーグ戦南陽大会に太田尚吾九段と3名の子供さんが参加される予定です
2024.10.12(01:50)
356
すくすく伸びる山形県囲碁界の若き星々
11月4日、文化の日の振替休日に県南囲碁リーグ戦南陽大会が行われますが、この度太田尚吾九段よりご本人はもとより子供さん3名がリーグ戦にご参加いただけるお話がありました。リーグ戦が子供さんへの練習の場になれるのであれば幸いですし、とても若い方のご参加により大会はいっそう楽しくなり新たな活性が生まれます。リーグ戦はこれを機会にさらにステップアップを図ってゆきたいと思います。太田さんよろしくお願い致します。
子供さんは太田さんの長女で小学3年生の栞菜(かんな)ちゃん、栞菜ちゃんの妹さんで小学1年生の帆香(ほのか)ちゃん、帆香ちゃんの同級生の遠藤瑠以(るい)君です。皆さんは山形市にある日本棋院山形県連の子供教室で練習を積まれています。瑠以君は9月に初段位、帆香ちゃんは290点のラインにあるとのことです。おじさま方、かわいい孫をお迎えください。
大会は11月4日 受付9時~、試合開始9時45分~
えくぼプラザで行います
10月12日
県南囲碁会事務局 平吹
山形県・県南囲碁リーグ戦
叔父さんコンビがいよいよ台頭☆リーグ戦はまだまだ若いゾ!
2024.10.11(14:35)
355
Cリーグ 平吹登4級が2度目の優勝を飾る 🎆
平吹さん、よくぞ頑張ってくれました。Cリーグで平吹さんが再び優勝を手にしましたよ。
平吹さんは雲爺平吹とは別人ですが、雲爺は自分の事のようにうれしいです。そしてですね、平吹さんとともに現在片平3級も活躍されています。お二人はリーグ戦ではまだ下の級位におられるんですが、最近目立って成績を伸ばしており、いよいよ上位メンバーに肉薄するほどになってきました。しっかり力をつけてきたんですねえ。そりゃそうです、長年地道に練習を積まれてきたわけですから、やはり努力というものはいつか報われるんです。
リーグ戦は今までは上位クラスに脚光が向きがちでした。でもこれからはこのような方の胎動で秩序に大きな変化が起きるかもしれません。リーグ戦も国選選挙同様、下剋上・常在戦場ですからタバコ吸ってあぐらかいてる場合ではござんせん・・・・でも本音では老骨じゃけん、荒立てんと眠っとれの気持ちもあるだしょ、あなたもやっぱし 🤪
優勝 平吹4級 長井市
準優勝 村上三段 白鷹町
三位 加藤四段 小国町
Bリーグ
優勝 小松四段 白鷹町 左
準優勝 石井六段 高畠町
三位 片倉六段 川西町 右
Aリーグ
優勝 小野九段 喜多方市 左
準優勝 松永六段 長井市 右
三位 武藤七段 米沢市
第104回10月リーグ戦は10月6日に長井市の生涯学習プラザで行われました。
参加者は29名と少数でしたが、この日は他の大会とかち合っていたようでした。
事務局は長井囲碁愛好会の梅津幹事長です。
3リーグ編成です
10月の第1日曜日は西置賜郡の中体連の大会があり、駐車場は満杯状態でした。
Cリーグ 加藤四段 小国町 対 平吹4級 長井市
平吹4級は5子局のようですが徐々に置き石が少なくなって行くでしょうから、ますます囲碁の醍醐味を覚えられることと思います。
Cリーグ 村上三段 白鷹町 対 佐藤二段 南陽市
村上さんは準優勝
Bリーグ 片倉六段 川西町 対 小松四段 白鷹町
Bリーグ 石井六段 高畠町 対 佐藤六段 長井市
Aリーグ 太田九段 山形市 対 小野九段 喜多方市
400点台にある九段同士の対決。小野氏に軍配が上がる。いつもがっぷり4つでポイントは目まぐるしく変わっています。
Aリーグ 武藤七段 米沢市 対 松永六段 長井市
武藤さん三位、松永さん準優勝
Cリーグ 横澤三段 長井市 対 金子二段 川西町
Aリーグきっての好一番 石上七段 胎内市 対 庄司四段 喜多方市
この両者はリーグ戦では今最大のライバル同士と言っていいかもしれません。先の喜多方大会では石上さんが先勝しましたが今回は庄司さんが取り返しました。又石上さんは最近七段に昇段しておりますが、庄司さんも今大会の成績によりめでたく五段に昇段致しました。🌞 庄司さんはリーグ戦では四段からスタートしておりキャリアは浅いですが、すでに破竹の三連続優勝の実績を持つ強者となっております。実力はさらに上にあることは間違いありません。
Aリーグ 佐藤七段 白石市 対 加藤七段 高畠町
雲爺は10日に宮城県の柴田町の例会に参加してきました。そこでAクラスの優勝戦で佐藤さんとぶつかりました。佐藤さんは4連勝、雲爺もご自慢ですが不戦勝も入れて同じ4勝でした。結果は雲爺善戦むなしく佐藤さんの軍門に下りました。
決勝戦の前に佐藤さんの一戦を観戦したのですが、そこで高段者の戦略がいかに厳しいものであるかを思い知りました。私の見立てでは佐藤さんの隅の大石がやばそうに思えたのですが、佐藤さんにはそんなクソ石なんか目じゃなかったのです。それで目を中央寄りに転ずると、なるほど、そちらの大石が格段に戦局を左右する状況にあるでないですか。この後の展開やいかに、雲爺は目を見張りました。佐藤さんは許さじとばかりに攻めを繰り出し続け、とうとう相手にギブアップを言わしめました。上の方の戦略、発想は半端ないです。
「甘ちゃんではそこそこまでしか行けない、抜きん出る囲碁マンなら徹底した戦いあるのみ」とは奥州市の狩野さんの弁ですわ、すにょ~いなぁ。
Cリーグ 高橋五段 白鷹町 対 仲田初段 川西町
戦局の内か外かは知らねども、高ら笑いほどこの世で楽しいものはありません🐱🐽
Bリーグ 柳沢五段 米沢市 対 樟山四段 喜多方市
Aリーグ 石上七段 対 奥山九段 東根市
Aリーグ 加藤七段 高畠町 対 小松田六段 長井市
Bリーグ 森岡四段 南陽市 対 遠藤五段 喜多方市
10月12日
県南囲碁会事務局 平吹
山形県・県南囲碁リーグ戦
春から秋、最上、鳴子を旅すれば
2024.10.02(16:35)
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昨年三月、女房が最上町の分水嶺に行きたいというので行ってみようということになりました、だいぶ過去形ではありますが。
途中の月山にはまだこんなに雪が残っていました。
最上町に向かって国道47号線に入ると鳥海山が見えました
山形県南部の置賜人にとっては鳥海山は想像の山でした。置賜では朝日岳、飯豊山、吾妻山、蔵王山は365度贅沢に臨めるし、月山、村山葉山も山形に行けば視野に入りますから、山国王国、置賜の人間には県内の主たる山は九分九厘手中にあると言って間違いないです・・・が、ただ鳥海山を除いては。秀麗峰、出羽富士、東北第二位の高峰(福島県南端にあり東北とは思えないから実質第一位で差し支えない)と、大きすぎるネームバリューの鳥海山だけは大人になってもなかなか出合えない神々しい嫉妬の山でした。そしてようやく内陸側から目にした時は、すそ野が隠れており海坊主のようで異様でした。舟形町からのこのショットはまろやかさがありキリマンジャロのような貫禄が感じられます。
最上町は陸羽東線堺田駅に来ました
やっぱり駅は無人です・・・雲爺が高校生の頃の高畠電鉄はまだ切符切りのおじさんがおりました・・・JRより国鉄の雰囲気だよね、国鉄、南海、阪急、阪神、近鉄、西鉄、すごい鉄道王国だったな、国鉄金田、憎たらしいのもおったしのう。
さらに読売、毎日、中日、東映、大映、大洋、広島と続いてからに、もうすごいの一言。みんな泥にまみれて戦後の日本を牽引してくれたものでした、ありがとうプロ野球 ⚾😃
又付け足しですが、パソコンだとこの鉄道のカットと類似のものを見られる機能があります。写真の右上のマークをクリックしてみましょう。線路があるから鉄オタさんには堪えられない風景がバンバン出てきますよ。見ているだけで日本ならではの風景に巡り会えるんだから安上がりの旅行が出来ます。これもAIのなせる技でしょうね。
堺田駅のそばに分水嶺があります
降った雨が日本海の水となるか、太平洋の水となるかの境目が見られるところは全国的に珍しいのです。
分水嶺は奥羽山脈ながら標高338mと低く平坦な所にあり、最上川、北上川側に注ぐ大河の一滴がまさにここでさよならします。
しかしでんな、超文系雲爺だから思いつくんでしょうが、ここで設問です。水さんはここでどうやって分かれることが出来るんでしょう? 高低差なんてことでなく見た目一つの水がどういうふうにして二つになるねんということ。切れ目あるの?これは哲学も咬んじゃうの?
みたいな
こういう煩悩みたいなのがあるからまだこの世にいても楽しいと思えるんだでべそ🦁
分水嶺の近くに封人の家があります
封人とは国境を守る役人の事。この名称は俳聖松尾芭蕉の「おくのほそ道」に由来します。
旧有路家は昭和44年に重要文化財に指定され最上町所有の建造物。江戸期新庄藩上小国郷境田村の庄屋住宅。庄屋役と問屋役を兼ね、街道筋の旅宿ともなり、熱心な馬産家でもあった有路家の歴史的性格が強く反映されています。
元禄2年(1689)5月 芭蕉は2泊3日に渡って封人の家に逗留しその時の印象を
「蚤み虱 馬の尿する 枕もと」の句で表現したと言われています。
【画像は最上町ホームページより】
「大山を登ってはすでに暮れければ封人の家を見つけて宿りを求む。三日風雨荒れてよしなき山中に逗留す」と おくのほそ道に綴っているとおり、大雨のため二泊三日この家に滞在したと言われています。
最上町は以前は小国という地名で県内では随一の馬産地でした。小国産の牝馬は小国駒と呼ばれ江戸や越前地方にも移出されました。
【画像は最上町ホームページより】
宮城県に入ればまもなく紅葉の名所鳴子峡に入ります。
大谷川が刻んだ深さ100mに及ぶ大峡谷がものの見事に蛇行しています。渓谷一帯が紅葉のパラダイスに変身します。
【画像はグーグルマップより】
鳴子峡
秋たけなわとなれば鳴子峡は東北では名だたる紅葉の季節を迎えます。10月中旬から11月中旬にかけてが見頃です。春から夏にかけては緑が美しいです。メインとなるレストハウス周辺。
【画像はグーグルマップより】
鳴子温泉郷
鳴子温泉は行ってみたいところ。雲爺の若い頃は日本の高度成長期に当たり旅行業界は国内外旅行をどんどん拡大してゆきました。雲爺の知人は外国への飛行機添乗は400回を数えたとのことです、すごいですね。鳴子は仙台の奥座敷の位置にあり、ビッグなホテルが建つ大きな温泉地に発展しました。鳴子の名の由来は火山の大爆発の轟音から鳴郷となったり、義経の生まれたばかりの赤ん坊が初めて泣いたところから鳴子となったという説があります。
【画像はグーグルマップより】
雲爺がもう一つ泊まりたい温泉は福島市飯坂温泉のホテルジュラク(以前は聚楽)だな
昭和40年台の頃 テレビでは 「ジュラックゥよ」😍と外人女性のCMがよく流れたもんでした。バンバン流れるから景気が良かったんだよねあの頃。聚楽は大正時代に東京神田で洋食屋からスタートし、その後徐々に店を増やし今でいう外食産業の一大チェーンの走りとなった企業だそうです。創業者は先見の目を持った優れた方でした。リゾートホテルなどを広げ聚楽は今年創業100年を迎えています。
ところで同じ温泉の銀山温泉は今インバウンドで外国人が殺到してるとのことですね。以前注目されていた旅館の女将のジニーさんは日本文化を愛し古来の礼儀に則った経営を志向しましたが、時代の流行を追う〇〇さんと方針が相いれなかったのでしょうね、結局旅館は倒産したようです。そしてジニーさんは傷心のままに帰国されたと思われます。今となれば彼女は山形県が誇るりっぱな女将になっていたことでしょう。
【画像はグーグルマップより】
鳴子ダムより眺む、半俵山
鳴子から鬼首温泉に向かう途中に、ロッククライミングの殿堂、半俵山が当時と変わらぬ姿で端座していました。ヨーロッパアルプスのアイガー北壁にも似ています。雲爺は昭和40年台の頃と思われますが車に乗って一人で訪れました。あの当時は山岳会に所属していてあちこち山登りをしていました。その流れで怖いもの見たさも手伝い、ロッククライミングの講習会に赴いたのです。高所恐怖症の雲爺ではありましたが、ものは試しとばかり挑戦してみました。垂直登高は誠に爽快でしたが、やはり恐怖の方がそれを上回りました。結局、根性の足らない雲爺でしたので一度だけの試行で名誉の撤退となりました。こういう所で輝く方はスリルを楽しみに変換するまか不思議な天性を持っています。
【画像はグーグルマップより】
帰りしなに立ち寄った七ヶ宿街道沿いの 滑津大滝
山形県、宮城県を車で一周すれば腰は痛むし、眠気はするし老身にぐりぐりきます。そこで車を降りて上から滝を見下ろしました。こりゃ贅沢、まさに王様気分です。
◎記事は最上町、鳴子温泉郷観光協会、両ホームページ、ウィキペディアから参考にさせていただいています。
◎写真のカットがスマホにたまり続けて過重になりつつあります。在庫処分もかねてブログアップしないと追いつけません。したがって古いものが結構出ております。
10月3日
県南囲碁会事務局 平吹